目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

佛法の要諦とは眞我の形成にこそありー『仏教、本当の教え』を読んでー

名古屋人もびっくり「小倉ナン」、カレーとあんこのスパイラル:朝日新聞デジタル (asahi.com)

 

おい、朝日新聞

名古屋人は別に「あんこ」など好きでも何でも無い。

 

第壱我はもう拾年程「あんこ」など食って居らぬ。

其れにエビフリャーなどもう五年程食って居ない。

 

だから其れは君等マスメディアがつくりあげた虚構としての観光資源価値である。

まさに虚構としてのB級グルメ価値である。

 

かうしてマスメディアは大抵頭が悪くつまりは思い込みが激しい。

全く困ったものよのう。

 

 

仏教、本当の教えーインド、中国、日本の理解と誤解(中公新書)

さて本日此の本を読み終えましたので簡単ですが以下に書評を書かせて頂きます。

 

1.眞理探究を目指して居る方々には是非読んで頂きたいつまりは是非お勧めしたい本

2.理論あり、批判あり、其の逆に広い視野からの具体的な話もありで一気に読める本

3.前半部は主に眞我の探究と云う原始佛教に於ける要諦に就いての記述がなされる

4.後半部に中國や日本の大乗佛教に対する佛教學者からの知見ー批判ーが語られる

5.終わりの方で佛陀もまた詩人であった旨や宮澤 賢治の法華信仰に至る迄語られた凄い本だった

6.言語學的に佛教用語が詳しく語られて居り其れだけでも大いに為になる

7.筆者植木先生は長崎の出身の方ださうでほんの少しだけれどキリスト教に就いても言及されて居る

 

個人的には此れ迄に読んだ佛教関連の書籍の中でも五本の指に入るものでした。

最終的には其の中國と日本の佛教はオリジナルの釈迦の教えとはかけ離れたものである部分を柔らかく批判して居る部分に読み易さを感じました。

 

逆に申せば我の如くにストレートに✖だとさう述べれば如何にも角が立ちませうがかうして幅広く具体的事實を踏まえた上で批判されると何故か腹は立たぬことだらう。

 

 

東洋大学大学院文学研究科博士後期課程中退(文学修士)。1979年からジャーナリストとして学芸関係の執筆・編集に携わる。1991年から東方学院中村元に学ぶ。1992年、小説『サーカスの少女』でコスモス文学新人賞受賞。2002年「仏教におけるジェンダー平等の研究──『法華経』に至るインド仏教からの考察」でお茶の水女子大学から博士人文科学)の学位を取得(男性初)。2008年から2013年まで東京工業大学世界文明センターで非常勤講師を務める。NHK文化センター、朝日カルチャーセンターでも講座を持つ。日本ペンクラブ会員。日本印度学仏教学会会員。比較思想学会会員。ー植木雅俊 - Wikipediaより

 

尚此の方は如何にも善人顔をされて居ておそらくはお人柄が良い先生なのだらう。

但し問題は其のジェンダーフリー思想を初期佛教と結び付けられて居る点である。

 

私はあくまで釈尊はおそらく女嫌い、其れも相当な女嫌いだったことだらうと見て居るので其処を余りにも露骨にお釈迦様のお考えとジェンダーフリー思想をくっつけられることに違和感を感じて仕舞う訳だ。

但し理窟の上ではあくまで佛法上👩も👨も無く要するに性差を超越した上での修行であり眞理探究なのであらう。

 

つまりは其の意味では平等だと言い得る訳である。

ですがハッキリ申して観念に薄い🚺に対し観念的潔癖性を強度に求められる宗教的展開はおそらく最も向かぬものでもまたある筈だ。

 

矢張り女性は御飯のことだの子の養育のことだの或は家のことなど要するに観念とは違う場を生きるものなのですから得意な分野を確りとやることの方が大事なのだと個人的には思う。

尚此の著作に関しては今一度詳しく論じてみたいところである。

特に佛法の要諦とは眞我の確立にこそあると植木先生は何度も此の本の中で述べられて居るが其の点に就きまさに同感である。

 

 

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最近はかうして大乗佛法、其れも我が國の佛教のあり方に対し批判的な著作がちらほらと見受けられる。

とりもなおさず其れは我が國の佛教のあり方に対し転換が求められて居ることの証左なのだらう。

 

但し此の本に於ける批判点に就いてはすでに忘れて仕舞ったので近く読み返してみるつもりである。

 

