哲學11
わかりたい人のための西田哲学入門 | DiamondQuarterly | ダイヤモンド・オンライン
さて其の西田哲學こそが所謂悩める理性に取り解決の場を提示して呉れる方向性を指し示すものであることでせう。
いえ、結局解決までにはなかなか至らぬものなのですがまるで訳の分からぬ此の世の仕組みに対し其の侭分からぬ侭に終わるのか、其れともとりあえずは分かったやうな気になり生きて行けるのかと云うことに関しておそらくは分水嶺の如き役割を果たすものであらう。
で、其の分かったと云うことは禅の悟りであるとかさうした宗教的見地とはまた別のものです。
西田哲學は左様に宗教と哲學を結ぶものではあってもあくまで「悟り」では無く哲學です。
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ですが此処は所謂ビジネスの為の教養を身に付ける場なのでせうからあくまで俗世間としての功利性追求の場なのでせう。
其のビジネスと哲學は違うのだしまたビジネスと宗教とはまた違う訳です。
さて上の記事で最初のところを読んでみますと、西欧近代型の合理主義による社會構築がむしろ今行き詰まりを見せて居ることが書かれて居ます。
尚私は其れを合理化による破壊だとさう結論付けかうして多年に亘り其れを批判して参りました。
ところが其の西欧近代型の合理主義社會でしか成し得ないものこそがまさに此の近代的な生活です。
で、事實上は此の生活を放棄することなどもはや誰にも出来ない相談です。
其れこそ例えルンペン化し公園などで寝起きするにせよ、また山奥にて独居し電気や瓦斯に頼らぬ暮らしを営むにせよ病にでもなれば最終的には其れのお世話になって行かざるを得ない。
なのですが西欧近代型の合理主義社會は進めて行けば行く程に世の實相とはかけ離れむしろ要らぬ努力にばかりかまけていく様相を呈して来て居ります。
さても何でそんな風になるのだらう?
と云う素朴な問いがわたくしには若い頃より御座りました。
其れで最終的に其れは「社會としての認識」の誤りであることをまずは突き止めました。
例えば地球温暖化対策として「個として出来ることをやりませう。」などといつも言われて居る訳ですが個がどうしやうが社會全体が滅茶苦茶やれば結局地球は壊れて行かざるを得ません。
ですから、結局は其処に帰結する訳で、其れも進歩だ進歩だと馬鹿のひとつ覚えみたくに申して諸のバカ進歩に勤しむからこそ世の中が崩壊して行くのです。
だから其のバカ進歩を壱刻も早う止め正常な心へと我我をして戻して頂きたいものだ。
で、其のバカ進歩や馬鹿な合理化社會に対して異議を唱える向きが今あらゆる學問の分野より噴出して来て居る最中です。
ですが、實は其れは幼稚園児でも分かる程の事の道理なのです。
たとえ幼稚園児であれ身の危険が迫れば此の侭ではマズいと云うこと位は實感として分かる。
いやむしろ教育に洗脳されて居ない彼等だからこそ此の文明が至極危険なものであることが分からう。
また生きるのに必要なものは彼等にとり沢山のものでは無くまた高度なものなのでも無く只其処に普通にあるもののことです。
問題は其のより多くをまたより高度なものを欲すると云うことからこそ世界に対する本質的破壊を生じせしめて居ることだらう。
さうして其の合理主義的価値ヒエラルキーはむしろ其の当たり前にある価値ー眼前に今ある価値ーを壊して行きます。
其れもより利便性と能力に優れる価値が日常を汚染する故にさうならざるを得ない。
其れと「現世利益」に凝り固まった合理化人間共が先哲としての人間の知恵を忘れ去る始末です。
さうしてやがて其の今の其の利益にだけ固執する生活の亡者の如き者共が繁栄するに至る。
ー相反する二つの対立物がその対立をそのまま残した状態で同一化するー
個⇔社會
合理⇔非合理
理性⇔情動ー感性ー
部分⇔全体
価値⇔無価値
言葉にて抽象的概念を規定するとかうして其の反対のものが生じざるを得ません。
ですが現實的ー具象的ーには其れはあくまで両極を含んだ対立であり同一性です。
即ち感覚的にはむしろ其れが統合された形にて直感され得る。
ところが感性は情動と結びついて居り常に其処に流され易い。
ですのでより正確には其れは直観に基ずくものでなくてはならない。
直観は全体知に属するもので部分的、末端的な要素還元論とは異なる認識の方法です。
其の直観は藝術的かまたは宗教的な見地により導かれます。
或は哲學的なまた内省的な心根こそが生み出すものだらう。
さて、
テーゼ⇔アンチテーゼ→ジンテーゼ
と云うのがかのヘーゲル弁証法に於ける所謂アウフヘーベン止揚 - Wikipediaの理論ですが、其処で緒矛盾が昇華される形でもって新たなる次元の命題へと繰り上げられて行く訳です。
此処での特徴とは其の新たなる次元の命題に於ける対立ージンテーゼに於ける対立ーがテーゼ⇔アンチテーゼに於ける矛盾つまり悩みであり問題があたかも克服されて居るかのやうに見えることです。
例えば君主制をはじめとする封建的秩序に於ける矛盾や貧乏ー物質的困窮ーの問題などは其のジンテーゼとしての近代的闘争のうちに確かに解決されて行きます。
