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アニミズムより見る現代人の心の汚れとは?ー滅びの美學としてのdelicacyとは?ー

アニミズムより見る現代人の心の汚れとは?ー滅びの美學としてのdelicacyとは?ー

 

 

 

 

【神様が味方する人の生き方】 人生が幸せになる、空海の本当の教え「色即是空」とは? (msn.com)

 

其の御釈迦様の教えにせよまた其れ以降の所謂大乗教説としての「空」の教えであるにせよまさに其の此の世の實體性の無さを本質的に論議して行く訳だ。

つまりは「あくまで本質的には此の世の諸価値が虚的なものであること」を其れ等の教えは述べて居るのである。

 

またイエス様の方でも「あくまで本質的には此の世の諸価値が虚的なものであること」を前提となし其のまさに罪深い認識を神へと丸投げすることにより其の虚妄なる認識、迷いの認識を正して行かんとされる。

 

即ち佛教とは認識の自己救済を図らんとしたものでありキリスト教とは認識の他力救済を図らんとしたものである。

 

だが現存在は普通🐵みたいなもんなのでまず其処まで考えたりしない。

折角脳のニュータイプであり其れも場合により偏差値が70以上、IQが140以上もあるのに其の實はなんも考えて居ない。

 

だが宗教詩人に限れば此れ迄兎に角考え続けて來た。

 

左様に現存在は常に偏差値が低過ぎる!

またIQも低過ぎる!

 

 

さても信長詩人さん、また人類に對する「罵倒」が始まりましたね。

アノ光秀を足蹴にするが如くにさうして人類のみんなもまた足蹴にするのですか。

 

其の通りです。

でもイザ君の相手をすればまたすぐに漫才になってまうので其れは是非止めて置きます。

 

 

「あくまで本質的には此の世の諸価値が虚的なものであること」

人間は動物の中でも特別のやうに見えて實は此の世で「思うやうに生きる場」さえもが与えられては居ない。

 

むしろ此の世での「思うやうに生きる場」は消去法でしか達成されない。

そんな因果な生き物であり認識であるのが人間其のものだと云うこととなります。

 

 

「現象はもともとニュートラルであり、ゼロであり、色がついていない。それなのに、私たちの心が、『遠い、近い』『重い、軽い』『つらい、楽しい』『悲しい、嬉しい』といった色をつけているにすぎない」【神様が味方する人の生き方】 人生が幸せになる、空海の本当の教え「色即是空」とは? (msn.com)より

 

其の現象界其のものが壱つの「虚妄分別」の場である。

「虚妄分別」とは迷った認識の意でありつまりは間違った認識の意である。

 

其の現象界には動植物や鉱物なども含まれるが動植物と云う生命現象に限ればとりあえずは此の失樂としての場に落とされて居るのである。

ところが彼等には現存在の如き「顕在化した分別=認識」が無い故に現存在のやうに變な価値構築をして行く力には常に欠けて居る。

 

故にこと人間に對してはより素朴で且つ正しい認識をして居るとさう捉えることなども出來る。

またつまりは其のことが近代的認識とは対極にあるアニミズム的な世界観のことでせう。

 

では近代的認識=現代社會が奉じる認識であり世界観とは何かと問えば其れはむしろ「虚妄分別」の徹底です。

「虚妄分別」の徹底はしかしながら「反キリスト」的な状況を必然として生み出す。

 

即ち「神」を殺し妄想の如き進歩主義に身を浸しもう何処までも「虚妄分別」としての欲望領域を推し進めて行く。

 

「虚妄分別」の徹底化=「虚妄分別」の全體主義化

 

 

「すべての現象が空(性格付けがされていないニュートラルなもの)であり、私たちの世界は『空の海』である」【神様が味方する人の生き方】 人生が幸せになる、空海の本当の教え「色即是空」とは? (msn.com)より

 

確かにさうだとすれば凄い。

 

ーすべてが「空」の世界で、評価論評をしているのは、「私」です。色のついていない現象を指して、「これは気に入った、これは気に入らない」と解釈する自分がいるだけです。

 ということは、「空」である現象を「嬉しい、楽しい、幸せ」ととらえれば、過去のことも、今日以降のことも、すべて幸せに感じるのではないでしょうか。

【神様が味方する人の生き方】 人生が幸せになる、空海の本当の教え「色即是空」とは? (msn.com)より

 