さて植木先生の本の方へ戻るが最も印象的であった主張が佛法とは元来「眞の意味での自己」に目覚める為の教えであると云う点である。

目覚める、即ちまさに此のブログの目的が其の「眞我の形成」に関するものでしかも其れを成就する為には宗教以前の段階でかうしてわたくしの如くに日々勉學に励み理性を磨かねばならぬと云うまさに其の点を述べて来た部分なのだ。

 

だから別に解脱せよとさう言って居るのでは無く其の前にまずは勉強しやう。

勉強しやう、勉強しやう、勉強しやうとまさにさう述べて居るのでありだから此処は明らかに佛法の塾なのだ。

 

勉強する、つまりは理性を磨く、其れは君等のやうに普通ではダメだ、ならぬ、金輪際其れはならぬぞよ。

 

だから先生のやうに兎に角御勉強だ。

もう脇目もふらずに御勉強だ。

 

 

東大壱直線、いや、早稲田壱直線、だ。

 

でも御勉強ばかりではダメだ、逆に遊びもやらねばダメだ。

何故なら其の遊びこそが心を広くする。

 

だが👩遊びと飲酒とギャンブルだけは御勧め出来ない。

其れではやがて脳が麻痺し価値観が現世利益へと傾いて行くのでついには観念が腐って行く。

 

 

さうして観念を磨き最終的には東大も早稲田大も所詮馬鹿大だと言える位に是非ならねばならぬ。

其れに朝日新聞も何新聞も皆バカばかりだと壱度位は是非さう言ってみてやれ!

 

何故なら日本人は此れ位にしないと其の「和」の価値観から決して脱け出すことが出来ぬが故にだ。

だから其の「和」の佛教とは壱體なんだい其れは?

 

佛教とは元々批判精神の塊でありお釈迦様は僧侶が葬儀などの儀式の部分に携わることさえ禁じて居た位だったのだ。

つまりは佛法のほとんど全部に於いて逆の目が出ておる。

 

其の「和」には批判精神がそも無く例の海の中の小魚とまるで同じで只みんなで同じところをグルグル回って居るだけのことだ。

 

實際そんなんで何が修行だ?

何が解脱だ、聖だ、佛教徒だ?

 

 

つまりは其の妻帯と飲酒は日本の佛教から是非締め出すべきではないのか?

第壱在家の壱修行者である我がしかと其の戒を守って居ると云うのに本職の御坊様方が其れをしていてさてもどうするの?

 

ああー、早う「ごまかさない仏教」を読みたい。

 

でも今日壱冊本を読んだばかりのことでせう。

ソレッてもしや病気なのじゃありませんか?

 

つまりは知識欲に関する病だと云うことなのかなあ…。

 

 

ですが「苦」は確實にあります。

其れは妄想では無く確かにあるのです。

 

逆に社會的価値こそが妄想なのだ。

まさに其れが「苦」を増大させるに足る妄想でせう。

 

 

尚日本的組織と云うものはつまりは人間関係の方に流され過ぎた「人重視」での社會を構成する。

ですがむしろ其の故にたとえば「特攻」と云ったやうに価値観の上での過ちを犯し易い。

 

其れは結局人重視であり組織重視でもあるからなのだ。

だが釈尊がかって述べられたところでの佛法とはむしろ其れとは逆での方向性のことです。

 

何故なら其処に眞我を確立することこそが解脱への道を示すものなのだから。

 

眞我ーまことの我ー⇔非我ー虚としての我ー

 

釈尊は所謂無我を説かれたのでは無くまさに其の眞我を説かれたものである可能性が高い。

 

 

無我=無私=魚の群れ

 

うわあー、エライこっちゃ。

もしやとんでも無い誤りを我が國の精神界はオカシて来て居ませんか?

 

とんでも無い誤り=零点=迷い🐟

眞我の形成=満点=涅槃

 

いつしか此れほどの隔たりが出て仕舞うのです。

其のグルグル泳ぐ🐟と佛陀との差が出て仕舞うのです。

 

 

でも先生!僕は是非百点ー解脱=涅槃ーを勝ち取りたいのです。

 

さうか、では今すぐに学校も塾も辞め是非放浪の旅へと出なされ。

さうして其処でもって漂泊の詩人となりなされ。

 

何故なら百点はむしろドロップアウトしないと決して取れぬものだ。

つまりはオンリーワンとならねば其れは断じて取れぬものだ。

 

しかしながら誰でもが其のオンリーワンとなれる契機をしかと持って居やう。

其れも目覚められるか否か、結局は其処にかかって居やう。