14.ショーペンハウアー自分を救う幸福論より學ぶ 4
かの三島先生にせよまた石原先生にせよまさに其の日本社會が抱える大問題と常に闘って来られて居た訳です。
さらに我が國の歴史上の大文豪の方方も同様に其其に自らが抱えるテーマと闘って来られても居る。
其の意味で生とは不断の闘争です。
尤もまさに其れは観念的な意味での闘争ですが、其れでは壱般の人人が闘って居ないかと言えばさうでは無く常にまさに其其が置かれた次元に於いて闘って居ます。
また例えば學者の方方や宗教家の方方もまた其れとは別の領域にて闘って来て居る。
では自然界の動植物はどうかと言えば植物の方はさておき動物の世界などはまさに畜生界にて其れも食うか食われるかの闘争世界其のものでせう。
ところが自然界での闘争が即本質的な意味での破壊に繋がる訳では無い。
では何が本質的な意味での破壊を齎すのかと問えば其れは人間の持つ抽象的な意味での欲望でせう。
其の欲望の持ち方の誤りこそがさうした👿の所業を齎す訳ですので本来ならば人間は神や佛にもなればまた👿ともなり得る現象だとさう認識して置かねばならない。
よって文學や哲學もまた最終的にはさうした壱種宗教的な判断へと至らざるぬを得ぬのやもしれません。
何故ならば文學や哲學は常に人間存在の認識のあり方を本質的に問うものですが最終的に其れは善悪の判断を其処に行うものでは無いのだから。
されど或は今此の文明にまた人間存在に対し問われて居ることがまさに其の善悪の上での判断なのやもしれません。
即ち人間の持つ抽象的な意味での欲望に対する善悪規定こそが其処に求められて居りまた其れが何故求められるかと言えば其の本質的な意味での破壊を止めんが為に是非其れを認識する必要があるが為だ。
さて哲學者としてのショーペンハウアーの立場こそが其の善悪規定をも顧慮した上での哲學的規定であったのだとわたくしは思う。
尤も彼以降時代が進み近代が齎す所謂功利的進歩主義が幅を利かせ世の中全体が「現實化」して行ったことでせう。
其の「現實化」を支え得るものが技術的革新であるつまりは合理的に構築される進歩史観であった訳だ。
其の抽象的駆動力としての進歩史観こそが近代を成立させる上での最大の「現實化」でした。
何故なら進歩史観こそが過去を切り捨て進むまさに新生人類の為のイデオロギー其のものなのだから。
尚わたくしはまさに半分位は旧人類なのか、其の進歩と云う概念とは頗る相性が悪く第壱機械物やPCがまるで理解出来ずつまりは数的還元などまるで出来ぬ人間であり其処は要するに謂わば合理化が嫌いな壱浪漫チストなのだらう。
なので三島先生の其の大文化國家としての日本の伝統への浪漫だの石原先生の大海原への飽くなき浪漫などもまた良く理解出来ますが最近の日本が置かれた現實はまさに其れとは程遠いことだらう浪漫無き拝金主義=数的合理化主義だと屡思わずには居られない。
そんな数的合理化は結局人間の心の潤いのやうなものを次第次第に失わせて行くことでせう。
また其れが結局は「悪」をも規定するものとなり得るのではないか。
さて高校時代に僕は化学の教師から「文學は良く無い」と言われたことがありましたが今わたくしは「科学の方が余程に良く無い」とさう其の教師に言ってやりたい位です。
何故なら文學は青少年をして絶望に追い込みまた気を狂わせたり自決に追い込んだりも致しませうが其れはみんなでもってさうして行う「悪の所業」とはまるで別物では御座りませんか。
壱番イケナイのは其のみんなでもってやる「悪の所業」としての破壊でせう。
其れも狂った科学や技術が暴走し地球環境をまた人間の心を破壊する位なら浪漫チストとしての文哲馬鹿の方が余程にジェントルマンだらう。
エエか、ジェントルマンと云うのはな、其れ即ち理性をこそ生きる人間のことだ。
つまるところ彼はケモノではあり得無い。
対してケモノとはな、かうして世界中にスマフォだのゲームだのを蔓延させおまけに自動運転だのロボット掃除機だのそんな変なものばかりを蔓延させるに至った君等の頭の中身をこそさう言うのだ。
いやもうバカバカしくてそんな世間とは付き合って居られぬわ。
だから文哲の世界へ籠らう。
ああー、其れにつけても良い世界だなあ。
とっても静かでかうして毎日が平和だ。
まあわたくしはかうして理系其のものを攻撃することが昔から多い。
さて其れでは、ショーペンハウアーの哲學の講義の方へと戻ります。
066.どんな願望や欲望にも対応できる金銭を愛するのは自然だーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー
意外なことにかうしてショーペンハウアーは金銭としての価値=数的還元化されし合理化としての価値を否定して居ません。
金銭に固執することは愚かなことであるにせよ人間の社會に於いて願望や欲望を叶えることに対応出来る金銭への執着は避け難いことだとさう述べて居る。
と申しますのもショーペンハウアーは生涯に亘り御金には困らぬ境遇で居られた人でした。
御金には困らぬ境遇で居られたからこそ大哲學者であるヘーゲルの向こうを張り其の独自の佛教的な哲學を完成させることが出来た訳だ。