其の現存在の生の空虚な様ー空虚な認識の様ーをかって御釈迦様は止めよと述べられイエス様は止めずに神へ丸投げせよとさう述べられました。

其のどちらが難易度が高いかと申せば勿論御釈迦様の方がより難度の高い認識上の難関でせう。

 

だから佛法は次第に他力救済化、即ち壱神教化して行く訳だ。

でも其の壱神教とアニミズムはまた別物です。

 

アニミズムでは自然こそがまさに神ですので最終的には「自然と仲良く生きる人間となりませう」とのことであり別に解脱や天國へ行かうとする訳では無くつまりは自然の恵みに感謝しつつ生きていれば其れで良いのです。

 

 

ですが救済宗教は其れとはまた違い要するに「人間の業や罪」に関するデタッチメントとしての心の過程をこそ標榜するものだ。

でもって文明と云うのはそも「破壊」であり「搾取」を前提として成立する価値なのでそんなアニミズム的な価値とは元來乖離して行かざるを得ぬ壱種の「業や罪其のものとしての歴史過程」のことだ。

 

其の文明の文明による「業や罪の歴史過程」を清算するとのこと、つまりは贖罪せんが為に佛教やキリスト教はかって生まれたのだった。

でも其の弟子がめいめいに勝手な教義を述べたお蔭で佛教もキリスト教も共にまるで訳の分からんものになり申した。

 

其の訳の分からん救済宗教は要らんのでむしろアニミズムに戻った方が良くはないか?

とのことを最近思わんでもないのであります。

 

 

大乗佛法はズバリ言ってキリスト教化した佛法のことだ。

故に大乗佛法は「幸せ」であることにも必要以上に拘ったりもする。

 

だが「幸せ」であることは外部の超越的存在に価値認識を丸投げしませんとそも成立致しません。

つまるところ自己救済の段階に於いて「幸せ」であることはそもあり得ないのであります。

 

左様に御釈迦様は別に「幸せ」であることを目指されたのでは無くむしろ其の「幸せ」を求める感情を滅することで所謂「常樂」の境地を實現されやうとなされたのです。

ですがイエス様に限ればむしろ「神と共に生き幸せになる」ことこそが重要な其の宗教的目的となる。

 

ではそも何が正しいの?

其れは御釈迦様か又はイエス様の直の教えを信じ生きることでせう。

 

他のものはむしろ信じない方が良い。

 

でも君は禅宗を信じて居るだらう?

いや別に信じてなどは居ない。

 

第壱あんなエロ坊主の壱休宗純など信じられるものですか。

 

禅僧を信じる位なら自然と共に失樂して滅びます。

もしや其れは「滅びの美學」ですか?

 

さう「滅びの美學」であり信長公であり秀吉公です。

では信長公や秀吉公の如くに汝は滅びて行くのかい?

 

いや其の滅びる丁度参拾分前に三河の松平郷へと逃げる。

すると三河の松平郷へと逃げるTOYOTA🚙をもしやお持ちなので?

 

いえ中國製のボロ🚲しかありません。

其の中國製のボロ🚲で参日ほどかけ三河の松平郷へと逃げる積もりである。

 

 

虚妄の分別とは人間の大脳新皮質が創り出す妄想的欲望のことだ。

大脳新皮質がデカい人間は考えることもまたさうして至ってデカい。

 

だが其の考えがデカいが故に其れは妄想なんだ。

理性とは其の考えが妄想であるに過ぎぬことを見破る精神の力のことである。

 

なる程、するとアナタはもしや其れを全て見抜かれたので?

残念ながらかうして見抜いて仕舞った。

 

 

サア困ったぞ、おおまるで虚空へと独り放り込まれたかのやうだ。

嗚呼もはや誰も寄り付かぬぞ、もはや誰も此の境地を理解することなど出來ん。

 

さうして宇宙へ放り投げられたアンタのことなんぞはむしろどうでも宜しい。

たまたまソコを通りかかった👽にでも助けて貰うのだな!

 

でも其の文明の文明による「業や罪の歴史過程」は今後どうなるのですか?

