認識論に於いてまさに理性的対処に欠けて居るのだからこそ社會は現在に閉じ込められて居ると云うのが私の基本的認識である。
問題は其の社會はさうだと云う部分なのであり實は其れは自然乃至は個が其処に閉じ込められて居る訳では無い訳だ。
故に眞我による認識に目覚めることで其の社會的な認識の誤謬、又は価値観の誤りの部分を些かなりとも「良い」方向へ導くことは可能だと云うのがわたくしなりの結論である。
但し其の「良い」、「悪い」と云う価値認識は其処で世間での其れとは眞逆になって居ることだらう可能性が高い。
即ちグローバリズムが良いのでは無く其れは悪いのであり宗教の広宣流布が良いのでは無く其れは悪いのであり進歩は良いのでは無く其れは悪いのでありケッコンして子孫を増やすことなどもまた良いのでは無く其れは悪いのである。
だからさうして「悪い」「悪い」「悪い」なので壱種の悲観論なのでもまたあるのだらうが其れはことリスク管理の面では大変に役立つ慎重な考え方である。
勝⇔負
幸福⇔不幸
壱番⇔弐番以降
進歩⇔破壊
未来⇔現在
其処で左側の価値ばかりを追い求めるからこそ認識が狂う訳だ。
左様に認識上の誤りとは価値観の倒錯を生み出すのである。
尚其れは信仰以前での問題なのだ。
其の個による信仰の選択以前での社會其のものが包含する「持続不可能性」としての問題なのだ。
では逆に「持続可能」な文明とはどのやうな形を取るものなのだらうか?
まず其れはどうのかうのでは無く理性的な文明でこそあるべきものだ。
だが理性的とは科学的だと云うことでは無い。
理性的とはかってカントが述べた如くに自制的な力を持った観念のことである。
尚獣共には元より其の理性などあるべく筈も無い。
どーぶつはさうして食って寝て子をつくり老いて死ぬだけの現象なのだ。ー自制も自省も無しー
私が述べて居るのは其のどーぶつを今まさに文明がやって居て壱體どうするの?
と云う部分なのである。
だからどーぶつを今まさに文明がやって居るつまりは獣並の認識力しか無いとそりゃ必然として破壊が生じむしろボロボロとなるしか他は無い。
では壱體どうしたら良いのですかと云う御話ですが結局其れは認識を改めて頂く他は無い訳だ。
其の正しい認識への糸口を其の正しい道への入り方をかうして文人ー哲學者、宗教家をも含めーは述べる訳ですがおそらくは其れは価値観の違いの故に理解され難いことであらう。
どだい私が述べるところでのリスク回避論を眞の意味で理解する人々は極少ないことであらう。
だがほんたうの幸福とは結果として「壱日が無事安泰に終わる」ことなのだ。
ところが其の「壱日が無事安泰に終わる」ことは元々宇宙の摂理でもある訳だ。
だから其の侭にして置けばまず此の宇宙では「壱日が無事安泰に終わる」ものだ。
要するに加工したりお騒がせしたりしなければ「壱日が無事安泰に終わる」のである。
では其れをワザワザ加工したりお騒がせして居る馬鹿野郎とは壱體誰のことか?
其れは🐵でも無く🐻でも無く🐈でも無く🐕でも無くまた🐍でも🐊でも無い。
ズバリ其れは人間野郎のことである。
しかも文明と云う観念的形式に沿った欲望の発露としての文明の営為である。
なので其の馬鹿文明に洗脳などされて居ては金輪際ダメだ。
だから文人級の認識の持ち主はかうして我の如くに其れに激しく闘いを挑む。
ですが勿論其れが皆に出来る訳では無いので其の文人としての認識を垣間見るだけでもまた話が違って来る訳だ。
其の日常の構成は近代以降特に不安定になって居たのだと言える。
但し表層的には日常はより強固に構築されて行くやうにさえ思えて居た。
だが事實上は特に八〇年代以降、九〇年代初頭より全ての歯車が狂い始め文明世界は劣化に向かいなだれ込んで行ったのだとさう考えられる。
其の不安定化が21世紀に至り特に加速しつつ行われ次第次第に體感されるやうにさえなって来た。
なので其れが何を指し示して居るかと言えばまさに其れは文明がオカシイこと=文明に於ける認識論が狂って居ることが端的に其処に示されて居る訳だ。
故に個は其処でまさに「理性的選択」を突き付けられる形となって居る。
ですが大抵の個には其の「理性的選択」を為すだけの余裕がそも無いと来てる。
まさに其れは個が文明社会と連動しつつ生きて居ることの証拠でもある訳だ。
ならば其の「赤信号を社會でもって渡る」やり方でもって全的に破壊が齎されるのであれば個に可能である選択はむしろ壱つしか無い。
其れが社會とは距離を取りあえて「自意識」としての領域に生きて行くことだ。
其処ではむしろ出来得る限り社會的自我を生きぬと云うことである。
なので其れが我我個に可能な範囲でのほぼ唯一のプロテストでもある訳だ。
だが實際にはそんな太宰の自決だの三島の特攻だの加島 祥造先生の隠遁だのそんなものには縁の薄い大衆はプロテスト出来ぬ侭に只只流されて行くことだらう。
其の流される侭にもしも其処に信仰を保つことが可能なのであれば少なくとも無神論者よりは遥かに救われると云う御話をさせて頂いて居る訳だ。
で、我はかうして「常に理性的に尖り続ける」文人ですので否が応にももうやるしか無いところへと追い込まれて居り従って確かにやるしか無い訳なのでかうして此れを書いて居るのである。
諸価値と云うものはまさに「限定」せねば膨大なものとなり逆に其の凶暴な本性が我我の日常を傷付けて行く訳だ。
傷付けて行くばかりか本質的には其れは破壊を齎すものですらある。
故に個の選択として其のリスクを減じて置く必要がある。
畢竟其のリスクを増大させるのは獣としての欲望の働きである。
逆にリスクを抑え込んで行くものこそが理性の働きなのだ。
では科学は良い?
