45.文明の暴走を止めるのは我等の決意性にこそ掛かって居る
マツコ「本当に迷惑」「何なの?あれ」 いい年した大人の道の歩き方について怒り (msn.com)
かうしてマツコ氏が仰る通りである。
特に日本人が好きな道の横歩きなどが気になると申すか我はもう大嫌いである。
1.道は御喋りをしつつ歩く処に非ず
2.道を歩く時、また自転車でもって歩道を走る時は壱番隅をむしろ静かに行くべき
3.集団主義は馬鹿の代名詞である
とのことより僕の場合はかうして頭だけは良い訳なのでまずは他人に対し迷惑をかけぬ行動を常に心がけて居る。
また数年前夜に繁華街にて学生の馬鹿共が拾人位固まり歩道を占拠して居たことがあり、其の折に其の集団に対し僕は「バカヤロウ、お前等壱體どーいう教育を受けて来たのだ!」と叫びつつ通り過ぎたことがあった。
其の後交差点で信号待ちにて止まると血相を変えた馬鹿男子学生が追いかけて来てこちらを睨むものだから睨み返しつつキャップを取り其の馬鹿に話しかけた。
おめえ、何見てんだよ。
さてもお前の父ちゃんは幾つだ。
五拾幾つだ。
馬鹿野郎、俺より拾歳も下だらう。
お前等年長者の指導を甘くみるなよ、バーカ。
とデカい声にて吠えつつ其の侭青信号を全速力で駆け抜けつまりは我は無事其処から逃げおおせたのだった。
我は普段至極大人しくてほんに優しい人間なのだけれどかうして対人間集団、対社會のことが絡むと案外ヤバい事を引き起こして仕舞うことが多い。
だから我は自然の中で動植物やまた鉱物などと戯れて居る方が基本的に性に合って居るのである。
實は警察官などとも何度も喧嘩して居りだからと言って罰金を払わぬとか警官をバカにして居たりするのでは無くむしろお巡りさん、いつもお仕事をして下さりありがたう。
日本國の為にさうしていつも見回って下さりどうもどうも有難う御座ります。
でもわたくしを捕まえた件、此処は如何にもオカシイぞ。
なので其のオカシイと思う点をまたくどくどと説明するのである。
さらに区役所での対応などにも屡腹を立てる。
其の場合は無論のこと其の課の課長を呼んで貰うことにして居る。
其処では無論のことわたくしの指導が始まるのである。
其れは大體拾分位はかかる。
其れもわたくしの父はかって其の区役所の課長だったので気になればさうして努めて指導させても頂くのだ。
尚其の集団主義にて気が大きくなり何でもやっちまう点こそが其れこそ頭は良いが気が小さい日本人の壱番悪い点なのではないか。
特に太平洋戦争などがまさに其の論理にて引き起こされたまさに取り返しのつかぬ過ちであったやうに思われる。
我は其の日本人の集団主義を止めぬ限り日本人の精神はむしろ腐って行くとさう見て居るのである。
また其のことはまさにハイデガーが「存在」の様態として明らかにした集団心理の罠、集団主義による自己喪失の弊害へと其の侭に連なるものなのだ。
そんな訳で我は本日つい先程迄いつもの如くにバルコニーにて日光浴をしつつ100分de名著 ハイデガー『存在と時間』 2022年4月 | NHK出版 (nhk-book.co.jp)を読んで居た。
其れも読み易く薄い本なので壱時間半ほどで読めて仕舞う。
其処で改めてハイデガーの存在論の本質的意義に対し尊敬の念を抱くと同時に何故其のハイデガーによる優れた哲學が次第に全体主義へと連なって行ったのかと云うことを考えて居た。
が、其処では結局思想とハイデガー自身の人生はまた別物なのだと云う感を強くしたこともまた確かなことである。
つまりはハイデガーがナチスによる全体主義を礼賛したことと其の現存在の本質として示された存在論とはまた別の現象だ。
其れと結論として言えば我は此の本の著者の戸谷氏とほぼ同じ解釈を其の問題に関し取るのである。
其れはハイデガーの存在論こそがむしろ其の全体主義を否定せんが為のものであると云うことだ。
