自然とは何か?-弐 文明による「宙ぶらりん」な認識より脱する法+「宙ぶらりん」の歌の思い出-
「宙ぶらりん宙ぶらりん 俺たちは宙ぶらりん 生きるでもなく死ぬでもなく どちらでもなく宙ぶらりん」
高市早苗氏「大陸という言葉、使わない」 三重県議のツイートを否定 (msn.com)
尚以前も述べたやうに我は此の高市と云う極右の👩が大嫌いである。
其れも別に極右の全てが馬鹿だとは思わぬのだが、なんか此の👩は権力志向やまた富國強兵思想への傾斜の部分が強く感じられるが故に嫌いである。
對して左翼の👩などもまた相当に手強いことは確かだ。
其れも大抵は勝てないからむしろ違う土俵にて勝負した方が賢明だらう。
さてでは早速にまた其の自然のことを考えてみやう。
ところが本質的には自然とは考えるものではむしろ無く所謂「感じる」ものである。
でもってして現存在に其の「感じる」ことが出来ぬ訳では元より無い。
何故なら我我現存在には大脳旧皮質 - Wikipediaもまた保存されて居るので本能的に何かを感じ取ることもまた可能なのだ。
でもってしてどちらかと言えば人間の♀は特に其の感度には優れて居るやうに見受けられる。
其の逆に👨が特に文系やら理系やらの學問の出来る男性が妙に理屈っぽいのは大脳新皮質 - Wikipediaの方が発達して居るか又は其れを上手く使えて居るのであらう。
だからと言って人間の♀はほぼ本能的でありバカだとは言わないがまあ其れも無いとは言えぬことかなあと正直さう思ったりもまたする。
ちなみに我の場合は何と其の両方イって仕舞う。
だから女性的なヒステリーに似た状態なども屡引き起こすのだしさうかと言えばまたケロリとして哲學談義などをするものだからバカなのか利口なのかまるでもって自分でも分からずつまりは人類としての困ったちゃんであり或は特別な人種に分類されるヒトなのやもしれぬ。
要するに両面イケるある意味では特殊なタイプなのでおそらくは此処でも時に何かサイコーにマズいことをポロリと言って居るものかとも思われる。
だけれども我の意見はまた意外に學術的つまりは塾の講師としての延長のことでもまたあり其の点では無論のこと其の内容が至って眞面目でもって安心出来る部分だらう。
但し其れを故意に逸脱、越境して所謂狂的な部分へもあえて踏み込むことがあるのでソコは皆様是非気を付けて置いて下され。
さて本日はまず「内なる自然」と云うことに就き考えてみたい。
先程「内なる自然」とは所謂本能のことだと述べた。
すると、
本能⇔理性
との弐項対立が其処に即引き起こされやう。
さうして事實上現存在に於ける問題ー命題、課題ーの多くは其のほぼ全てがまさに此の対立関係から引き起こされて居ると見て良い。
でもってしてまた事實上現存在は此の両者間を行ったり来たりしつつむしろ其処にこそ膨大な労力をかけ其の生を成り立たせて来て居る。
だから正直其れが如何にも面倒臭いと個人的には思うのだ。
つまりはさうしてドッチ付かずなので結局はどちらへも行けぬのである。
其のドチラへも行けぬ中途半端なところ、即ち宙ぶらりんなところが現存在を現存在として生きる上での悩みである。
だから逆に「人間的」な人程其の矛盾と云うか葛藤と云うかそんなものに苛まれるのである。
また其れを逆に言えば「人間的」な人程此の対立関係のさ中に生きられる人なのだ。
だけれども例えば右翼バカ、イザコレになると左側が強くなるのでもはや其処では矛盾だの葛藤だのに苛まれずとも良くなる。
またマッドな科学者となれば右側が強くなり過ぎー又は理性が原始退行することでむしろ左側が強くなるーもはや其処では矛盾だの葛藤だのに苛まれずとも良くなる。
