繪画4
さて本日は素晴らしい光の祝祭の日だった。
其の溢れる光の中で様々なモノを其れに当て眺めて居りますとまるでかって何度も眺めた萬華鏡の如くに其れ等は輝きかつ生き返るのです。
生き返る?
するとそも其れ等は死んで居る?
さう眞の意味ではさうだ。
日頃はさうして死んでは居るが其処に光が当てられ認識がクリアーになると其処に甦るのだ。
其れは人間もまたさうなのか?
いや人間だけは罪深いので生きて居る限り死に近づくことなどは出来ぬ。
人間はさうして欲深く且つ罪業にまみれた特殊な生命だ。
さうしてまさに其の罪業に対しおしなべてが美しく光り輝く。
かうして今わたくしは美と戯れ其の光の回廊を渡る。
また其のことはひとつの特権なのだ。
其の美と戯れることこそが観念を悩むことに対する何よりの御褒美なのだからこそ。
イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜 ― モネ、ルノワール、ゴッホ、ゴーガン|三菱一号館美術館(東京・丸の内) (mimt.jp)
さてもこんな素晴らしい催しが深まる秋の今東京にて開かれて居るやうです。
本展の見どころ|イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜 ― モネ、ルノワール、ゴッホ、ゴーガン|三菱一号館美術館(東京・丸の内) (mimt.jp)
此処のチャプター02のところに火を焚き其の周りで踊る南國の人々の様子が描かれた繪画が混ざって居ます。
即ち其れがかのゴーガンの手による『ウパ ウパー炎への祈りー1891』と云う作品です。
イスラエル博物館所蔵とのことですがかってわたくしは此の繪画を此処名古屋市内で見たことがある。
其れもおそらくは巡回展か何かであったのやもしれません。
然し其れを観たのはわたくしがまだ中学生の頃だったやうに思う。
で、以降は此の火の周りに集う現地人の姿が瞼の裏に焼き付いて仕舞いどうしても忘れられなくなったものでした。
どだい其の火と云うもの其れ自體が人間にとり何か根源的な意味合いを多分に持つものです。
さうして燃え盛る火又は炎は人間にとり常に祈りの対象であるのやもしれません。
其れと申しますのも火又は炎は人間にとり常に超越的な現象でもまたあるからなのだ。
謂わば其の火又は炎は生命現象を超越したものでせう。
何故なら火又は炎の権化としての太陽や諸の恒★は生命其れ自體ではあり得ない。
元より其れは命をも超越するであらう物理的現象です。
要するに其のナマモノである生命の側よりもむしろ永遠の側の方により近いものでせう。
つまるところさうして火又は炎其れ自體が滅ぶことなどは無い。
対してナマモノである生命は其の限定されし現象はやがて滅んで行かざるを得ない。
其の哀しみに就きさうして人は祈るのではなからうか。
『ウパ ウパー炎への祈りー1891』は私に取りそんな重要な作品であった。
けれども其の時以来表立っては忘れて仕舞って居た。
但し時折記憶の片隅に其れが見出されることなどがあった。
ハッキリした形で再び其れにまみえたのは四十代以降にゴーガンの繪画に強く惹き付けられてからのことだった。
尚炎は色であり同時に色では無いやうなところさえもが御座ります。
また宇宙の闇なども色であり同時に色では無いやうな風にもわたくしには感ぜられる。
共にそんな具象性とも抽象性ともつかぬ現象であり其の意味では自然もまた観念も追いつかない部分が其処にはあることでせう。
尤も其んなキャンプファイアーならばカブスカウトの時分に屡見詰めて来ても居ます。
キャンプファイアーが我我人間の心に取り心地良く映ずるのと同じくして光の饗宴は我我をして根源的な体験へと誘う。
さて此の世に光は満ちて居ます。
左様に光の満てる場に我我は何故か住して来て居る。
まずは其の事實こそが奇跡的なことだと。
さう感じられるのが藝術の眼差しであり其れはひとつの超越した目のことだ。
ですが如何せん此の世はさうした尺度では回らぬものだ。
さうして世間を回して居るのは其の逆のむしろ何か醜い認識でのものだ。
此の世にはそんな美しさと醜さとが併存して居る。
其の美醜に分かれし認識が光の乱舞のさ中にこそ現れて居る。
所詮藝術とは其の光の乱舞の様を美化するものだらう。
あらゆるものがさうして美しいと思われるに足るものであるのだと…。
だが其の美化こそがわたくしの心を酔わせ魂を震わせるのです。
わたくしはさうして随分と美しいものに此れ迄心捉われて来た。
さても其れはどんなに長い時であり道のりであったことか。
ですが美を得ようとすればする程にまた其の色彩や輝きを得やうとすればする程にむしろ其れは遠ざかって行くことが屡である。
でも我我人は諦めずに其れを見詰め其れに手を伸ばし掴み取ることを決して諦めてはならない。
何故なら其処には常に美があります。
其れがたとえ影絵のやうなものであるにせよ其れはひとつの現象としての美なのだ。
其の影絵の固定こそが藝術と云う営為であり其処に於いてむしろ初めて色彩や輝きを自ら生むものだ。
故に其の色彩や輝きは具象と抽象、自然と観念の中間に位置するものだ。
私其のものでは無い火又は炎とまた同時に自然其のものでは無い火又は炎と戯れる場こそが繪画であり音樂でありさうして詩の世界其のものです。
ところで其の『ウパ ウパー炎への祈りー1891』は闇を描くまさに異彩を放つ繪画なのでもまたある。
まさに其の闇こそが生命が共有する根源的で原初的な世界なのやもしれません。
さて壱般に都會の生活を離れれば離れる程に其の闇の濃さがかうして實感され身に迫って来る。
ですが夜になってもこんな光源だらけの都會ではむしろ其の闇の豊かさや饒舌さを体験することが出来ない。
都會の生活とは結局さうした自然に於ける闇の濃さや超越的なものを極力抑えて行く其の人為的な限定の方向性のことなのだらう。
其れを限定するのだからこそむしろ人間其れ自身が拡張して行かねばならぬ訳だ。
ですが百参拾年前にゴーガンはまず其の拡張主義に嫌気がさしかうして南國での火を囲む習慣ー儀礼ーの様を描いた訳だ。
すると此れはまずは何よりも文明に対する批判の繪なのか?
其の闇の濃さを失いつつある文明への批判を込めた作品であると同時に「美とは何か?」と云う普遍的な問いを投げかけた繪画なのでもまたあらう。
さても「美とは何か」?
其れは結局光の乱舞のことだ。
されど其の光の乱舞を支えるのは闇の濃さであり人々の祈りの切實さのことであらう。
其の切實な「祈り」の歌を彼ゴーガンは其処に永遠に固着させた訳だ。
ではアナタの其の祈りもまた永遠に固着させるべきものなので?
確かに其れはさうなんですが、其の永遠が藝術の中に埋没して居ることをこそ述べたいだけで其の闇の濃さであり人々の祈りの切實さを壱行に託せと言われましても其れはなかなか出来ることでは無い。
だから必然的に我は其の鑑賞者であるより他は無い。
むしろ鑑賞者であることこそが今我が望むところでのものなのだ。
かうしてゴーガンの作品には人間に対するより原初的な問いが込められて居るやうに思われる。
其れはかのゴッホの絵画の中にはついぞ見受けられない所謂汎神論的なテーマなのでもまたあらう。