全体主義=非本来的な自己に寄り掛かりみんなでもって歩む意思決定であり行為
されどハイデガーが述べたこととはむしろ其れとは別の本来的自己の形成ー本来的自己への目覚めー其のものであった筈だ。
従ってハイデガー自身がむしろ社會的自我のやうなものにいつの間にか毒されさうして非本来的になって行ったのだとさう申す他は無い。
よって其の社會的自我が抱える本質的課題こそがまさに現存在が抱えるであらう最大の問題である。
何故ならかうして産業革命以降科学技術文明を成り立たせて来たのが其の社會的自我による欲望でありさらに其のことから地球環境の破壊や地球温暖化が引き起こされて居るのであるから。
まさに其れが本来的自己が抱える問題なのでは無く非本来的自己=社會的自我が抱える本質的課題であることに今我我はしかと留意して置く必要があらう。
さて此の本にはハイデガーの弟子であるハンナ・アーレントーアーレントはハイデガーの教え子で且つ愛人でもまたあったーとハンス・ヨナスからのハイデガーの哲學に対する批判点も併せて載って居る。
しかしながらハンナ・アーレントの視点はどうも子宮思考の域を出て居ないのだしハンス・ヨナスの批判にせよ何だか分かりにくいものである。
但しハンナ・アーレントに関しては所謂全体主義に対する優れた解釈があり其の点に関しては子宮思考どころか男性哲學者以上のことをむしろやってのけて居る。
またハンス・ヨナスは「未来への責任」に於いて「本来性」を発揮することの重要性を説いた=「生命倫理」や「環境倫理」と云った概念をハイデガー哲學を敷衍する形で「本来性」の上から論じた点で今日に於いてむしろ最も重要な哲學者の壱人と目されやう。
即ち、
「赤信号をみんなでもって渡れば怖く無い」=非本来的な社会的自我に基づく価値観
ではもはや其れでは✖だ。
もはや✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖の✖だ。
きゃああー、地球が死んじゃうぞー!!!!!!!!!!!!!!!
此の馬鹿、今すぐに止めれ、止まれ!!!!!!!
馬鹿、此の侭ではみんなが死ぬぞ、今すぐにシンポとゼータクとを止めよ!
「赤信号をあえて立ち止まり見る心の余裕」を持つ=本来的な眞我に基づく価値観を形成すること
が、其れをしたところみんなからお前は異常者だとさう烙印を押されイジメられた。
だったら其処で腹を括ったれ。
どーせ僕はこんなバカでマヌケで腹が出てしかも頭がハゲたウンコ垂れです。
でもみんなもまた頭がオカシイよ。
いやむしろみんなの方が変だぞ。
だってみんなでもって連休に遊びに行ったりもして居るぞ。
連休中に遊びに出て壱體全體何が悪い?
だからみんなでもってさうして赤信号を突っ切ると弥富小学校の女子児童のやうに🚙に轢かれ死んじゃうぞ。
でも弥富小学校の女子児童は青信号で渡って暴走🚙に轢かれ死んだのだぞ。
そんなことはどちらでも良い話だ。
要するに道路を渡っちゃイケナイのだ。
でもって僕はかうしてお家に籠り今まさに連休スペシャルの為の哲學をして居るのだ。
其れも是非人類は壱度滅びるべきだとさうも思いながら…。
ハイデガーが述べる「決意性」とは存在へ向けて沈黙のうちに、不安に耐えながら自らを「投企」することだ。
まずは自分の頭にて考えること其れ自體が壱種孤立した作業である。
逆に熱狂し、埋没し、判断をつまりは思考を他所ー社會ーへ投げ出して居ればどんな責任もまた取らずに済む。
要するに其れはみんなの価値なので責任は分散され決定的に其れが問われることは無くなる。
故に至極樂である。
さうして現存在は所謂社會化されむしろ盲目的に其の価値に従うことを余儀無くされる。
學校や會社勤め、また家庭、自治體に於ける人間関係…。
