信仰2
ー諸宗教は、宗教的な「実在」に対する異なる仕方での応答の形であるとみなされ、それぞれの宗教の信者がその信仰の枠組みの中において救済にあずかっているのだとされる。諸宗教は対立的な関係ではなく、相互補完的なものであるとみなされる。ー宗教多元主義 - Wikipediaより
ー宗教多元主義はキリスト教、イスラーム、ユダヤ教、仏教、ヒンドゥー教、その他の諸宗教では一般的な思想ではなかった。これらの宗教では互いに自己を絶対化し、無価値なものと決め付ける(宗教的排他主義)か、あくまでも自己の宗教の枠内において他宗教の価値を認める(宗教的包括主義)のが通常だった。
しかし近現代に入り世界の一体化が進む中で、宗教間対話や他宗教に対する理解が進み、宗教の多元性を唱える動きがさまざまな宗教の内部で現れた。ー宗教多元主義 - Wikipediaより
私の宗教への理解とは至極打算的なもので、元より其れは近代文明の抽象性による破壊に対する自衛としての精神の発露であることに他ならない。
其の破壊が進むのであれば他方に是非其れを食い止める為の精神の力こそが是非必要だとさう思うのである。
要するに其れは必要不可欠なものとしての信仰であり宗教的見地である。
其れでもって次第次第に私の宗教に対する考え方が其の「宗教多元主義」的な部分へ傾きつつあることもまた確かなことである。
但し先にも述べて居るが宗教はなるべく「現世利益」からは遠ざかって居るものの方が良い。
何故なら「現世利益」を願いまた其れを叶えて行く宗教は基本的に救済宗教としては成立し得ない虞が大きくあるからだ。
逆に申せば其の「現世利益」を最大限に求めて行くのが近現代と云う文明世界を貫く価値の基本構造である。
されど結局其れが上手くは行って居ない。
何故なら「現世利益」を限りなく求める社會其れ自體が最終的には破壊を生み出すことしか出来ぬからなのだ。
故にこそ宗教は其処で其の「現世利益」の求めに対する抑制であり批判でこそあるべきでまさに其こそが正教としての宗教の役割なのであらう。
其れも事實としてキリスト教の聖職者や佛教の僧侶の方々の発言などにさうした文明の放埓への戒めや懐疑が含まれて居たりするもので個人的にまさに其れは正教による文明批判だとさう捉えて来て居る。
正教とはさうして「現世利益」=欲望を追い求めて止まぬ価値観に対し歯止めをかけることが出来るもののことを言う。
逆に文明に迎合してむしろ壱緒になり「現世利益」を追及し諸を破壊するのでは其れではあくまで邪教であらう。
其の「破壊」と云うことに関しては我我現代人はまさに其の「破壊」者である。
だが其の自覚を持つ者は所謂壱握りの感度の優れた人間に限られて居やう。
其の「破壊」こそが罪であり煩悩の深さ其のものであることにかうしてほとんどの人間は気付くことが出来ない。
さうしてとどのつまりは、
「赤信号 みんなで渡れば怖く無い」
とのことである。
だが其処をあえて気付いて行くのが感度の良さでありまた宗教的な立場だと云うことだらう。
ー初期に作成された経典において、ゴータマ・シッダッタの悟りの内容が異なった伝わり方をしていて、はっきりと定まっていないのは、ゴータマ自身が自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁に応じ、相手に応じ異なった説き方をしたためであるとされている。[20] 歴史的人物としてのゴータマは、臨終に際しても仏教というものを説かなかったとされている。ー初期仏教 - Wikipediaより
【対機説法とは】相手に合わせて説き方を変える – 禅僧随想録 (kosonji.com)
其のお釈迦様の教説とは所謂対機説法であり其れこそ知能レヴェルや心理的な判断能力に応じて法を説かれたのであるから實は固定的な教義なのでは無かった。
従って佛法が正しい宗教だと云う其の想念すら持って居られなんだのやもしれない。
眞理とはむしろさうした価値観を語ることなのでありつまりは~教が正しいだとか~宗が正しいであるとかさうした分別概念をむしろ滅した精神性の部分にこそ生ずる認識のことだ。
従ってネット上に散見される正教、邪教の区別に関する考察で其の眞理に少なくとも近づいて居ることだらう意見はまず見出されないものだ。
何故ならネットとは所詮「論理構築」の場なのであり其処をあえて脱論理の領域にまで拡げて考えて行く場など普通はあり得ない。
たとえば禅宗の御坊様方などで或は其の解脱に近い域に達せられた方であれ其の境地より何かを言おうとすれば其れは言葉を用いねばならず従って所謂「相対分別」としての言語世界からは逃れられぬ訳だ。
其のやうに眞理とはまず言葉にて規定され得ぬ世界のことであることを我我求道者はまず認識して置かねばならない。
だから何の教祖様であるとか何の権威であるとかまたお布施の額が積もりに積もり大金だとかそんなものとはまるで別物の価値観こそが眞理の世界である。
さて眞理とは脱論理の世界で感得されることなので論理的には御勉強する必要は無いのであらうか?
