目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

自然とは何か?ー壱 自然とは非合理領域をも内包する合理領域のことであるー

自然とは何か?ー壱 自然とは非合理領域をも内包する合理領域のことであるー

 

 

 

ひろゆき 辺野古座り込み揶揄に広がる失望…統一教会批判で上げた株も大暴落 (msn.com)

 

其のひろゆき氏は西欧人並みに合理主義者だから其の座り込みの非合理性をからかっただけのことでせう。

むしろ其れを感情論からどうかう言うのは論理的にはオカシイことですね。

 

合理性⇔非合理性

文明⇔自然

 

さてではどちらが正しいのでせう?

其の答えは、

 

即ち其れは「相剋し且つ相即する」関係にあるのでどちらが正しいとの問題では無くあくまで両極としてのバランスを取るべきものだ、と云うこととなる。

 

まさに其の自然との関わり合いでの問題こそが現代文明のまた現存在の存在意義としての命題であり課題です。

 

では自然とは何ですか?

自然とはさう現存在に取り認識されて居るものだ。

 

つまるところ其れは自然其のものでもまた物自體ーカントによる物自體ーでも無いのである。

 

現存在の認識とは其のやうに常に「分別」側に傾いたものとなる。

故にプラトーンはかって「洞窟の比喩 - Wikipedia」を用い人間にはそも實像としての認識が出来て居ないやうなことを述べて居ます。

 

 

"洞窟の比喩"って何?【プラトン哲学入門】 │ 生きる意味.net (ikiru-imi.net)

 

かって其のプラトーンが至上の価値として述べた「善」だの「幸福」だのの概念はひとまず脇に置くとして、まさに此の「洞窟の比喩」は良く出来た御話でありある意味では正しい見方のやうにも思われる。

 

特に其の「人間の認識は常に不完全である」と云う部分が東洋思想などにも通じる部分があり人間の「認識の限界」を示して居るやうでもまたある。

また自分の好きな哲學者にカントが居ますが彼は人間の理性の限界を示すことで逆に人間の理性に取り為し得ることを根本的に問うて行ったのだと言える。

 

其のプラトーンにせよカントにせよ西洋哲學はかってむしろかうして限定的だったのだと思う。

其のカントなんぞは兎に角規則正しい生活をして子孫も残さずに「これでよい」とか何とか言いながら死んださうですがさう云うのがまさに天才の生き様でせう。

 

 

其の元元限定的だった現存在の認識を合理側へと解き放ったのは近代の力です。

つまるところ其の近代とは合理性を偏重し歩む時代だと云うこととなる。

 

ですが、其の合理化は非合理領域と確かに対になって居る。

尤も其の様を見られるのは頭の良い人に限り普通は其処になんも見てはおりません。

 

其れが見られる人は壱握りの人に限られるが、

 

ー光を見た囚人にしてみれば、そのような洞窟にいるくらいなら、太陽のもとで光を受けながら生活したほうがよほど幸せにみえます。

しかし、それでも彼は、洞窟に入り、また彼らと同じような影を見る生活を送りながら、それらの囚人を真実の幸福に導くために行動しなければならないのです―"洞窟の比喩"って何?【プラトン哲学入門】 │ 生きる意味.net (ikiru-imi.net)より

 

 

じゃあ周りはむしろアホばっかりなので?

まあアホばっかりだな。

 

ですが其のアホが悪いとはまだ壱言も言うてません。

逆にアホの方がさうして樂に生きられます。

 

例えば「知らぬが佛」、なんてね。

むしろ其のアホであることは目出度いことである。

 

其れはもう僕に取っては手の届かぬ位置にあるひとつの高峰のことである。

さうか、アンタは頭がそもオカシイからあくまで君にとっては其のアホの方が利口なんだな!