またさらに生活教バカつまりは糠ミソ臭いバカ、子煩悩バカつまりは👪主義バカ、或は自称作家バカまでもがありそいつらもまたもはや其処では矛盾だの葛藤だのに苛まれずとも良くなる。
いや違った。
自称作家バカだけはヤッパリ悩んで居るので逆に人間臭かった。
何を隠そうまさにわたくしが其の自称作家バカですね。
でもまあ其のことはどうでも良いことだ。
「宙ぶらりんな現存在」
まずは此のことこそがかうして大命題である。
さて大昔に左卜全 - Wikipediaなる超個性的な俳優さんが居て確か此の方が昔TV番組で妙な歌を歌って居て其の歌がいまだ耳にこびりついて居る。
ー映画では「根っからの変人」と思わせる自然体の演技で人気を博すが、その芸は日々の勉強に裏打ちされたものであり、「私の芸はぶっ倒れそうになりながら絞り出たものであり、自分自身、芸の世界に入ってからというもの毎日が死以上の苦しみであった」と後に回想していた。
実生活においても、芸能界で一・二を争うほどの変人として知られ、薬草を摘んでは楽屋で干していて[4]、「五種の野草を煎じた不老長寿の霊薬」が入っているという水筒を首から提げ、いつも撮影所に持ち込んで飲んでいた[5][注釈 2]。
なお、撮影所では常によれよれのモンペ姿で、同僚とも離れて過ごし、周囲も干渉しなかったので忘れられることが多かったが、土屋にだけはよく話しかけてきたという[注釈 3]。土屋はちょうど郷里の土蔵をとり壊す予定だったが、これを聞いた卜全から「住まいにするから土蔵を売ってくれ」と懇願されたという。
自宅に「若返り回転機」という、体を固定して上下回転するベッドのような機械を据え付けていて、出かける前に必ずこれを自分で操作して一運動していた。それからゆっくりとお祈りし、水筒を提げて出かけるため撮影が中止になったこともあった。
役者になる前は浅草オペラでオペラ歌手を務めていた。「ムーランルージュ」時代、「薔薇座」を主宰していた千秋実に呼ばれて舞台に出たが、段取りを無視してシリアスな芝居をぶち壊し、以来卜全は千秋から恨みを買っていた[8]。
服装も基本的に着たきりで滅多に服を新調しなかったため、いつも身なりがボロボロで浮浪者のようであった。また、突拍子も無い服装で出歩く事も多かったと言い、ムーランでの同僚だった明日待子は晴れた日に長靴を履き、雨合羽を着た上に雨傘を持って劇場や撮影所に出勤してきた卜全を見て驚き、理由を聴いたところ「夢で神様からお告げがあったから」と答えた事に唖然としたと語っている。
このような奇行や飄々とした個性的な性格から芸能界随一の変人として有名だったが、私生活でも独自の生活スタイルを貫いた変わり者であったと言い、芸能界に何十年も在籍していながらプライベートでの芸能人の友人は一人もいなかったと言う。ー左卜全 - Wikipediaより
尚自分はかうした奇人、変人の類の人間がとても好きなのだ。
勿論自分もまた変わって居るのだけれど、むしろ見た目は普通である。
だから見た目でも変な人に強い憧れがあるのだ。
俳優やタレントは所謂美男美女にもまた惹かれるがほんたうの意味で惹かれるのは此の種の超個性的な奇人、変人である。
但し其の歌とは此の歌では無い。
其の歌自體はもはや何処からも出て来なかった。
主題歌 「宙ぶらりん宙ぶらりん 俺たちは宙ぶらりん 生きるでもなく死ぬでもなく どちらでもなく宙ぶらりん」
今から45年ぐらい前にみたテレビ番組ですがとっても不思議な感じが漂って... - Yahoo!知恵袋より
要するにコレである。
奇怪千万 - ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇ (tvdrama-db.com)