いや其れがむしろ頭の良い奴程死ぬる程御勉強しなければならないのである。
まずは君自身だけが救いの対象なのだ。
だからまさに其れが自力救済である。
自力救済するからには逆に強い自我が必要だらう。
もしや其れが所謂「アートマン」なのですか?
要するにまさに其れが眞我である。
非我⇔眞我
其の非我による認識は曇って居り此の世の實相をまるで見られずに居る。
対して眞我による認識は晴れて明らかであり此の世の實相をしかと見詰めて居る。
但し眞我を形成し心眼を得たにせよ其れ自體で解脱に至ると云うことではおそらくは無い。
然し其れは人間の知性としてのほぼ最終段階と言えるのだらう。
つまりは其処が知性としての認識の限界なのだ。
其の限界まで行く為にまさに死ぬる気にて勉強せよとさうわたくしは述べて居るのだ。
じゃあお前は其処まで勉強したのか?
まあ三十年程をかけてユックリとやりましたのですが其れもどうもいい加減だったなと最近さう反省して居るところです。
ですがすでにわたくしの認識は世間とは別物です。
其の認識の違いこそが価値観の違いであり最終的には其れが意思決定や行動の違いとして現象化する訳だ。
では「~教は正しい、~宗が正教だ。」と云う宗教的見地は誤りなのですか?
誤りである可能性はおそらく高いことでせう。
じゃあ壱體何が正しいのですか?
結局佛陀だけが正しいのか?
ですから、其の、
正⇔邪、
は概念分別ですから其処に囚われて居ること其れ自體が謂わば迷いの境涯なのだ。
其の概念的に規定される二元分裂を離れた境地を涅槃であり佛と云うのですから元々其れは人間技ではありません。
まさに其れは色を見てるのに色を見るな、またかうして触って居るのに触るなと言って居るのですからまるで人間技ではありません。
すると禅宗の御坊様方はまさにそんな修行の為に此のクソ寒い中を修行に勤しんで居られるのですか?
まあさうなのでせう。
其れも寺を守る為にさうして必死に修行に励まれて居ることでせう。
すると禅宗の御坊様方は皆自力救済を目指されて居るのですね?
逆に浄土教の御坊様方で自力救済しやうとされて居る方などは居ませんよね?
まあ其れとキリスト教の方々もまさか自力救済が可能だとは思って居ませんね。
では其の自力救済を目的とする釈迦の佛法とは壱體何だ?
まあ異端ですね。
自力救済⇔他力救済
ですが、此の関係性其れ自體が相剋すると同時に相即する関係にこそあります。
ですのでまさに其れが所謂「絶対矛盾的自己同壱」の関係性にこそ還元され得ませう。
即ちあくまで論理的には自力救済と他力救済は無関係なのでは無い。
むしろ相互に補完的に寄り添い逆に自らを規定し合って居る要素です。
従ってあくまで論理的にはどちらかがどちらかを否定し其れでもって正教と為すやうなものなのでは無い。
尚わたくしが参拾年を費やし概念的に修行を行った挙句に得ましたものがまさに此の道理でした。
其処を平たく申せば「矛盾」しつつ「矛盾」を超越した實存としての論理が其処には確かに横たわって居ると云うことです。
其れは所謂「即非の論理」ですね?
