目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「エピクテトス」の思考より學ぶことー「本質」への「思考」が可能とする逆向きでの認識世界ー

エピクテトス」の思考より學ぶことー「本質」への「思考」が可能とする逆向きでの認識世界ー

 

 

 

 

さて「哲學」であるとか又は「深い思考」が個として可能となるのかどうかに就いては主に、

 

1.素養の問題であり

2.深く悩んだかどうか

 

にて決定付けられるのだと思う。

 

またわたくし個人の場合は2.の方でおそらくは並みの人間の倍程も悩みつつ生き抜いて來た。

だからこそ何にでも其れこそ観念的な事項や問題に関し自分なりに回答を引き出せる訳です。

 

1.の方もまた無い訳では無く例えば父は若い頃哲學書が好きであったのだし母方の祖父は在野の佛教研究者だった。

そんな血筋の面からも兎に角自分は「思考すること」がむしろ好きでありまた自分でもって其の哲學的な回答を引き出すことが得意なのだ。

 

其のやうな人間はそも「世間から外れて居る」とでも申すのか兎に角自分の周りにはまず居ない。

だが實際にさうなのであるからさうなってるものはむしろ如何ともし難い。

 

 

さて其の哲學的な思考は「世間知」のやうなものと逆方向を向き深まって行く思考の世界であらう。

でもそりゃさうだ、「世間知」が正解であるのならば「哲學者」や「宗教家」なんてまるで要らないのだから。

 

「世間知」=「社會的常識」の類が思考として正しいのであれば無論のこと其れで良いのだが概ね其れは考えが浅く謂わば「表象的な知恵」のことなので「本質的問題」に對する処方箋を其処から導き出すことは難しくもならう。

 

では「哲學的思考」とは果たして何なのかと云うことになるが概ね其れは「世間知」=「社會的常識」の類のむしろ逆方向を向く思考であり価値観であり意思決定となることだらう。

尤も其れが逆方向と云うことは謂わば「天邪鬼」であり「非現世利益型思考」なのだ。

 

ですが重要なことはそんな「天邪鬼」であり「非現世利益型思考」の方がむしろ此の世の中では「正しく」あったりもまたすることである。

其れは何故かと言えば其の方が思考の対象としての範囲が広い即ち其処にてより幅広く且つ掘り下げた形にて考えられて居るからなのだ。

 

 

あなたの人生で「本当に頑張るべきもの」が一瞬でわかる“たった1つの判断基準”とは? (msn.com)

 

其の「みすぼらしい」壱人の奴隷のジジイは「他」の目で見てたとえ「不幸其のものであり終わってる」のであれ其の当の爺さんの方がどんな認識世界を生きて居るのかと云うことは「外見」からは分からない。

其処からも人間の価値とは「外見」では無く主に其の「認識」の方にこそある。

 

でもって奴隷のジジイはたまたま哲學者であり其れも學者では無いと云うのに紛れも無く哲學者なのだ。

あれ何だか自分と似て居るな話が…。

 

まずは「他」を自分の価値観でもって即価値判断することは眞の意味での理性の無い者が犯す認識上の過ちのことである。

さうして「他」とはまず自分の尺度でもって推しはかることの出來ぬ「未知なる価値」の世界である。

 

よってむしろ「敬意」を持って其れに對し接するべきだ。

だが相手が理性無きバカだとさう分かれば彼をなるべく遠ざけて置く方が良い。

 

其の「バカ」は治らんのであるし要するに「如何ともし難い」ことなのだから。

其ればかりか「社會のバカ」もまた余計に治りゃあせん。

 

其れ即ち「馬鹿」ダケはもう治りやうが無いのである。

治りやうが無いものにはむしろ「触れる」べきでは無く且つ「信じ込む」やうなことも是非避けるべき。

 

だがみんなはむしろ其れ等にベタベタと触り此の現代社會のあり方を信じ込んで居たりもまたする。

其の様こそが僕に言わせれば「全體主義的な社會的洗脳」の様なのだが。

 

 

◆「人々を不安にするものは、事柄それ自体ではなく、その事柄に関する考え方である」


即ち現代社會は我我をして常に不安に陥れるが其れもまた本質的には我我個としての認識が社會を信じ過ぎて居るが故にさうなるのだ。

逆に「現行社會」は間違って居る位に考えて置けば例えば🗾國で「革命」が起きやうがまた戦争とならうが又は大地震にて壊滅しやうがあくまで其れは「そんな社會のせい」なのでありつまりは自分の過失などではまさか御座りますまい。

 

なので其の倒錯社會がどうあらうとまた何処へ向かおうと基本的にはほぼ無関係であり其れ即ち我関せず、なのだ。

まあ確かに社會は何とか治って欲しいのですが治りゃあせんものとさう相場が決まって居るので「まーそんなもんわしゃ知らん」とさう決め込んで置くのがまずは得策です。

 

とイザ其処迄達観致しますれば🗾がまた世界がどうならうが「知ったこっちゃない」のであります。

 

「他人に振り回される人」と「そうでない人」の考え方の違い | 奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)

 

「他」とはまさに其の「人間関係」としての形成物である。

だがそも「自分」と「他」は違う。

 