いや科学ではむしろ抑えられぬ部分がむしろ大きくある。
だが合理化ー合理的世界観の確立ーはむしろ是非必要である。
但し何に対し合理化するのかと云う部分こそが大事なのだ。
其れは「豊かさ」や「便利さ」への合理化でなどあってはならぬ。
むしろ「豊かさ」や「便利さ」が齎す不利益、リスクへの警戒を込めたところでの理性化でなくてはならない。
つまるところは現代社會としてのイデオロギーである進歩し且つ発展すると云うテーゼ其れ自体を是非限定せねばならぬ。
むしろ其れを緊縛し人間共を此の虚の狂騒から救い出さねばならぬ。
眞の意味での理性として選択し得る道とは其の「限定」か又は「信仰」のどちらかである。
即ち中途半端な文明への迎合は個をしてむしろ不幸な方向性へと導いて行くことだらう。
さうしてコロナ死するにせよ或はグローバルに揉まれて會社が潰れるだとかまた仕事を失うだとかさうかうするうちに妻が大病を患いしかも子が白血病となった。
などと現實とはまさにリスクの塊でありまた矛盾の巣窟なのだ。
矛盾と云うものこそが魔でもまたあるのでまさに其処が👿の巣窟である。
だから世間の人々はまずは悪魔はじぶん以外に居てじぶんは正しい人間だとさう信じ込んで居やうが其れはほぼ誤った認識である。
正しくはかうしてじぶんが👿なので其れを直す為に神様か又は佛様に救って頂くと云う謙虚なー理性的なー認識である。
では何でおまえだけがさうして威張るのだ?
ですからかうして我は威張る文人さんだと何遍もさう申して来て居るのに何で其れが分からぬのだ?
またもう壱言付け加えれば「教祖様の言う事を聞く我」は正しいのでは無くむしろ間違って居ます。
教祖様の言う事を聞くのでは無くじぶんでもって師を批判しやりこめられる位に是非理性をば磨き込んで下され。
さすればオウム教のやうなことにはならずとも済むことであらう。
其れでは九月後半より「認識を正す為の授業」をまさに開始して行く所存です。
其のテキストとしてまずはショーペンハウアーの金言を用いたいと思う。
さらにマルクス・ガブリエル氏の新実在論に関する講義も開始させて頂きます。
また同時並行的にマルクス・ガブリエル氏の文明論に就いても言及して行きたいと思って居る。
いずれにせよ現代人の認識、特に大衆の認識には多分に誤謬が含まれて居ることだらう。
まさに其の誤謬をこそ「洗脳」だと私は捉えて居る訳であり其の「洗脳」に抗する為には直観力を駆使した上での理性的制御こそが最も有効な筈だ。
さて、其れでは此処で何故今「哲學」が求められて居るのかと云うことをこそ考えてみやう。
何故なら「哲學」に拠らずば答えが永遠に出ないからなのです。
現代社會に突き付けられた数々の大問題に対する回答は結局科学的にもまた文學的にも規定され得ない。
いや其れが無意味だと云うことには非ず。
されど科学には科学のまた藝術には藝術の範囲が自ずとまた決まって居るものです。
またさらに宗教もまた其の文明の問題を論ずる場には非ず。
だったらもはや「哲學」しか無いのではありませんでせうか。
さても皆様は其の「哲學」がお嫌いですか?
でも僕は「哲學」だけがむしろ好きなんだな。
つまり自分の頭でもって考えることだけが得意なのだ。
でも其れって頭がオカシクは無いの?
全然…。
全然オカシクは無い。
つまりは哲學詩人だと云うことなのであり…。
嗚呼、其れからもうひとつ考えて居る事があり其れはマンガ版の佛教本の解説です。
左様に認識を正すのは理性の働きです。
けだし理性は人間の本質的救済には役立たない。
理性は人間の本質的救済には役立たないけれども社會を正すのは常に其の理性の力です。
もしも本質的にじぶんが救われたい方々ならばむしろ教会や御寺へ行って下さい。
ですが私が思考の対象とするものとは宗教では無く其の理性なのです。
即ち社會を、其の悪い社會を正す力を持つものこそが其の哲學的思考なのだ。
其の哲學は壱時期其の役目を終えたかの如くに扱われて居りました。
即ちあらゆる思考は其処に出尽くしもはや新たな思考の領域は何処にも残って居ないかのやうに見受けられても居たものだった。
では哲學こそが所謂「眞、善、美」を文明世界に復活させる力の源泉たり得るものなのですか?