然り。

 

然り其こそが大問題なり。

…色即是空

 

…空即是色。

 

大乗教説の論理的展開の壱つにとある概念に救われると云う部分があるのではないかと思われる。

「とある概念」とは例えば阿弥陀佛でありまた大日如來であり久遠實成の佛である。

 

構造的に其れは「神」でありしかも壱神教としての神である。

故に其の「空」なる概念は其れ等の「神」と矛盾して居る。

 

大乗教説は左様にー論理的にー矛盾的な展開を孕む教説である。

 

矛盾的な展開=♀的な論理矛盾=子宮思考

 

つまるところ大乗教説は母系的な包む教説である。

 

では否定されたのですか、其れとも認められたのか?

…認めざるを得ぬ。

 

どだい我我人間は子宮から出て來るのである。

何時の間にかさうして母ちゃんの股の間よりポコッと出て來た。

 

キリスト教はまた違い必ずしも母系的な教説では無いのであらう。

では母ちゃんの股の間や子宮が壱番矛盾に満ちた現象なのですね?

 

其れもまた然り。

 

 

「とある概念」とはまた「佛性」である。

「佛性」は何にでもあるとさう考えるのがまた大乗の教説であらう。

 

でもそんなものはほぼアニミズムである。

そんなアニミズムと解脱思想がくっついたのが大乗教説なのでもまたある。

 

其のアニミズムの系列はキリスト教にはありませんので?

いいえあります、まさに其の御人こそがアッシジのフランチェスコ - Wikipediaです。

 

ーフランチェスコは徐々に人々からの崇敬を集めるようになっていった。中世に生きた多くの聖人と同様に彼にまつわる奇跡譚が語られるようになる[76]。有名なものとして、鳥に向かって説教を行った話や[77]、狼を説得して、噛み付くのはやめるという同意をとりつけたなどの話がある[78]。この他にフランチェスコは、うさぎ[79]、魚[80]、水鳥[81]、蝉[82]、コウロギ[83]を相手に話をしたと伝えられている。

 

フランチェスコが求めたものは異端を帰順させたり、いかがわしい聖職者を断罪することではなく、ただ神を讃美し、小鳥やオオカミなどをふくむ神のあらゆる被造物を自分の兄弟姉妹のように愛し、福音を伝え、単純と謙虚の道を歩むことであった[125]。フランチェスコは、ウサギセミキジハト、ロバ、オオカミに話しかけて心がよく通じ合ったといわれる[125]に説教を試み、オオカミを回心させた伝説が知られ、とくに小鳥に説教した話は有名である[注釈 1][123]。『聖フランチェスコの小さい花』にも、説教を聞く者がいないときフランチェスコは小鳥を相手に説教したという逸話が収載されており、同様の伝承は数多く伝えられている[126][注釈 2]

フランチェスコの以上のような事績から、1978年から2005年まで教皇位にあったヨハネ・パウロ2世は、1980年、フランチェスコを「自然環境保護の聖人」に指定した[127]

フランチェスコにとっては、人類すべてのみならず、天地の森羅万象ことごとく、唯一神たる天の父とマリアを母とする兄弟姉妹なのであった[124]。こうした「万物兄弟の思想」はフランチェスコとその修道会を貫くものであり、フランシスコ会の修道士が「フライアー」friar と称される由縁である[124][注釈 3]。ーアッシジのフランチェスコ - Wikipediaより

 

 

彼フランチェスコこそはそんな聖人である。

聖人は生まれついて心根が清くさうして自然界とは近しい心理的距離を結んで居る。

 

また其のことは洋の東西を問わぬことだ。

 

 

例えば西行 - Wikipedia法師は明らかに自然の愛好者であるし良寛 - Wikipedia和尚は子供に好かれる優しい御坊様だった。

さうして動植物や子等と心が通じ合う人間は心根が清いとさう言い得ることだらう。

 

 

されど世の無常や矛盾を自分のこととして感じぬ限りそんな心根の清さは得られはしない。

「滅びの美學」とはまさに其の無常や矛盾をまさに自分のこととして感じることである。

 

即ち何処の宗教団體の教説が正しいだのコレが正教だのアレが邪教だのさうしたことでは無くまさしく其の無常や矛盾をまさに自分のこととして感じることである。

 

 

 

世の中を思へばなべて散る花のわが身をさてもいづちかもせん   西行

 

もろともに我をも具して散りね花うき世をいとふ心ある身ぞ   西行

 

 

尚自分は歌人としての西行の感性の壱ファンです。

かうして古の🗾の詩人西行の歌には何より「無常観」が色濃く漂って居る。

 

