目覚めよ!

文明批判と心の探求と

教育の意義とガブリエル氏によるハイデガー観に就いて

51.教育の意義とガブリエル氏によるハイデガー観に就いて

 

 

 

 

渡辺裕之さんの妻・原日出子さん コメントを発表「後悔を数えたらきりがありません」【コメント全文】 (msn.com)

 

さうか、矢張りと云うべきか彼は心が病気となって居たのだらう。

此処からも逆に長生きをする秘訣は何があらうが「あっけらかんと我が道を行く」ことなのではなからうか。

 

つまりはどう非難されやうが己の信じた道を周りと比べること無く突き進むことだ。

其れが何故かと申すと眞面目な人は元元眞面目なのでたとえ己の信じた道を進むにせよ悪の範囲へはまず入れはせぬだらうからだ。

 

だが悪人がどう非難されやうが己の信じた道を周りと比べること無く突き進むと結局は刑務所へ行くこととなりませう。

さうして眞面目な人や善人はむしろ責任感が強くあるので其の圧力に対し常に苦しんで居る。

 

だから其の圧力に耐え切れず死を選ぶ位ならばむしろ適当に遊びつつ責任を放棄し生きて行け。

其れでも猶悪い遊びなどは出来ぬのが眞面目な人や善人なのだからして。

 

 

ひろゆきが「本当に"頭"が貧相だなと思う」今どきの人物4選【2021編集部セレクション】 (msn.com)

 

さてこちらでは良い限定論が展開されて居るやうにさう思わされた。

 

特に其の「悪」への認識の仕方はまさに其の通りなのだと思う。

確かに此の世には悪意が満ちて居り、されど他方では善なる人人もまた居る。

だから結局は半半なのだ。

 

だけれども其の悪への対峙の仕方、其の悪との闘い方をそも日本の社會は教えて居ないのです。

おそらく其れは日本の社會が「人間の善意を前提とする社會」だからなのでせう。

 

逆に申せば「人間の善意を前提とする社會」だからこそかっては敵艦への特攻などもまた正当化された訳だらう。

但し究極的には其の周囲の悪との戦闘ーあくまで精神的な戦闘ーは自分の力で受け持ち切り拓いて行くべき領域のことだ。

 

 

つまりは其れは本質的には人から教わるやうなものでは無いが但し其れに就きアドヴァイスを受けて然るべきものでもまたあるやうに思われる。

 

また其の部分は狂信や盲信の類などともまた関連し合う部分です。

さうして宗教、其れも新興宗教の多くは其のほとんどが「教祖絶対主義」を採って居りますがまさに其れが「教祖と云う人間の善意を前提とする宗教」だからなのでせう。

 

なんですがまさに其の事も現實的にはあくまで半半でせう。

要するに其処には半分は悪の教祖、悪の権化としての教祖がまず半分位は居るものとさう捉えて置いた方が良い。

 

まあ政治家なども皆馬鹿でアホなのでは無くおそらくは善人でもって利口な人と悪人でもって馬鹿野郎なのとが半分位ずつ居ることだらう。

 

 

でもって教師のことですが、其の教師が非常識と申しますか世間離れした考えの持ち主が多いことはまさに其の通りのことなのだと思う。

ですが、其れも昔は其の傾向がもっと酷くあったものでした。

 

例えば私が中学壱年生の頃の数学のR先生は可成に独特のキャラの持ち主で言葉遣いや授業の進め方が壱風変わって居るので生徒さん方から常に馬鹿にされ背広の背中のところにマジックだのチョークでもって「バカ」と書かれたりもして居りました。

其れに我が恩師である京大出の社會科のI先生は中学参年生の我に対し常に難解な社會的テーマを与え続け要するに我は其処に自らの思考力を試されても居た訳だった。

 

また体育教師Mなどは何ぞ悪いことをやった生徒を授業中に教室の後ろの方でバンバン投げ飛ばして居ました。

そんな風に昔は学校の先生も今のやうに小粒化などはして居らず結構並外れた人人が居たものでした。

 

まあ然し教師もまた矛盾に苛まれる人間の壱人であることに変わりは無くまた基本的に其其が馬鹿では無い訳ですので昔から結構精神的には悩んで居たことかとさうも思われる。

ですが今程に教師が生徒さんに取って近しい存在では無かったのである意味での其の聖職としての地位は守られて居たことかと思う。

 

其の点では確かに当時教師はやり易かったのだと思う。

逆に今は其の教師と云う職業が聖職では無くなり且つ長時間残業の問題などが浮上して教師になりたい人がそも激減して居るやうですが矢張り其の点に就いては文部科学省などが是非何とかしなくてはならないことでせう。

 

 