いやだから必ずしも其の「眞、善、美」が哲學の目的だとは思わぬ方が良いのです。
むしろウンコ垂れを治す、か又は寝小便を治すと云う治療効果が其処には期待出来るのではないかと個人的にはさう思う。
するともしや現代文明は其のウンコ垂れでしかも寝小便垂れなのでせうか?
勿論さうです。
だからパンツは汚すわ、また布団はションベンまみれでもう全く快適に寝るどころの騒ぎでは無い。
むしろさうして汚物まみれでもってまるで生きた心地などせぬではありませんか。
さうかなあ、其れはアナタの特殊な感覚がさう捉えて居るだけのことでありボク等にはまるで樂園のやうな世界に見えて居るのですが…。
ですから物の樂園であることを否定する訳ではありませんのですよ。
まあ金さえあれば實際何でも手に入りますのですし…。
でも何かかう不安ですね、何かかう落ち着かないのだし。
さう何かかうオカシイのです、實際何かが狂い始めて居るかのやうな感じでもって…。
おお君は感度が鋭いぞ、小魚の群れの壱匹にしては凄いぞ!
君はアノグレタ氏と同じでもしや天才藝術家の壱人なのではないかいな。
ちなみにショーペンハウアーが言って居ることだが天才と云うものは数学が出来ぬものださうで其れもほとんど零点であるさうである。
なる程、天才は功利的ー合理的ー価値観の上には必ずしも生きて居ないと云うことなのでせう。
其れもおそらくはより幅広い知的視野を生きる者だからこそ数学のやうに単純に答えが出ぬことを知って居るのだと思う。
いずれにせよ其の還元知と云う幅の狭い知の領域こそが壱番の厄介者でせう。
還元知は今文明の認識の主流でありむしろ最も大事な認識の手段であることだらう。
だがだからこそ間違って居る可能性はむしろ高くなる訳だ。
還元知による自然に対する曲解ー合理的曲解ーこそが自然破壊を招いて居るのだとさうも言い切れるのではないか。
さて本日は久方振りにアゲハチョウが庭を舞い飛ぶのを見ました。
夏休みにも或は舞って居たのやもしれぬが私は夏休み返上で世間の価値観と闘って居たので其れを見ることもありませんでした。
つまるところわたくしが闘って居るものとは其の種の世間の無知でありつまりは無明のことです。
無明つまり無知また馬鹿こそがかうして此の世を眞っ暗闇へと変えて行くのです。
其れに対する形での「明知」即ち明らかに感得された智慧の世界が結局は此の世にあるものと思う。
何故ならばまさに此の世には馬鹿が多いからなのですね。
そんな馬鹿が多いからこそ其の分全知全能だとか究極の智慧だとかそんなものがおそらく此の世にはあるものと逆にさう申されませう。
此の世が今「持続不可能性」を高めつつあるのは結局其の馬鹿の数が多いことが壱番の原因でせう。
だから僕は馬鹿を治したいのだ。
エッ?じぶんのバカを?
たわけ!!
おまえの馬鹿を治すのだ、まさに君の其の能足りんの様を。
其れに君はいま壱度高等学校へ通った方が良い。
例えばEテレで高校講座でも視て確りと御勉強して置くべきだ。
でもどうせなら中学からやり直したいのですが…。
何せ因数分解は出来ぬわ、また化学式は理解出来ぬわでしかも國語のテストでもたったの拾五点でしたので。
さうか、では我が塾へ来い。
さすれば必ずや現國で八拾点を取れるやうにならう。
のみならず社會科などは九拾点が取れるやうになる。
どうだ、是非ウチヘ来てみないか?
しかも御月謝は月にたったの拾萬だ。
アンタ其れは法外な御布施と云うものでほとんど詐欺宗教の流れのものではないか!
其れにアンタ、もう全部忘れて居るだらう、とうの昔に仕込んだ其の教える為の技術の全てを。
はい、全て忘れました。
其れも綺麗サッパリと。
尚僕は今でも塾の椅子を愛用して居るのですよ。
今かうして座って居るのも其のボロボロの塾の払い下げの椅子ですね。
さうか、流石に偉いなあ、元塾の社會の先生は。
さうして死ぬまで塾と繋がって居るのですね。
さうだよ、アノ林 修のやうにTVに出たりはしない分随分眞面目なのだ。
林、おまえこんな偉い先輩のことを何故尊敬しないのだ?
第壱お前の現國の授業は合理的に過ぎちっとも文學的では無いぞ。
林、此の際壱緒に塾でもつくらないか?
其れも全員が早稲田大學に受かるそんな塾を是非創らうではないか。