ですので、必ずしもヘーゲル弁証法が間違って居るとは言えずむしろ其れは正しい訳です。
其のヘーゲル弁証法にせよ史的唯物論にせよ全ては「近代」を成立させる為の理論でありこと其の「近代」を成立させることに於いてはむしろ大正解でもあった訳だ。
ところが其のジンテーゼとしての近代に於いて、其れも近代末期かと目される21世紀に於いてむしろもはや如何ともし難いやうな難題が山積みとなりましたのは其れは矢張り其の進歩史観其のものに誤りがあったであらう可能性が高く存して居る。
ですが其の我我に取りより樂な近代的生活、其れも特に資本主義により邁進される「モノが豊かな生活」にドップリと浸かった我我が其処から脱け出すのは容易なことでは御座りません。
僕なんぞも結局は何かを得ることでこそ今を生きて居るのだと思います。
ほんたうのほんたうはそんな下品此の上無い人間でむしろキリスト様やお釈迦様とは対極を生きることだらうタワケ人間の壱人であるに過ぎぬ。
但し少しだけ毛色が違って居りますのは其の「下品」と「タワケ」を我はかうして自覚して居りますのです。
左様にヘーゲル弁証法は正しい訳ですが問題なのは其れがあくまで観念論の枠内での正しさであることでせう。
ところが地球上には他にも猛獣共やらまた🐼ちゃんやら其れからまた訳の分からぬやうな生き物が沢山居ますので彼等の考えて居る事は無論のことそんな観念論では無く強いて言えば其れは自然の摂理に従い考えずに行動して居りませう。
つまり、
と云う対立こそが我我人類に突き付けられて居るであらう21世紀に於ける根本での大命題です。
で、最終的にはヘーゲル弁証法は人間を神の領域にまでおそらくは持ち上げて行く筈です。
近代的対立の超克→神人間による自然界の完全支配=宇宙の完全支配
とのことが畢竟近代的人間ー社會ーとしての夢であり究極としての目標です。
ところが其れはまさに神をも畏れぬ所業の筈です。
其れでもって實際にすでに神は御怒りでもあることでせう。
また佛は呆れ果ててソッポを向いても居られませう。
其れは何を御怒りなのかと申しますと決して我我馬鹿な個人を怒って居られるのでは無くまさに其の進歩史観をこそ否定しておいでなのだ。
『「進歩」は今すぐに止め汝等が罪人であること、煩悩まみれであることを今すぐに認めよ!』
と神と佛がたった今さうお命じになられた。
つまるところ、我我21世紀人は「我我に取り正しい進歩」をやりつつ「我我以外に取りあくまで間違ったシンポ」をやって行かざるを得ません。
我我に取り正しい進歩⇔我我以外に取りあくまで間違ったシンポ
うわあー、またいつの間にやら逆に問題がよりデカくなって仕舞ったな。
さうです、まさに其のリスクーをよりデカくする傾向にあるのが近代的発展ー進歩ーによる負の側面での特徴です。
其処に於いて利便性や快適性ばかりをまた物の豊かさばかりを追及するので必然としてさうなります。
其の考えー観念ーと決別せぬ限りはむしろ何処までも其の自然ー環境ーとの断裂と申しますか亀裂と云うかそんなものがよりデカくなるばかりです。
さうしてまさに其の地点より脱近代への概念的道程が拓かれても参りませう。
尤も我は其の道程を此処参拾年程に亘り歩んで来ました。
其処で脱近代は何としてでも成し遂げねばならぬ壱つの思想的闘争でした。
されど脱近代を成し遂げることは最終的には其れは社會の責任です。
近代的社會には其れを維持せねばならぬ責任が元より社會其のものにある。
其れは此の進歩史観を實行する社會には我我を搾取する権利と共に社會を維持する義務がしかと生じて居ると云うことだ。
また社會の統治者の側にも同様に其の責務が生じて居ります。
よってもしも社會が維持出来なくなるやうでしたら女房子供を阿弗利加に叩き売ってでもして其れを維持して行かねばならない。
また其れが出来ぬやうでしたら自ら進んで断頭台へと出頭して行かねばならない。
公務員とは、また公僕では無くとも例えば塾の講師などをも含む体制を創る側の人間はまさに其の位の覚悟でもってほとんど泣きながら或は半分奴隷の如くとなりやって行かねばならない。
また教師や医師や弁護士、さらに裁判官や國會議員、さらに地方の議員などもまた同様に其の責務を担う者等なのだ。
対して西田哲學に於ける世界認識はそんな近代進歩主義とは異なるものとなる。
テーゼ⇔アンチテーゼ
と云う其の弐元対立は元より如何ともし難いことです。
其れを西欧近代流に力技にて統一し新たな矛盾世界を生み出すのでは無くむしろ此の対立関係の方にこそ注目し其の対立としての概念的立場ー認識ー其のものを変えやうとします。
だから其れは、
A⇔B→C⇔D
では無く、
A⇔Bは対立して居るがむしろ其の対立により維持されて居るとさう見る。
まさに其の対立其れ自體を解消するのでは無く認識のあり方を変えることにより其の対立に拘らぬやうにすることなのだと思う。
「我我の自己ー個ーは、どこまでも自己の底に自己を超えたもの(超個)において自己を持つ。自己否定において自己自身を肯定するのである。かかる矛盾的自己同一(即非)の根底に徹することを見性という。」西田幾多郎
さても貴方方は世界の實相に就き考えてみたことがおありだらうか?