其の無常観と云うものは近代的な「イケイケドンドン」主義とはむしろ対極に位置するものだ。

近代的な「イケイケドンドン」主義は其の種の複雑な心の機微の部分をむしろ力にて無理やりに押し倒して行くが如きものだ。

 

よって其の「イケイケドンドン」主義とは聖フランチェスコの清貧の心や西行の無常に刺し貫かれた自然観とはまるで無関係なものです。

つまりは其の「デリカシーに欠ける」文明の様がかうして自然を根こそぎに破壊し無節操にデカいビルやデカい競技場やさらにデカい権威や権勢や権力を形作ることに繋がるのである。

 

デリカシー?

そんな屁みたいな女女しいもんなどまるで要らん。

 

俺等現代人に必要なものとは其の「イケイケドンドン」主義だけよ。

 

ほれ見よ、結局おみゃーも洗脳されとる。

おみゃーはdelicacyのにゃあ肥溜めの泡のやうなもんだわや。

 

 

嗚呼元元デリケイトな我が心が其のおぞましき現代文明の価値観に汚される!

惡い奴らめ、おいコノ惡人等め。

 

まーおみゃーらは近く👽の方方にやっつけられやう。

 

其の無常観や滅びの美學と云うものは壱つのdelicacyから形成されるであらう「消え去る」ことへの親和力のことだ。

逆を申せば現代文明は「消え去る」ことへの親和力をすでに失いつつある。

 

アニミズムの世界観ではむしろ当たり前に存して居たであらう其の自然との交歓力をすでに奴等は永遠に失った。

であるからこその自然破壊の様であり地球の危機の様なのだ。

 

 

つまるところ物の質や量では無く根本での心のあり方なのだ。

其のココロのあり方が惡ければむしろずっとさうなって行かざるを得ぬことだらう。

 

其のやうに我我現代人は虚構の価値を生かされー洗脳されーデカいビルの谷間に野垂れ死ぬ。

でもわたくしはそんなんはイヤですのでかうしてアニミズムや藝術を味方に付け奴等に抗いつつかうして生きて行く。

 

 

さて秀吉公の生涯を描く大河ドラマの「おんな太閤記」をすでに視終わりました。

其の「おんな太閤記」も後半部はまさに壮絶であり且つ心が休まらぬ展開ともなり前半部のやうに樂には視られなんだ。

 

秀吉公の天下壱統はさうして壱代限りで終わり其のことはどう見ても「滅びの美學」としての實存的展開だったのだと言える。

最終的に北の政所寧寧はまた次の世にも藤吉郎と連れ添い中村で百姓がしたいとさう秀吉公の霊に對し述べる。

 

子宮の幸せとはまさに其のやうなものであり其れはデカい権威や権勢や権力とはまるで無関係なものでせう。

ならば何でまた👩共は夫や子に甲斐性ばかりを求めるのだらう?

 

要するに「現世利益欲」が其処には強く働く訳だ。

女性とは其のやうなまさに矛盾的生物です。

 

近現代文明がかうしてやり過ぎて來たのも畢竟其の「パンドーラーの欲」のやうなものが科学者だの政治家だのの尻を叩き続け頑張らせたからである。

其の女の性と云うか業と云うかバカっぽさ、愚かさの部分のことが自分には何故か分かる。

 

 

ひょっとして自分はアノマツコのやうなオカマのヲタクなのか?

 

マツコの知らない世界 新技術満載!文房具ペン&究極ノート▽初夏が見頃!絶景植物園 | TBSテレビ

 

昨夜たまたま此れを視ましたが何と「万年筆」と「植物園」の出て來るまさに自分に取り究極的なマツコの番組でした。

「植物園」の方は大層為になり其処にはわたくしのホームグラウンドである「東山植物園」などもまた弐度程出て参りました。

 

但しマツコの万年筆の使い方は✖です。

✖ですが彼は字がなかなか上手い。

 

いずれにせよ自分に取り良い番組が視られ昨夜は幸せな気分でした。

ですが相変わらず文明はかうして混迷を続け何かしら分からぬ価値を目指しつつ進んで行く。

 

其の様や「価値倒錯」としての世界観其のものであることだらう。

出来得れば何処ぞの別荘地から其の様をせせら笑いながら観て居たいものだ。