067.お金は不慮の災難に備えるべきものだーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー
但し快樂を求める手段としての金銭をむしろ否定して居り、其れ即ち事故や災難に備える為の防壁として見るべきものだとも述べて居ります。
068.自然な欲望を満足させる以上のお金は必要ないーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー
ショーペンハウアーは如何にも佛教的に欲望を「自然ー具象的ーな欲望」と「自然では無いー抽象的ー欲望」に分けて考え「自然ー具象的ーな欲望」を満足させる以上のお金は必要が無いと考えた。
即ち富を得る為にあくせく働くことや築いた大きな財産の為に心労を重ねることはむしろ幸福からは遠のくことであると判断して居る。
069.富と名声は飲めば飲むほどのどがかわくーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー
其の富だの名声だのさうした外部的評価を基準とすればむしろ其れに振り回される生涯を送ることとなり結果的に心の幸福感を其処に得ることは難しくなる。
故に富と名声を求めて生きること其れ自體がバカバカしいことである。
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
秀吉公こそがまさに其の外部的評価を基準として生きた武将だったのではなかったか。
秀吉公は其の浪速を形作る程の頑張りを世に示したが結局は此の世に何も残せなんだ。
つまりは大坂と云う社會の為に頑張ったと云う意味での名声だけは残せたが息子や妻などは皆殺されて仕舞う。
070.人間同士のつながりは、物質的・金銭的な利害にもとづくーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー
かうしてショーペンハウアーは最終的に人間同士のつながりが至極現實的な利害関係に基づくものであることを述べて居る。
但し母と子の関係だけはまた其れとは違うことでせう。
また大半の人は職業、仕事、國籍、👪等により他人を判断し、逆に人間としてのあり方つまり人格的な特性などは軽視するか又は無視するとさう述べて居る。ー我が要約ー
つまるところ人間は宗教家や哲學者でも無い限り其のやうに現實的にしか物事を判断出来ぬものです。
逆に申せば現實的な価値を否定しがちな宗教だの哲學だのと云った分野を大衆は毛嫌いしむしろ其れに近づかうとはしない。
ですが其の現實的感覚こそがそもそもの認識上の誤りの元でせう。
謂わば其れが物質的・金銭的な利害に対し拘りを強くさせる元なのです。
また要するに其れは大衆的次元ではまさか人間の精神の領域など生きられて居ない、と言うこととならう。
071.豪邸でもあばら屋でも、生活の中身に変わりはないーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー
其の生活とは食って寝て何かをやることであり其のことはどんな時代でもまたどんな國でもまるで同じことです。
生活は人間存在に取りまさに基本中の基本のことですが、まさに其のこと自體を金銭的価値に還元し優劣を付けたりすることなどは出来ない。
要するに皆同じやうに生活せざるを得ないのが人間であり所詮はさうした運命を生きるのが人間に対し許されて居るだけのことだ。
其其の人生の出来事は万華鏡に映る絵の如きもので目の前にあるのはどれも同じものだとも彼は述べて居る。ー我が要約ー
個人的には人生に対し其の俯瞰的な視野を持ち得ることこそが哲學的思索なのだと思う。
逆に申せば哲學的思考を持ち得ぬばかりに大衆は決まってあばら屋よりも豪邸住まいの方を欲するのだらう。
但し個人的にはマンション暮らしなどはまず無理である。
其れも廿代後半の頃に半年程してみたことがあったのだがまるでガマン出来ず家へと舞い戻った経験が我にはある。
072.人生の本質的なみじめさから目をそむけるなーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー
此処でショーペンハウアーは社會的に成就されるショーや宴会、さらに其れ等に付きものの豪華な品物などは「人間の本質的なみじめさを忘れる為の無駄な試み」だと断じて居る。ー我が要約ー
つまりは其れにより齎される刹那の快樂等は本質的な幸福などには程遠い虚的な価値であるとさう断ずるのである。
個人的には我もまた昔から其の種の虚的な価値に対し否定的である。
だから其れが「樂しい」とする其の如何にも俗物的な感覚其のものが我にはまるで理解出来ぬのだった。
まさに其のことがおそらくは生の「本質」面を問うか否かと云う人間の認識の差なのであらう。
幸か不幸か我は常に其の「本質」面を問わんが為の人生を歩んで来ざるを得なかった。
だから「本質」面こそが元元好きだが虚的なものに対する嫌悪感が今でも強くある。
