目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「絶対矛盾的自己同壱」概念に就き考えるー四 藝術と「純粋経験」ー

哲學14

 

 

 

西田幾多郎(2)純粋経験とは何か | 哲学・教養入門ブログ (tetsugaku-life.com)

尚今回はこちらがテキストとなります。

 

御勉強の前に壱言だけ述べて置きますが眞理探究を欲する理性は喉が渇けば水を飲み腹が減れば何ぞものを食うと云う所謂生命に備わる本能と同じやうに知を欲し自らの頭脳の中身を常に磨いて行かねばなりません。

まさに其れが知的努力と云うことです。

 

其の知的努力には向き不向きもまた御座りませうが「やると決めたらやる」のがたまたま頭が良く生まれた者のまさに責務なのです。

ですが其れは例の林 修が言うやうに「今でしょ」ではなくても良くて「明日」でもまた「壱週間後」でも何時でもやれる時にやれば良いのです。

 

ですのでもう今日は止めて映画を視やうだとか、また今は哲學するのは重苦しいからまた次にやります、でもって全然構いませんのです。

 

 

さて其の「純粋経験」に就いてですが、まずはさうして藝術家の作品構築のことを述べられますと成る程そんなものかと思わざるを得ない。

尤も対象への没我も度を越すと壱種気持ちが悪くも見えるものです。

 

とは言え藝術家の直観力が並外れたものであることもまた確かなことなのでせう。

いえ直観と云うよりも直感的洞察に優れて居るのやもしれません。

 

直観と云うものは屡哲學や宗教の分野で使われますがいま少し論理的なものー言葉により規定されるものーであるやうな気もまた致します。

 

ー直観は本能とは異なっている。本能は必ずしも経験的な要素を必要としない。直観的な基礎による見解を持つ人間は、その見解に至った理由を即座に完全には説明できないかもしれない。しかしながら、人間は時間をかければ、その直観が有効である理由をより組織化して説明するべく論理の繋がりを構築することで、直観を合理的に説明できることもある。

付け加えるならば直観を前提として具体的な問題を正しく説明したり解決に導くためには多くの経験知識理解が必要でもある。

なお、日本語の直観(ちょっかん)は、仏教用語のप्रज्ञा(プラジュニャー、般若)の訳語の一つである直観智に由来する。直観智は分析的な理解である分別智に対する直接的かつ本質的な理解を指し、無分別智とも呼ばれる。ー直観 - Wikipediaより

 

此処からしても藝術的感覚は直観其れ自體よりもより感性方面に振れて居るものと思われます。

但し文學其れも小説などは文章構成が合理的に説明出来るもので無ければ意味を成しません。

 

其の点では明らかに詩の方がより直観的でありより藝術的です。

で、子供が描く絵が天才的であったとしても其れが藝術かと問われれば藝術では無い訳です。

 

直観には其の理性の力がおそらくは不可欠なのでせう。

ちなみにわたくしには其の分別智もありますが同時に無分別智の方にも長けて居ると申しますか其の直観が得意な方です。

 

 

次に作品の構築には「我に返る」部分もまた必要だと書かれて居り此の辺りは實に興味深い指摘です。

無分別智⇔分別智

 

つまりは其処に相剋し且つ相即する関係性があり其れを行ったり戻ったりせぬと藝術作品は生み出せない訳です。

ですので例えば幼児が天才的な絵を描いたにせよ其処には分別智の方での経験や知識の蓄積が常に欠けて居るので藝術作品とはなり得ぬ訳だ。

 

凡夫の分別は、主観事物との主客相対の上に成り立ち、対象区別分析するから、事実のありのままの姿の認識ではなく、主観によって組み立てられた差別相対の認識に過ぎないため、妄分別(もうふんべつ)である[2]。それによって得られる智慧である分別智(ふんべつち)も一面的な智慧でしかない[2]。それに対し、主客の対立を超えた真理を見る智慧無分別智(むふんべつち)という[2]。俗には無分別は「思慮の足りないこと」の意義で用いられるが、仏教では本来と反対の用法である[2]。ー分別 (仏教) - Wikipediaより

 

お釈迦様はかって「未だ悟りを得て居らず事の道理を知らぬ者」の意として凡夫と申されましたのですがと云うことはほぼお釈迦様以外は凡夫だと云うことでせう。

従って天才級に頭の良い奴でも悟って居ない奴は皆凡夫なのです。

 