所謂「即非の論理」です。
ですが此の「即非の論理」は解脱を引き寄せるものではあれ其れ自體にて解脱を可能とするものではありません。
なんですが、我我現代人の生の目的とは元より「解脱」する為のものではありません。
其れもあくまで在家の修行者としては此の辺りまで行けばむしろ最上等の部類です。
多分佛法の早稲田大學位迄は行けたんではないでせうか?
すると其の「絶対矛盾的自己同壱」の原理により、
佛法⇔キリスト教
の二元対立も超越して行けるとさう申されるのですか?
まあ多分は。
だから其の辺りまで来ますと次第に「宗教多元主義」化しても参ります。
個人的なことを申せば我の考え方は元々弐元論でした。
其れも印度哲學的な意味での弐元論であることを『インド哲学十講』と云う本を昨年読み込んだ時にようやく気付いた訳です。
私の考えはむしろ本から學ぶことで得るやうなものでは無く本を読むことでむしろ同じ考えを其処に認め安心する、と云う形でのものがほとんどです。
私にはさうして自力にて考えて行く人文的な力があるのです。
ですが其れを数式化などすることは無論のこと出来ない。
何せ数学がまるで出来ませんので其れとはまた違う認識をして居る訳だ。
其の弐元論は然しキリスト教のやうな壱神教にもまた取り入れられて居ます。
善ー神ー⇔悪ー👿ー
の対立軸などは明らかに弐元論的なものです。
壱神教⇔弐元論
壱神教⇔多神教
と云う構造もまた事實上考えられます。
さうして共に要素が相剋し且つ相即する関係にこそある。
尚わたくしが生涯を費やし得た自分なりの眞理とはまさに其の相剋し且つ相即する関係性こそが現象の本質であると云うことだ。
つまりはかうして哲學的で且つ宗教的な人間としてのわたくしと云う個が導いたところでの其れが結論です。
またお釈迦様も其れを述べられて居る訳では無いのです。
お釈迦様の場合は両極否定の中道の論理ですのでまた其れはもっと違ってより高度な考え方を取られて居ます。
要するにより本気にて解脱を目指す認識のあり方なのでせう。
ですが私は其れが特に現代人に取り無理な認識なのだと思う。
要するに出来ない訳です。
さて其の壱と多が即応すると云う思想は華厳経などにも見られる考え方です。
勿論社會と個もまた即応すると云うか相剋し且つ相即する関係性の上にある訳だ。
なる程、其の壱とは所謂無分別智の象徴なのですか。
無分別智⇔分別智
とのことです。
ですが互いに無関係な訳では無い。
論理的に申せば其の無分別智とは所謂絶対智では無い訳です。
何故ならかうしてあくまで分離されて居ますので。
其の分離されたものが現象であり分離されないものが謂わば物自體であり實在ですが其の分離された認識こそがまさに我我實存です。
概念的理解は所詮分別智の範疇に止まりますが其れもあくまで無分別智と無関係なのでは無い。
左様に関係的規定ー縁起関係ーが現象界での構成物ですので単独の要素で壱元化することは常にならない。
故に、
善⇔悪であり、
美⇔醜であり、
光⇔闇です。
其の分別的概念を力技ーむしろ放棄の技か?ーにて無分別智化して行くのが釈迦の論理ー自力救済ーなのでせう。
ですが神やまた佛に救って頂くのであれば其の無分別智化は要らず其れを信じれば良いー他力救済ーのです。
無分別智化すると云うことはしかしながら「人間では無くなる」と云うことです。
ですので其れは厳密にはお釈迦様以外には出来ないことでした。
尤も経典などには弟子が悟ったなどとも屡されて居りますが人間は普通人間では無くなることには耐え切れません。
だから佛に救って頂くと云う大乗の思想がまた芽生えても来た訳だ。
原始佛教⇔大乗佛教
小乗ー上座部ー佛教⇔大乗佛教
私は此の関係性もまた相剋し且つ相即するものであるとさう見て来て居る。
故に其れは互いを貶しあったりして居るべきものでは元より無い。
其れは壱つの眞理の弐元として現れた相なのだと見るべきなのやもしれない。
さすればまずは大乗佛法を認められるやうになることでせう。
事實として私は積年に亘る不信の末に大乗佛法を認められるやうになって行った。
相手としての要素を否定せず、むしろ赦し愛する。
まるでキリスト教でのやうな話ですが實際に其のやうになって行ったことでした。