哲學13
AI支配でヒトは死ぬ。 ―システムから外れ、自分の身体で考える― | 養老 孟司 |本 | 通販 | Amazon
養老先生は御年を召してもかうして常に社會の常識と闘われて居る。
何が尊いかと言って其の理性的態度程尊敬に値することは他にありません。
常識にドップリ浸かるとむしろ眞實ー事の眞相ーを見失い易い。
だから批判とはつまりはさうした部分からこそ行われるものだ。
つまりは眞實を守る為にこそ行われるべきことだ。
哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない。 | きょうのことば | 読むページ | 大谷大学 (otani.ac.jp)
我の理解では其の人生の悲哀に気付くことこそが宗教的見地です。
西田哲學は所謂合理主義では無く確かに其の悲哀の面への傾斜などもあるものかと思われる。
其れはまるで壱種の感性論ですがあくまで哲學ですので所謂感情論とは違う訳です。
其の哲學と云うものを世人が嫌い易いのは其れが感情論とは対極に位置するものだからです。
故に特に🚺に取り其れは理解し難いものであることが多い。
割合として🚺は實感の方に振れて居ますので必然としてさう成らざるを得ない。
尤も僕もまた其の感性人間ですので論理だけを生きて居る訳では決して無い。
ですので、ほんたうは其の両方が必要となります。
即ち、
感性⇔論理ー感ずることと考えることは常に相剋し且つ相即するー
です。
西田哲學はむしろ其の両方を繋ぐ役割をすることであらう脱論理からの哲學理論です。
さて其の西田 幾多郎の「絶対矛盾的自己同壱」の原文の方を読みますと矢張りと言うべきか可成に難解です。
元々難解な概念を組み合わせた上で難解な哲學的構築がなされて行くのでより難解となる訳だ。
尤も個人的には難解なものがむしろ好きなわたくしは逆に西田哲學に対しある種の親しみ易さを感じないでもありません。
さて上で仰るやうに矛盾に満ちた世を認めしかも其れを熟知した上で勇気を持って生きるより他に我我は術を持たない。
しかも最終的に其れは個の認識、個としての判断力に背負わされて来るものです。
尤も社會は逆に足を引っ張りますが其れにも耐え養老先生の如くに死ぬまで闘い続けると云うのがまさに人間として此の世に生まれたことの本義なのではなからうか。
其れでは今回はむしろ分かり易く解説された「絶対矛盾的自己同壱」に関するブログの内容をテキストとして其れを學んで行ってみませう。
西田幾多郎(1)西田哲学を学ぶ準備~二元論の問題 | 哲学・教養入門ブログ (tetsugaku-life.com)
1.主客弐元論
主体⇔客体
表象⇔物體
唯物論⇔唯心論
上ではまず弐元論の克服の問題が語られますがまさに鋭い着眼点です。
弐元論は人間が古来より行って来た概念的な事象に関する整理法でよって古いと言えば古い考え方ですが實は其れこそが近代を規定する考えなのでもまたある。
進化⇔進歩
進化と進歩は違い文明をやる人間は進歩しますが文明を持たぬ動物は只進化だけをします。
即ち近代とは其の進歩史観の確立のことなのです。
また宗教などもまた概ね其の弐元論の形を取ります。
壱神教⇔多神教
自力救済⇔他力救済
などのやうに。
また例えば他力救済の宗教では壱元化論ー壱神教や大乗各派ーが出て来ますが例えばキリスト教では神⇔👿、また大乗佛法では佛⇔魔ーマーラーと云うやうに其の大元では結局弐元論の形が取られて居ます。
さらに現實的にも、
貧乏⇔金持ち
👨⇔👩
利口⇔馬鹿
と云うやうに此の世の性質は弐種に分離され把握されることがほとんどです。
其れの亜流として参種や四種に分離され把握されることなども可能ですがあくまで基本は弐元的要素に於ける対立こそが矛盾を引き起こす訳だ。