なのでむしろ壱番問題なのは其の文部科学省 - Wikipediaなり教育委員会 - Wikipediaなりが抱える組織的な硬直性の部分にこそあるのやもしれません。

要するに幾ら眞面目な先生でもー勿論先生方は基本的に皆眞面目人間ですー其の教育が抱える職業としての矛盾に苛まれ折角の眞面目さや知識の面を発揮出来なくなって仕舞います。

 

また教師は元元世間離れして居て頭が良くてオカシクなり易くもあり其れでもって所謂ノイローゼにもなり易くだから学校を休んで居る人などもまた多く居る訳だらう。

だからソコのところは少し割り引いて見てあげても良いやうに個人的には思う。

 

 

さて其の学校の教師と塾の先生はまた別ものなのだと思われますがこと知識量と云うことでは元元同じやうなものなのではなからうか。

さうしてとどのつまりは教師が子供に対し教えられるのはまさに其の知識のことです。

 

其れを「人間教育」だの「全人格的教育」だのそんな風に誤解して仕舞っては困ると云う御話を致して居る。

要するに教師は其の「知的技術の提供者」なのですからまずはソコをまともにやりませんと教師の意義さえもが失われて仕舞いませう。

 

但し仰る通りにインターネットは逆に「自ら學ぶ」ことを可能とする為の最も有効な手段となり得ることでせう。

ところが、基礎的な情報即ち知識としての基礎を少なくとも學んで置きませんとインターネットは逆に「自ら學ぶ」ことを放棄せんが為のツールともまた容易になって仕舞うことだらう。

 

まさにソコこそが此のネット世界の恐ろしいところです。

 

 

其の「人間教育」だの「全人格的教育」と云った分野はかっては日本の社會が共同して行って来たものでもまたあった。

戦後は其れが民主化された分自由化もされたが其れでもまさに昭和の頃までは家庭での躾の厳しさやカミナリオヤジ、何かとウルサイオバサンなどにより皆でやって来たことであり何も教師独りが其れを担って来た訳ではありません。

 

逆に教師に問題があると云うよりも其の共同體としての連帯的教育の流れが断ち切られたところにこそ大きく問題が存して居ると我などはまた見て居る。

でもって学校の先生は體制に適合させるが如くに子供を所謂「良い子」に仕立てあげやうとしますが其れはあくまで当たり前のことだ。

 

何故なら其れが学校の教師としての仕事なのですから。

対して塾の教師はあくまで成績を上げる為の知的技術を伝授することに終始する。

 

ですがまた其れも当たり前のことだ。

何故なら其の成績を上げんが為の教育を其処でもってして居るのだから。

 

だからちゃんと先生方はやって来て居るでせう?

そんな盗撮をやるのか?

 

だからまさか其れはやってません。

教師の多くはむしろ図鑑が好きで其ればかりを見てまたたまにはハイデガーとかの哲學書を読む位のことが関の山だ。

 

 

とのことで、其の非難されるべきところは果たして何なのか?と云うことも是非考えてみるべきでせう。

 

また個人的には家庭での躾、家庭での教育と云うものがほぼ崩壊の域に達して居るのではないかともまた見て居ります。

其れは九拾年代以降日本の生活が共稼ぎでないとやっていけないレヴェルに落ち込み其れでもって家庭での躾、家庭での教育と云うものが成り立たぬ環境となって居るのがほぼ實態なのでせう。

 

まさに其れは自民党による壱党独裁での、おおまさに米國の🐕と成り下がった政策の実施によりさうなって仕舞ったことでもありませう。

なので最終的には其れは自民党による政治が担うべき責任だらう。

 

 

で、先にも申しました如くに知識量が増え自分の御勉強の方にも進めるやうになると其の「バンカラ」での気風の如くに教師の言うことなんぞ半分位は疑って聞く程のレヴェルに其の精神が到達致しますのです。

イザさうなればもはやシメタもので、即ちもはや其処では自立的な學習への意欲がすでに充分に涵養されて居ります。

 

なのですが、現代に於ける日本人の其の學習への意欲がより高まって居るやうにはまさか思えません。

つまるところ其れは進歩したのでは無くむしろ退化して居て居ることだらう。

 

即ち自立的な學習能力こそが退化して来て居るのではないか。

 

其の原因として考えられるものの壱つがまさに上にも書かれて居るやうに所謂経済力と學歴との密接な結び付きによる弊害のことです。

まさに其処には正の価値ヒエラルキー社會としての資本主義の矛盾点が典型的に織り込まれて居るやうに感ぜられる。

 

 

要するに其れが「利口な人程年収が高い」とされる正の価値ヒエラルキーに基づく幻想の部分です。

ですがむしろ年収は高くても馬鹿な奴が多いのが此の世での實相でせう。

 