故にたとえ偏差値が八拾もあったにせよ彼は凡夫です。

尚此処で壱番重要なことは屡世間で還暦を過ぎたオジサンなどから「君はなんて無分別なんだ。」などと若者が諭されたりもするものですが其の俗的な言葉の使い方其れ自體が實は誤りなのです。

 

より正確には無分別智に生きる者こそが其の佛の智慧ー般若智ーに生きる者のことです。

だから、「君はなんて無分別なんだ。」とは、むしろ「君は最高の智恵者である。」との意味となり逆にさうして如何にも分別のありさうな還暦を過ぎた爺の方こそが分別智ー世間の垢にまみれた小汚い常識ーに毒されたもうどうしやうも無いクソジジイのことなのです。

 

嗚呼しかも其れがまさに虚妄分別としてのまさに肥溜めのやうな単なる思い込みに過ぎぬのです。

左様に其の思慮分別とは俗世間と聖なる世界とで使い方が百八十度違う言葉なのだ。

 

 

其の対象と其れを認識する画家の心とに分裂して居るものを統合して見ることが直観なのだとすれば、確かに藝術家は凡夫は凡夫でもさうした認識がし易い種族に生まれついて居り他方で凡人ー壱般人ーは其の分裂を統合することの出来ぬ何かに圧迫され続けて居ることとなりませう。

 

わたくしから言わせて頂くとまさに其れこそが社會的に齎されて居る常識としての数々でせう。

其処にドップリと嵌り込んで居たらもはや絵も描けないわ、詩も心に浮かばぬわ、さらに酒は飲むわ👩は触るわでもはやドロドロに溶けて居るではありませぬか!

其の大事な筈の心のあり方こそが。

 

でも藝術家は逆に分別が無いので怖いのではありませんか?

まあ確かに怖い部分もまたあります。

 

其れもセザンヌとかゴッホ級の人などは實際に目の前に居ると矢張り怖いことでせう。

其れにアンタもまた怖い。

 

 

何?

壱體全體俺の何処が怖いのだ?

こんなに優しい僕の壱體何処が怖い?

 

うーん、何だかクドイ。

其れは認めます。

認めますが、かうして御勉強の最中なのでむしろ其の拒否感は捨て置いて是非前に進むべきです。

 

 

「意識と対象に分離する以前の主客未分の経験」

 

其の主客未分と云うことこそが實は佛法の上での最大の課題でもある訳です。

主客分離するから人間の認識が生じ其の認識に従い社會化が成されます。

 

まさに其れが文明を形作る訳ですが、實は主客未分であっても社會は生じたりもする。

まさに其の例が🐜や蜂の社會の様です。

 

🐜や蜂の社會と人間の社會=文明は實際に良く似て居たりも致します。

されど彼等は主客分離する形で其処に主観的な欲望ー財産所有や子孫の繁栄や不老不死ーなどを望む訳では無く只自然の摂理としての種の繁栄に対し突き動かされさうして働くだけのことです。

 

主観的な欲望は其の意味では利己的であり他方で🐜や蜂の頑張りはむしろ種の為の無私の奉仕なのやもしれません。

逆に主客分離する形で社會化すればする程にロクなことにはならないと云うのが個人的な社會に対する論理です。

 

 

凡夫の分別は、主観事物との主客相対の上に成り立ち、対象区別分析するから、事実のありのままの姿の認識ではなく、主観によって組み立てられた差別相対の認識に過ぎないため、妄分別(もうふんべつ)である[2]。それによって得られる智慧である分別智(ふんべつち)も一面的な智慧でしかない[2]分別 (仏教) - Wikipediaより

 

との理由にて佛法は其の相対認識其れ自體を否定的に捉えます。

 

主観と云う非我による認識は眞の意味での智慧による見方では無いとむしろ切って捨てる訳です。

其れもあくまで佛法の純粋な意味に於いては。

 

では眞我による認識とは何かと問えば其れは智慧による見方であり要するに其れが般若智のことです。

ですのでまさに其れがありのままの認識であり差別的相対の域を離れた眞の認識のことです。

 

 

従って佛法の要諦とはまさに其の認識上の誤謬を自ら正して行くことにこそ存して居ます。

ですので其れは何処ぞの宗祖や開祖を崇めると云うこととは全く別次元でのむしろ哲學的に齎される認識論での自己転換の課題なのです。

 

また外に向かい祈ったり願ったりすることなのでも實はありません。

外部に救いを祈り願うのであれば其れは純粋な意味での佛法とは異なる救済宗教に与することとなります。

 