で、わたくし自身の考え方もまた其の弐元性を基に組み上げられたものです。
ですが同時に其処で対立関係を脱論理化し「止揚」して行く訳だ。
まさに其れが西田哲學と同様の手法だと云うことで、ですが其れは西田哲學から我が學んだものなのでは無く私自身が實体験として積み重ねて来た矛盾苦よりわたくし自身が生み出して来た論理ー脱論理ーであった訳です。
但し其れには独學にて學んだ原始佛教から大きく示唆を受けたであらうことはまず間違い無いことです。
また原始佛教と対になる形での大乗佛教からも大いに示唆を受けて来ても居る。
いやむしろ大乗各派の教えが無ければ其の脱論理的展開など成り得ませんでした。
さて問題は、其の弐元的相対認識からは論理的に矛盾が必然として齎されると云う事實です。
事實と云うことはあくまで現實的にはさうなりますと云うことです。
進化⇔進歩
例えば今人類ー文明ーはまさに此の弐元論の齎す矛盾の故に存続の危機に立たされて居ます。
其れもあくまで事實と云うことですのであくまで現實的にはさうなります。
最終的には其の矛盾律にやられて其の弐元的関係其れ自體が崩壊せざるを得ないと云うことです。
其れも、
進化⇔進歩
と云う弐元的相対認識を取る限りはです。
まさに其れが文明規模での大問題だと云うことです。
ですが、其れはむしろ認識論の問題であるとわたくしは捉えて来て居ます。
何故ならお釈迦様もキリスト様も共に「人類の認識は間違って居る」とさう述べられたからなのでした。
「悔い改めよ 神の國の到来は近い」
「そも四顛倒にておまえらの認識は狂ってる」
とさう仰せになりましたものですから其処は矢張りと言いますべきか神や佛が間違いなのでは無く我我人間自身の認識が間違って居るのでせう。
で、問題なのは最終的に其の弐元論が破壊を生み出して仕舞うと云う力學が其処に強く働くであらう部分です。
かって其の破壊をこそ直観したわたくしは其の破壊を阻止せんが為に人間が「目覚める」為のブログをかうして展開して参りました。
さうして佛教もまたキリスト教もさらに西田哲學も全ては其の「目覚め」に直結する要素であり謂わば文明其れ自體と闘う為の武器即ち法具のやうなものなのだった。
其の破壊へと連なる弐元的相対認識との闘いの様、其の理性的闘争の様をひとつのノンフィクション文學として表したのが此処での内容の全てです。
さて其の所謂「クオリア」の問題ですが其れが實は大問題です。
かって私も其れを考えたことがありました。
例えば「色其のものの色合いを論理的には規定出来ない」と云うことがあります。
其れは私がかうして感じて居る靑や赤は他人が感じて居る靑や赤の真逆となって居る可能性もまたあると云うことです。
さらに以前も申しましたが、「右手を上げて鏡に映る自分の姿は何故か左手を上げて居る」などと云う不可思議な命題なども御座ります。
此れなども明らかに論理的には辻褄が合わぬこと即ち矛盾して居ることだ。
かうして矛盾して居るのにも関わらず其処にはしかと其れがある。
と云うことこそが世の實相です。
しかしながら、其の相対認識が生じさせる矛盾を放置して置けば其処では矛盾がさらに矛盾を生み結局破壊へと至らしめる訳だ。
2.意識のハード・プロブレム
心的現象⇔物理現象=霊肉弐元論=霊⇔肉體
此の対置された認識ですと互いとしての要素を他方へ還元し得ず結局其処には矛盾だけが残り其れが時間の経過と共に増大し其の関係性其れ自體が破壊されるに至る。
要するに「意識」の問題は物理的には還元出来ず且つ物理現象は心的現象に還元し得ないー論理化することが出来ないー。
即ち此の関係性に於いても其の弐元論自體に矛盾が生じ論理的には解決不能に陥る訳です。