むしろ其のことこそが現存在を形作ることの基礎であり基本であらう。
そんなものを疑う余地などはむしろ何処にも無いのである。
其れも其の哲學者以外には。
だが哲學とはそも其の根本での事の意義なり構造なりをあえて其処に問うて行くものなのだ。
かうまでして言うと、多くの方方は「あっ、自分と哲學とは何か全然違うものなんだ。」とさう思われることだらう。
でもまさに其れが此の世に於ける眞實なのだ。
多くの人人はむしろ自らの頭の中に論理を築いて居らず築いて居るのは決まって論理以前での其の人間関係ー其れも処世術としてのー其のものである。
でもって其の情緒的に、さうしてある種本能的に齎される動物的価値にほとんど全的に寄り掛かり今と云う時間を生きて御座る。
であるから其れではケモノの生き方と何ら変わることは無いとわたくしはさう述べて来た迄のことだ。
其のやうな生き方は哲學やまた宗教や藝術とは没交渉な生き方であり其れは概ね👪主義と云う本能主導の生き方をむしろ全面的に現象に押し出したものである。
ハイデガーが述べる「先駆的決意性」とはつまりは「眞の意味での自己」を自らが引き受けると云うことに他ならない。
自らの中に何かかう違和感のやうなものはあってもさうして地縁だの血縁だのに自己が規定されて居る以上我我現存在は其れをあえて受け容れ生きて行く必要が常にあらう。
だが其れに己の全てを寄り掛からせて仕舞えば最後むしろ死への不安や現存在其のものへの不安、さらに己自身への不實への不安からどうにも逃れられなくなって仕舞う。
たとえ財産や名声、👪や知己にどんなに恵まれて居るにせよ現存在は其の本質的不安から逃れることなどは出来ない。
何故かと申せば其れは問題のあり方、問われる部分其のものがむしろ立場により異なって居るからなのだ。
平たく申せば社會は其の社會とはむしろ其の本質面に対し蓋をして歩むことだらう狂的且つ虚的な価値観に彩られし世界である。
対して本質面に向き合って居るものがまさに本来的自己即ち眞我に於ける世界解釈なのである。
決意とはまるで壱種の武士道の如きもので、さうして死をも恐れぬ責任の取り方のことであらうが但し日本の封建制に於ける決意性は多分に家門と結び付く體制維持での集団主義に彩られるものであった。
従って日本國では純粋な意味での個の自立が促されることは無かったのだと言える。
要するに、「赤信号をあえて立ち止まり見る心の余裕」を持つことは日本社會ではむしろタブー視されて来たのである。
つまりはむしろ「みんなでもって眞我をあえて放棄し赤信号を突っ切る」ことが正しいとされる日本人の価値観であった訳だ。
でもそんなもんはイヤだ。
嗚呼、さうか、君もまた靑いねえ。
だが日本の社會とはな、そんなものじゃよ。
腹を切るのも儲けるのも兎に角さうしてみんなでもってやるのだ。
其れに特攻もな、むしろみんなでやらねばならぬぞよ。
天皇陛下ー、万歳!!
ドドーン、粉粉…。
だからそんなもんはむしろケモノだ、ケモノ。
そんなケモノは止めてむしろ理性を生きやう。
さても理性とは何か?
理性とはまさにわたくしのことだよ。
では無く、カントやショーペンハウアーやニーチェやハイデガーがかうしてかって述べて来しことだ。
さてもアナタは其の理性を信じますか?
アナタは其の理性を信じて生き弐度と盗撮はせぬとさう誓うことが出来ますか?
ですから、盗撮など壱度もして居りません。
其れと僕は独逸の哲學は正しいとさういつも思って居ます。
すると其れは信心であり信仰なのですね?
さうです、ほぼ其れに近いことでせう。
ではアナタは神を信じますか?
其れも壱神教の神を信じて居ますか?
…ほぼ信じてません。
信じてませんが、其の信仰の否定はしない。
ならばアナタは佛を信じますか?
其れも釈迦如来を信じて居ますか?