逆に僕は「馬鹿程儲け方が上手く金持ちになり易い」位に考えて居る。

なのでむしろ「金持ちにはなりにくいのが眞の意味での利口者」なのだ。

 

なんとなれば眞の意味での利口者は金儲けだのに対し己が理性を使ったりはしないものなのですから。

つまりは昔から貧乏詩人、貧乏画家の方が人間が抱え持つ本質部としかと闘いつまりは人間としては利口な生き方をして来たのだと言えやう。

 

まずは現代社會に於ける価値観はさうしてすでに誤謬としての領域に陥って居ることだらう。

第壱其の読書量が年収を規定するのであればもう僕なんぞもう拾億円位は持って居ても良いと思われますが勿論そんな金など何処にもありはせぬ。

 

 

でもって今若い人達が例えば「年収の高さ」のことを第壱義的に求めたりもして居るさうですが其の価値観などもズバリ誤りでせう。

個人的にはあくまで「自己實現」=自分にとって納得が行く仕事なり生活なりを目指すべきであり、たとえ其れがルンペンさんとなり空き缶集めにて月に五万程を稼いでしかも其れでやっていけるのであればもう完璧に其れが偉大なる人生其のものでせう。

 

其の金儲けは利己的領域を生み出し易くたとえ利己的領域を生み出さぬ形で金持ちになったにせよ、結局此の社會とは牌の奪い合いのことですので其処でより多くを自分が掠め取れば結局他に取っての不足を生み出して仕舞うことは必定の道理です。

 

また自然破壊などもまさにそんな道理より生み出されて来るものです。

即ちより多くを其処から奪取し其れでもってより豪華な暮らしを成り立たせれば必定の道理として次第に自然環境は痩せ細り逆に人間は具象的に追い詰められて行く。

 

 

要するに人間、特に人間の社會の価値観其のものがすでに誤謬としての領域に陥って居ます。

其処で其れに対し何か有効な対策を講じなければならないが實は其の過ちに陥った認識の中で其の過ちを直視することこそがほぼ不可能に近い訳なのだ。

 

そんな自己矛盾的な認識が積み重なり人間の社會ー文明ーは崩壊に至るものと古より相場は決まって居る。

ですので理性としての構築=御勉強による成果とは最終的には其の社會の価値観の誤りを正さんが為に行うものなのだ。

 

つまりはそんな世直しの為にこそ使うのが理性の力なので?

其れも最終的にはさうならざるを得ぬことだらう。

 

 

ズバリ申せば理性とはより快適に人間が生きられる文明を築く為に使うものでは無く其の文明による誤った価値観から地球だの人間だのの生命や緒価値を守らんが為にこそ使うべきものだ。

 

なるほど。

すると其の悪であり敵であるものとはむしろ人間自身であり文明其れ自體なのですね?

 

まあさう云うことだ。

だからなるべく其の所謂文明の常識とは距離を置き其れを客體視、俯瞰視出来るだけの自己としての理性的な眼差しを其処に是非創り込んで行かねばなるまい。

 

 

うーん、元塾の社會科の先生としての過激な御意見をどうも有難う御座りました。

エッ、ヤッパリ少しは役に立った?

何だか凄く嬉しいなあ。

 

いえ全然役になどは立って居ません。

依然としてかうして文明の混迷振りは続いて居りしかもまるで先行きは見通せない状態です。

 

 

さうか、ヤッパリ僕の筆力ではまるで間に合わなかったのか。

でもな、言わんとすることだけは少なくとも言って置いたぞ。

 

其れだけは認めさせて頂きますが其れでもヤッパリ役にはまるで立って居ないです。

第壱お前のやうに毎日かうしてのうのうと此処へ出て来て其れも言いたいことを言い去って行くまるで「風博士」のやうな奴の意見は誰も信用して聞いたりはせぬものだぞよ。

 

 

何?

坂口 安吾 風博士」か?

 

其れは嬉しい。

我もようやく國語の教科書並のことが書けるやうになったのか!

 

 

いえ「風博士」などでは無くあくまで「非常識博士」であり「非眞面目博士」だ!