むしろ違うからこそ其処に「他」として登場するのだから。

其の違うものを同じにしやうとしてもがき苦しむのはむしろ自己を虐めることであり且つ其れを殺すことでもある。

 

故にまずは其処へ「自他」としての線を引く。

まさに其れは自分を大切にしたく且つ他を大切にしたいのでさう線を引くのでありまた其の「違い」に意味があるからこそさう区別するのである。

 

其のやうにすればもはや「他人」に振り回されずともまた他人の顔色を窺うことも無くなりかえって「自己自身」に専念出來るやうになる。

「自己自身」に専念出來るやうになるにはむしろ其のやうに「限定」しなくてはならん。

 

尚嫌いな人が百パーセント嫌いだったかと言えばあくまでわたくしの経験上はさうでは無く大抵の場合は半分位良いものを持って居たりもまたするものなのだ。

だから其れは単に其処でもって「自己」と「他」の相性が惡かったと云うだけのことなのだ。

 

逆に言えば自分以外の人とはおそらく合うのであらうから自分が彼の實存的価値を全否定するには及ばず、なのである。

さう「他人」に振り回されずに生きたいとさう願うのであればまずはむしろ自分自身に向き合い其れを貫徹しなければならぬことだらう。

 

 

どうにかなること⇔どうにもならぬこと

 

どうにかなるものは自分の考え方を變えることのみ。

「他」又は「社會」の考え方を其の根本より變えることはまず出來ぬ。

 

まさに其の意味での「遁走であり逃走」なのだ。

 

◆「他人と同じことをしないでいながら、同じものを要求することはできない」

◆「自由に至る唯一の道は『我々次第でないもの』を軽く見ることである」

 

他人と同じことをあえて「放棄」するのであればまた違う要求が個の内心に発生するのである。

だが「他」としての彼等はさうして「常識や世間體」に固執するから次第に其の価値観からは離れて行く。

 

離れて行けばむしろ「自由」ともなる。

そりゃさうだ、何せ世間は妄想的な価値を求めに求め続けて行くのであらうから。

 

個として目覚め、其の妄想的な価値を断ずることで初めて「自由」となり世間的な価値を見下せるやうにもまたなる。

 

 

「毎日、小さな苦痛を選びなさい」。哲学者が教える人生をより良くするための「小さな習慣」 | 奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)

 

其の「小さな苦痛」はでも誰しも庶民であれば毎日感じられることでせう。

逆に樂に生きられる大金持ちや力の有る人などは「苦痛無き現在」を重ね其れでもイキナリ死ぬのですから其れはむしろとてつもなく苦しいことだらう。

 

つまり「地位」や「財力」や「権力」は其の「死」と云う生命の本質に對しまるでもって無力です。

即ち「地位」や「財力」や「権力」に群がるのは認識が下等な俗人のみなのであり哲學者や聖人の類の人間はむしろ其の種の価値に對し慎重に其れを避けるつまりは背を向けるのです。

 

哲學とはまた宗教とは其のやうな世俗的な価値をむしろ本質面から問うて行く試みのことである。

 

「大きな快樂の積み重ね」<「小さな苦痛の積み重ね」

先哲はまさにさう述べる訳だ。

 

「大きな快樂の積み重ね」<「小さな苦痛及び小さな快樂の積み重ね」

でも自分の場合にはかうも述べて置きたい。

 

と云うことは人生に於ける価値が単なる+主義では無いことに誰しも気付く筈です。

さう其れは所謂足し算とは違うものなのだ。

 

であるからこそ其処に「本質的価値」なるものが生じるのでありまたまさに其のことが「虚の価値の集積」の部分を上回ったりもまたするのである。

 

◆「何がやって来ようと、それから利益を受けることはできる」

 

其の「本質的価値」の世界では-が-では無く且つ+が+とは限らなくなる。

要するに認識上での別次元より此の世での諸価値を見詰めるのだから必然としてさうならざるを得ぬ。

 

 

哲学者は「つらい別れ」をどう考えるか? 意外な答え | 奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)

 

◆「何がやって来ようと、それから利益を受けることはできる」

 

其のことは壱面では価値認識に於ける「合理化」のことですが其れもこと本質問題を問う認識に於いてはさう捉えることも可能となるとの御話です。

現代社會では其れも次第に「事の本質」を問わぬ體制であり価値観が醸成されつつあります。

 

まさに其のことは「本質的価値」の弱體化であり価値のバラバラ化のことだ。

さう其れは「多様」な価値どころか纏まりが無くまさに粗暴なる価値としての自分勝手化のことである。

 

左様な現代的価値は「本質部」を欠くが故に脆弱であり且つ危険ですらある。

其れもあくまで「個」の側より「社會」を眺めると至極危険である。

 

要するに数的還元での合理化が進んだ分此の社會其れ自體が危険極まりない。

ですがかうしてあくまで「本質的」にはまた「哲學的」には其の「社會的営為」とは無関係に価値認識をプラスに転じて行くことが可能となる。

 

尤も其れをせんが為には無論のこと「自力」での「思考力」こそがまずは必要となる。

「思考」とは基本的に「他」から強制され行うものでは無くまずは自らが考え抜いて行くことです。

 

其れも哲學者や宗教家はまず其のやうに自らでもって全てを考え抜いて行くのです。