073.善良、穏健、温和な人は貧しさの中でも満足することができるーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー
此れは壱見066.の言葉と矛盾して居るやうですが要するに金銭的な意味での充足が即幸福に繋がる訳では無くむしろ人間は貧しさの中にも幸福な状態を創り出すことが出来ることを述べた部分でせう。
但し衣食住がある程度整いませんと其の幸福感の構築へは繋がらないものです。
逆に申せば衣食住がある程度整うだけの経済的な力は持って居ないと善良にも穏健にもまた温和にもなれないものと思われます。
但し人には持って生まれた性格、性質と云うものがあり其の元元の性質としての善良や穏健や温和と云うことがまたあらうかと思う。
尚わたくしは其の本質的な善良であり穏健であり温和である部分を自己に認めざるを得ぬ者ですが今思えばまさに其の故に此れ迄随分生きて来にくかったやうな気もまた致します。
074.あり余る富は、幸福にはほとんど役に立たないーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー
ショーペンハウアーの考え方はまさに「多くを望まず少なくして生き」むしろ其の範囲内での最大の幸福を味わう、と云うやうなもので其れはほとんど我が思考法と重なるものです。
逆に言えばさうした限定的思考をした方が幸福への契機が増す、より幸福な状態を人生より掬し取り易いと云うことです。
其の種の拡大、拡張主義としての富を増して行く方向性、つまりはより豊かで利便性を増して行く方向での取り組みは誰もが幸福であることの可能性をむしろ狭めてさえ行くことだらう。
よって其の富を増やすのでは無く教養ー徳ーを積むべきだとも彼は此処で述べて居る。
また金は抽象的に齎される幸福なので金に目が眩み具体的な幸福を味わう能力に欠ければ金の亡者となるしか無いと云うやうなことも述べて居る。ー我が要約ー
076.要求が小さければ、財産がなくとも満足は得られるーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー
「貧乏が苦痛を引き起こすのではなくて、欲望が苦痛をもたらすのだ」ーエピクテトスー
「人間の金銭上の満足は、要求の強さと所有する財産との比率によって決まる。」ーショーペンハウアーー
即ち要求が小さければ其れこそ少額の消費でも満足出来る訳だ。
其の要求としての欲望のベクトルを抑える方向へ向けるか其れとも拡大して行くかと云うことですが、拡大して行く限りに於いて其処にとんでもない量の消費が實現されて行かざるを得ずまさに其れが戦後の文明に於ける経済的な爆発暴走主義なのでした。
と云うことはどうのかうのと云うことでは無く結局経済的な爆発暴走主義を壱刻も早く止めて仕舞わねばならない。
なのですがさうは思えど欲望は往往にしてより加速されデカいものとなりがちだ。
されど其れはまた社會が是とする価値観であるからこそさうなるのである。
ですので此の際社會常識と云うものを根本より疑ってみるべきなのではなからうか。
僕なんぞはこんな浪漫馬鹿詩人でもっておまけにまるで金も無い上に解脱だとか何とかまるでオウム教みたいなことばかりを言って居ますがちゃんと其の文明社會に対する疑いの部分だけは確りさせて居る積もりです。
075.文明社会では、尊敬される職業こそが見かけ倒しであるーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー
まあかうしたことを言うので彼ショーペンハウアーはまさか人には好かれない訳だ。
所謂肩書きに於ける仕事上の成果のやうなものを所謂御用哲學者までをも含めて批判的に見詰めて居ます。
要するに其れは仮面を被り金儲けの為に其れをして居るに過ぎないのださうな。
では自分はどうかと言えばあくまで止むに止まれぬ気持ちでもって人類全體を見据え眞の意味での哲學の構築の為に其れをして居るのです。
なのでみんなに無視され参拾年程も不遇だった彼が最終的には世に出たことなどもまた彼にとっては当たり前のことでした。
つまりは世間の馬鹿共にはなかなかワシの哲學など分からんとさう思って居たことでせう。
要するに職業と云う外側から強制されるものはほぼ金儲けであるに過ぎぬとさう言いたいのでせう。
また此れも非常識な発言と申しますか思い切り世間の価値観とは反対のことを述べておる訳だ。
ですが肩書きを隠れ蓑とする偽善的行為が現實の世の中にはまた蔓延して居るものです。
なので其処で安心して居てはダメでむしろ疑い抜く位の気迫でもってむしろ人格や教養の方でもって人間を判断すべきだとさう述べて居ることでせう。
かうしてショーペンハウアーは社會認識の上であくまで直球勝負です。
誤魔化さないと申すか人間の醜い部分は皆曝け出すと申すかそんな潔癖な理性の持ち主ですので其の言説を見聞きし気分が悪くなる人さえ居ることでせう。
でも個人的には凄く効きさうな言葉なのだと思う。
誰に効くのかと申せばまさに我我現代人に対し至極良く効く言葉の数数だらう。