…信じて居ます。
…ほぼ信じてません。
信じては居ないが緒佛に対し感謝はむしろして来て居る。
つまるところはカントやショーペンハウアーやニーチェやハイデガーと釈迦如来だけを信じて居ると云うことでせう。
其れではアナタが連休中に考えたことを是非箇条書きにして述べて下さい。
ハイ、分かりました。
其れは、
1.現存在の課題とは社會其のものには無くむしろ社會に擦り寄らうとする自身のケモノ性にこそある
2.理性とは洗脳ー熱狂や正義の振り翳しーに対し常に冷静で居られることだ
3.我はガキが嫌いだがケモノはもっともっと嫌いだ
だと云うことです。
尚僕は🐈が好きなのだが🐈も所詮は獣です。
獣は例えばトカゲや蝶などを屡狩って来て其れを家の中に持ち込み玩んで居たりもまたします。
つまるところ獣には「生命が大事」であるとか「命を玩んでは可哀想だ」と云う認識がそも無い。
其れと同じで人間もまたイザケモノ化すればさうした感覚が麻痺しおそらくは暴走することだらう。
僕は文明とは本質的に其の理性の暴走なのだと思う。
だからこそ其れこそ多面的に是非批判して置かねばならぬものなのだらう。
さて連休中に日本人は兎に角自然との触れ合いを是非第壱義的にやって行くべきです。
其の自然は所謂山の中、原生林の中にしか無いと云うものでは無く其れは探せば都市部にもまた残って居たりするものです。
自然とは其のケモノとしての価値観が支配するところでもまたあるのですが其れを理性の力にて見る限りむしろ完璧なるものとして見えても来やう。
つまりは自然とは至極合理的に拵えられしシステムのことなのでもまたある。
其の自然に現れた理性の完全性=自然の摂理の完璧な様に直に触れることこそが人間の理性にとっての大きな學びともまたなる。
其処では逆に小賢しい現存在の知恵が蹴散らかされる位のことさえもがまた起きたりもする。
現存在はさうして常に自然の摂理から學ぶ心を決して失ってはならない。
ですが其れを持ち得たにせよ猶も文明の文明による文明の暴走は引き続き行われて行くことでせう。
であるからこそ個としての決意性の中にこそ生きなければならない。
其れは熱狂や正義の振り翳しからは背を向けまさに今と云う己を生きることです。
また其れは👪主義や全体主義には決して陥ること無く日光浴をし石を愛で静かに哲學をして居れば自ずと身に付くことだ。
つまりは眞我とはさうしたことです。
自立的な思考を成り立たせ己自身としての今を生きると云うことだ。
さうか、むしろ宗教の話では無いのだと?
宗教は其れ其れに信じる対象が異なります。
ですが現存在の頽落は其の信じるものの違いとは関係無くさうして皆が陥るものだ。
事實上現存在の頽落に対し効力を有するものは、
1.社會的価値の放棄
2.眞我を形成すること
3.自然への指向を高めること
です。
1.及び2.と3.は互いに関連し合ってもまた居る訳ですが常識的な現代人に対し此の参項を同時に成り立たせることは如何にもハードルが高くなる。
なのでどれか壱つでも良いから出来るものをやってみる。
また此の新緑の季節は特に3.がやり易いことかと思う。
兎に角無理をしてでもなるべく自然と戯れてみて下され。
何故ならすでに現代人は文明により洗脳され切って居ります。
また日本人はさらに集団主義の方にも洗脳され切って居る。
其の精神に取っての危険な状況を脱するには精神の自立性を高めて行くことより他に手は無い。
決意することが、其の洗脳に対しイヤだとさう叫ぶことこそが我我個としてのむしろ責務なのだ。
特攻~、では無くー精神のー解放~です。
またかのゼレンスキー氏を正義の英雄だなどとする考えは明らかに洗脳です。
さらに何故道にてみんなはさうしてスマフォばかりをやるのですか?
僕なんぞは道にて怒鳴って居るばかりですよ。
勿論其れも精神の指導の壱環なのですが…。
ーちなみに中学や高校の頃僕は其の指導部の先生方が矢張りと云うべきか嫌いでしたが今ではスッカリ其の指導の達人みたいな者に成り切って居ますー
さて我はまた明日自然と戯れて来る予定です。
今度は何が起こるのか分かりません。
分かりませんのですがまさか無茶は致しません。
哲學は常にさうして生活と結び付いたものであるべきであり観念としての机上の空論であってはならない。
ハイデガーの思想はまさに其の事を我我に対し投げかけたものであるやうに思えてならない。
其のナチス體制への傾倒の様は別として彼の思想はさう評価されるべきものであるやうに思う。