 

さあて、今日もかうして樂しく文明を論ずることが出来僕はますます元気になりつつあるつまりは精神的に絶好調です。

 

ですが明日からまた厳しい歯科での治療が始まることと、さらに家の大掃除や鉱物採集に勤しむ時間を作る為に暫くの間こちらでの投稿を休止させて頂きます。

おそらくは梅雨となり閑になった頃よりまた何かに就き書けることかと思います。

 

されどかの立花 隆先生のことと相生山でのホタル観賞ー五月の終わりから六月の初旬にかけてのーのことだけは其の間にも出て来て是非論じてみたいとさう思って居ます。

其れでは其の折にまた此処にて。

 

 

 

さてまたもや蛇足ながらマルクス・ガブリエル氏によるハイデガー観に就き以下に述べて置きます。

ガブリエル氏はハイデガーは哲學的な誤りを犯したと『つながり過ぎた世界の先に』と云う著作の中で述べられて居る。

 

即ち哲學はまた事の善悪に就いても触れて行かねばならない、特に倫理的な側面に関して規定して行くべきだとの御考えを氏は持たれて居ます。

其の面では彼マルクス・ガブリエル氏は常に倫理観に沿った考え方をする所謂眞面目な哲學者です。

 

さらに其のハイデガーによる「本来性」と「非本来性」の区別其れ自體に哲學的な意味での誤りがあったとも仰せです。

また其のことはかのハンナ・アーレントにせよ指摘して居たことでもまたあった。

 

但し個人的にはあくまで其の「本来性」と「非本来性」の区別其れ自體に問題は無かったとさう捉えて来て居る。

逆に申せば本来的であることと非本来的であることの両面に亘り自己矛盾領域が或は拡がって居るのかもしれない。

 

 

本来的⇔非本来的

ではあれ、其処に相剋し且つ相即する関係性が存するが故に現實的にはよりややこしい問題が引き起こされて来ることでせう。

 

即ち實存に取ってはあくまで本来的な自己がより望ましい訳だが他方で社會が望むのはどう考えても非本来的な自己のあり方です。

そも實存と社會は其のやうな対立関係にあり同時に無関係ではあり得ぬものでもまたあるので或は逆流し合うことなどもまた屡あり得るのではなからうか。

 

 

其れは丁度理性が理性以前でのケモノの世界とまた密接に連なって居るやうなもので要するに其れ自體ではあり得無いのでー概念としての単独性が無いー、つまりは互いにどちらへも転び易いと云うことなのだと思われる。

従ってハイデガーはむしろ言語領域での罠に捉えられる形で倫理的な思考を置き去りにして行ったともまた考えられやう。

 

ですので我に限ればハイデガーは本当のことをむしろ述べたが其の本当のことの中には自己としての精神のあり方を迷わせる非本来性が本来仕組まれて居たものとさう見る。

 

また他の箇所でもガブリエル氏はハイデガーの哲學を批判的に捉えられ「其の哲學には善への言及が無かった」ものとまたされています。

其れも普通は「善の概念を持たずに哲學することは不可能です」ともまた述べられて居る。

 

 

尚個人的には其の哲學による善悪規定に就き不勉強にて其の部分に就き今ひとつピンと来ない訳ですが善悪と云うよりも正邪、正しいか間違って居るかと云うことを規定するものこそが矢張り哲學の役割なのかもしれません。

 

ガブリエル氏はハイデガーの天才を認められては居ますがハイデガーが誤った道へ進んだことに対しては至極手厳しく論じられて居る。

但しハイデガーの思想を受け継いだ哲學者達は有能であり例えば其処からは廿世紀最高の政治哲學者であるハンナ・アーレントが輩出し且つ最高の倫理學者としてのハンス・ヨナスが世に出て居る。

 

其のやうにハイデガー學派は廿世紀で最高の倫理学を生み出したが皮肉にも其のことはハイデガー自身に倫理観が欠如して居たことに由来するものであった。

などとハイデガーに対する御意見を結ばれて居り其処は流石に、なる程するとハイデガーは其の思想を後世に伝えることに完全に成功したのだな、とまさに其のやうに思わされました。

 

 

さうして結論としてはハイデガーの思想其れ自體に誤りがあったのでは無く「言語的自己矛盾」のやうなものに直面してハイデガーはむしろ原始退行ー理性→獣化ーせざるを得なかったと云うのがあくまでわたくし自身の解釈です。

兎に角此の世はさうして正反対の部分へとむしろ傾れ込んで行き易い場なのでせう。

 

ですので理性、其の理性すらもが本当は単独でさう至極理性的に存在して居るものではむしろ無い。

なので理性はまた容易に原始退行するのであるし、さらに獣が全部獣かと言えば其の中にも理性への契機は何らかの形で存在する可能性すらもがまたある。

 

此の世の価値観に於いて其の悪は悪、善は善、獣は獣で確かにあるのだけれども概念規定以前の言語領域で其れが双極を行ったり來たりもまたして居る訳ですのでまさに話が至極ややこしくなって仕舞う訳だ。

個人的には哲學とは其の現實のややこしさを何とか言葉に表すー概念規定するーものであるのだと思う。

 

其の意味ではかの天才哲學者ハイデガーは廿世紀に於いてまさしく其の任を担ったことだったらう。