 

 

…實際さうなんだ。

實は其処にこそ悩んで来たのだよ。

 

だから僕に取って哲學することはまるで屁の河童のことなのさ。

だから哲學のことを書けと言われれば此の侭死ぬる迄其れを書き続けて居られる。

 

だが僕に冗談はまるで通用しないぞ。

何故なら頭の出来が君等とはまるで違うのだ。

 

さう言いながらもさうしてギャグネタでもっていつも勝負して居ますね?

…スッカリバレたか。

 

ゴヤ人には矢張り関西のギャグのルーツがあったんだ!

さうなんだ、でも僕はすごく理性的でもまたあるのでつまりは両刀使いなのだ。

 

 

まあこんなギャグネタは止めるとして、問題はまさに其の近代に於ける自然と文明、つまりは非合理性と合理性のバランスの問題なのだ。

但し自然は文明以上に合理化されたシステムである。

 

されど現存在の認識ー現存在の固有の角度からの認識ーからするとむしろ其処には無駄が多く見えて仕舞う訳だ。

ところが其れはむしろ見方の癖からさう見えて居るだけのことで逆にむしろ自然の側からすると文明の方が無駄な物にまみれて居たりもする。

 

するとナゴヤの詩人さんは其の自然の側から見たところでの文明に於ける無駄の部分をさうしてクドクドと批判されて来たのですか?

まあさう云うことだな。

 

でもって何故詩人さんには其の自然からの視点が分かるのですか?

まあ半分人間を辞めてるからでせう。

 

 

合理性⇔非合理性

文明⇔自然

 

ところで此の弐項対立はあくまで現存在の認識に基づく言語規定ー論理規定ーである。

だからより正確には自然からの判断が必要となるが實は人間以外の現象ー生き物ーには其の分別概念其のものが無い。

 

だからつまりはさうして概念規定される世界を彼等が生きる訳では無くむしろ其れ以前での認識世界ーまさに環世界とでも言うべきものか?ーを生きて御座る。

またつまりは其れは感覚にて構成される壱種の受動的世界観のことだ。

 

逆に現存在の場合は大脳新皮質の進化により所謂相対分別を可能とする認識へと至りまたつまりは其の能力にて能動的世界観を形作る。

よって現存在其れも近現代の現存在に認識される世界とはまさに其の脳内世界の實現と云うこととなる。-其れが養老 孟司先生の仰る脳化世界のことだ-

 

其の能動、受動と云うことはあくまで自然に對する行為的分別でまたソコを噛み砕いて言えば文明は自然物を資源として収奪することでのみ文明を築き得るが自然は己自身を収奪する力には欠けるのでそも受動的世界を生きるより他無くなる訳だ。

ところが先に述べたやうに、自然は其れ自身で完成された系なので其処に無駄だの問題だのはそも生じては居ない訳だ。

 

 

つまりは其れがまさに神の営為としての段階のものだ。ー其れは唯壱の神でも八百萬の神でも良いー

但し其れは樂園其のものでは無く即ち失樂し食い、成長しー変わりー、滅ぶー死ぬーと云う運命を担わされて居る。

 

詩人さん、すると人間は其処で何かヘタコイて居ませんか?

確かにヘタコイてますがな。

 

だから僕はもうそんなんは止めた方が良いぞとさうクドイ程に言うて来た訳でせう。

 

より正確には其の相対分別と云う認識の段階でむしろ其の分別規定を滅し全ての自然破壊を止めやうとしたのが佛陀の思想であった。

またイエス様の方では其の分別規定其れ自體は弄らずに其れを其の侭神の価値観へと丸投げすることで現存在固有の罪を贖おうとされたのだと考えられる。

 

うーん、何やら難しい話ながらダンダン分かって来たぞ。

つまりは人間とは悪い奴等だな。

ならばすぐにでも抹殺しやう!!