おそらく此の主題歌を其の歌手でもあった左 卜全氏が歌って居たのではなかったか。
尚1964年と言えば我はまだ五歳だったので要するに其のドラマの内容などは何も分からずしかも覚えても居ないのだが此の主題歌だけは今でも覚えて居るのである。
まさに此の番組こそが自分が此の世で体験したところでの最もカルト度の高いSF喜劇ドラマだったことだらう。
さて近代と云う時代の核心部に居据わる弐項対立こそが、
本能⇔理性
不合理⇔合理化
との両義性の課題である。
其れも哲學の分野に限ればいや自然科学の分野に於いても特に廿世紀後半はむしろ其の左側の側面を見続けて来たと言えるのではないか。
要するに合理化壱本槍の世界観からは「人間的」な幸福を築くには至らないことに気付き始めたことだったらう。
ところが八拾年代より所謂新自由主義の下に資本主義の合理化が加速され行われ其の種の人文學的なまた自然科学に於ける學究的努力が水泡に帰すが如き社會的搾取が罷り通る世となって行く。
故に最近我はまさに其の資本主義の暴走が自然破壊の元凶でありまた人間破壊の元凶だとさう考えるに至った。
確かに其の資本と結託した科学技術にも大きく非はあるが其れも良く考えて見れば自然科学に於ける其れも基礎的な研究に於いて其処に大きく罪があるとは言えぬことだらう。
さうでは無くつまりは其の強欲資本主義こそが此の世界の全てをブチ壊すに至る元凶なのだ。
強欲即ちデカい欲が要するに大企業が血道を上げて追及する其の血も涙も無い利益至上主義が地球と人間を同時に破壊に至らしめる元凶であることはほぼ間違い無い。
さても君は共産主義者かえ?
いや昔はむしろさうでした、其れも廿代の頃は。
なんですが僕の考えはむしろ保守的なんだ。
だから其の右左のイデオロギーでは其れを括れないのだよ。
本能⇔理性
不合理⇔合理化
ではドッチが正しいのか?
其れがどう考えてもどちらかを選択すると此の関係が崩れるのである。
すると結局は選択をむしろ放棄しむしろ其処で双方を認め合うと云う形にして行かないとバランスが取れなくなるのではないか。
ところで此の弐項対立は、
感覚⇔知性
と言い換えても良い。
まさにドッチから見ても其れは敵である。
感情論⇔理性的論議
其の理性的論議に長けて居れば居る程に感情論を嫌う傾向がある。
だが自分は結構感覚的、即ち感情的でしかも直感的な人間でありであるからこそ藝術との親和性が強くある。
なのに壱方では至極論理的でありかうして學術的思考を主に得意ともして居る。
うーむ、どうも結局はドチラもさうしてやれば良いのではないか?
勿論其れは普通至難の業なのだがもう此の際ドッチもイってみたれ!
壱つには我には所謂共感覚 - Wikipedia者としての資質がありつまりは大脳新皮質と大脳旧皮質の間を自由自在に行ったり来たりすることが出来て居る可能性もまた高くある、つまりは其処に何か生まれつきに「持ってる」可能性が無いでも無い。
だからと言ってみんなに其れを理解し實行せよとさう叫ぶばかりでは其れは徒労に終わると云うものだらう。
つまりは元元其れが分かんないので分かんないのだ。
丁度カントやアインスタインの考えがなかなかスッとは理解出来ぬのと同じことででも僕の場合にはそんな理論の天才なのでは無く感覚的天才である可能性だけはある。
でもまた何やら自己崇拝的な論調となって来たので是非其れは止めてみる。
さて其の「宙ぶらりんな現存在」とは結局はドチラをも選び切れないところに生ずる闇の部分であり負債のことなのではないか。
逆にドチラをも積極的に選び切り其の意思決定の積極性に於いてドチラをも保存ししかも持続させて行くと云う方法があるのではないか。
何と積極性だと?