私は考えてはみましたが分かりませんでした。
ですが實體験を積み重ねるうちにようやく直観出来たことがあり其れは「分離する要素が相剋し且つ相即する」と云う概念的理解でした。
尤も其れには佛法に於ける學びの機会も色濃く関係して居たのやもしれぬ。
其処で最終的に般若智を追及した我は+(陽)と-(陰)と云う弐元的矛盾を世の根本での仕組みとして捉え其れをどう結び付けるかと云う壱つの東洋的陰陽説の展開を頭の中で練り上げて居たものだった。
また其の弐項対立はカントに於けるアンチノミーや其れこそ弁証法過程に於ける進歩の概念共密接に絡んで居りました。
ところがむしろ其の対立其れ自體としての何かを概念的に区切ることが必要不可欠であることに気付く。
何故なら現象其れ自體を成り立たせて居るのは対立其れ自體としての矛盾である。
ですが其れが實は当たり前のことで、まさに幼稚園児でも分かることだったのです。
何故なら「考える」と云う行為こそが分離に関する作業で其れ自體に實體性など無いからなのです。
要するに矛盾するからこそ今此処にかうして我我が生きて居る。
矛盾無くばそも生ぜず食わずウンコも垂れずどうだかうだと論を張ることなども無い。
其の相剋すると同時に相即する論理はまさに脱論理であり即ち論理としての矛盾的記述です。
ですが其の矛盾こそが生の正體ですので論理的にはあくまで規定が変でも實は何処にもオカシイところが無い訳です。
逆に論理的にはオカシクは無い近代的弁証法過程ー進歩主義ーの方が余程にオカシイと言えるのやもしれない。
+⇔-
其の+と-はそも違います。
言葉の枠内ー論理的展開ーのものとしてはそも異なります。
👨⇔👩
還暦以上の老人⇔二十歳未満の少年少女
人文理性⇔理系理性
数拾萬もする高額なモンブランの万年筆⇔弐千円の中華万年筆
偏差値八拾⇔偏差値参拾七
は、皆言わば対照的に違う訳だ。
だから普通の論理では其れはとても壱緒にはなれません。
普通の論理ではダメなので、其処で是非進歩主義を取り対立を解消して仕舞おう。
👨⇔👩の対立はジェンダーフリーで解決出来る。
人文理性⇔理系理性の対立は人文理性に数学をやらせ理系理性に文學作品の感想文を書かせることで解決出来る。
数拾萬もする高額なモンブランの万年筆⇔弐千円の中華万年筆の対立は万年筆を無くしてより強力な筆記具を生み出せば無くなりませう。
ですが西田哲學では其の進歩のことは元々考えない。
A⇔B
純粋に論理の枠内では矛盾は矛盾でありよって其れは良くは無いことですが「絶対矛盾的自己同壱」の概念に於いてはむしろ其の侭に矛盾は超克され得ます。
で、其の矛盾の超克に就き私は弐元論を適用し「相剋し且つ相即する」関係性として規定し得た訳です。
つまりは其れは単なる矛盾律の如くに見えるが實際上、實質上は決してさうでは無い。
要するに其れは矛盾の如くに見えるがまるで矛盾には非ず。
何故なら其のAには+と-即ち正と負ー光と陰ーの面があり同様に其のBにも正と負ー光と陰ーの面があり其れが複雑に絡み合う訳です。
従って其れは最終的に四元構造ー四次元構造?ーを持ち自己肯定と自己否定の間の中で矛盾的且つ自己同一的に振る舞うのです。
よってさうした視野に立てばすでに矛盾は其の侭に矛盾では無くなり其の侭では理解し難い他は自己に含まれるかまたは自己が其処に含まれる訳だ。
つまりは対立や矛盾、また避け難い苦悩などに対しより柔軟に考えられるのだと思う。
其の柔軟性と云うものが石だのコンクリだので造った西欧近代型の論理構築物なのでは無く東洋式の木だの紙だの土壁だので造った脱論理的構築物なのでむしろより災害リスクには強い訳だ。ーたとえすぐに壊れても本質的には強いと云う事です。ー
また其れはストレートな論理では無いので屈折して居ります。
屈折して居るもの、つまりは曲がったりうねったりして居るものは結局打たれ強いのではありませんでせうか。