 

おいこら待て、チョット待て。

其れでは君、かのオウム教とまるで同じではないか。

 

 

要するにね、現存在ー人間ー其のものが悪いのでは無くまさに其のバランスの悪い文明こそが悪なのだ。

だからみんなはね、文明のやることなすことを其の侭に信じ込み其れに従って居てはイケません。

 

また何処ぞの教祖のやうなことを仰る。

何を隠そうワシが其の教祖じゃーーー、わーはっはっはっはーのはー。

 

 

合理性⇔非合理性

文明⇔自然

 

とは言え現存在の認識が近代化によりより相対分別の度を高めて来て居る以上其の根本的に存する矛盾律から逃れることは出来ない。

近代とはさうして壱種の自己破壊過程である。

 

だが其の眞實乃至は眞相にイザ捉われるとむしろ自滅することになるから其の眞實乃至は眞相をもまた相対化し謂わば遊びの部分を是非設けて置くべきだ。

ー自然に親しむもヨシ、趣味に生きるもまたヨシ、思索に励むもまたヨシ、但しギャンブルと👩遊びにだけは嵌らぬ方が良いことだらうー

 

さて問題は此の相対認識が現存在としての形式的な認識である以上、此処での対立関係が即自然破壊と直結したものになるかどうかに就き若干の疑問点が生じることだ。

ところが最近特に21世紀に入り此の対立関係がより鮮明化して来て居ることから判断してもつまりは此の認識其れ自體に現實との適合性が存することは確かなことのやうだ。

 

尚現存在の認識上の眞理としてはまさに此処でのバランスを取ること以上の事項は無いことだらう。

従ってあらゆる価値観を其のバランスの俎上にて吟味し且つ意思決定して行かねばなるまい。

 

要するに此の弐項対立概念対立を酷くしてはならないのである。

逆にむしろより小さくして行くべきである。

 

 

其れをより具體的に申せば、

 

1.自然に負荷をかけるやうな進歩は即止めること

2.欲望を制御する為の宗教的地盤を出来得る限り整えて行くこと

3.個としてはあくまで文明に反抗する気構えでもって生きること

 

位のものであらう。

 

さて其のプラトーンによる眞、善、美の規定は今でも生きて居る価値だとさう見ても良いのだらう。

 

真善美の三つのイデアとは何か?プラトンからカントの哲学へと至る真善美の概念と学問体系の区分 | TANTANの雑学と哲学の小部屋 (information-station.xyz)

 

其処での何か難しいことを考えるのであればかうしたものでも読み御勉強してみて下され。

されど我の場合はむしろ其の眞、善、美には拘らぬ考え方に至って来て居ます。

 

以前にも申しましたが、人間は必ず幸福にならねばならぬ存在では無いやうに思う。

また其れが壱つにはより自然的であり脱文明的なものの見方なのだと思われる。

 

其れは自然を観察することで明らかに見て取れる部分である。

どだい自然は結構残虐であり不平等です。

 

其の意味ではまさか理性的な場には非ず。

されど全體としては調和が取れつまりは均衡ししかも完璧に近いシステムを築く。

 

 

其れも失樂をして居るので結局は餓鬼・畜生道の世界だがあくまで其れがシステムとして不調和を呼び込み自己破壊に至る訳には非ず。

逆に申せばシステムとして不調和を呼び込み自己破壊に至るのが現存在による文明の営為である。

 

勿論其れを圧し止める為には強靭な理性の力が必要とならう。

其れも脱近代としての新たなる認識を切り拓き生活に於ける価値観其のものを正す必要があらう。

 

ですが詩人はかうして常に其のことに就き述べて来た。

だったら少しは休ませてお呉れ。

 

さても何言ってんだ、好きで書いて来たのだからそりゃあ読者のせいではないぞ、其の君の疲労感のあり方は。

いや読者のせいにもしたくなるじゃないですか。

 

かうして誰も壱文も恵んでは呉れないので…。

 

そんな訳で相変らず自然のさ中に何処までも埋没して居たいわたくしなのである。