お前いつも「逃げたい」とさう言って居るだらう?
はい、確かにわたくしは此の世での多くから「逃げたい」です。
ですが「意思決定」だけはいつも前向きなのだ。
はあー、何だか良う分からんなあ。
でもお前、アノ松岡 修造とかが大嫌いだらう?
確かに嫌いですが最近は落ち込んだ時にYouTubeにて彼の歌を聴いたりもして居ます。松岡修造が熱唱、「C.C.Lemon 元気応援 SONG」フル ver. - YouTube
ー佛法の場合にはあくまで選択を放棄するに至る。よって佛法は積極的問題解決では無く消極的問題解決を目指す。つまりは其の両極に於けるマイナスの選択(弐重否定)により現象(迷いの認識)其のものを滅するのである。だが我が目指して居るものは其の消去には非ず。我が目指すところとはむしろ両極を肯定した上で其れをスケールダウンすることで生じせしめるところでのバランス化による対立関係其のものの縮小(限定)である。ー
でもって自然の話はどうなった?
本能ー感性ー⇔理性ー知性ー
自然は明らかに理性から見詰めれば本能的だ。
故に彼等に理性は望み得ずまた己が内なる本能にもまた理性などは望み得ぬ。
だが其れは所詮「相剋し且つ相即する」関係性にこそ現象する。
あくまで現象なので共に不完全であると云う本質部だけは同じである。
また至極簡単に言えば其れは共に相手を必要として居るのである。
なんとなれば理性は本能が無いとそも成立しないものなのだから。
また本能は理性が無いと成立し得ない。
其れもあくまで現存在に於ける自然(理性)認識の範疇に於いては。
故に問題は其のバランスを如何に取るかと云うことに帰結する。
近現代に於ける現存在の認識が宙ぶらりんなのはむしろ其れを選び切れて居ないからでのことだ。
だから正しくはドチラをも積極的に選び取るのだ。
故に文明による洗脳を解いて山へ移住することなどは良い行いである。
其の良い悪いは所謂罪刑法定によるものでは無くあくまで自然との関係性に基づき決められることでなくてはならない。
何故なら現行の文明が抱える大課題とはひとえに其の自然との関係性が分断されて居るところから齎されて居る。
なので其れは會社でまた投資で幾ら儲けるだとか良い👩をヒッカケ結婚しただとかまたデカい家を建てただとか立派な墓を買いましたとかそんな問題なのでは無い。
でももしやアンタ自身が文明と分断されて居るのでは?
でも其れを言うちゃあイカンでせう、其れも今。
だから此処は僕の作文の場でありつまりは藝術表現としての神聖な場なのだよ、だから今僕がかうして精魂を傾けて書いて居ることをバカにしちゃあダメだ。
逆に申せば、「積極的に」自然と文明の双方を選ぶことで結局はどちらもやり切れ無いので双方が限定されざるを得ない。
でも逆に其れは「宙ぶらりん」なのでは無くちゃんと其処にバランスを取りむしろ地歩を其処に固めて居るのだ。
逆に文明の方ばかりを向き其れこそ會社でまた投資で幾ら儲けるだとか良い👩をヒッカケ結婚しただとかまたデカい家を建てただとか立派な墓を買いましたとかそんなことばかりをやってるから現存在はまるでダメなのだ。
だからむしろソチラの方こそが「宙ぶらりん」の状態其のものなのだ。
よって機會ある限り自然と接することを是非御勧めして置きたい。
どだい我我は自然から多くを學ぶことが出来る。
もしや學べぬとさう思って居るのであれば其れは文明による洗脳に他ならない。
またつまりは此の侭文明だけを信じて「宙ぶらりん」の度をより酷くして行くのか、其れともどちらをも程良く信じて其の「宙ぶらりん」の状態其のものを止めるのかと云う自律的選択が常に我我個には委ねられて居るのだ。