ですが其れが間違って居る訳なのでもまたありません。

其れは其れとしてあくまで他力救済として成立する立派な宗教であり信仰なのですから。

 

なのではあれ佛教徒として研鑽を積み壱応は解脱の方向性を見極めたい向きには釈迦直伝での此の認識の転換こそがどんな宗祖や開祖の説よりもより重要な教えとなることでせう。

 

 

さてたとえ社會化するにせよ🐜や蜂は自然破壊を行いませんが、さうして主客分離した侭で利己的な欲の追求につい走った人間の場合はついに其れをやっちまいました。

尤も其れはお釈迦様ばかりでは無くイエス様もやってはイカンとさうハッキリと仰せでのことでした。

 

ところが文明の中で宗教もまた社會化致しますれば、まさに其れに伴い宗教としての癖や欲が逆に生じて仕舞い其の宗教さえもがまたついに其れをやっちまいました。

つまりは無暗に勢力を拡げ闇雲に教祖や宗祖を崇めること、また凡夫にも分かり易いやうに兎に角像だの仏壇だの墓だのに願いを捧げ現世利益を只ひたすらに追い求めて参ったのです。

 

すると情けないことにお釈迦様やイエス様の純粋なる志が次第に壊れ且つ薄れ逆に其処に居座ったのが凡人である弟子達の身勝手なる宗教解釈だったのです。

まあ其れでも佛教はいまだ佛教ですしキリスト教はいまだキリスト教です。

 

其れも滅びかかっては居りませうがいまだ滅んでは居りませぬ。

どっこい死んでも死なぬのが其の信仰だと云うことでせう。

 

 

で、西田哲學は壱體どうなったのだ?

 

あれすみません、いつのまにやら比較宗教史のお話となって居りました。

さてテキストの方では論者の方が「直接経験」の哲學のことを論じられて居ます。

 

フッサールの現象學やハイデガーの哲學は西田哲學との関連性が確かに認められます。

ですが個人的にかって影響を受けたのはベルグソンの哲學でした。

 

ベルグソンはまさに天才級の理系の知性の持ち主でしたが哲學者となった変わった人でした。

ベルグソンの「エラン・ヴィタール」なる創造的進化説にはかって心酔して居たものです。アンリ・ベルクソンの 「エラン・ヴィタール = 生命の飛躍」 (No.1788 13/09/19) : ミネルバのフクロウ (exblog.jp)

 

哲學には所謂「生の哲学 - Wikipedia」なる分野がありベルクソンこそが其の代表格です。

19世紀以後の生物学革命、とりわけ進化論に呼応しつつ、生まれた哲学的潮流をいう。その特徴は、「生」「生命」を強調して、抽象的、観念的合理性に対して批判的な姿勢をとることである[1]生の哲学において、「生」は、科学的知性や理性では捉えきれない根底的、全体的なものとして強調される[1]。また、抽象的な知性や理性が捉える不動性よりも、生のうちに見られる具体性や生成、運動が優位だとされる[1]。さらに、根底的、動的、具体的な生に即したものとして、単なる知的な理解ではなく、直観、意志、情動、体験などが強調される[1]生の哲学 - Wikipediaより

 

其の抽象的、観念的合理性に関して批判的な姿勢とのことであれば養老 孟司先生の考え方などもまた其の範疇に属するのやもしれません。

つまりは兎に角生命現象は合理的判断によるものでは無いと云うより動的な生命解釈を其処に打ち出して居りまさに直観重視での認識論を其処に展開されて居る訳です。

 

ですが、西田哲學は矢張りと云うべきか佛教哲學其れも禅宗との関連性が色濃く見て取れます。

禅宗こそがまさに其の認識の無分別化を目指さうとする釈迦の佛法により近い論理形式ー脱論理形式ーを旨とする宗派です。

 

其の論理的であることは人間でありかうして文明を形作る以上は重要ですがむしろ其処に拘れば拘る程に人間の生としての具體的側面が圧迫され生き苦しくなって来ることもまた事實です。

また眞理探究の面からも實は論理構成だけでは其れには到達出来ないことをすでに廿世紀に人間は學んで来て居る筈です。

 

眞理は追い求めれば求める程に遠ざかりまた壱歩誤れば破壊を生じせしめると云う危ういバランスの上に築かれるまさに幻の楼閣のやうなものなのやもしれません。

其れでも尚理性は其れを欲して止まずかうして我我は「考える」ことから解放されることがありません。

 

故に人間にとっての最大の欲望とはむしろ其の知的好奇心であるのやもしれません。