論理的には解決不能であれば最終的には其れが矛盾を孕まざるを得ないと云うこととなる。
3.唯物論の限界
唯物論⇔唯心論=物質主義⇔精神論
其の唯物論とは相対認識に基づき人間の生の目的を物質的に定量化し幸福の目的を其れを充たすことに求めたものです。
所謂資本主義にせよまた共産主義にせよ其の唯物論の壱形態です。
また民主主義など近代社會を組み上げる政治的原理なども其の唯物論の壱形態だと考えられる。
即ち近代と云うシステム其のものが其の唯物的にこそ与えられたものなのだ。
其の近代システムの枠内では主に合理性こそが重視される訳です。
合理性即ち合論理性のことです。
合理性はされど「意識」即ち「心」の課題を置き去りにして進むことが多い。
例えば現在我が國が抱える問題としては労働環境が派遣化されたり壱方で投資をやり自己資金を稼げだのと云った悪しき政策にて日本人の心のあり方がズタズタに引き裂かれつつある事實などがある。
ですので其れを逆に合理的に問えば、其れはあくまで政府が國として國民の面倒を見ることを止めるつまりは合理化したからこそさうなったのです。
ですので逆に合理的に義務を果たして居ないのは國民では無く政府であり國であり國會議員なのです。
いやそんな政治のことを語り出すと大事な哲學のお話が台無しとなりませうからもう止めて置きませう。
兎に角さうして理詰めでもって世の中の全てを回そうとすると社會システム其のものに矛盾が生じ挙句に國が壊れて行くことにもなりかねません。
さて、其の「實在性」に関してですが、
心的現象⇔物理現象より、
唯物論=物理現象→心的現象
であり、また、
唯心論=心的現象→物理現象
との理解がテキストには出て居りますが、
私が考えるところでの「實在性」とはあくまで現象界には備わらないものです。
と申しますか、
唯物論⇔唯心論
と云う区別ー限定ー自體が相対分離されたものであると云うことで従って其れはむしろ「實在性」を欠く妄執的認識により引き起こされて居る虚妄の世界であり価値観とならざるを得ない。
よって認識としてはあくまで「主客未分化」としての「純粋経験」の方をより重視せねばなりません。
其の「純粋経験」とは或は直観的解釈、直観的認識とも密接に結び付いて居ることでせう。
佛法に於ける相対分別の抹消ー分別智の抹消ーに於ける知のあり方、認識のあり方こそが其の直観的認識なのであり其れが所謂般若智のことなのだと思われる。
佛法は左様に人間の認識の形式其れ自體をまずは否定的に扱います。
故に其の唯物的思考に洗脳されて来た人間に対し其れとの相性はほぼ最悪でもありませう。
まさに其処こそが佛法が現代の日本人に対し精神的に浸透して行かない理由ともなって居る。
要するにお釈迦様はまさに合理的な思考をなされた方でしたが分別智の抹消と云うことを説かれたことでまさに近代の思考システム其れ自體を結果的に否定された訳だ。
其の否定に対し近代教育を受けた合理化人間達にはとても我慢がならないと云うことなのだと思う。
個人的には其の合理化は社會に対してはむしろ必要不可欠なことなのだと思う。
従って宗教もまた社會を形成する要素である手前宗教の合理化もまた今後は図られて然るべきなのではあるまいか。
其の西田 幾多郎の云う「純粋経験」の世界とは言わば合理性を選び取る以前での認識のあり方であり佛法で云うところでの無分別智の世界、相対分別以前の所謂「あるがまま」に保たれた侭での認識世界のことかと思われる。
其れであるが故に西田哲學はむしろ思い切り世俗の認識を離れて行きます。
また其の無分別智の構築こそが眞我の形成と連なるものでつまりは其れが「目覚め」への契機となるものでせう。