目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

其の難しい人との付き合い方に就いてーショーペンハウアー自分を救う幸福論より學ぶ 5ー

24.ショーペンハウアー自分を救う幸福論より學ぶ 5

 

 

 

 

077.人と付き合うのは、義理か退屈のいずれかが理由だーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー

078.人は、孤独に対する恐怖から人付き合いを求めるーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー

 

人が人と付き合うのはそも何故か?

 

皮肉な見方をすればまずは其れは社會的義務ー義理ーがさうさせて居るのである。

社會的義務に応じやうとするから人は人と付き合わざるを得なくなる。

 

つまりは其れは人間の社會が其れを強いて居るのである。

逆に🐺に育てられたり未知の類人猿に育てられたりするのであれば人間もまた人間の社會に生きて居る必要などは無くなる訳だ。

 

 

ところが其の「退屈」と云う概念は我に取り極めて分かりにくいものである。

ショーペンハウアーは生涯経済的に困らぬ境涯にあったので或は其の退屈さを常に感じて居たのやもしれぬ。

 

つまりは退屈とは有閑階級の贅沢な悩みであり対して普通庶民は退屈など感じて居る暇は無いものと相場は決まっても居やう。

 

いまひとつは「孤独」が怖いから人間は人付き合いを求めるとある。

だが正直我は此れ迄に「孤独」を怖れたことが無いのである。

 

おそらく其れは生まれついての性格によるものなのだらう。

高校時代より我には親友と呼べる友が弐人も居たのだし其の交際の範囲が極狭いものであるにせよ其れが深い訳だ。

 

従って彼等と会わなくなった今も孤独であるなどとはまるで思っては居ない。

むしろ其のやうに交際を限定することでこそ眞の意味での人間との交流が成就されるのだ。

 

即ち上辺だけの人間関係などはむしろ要らぬのである。

 

 

079.人の持つ社交性は、その人の知的レベルに反比例するーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー

080.精神的能力の高い人は、自然に非社交的になるーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー

 

変人のショーペンハウアーはかうして屡人とは逆のことを述べる。

例えば、テキストにもあるやうに「非常に非社交的だということは、まずそれだけで、優れた人」だなどと述べて居る。ーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー

 

以前ネットで検索してみたところ高IQの人は自然と非社交的になるものと述べられて居た。

其のIQに限らずEQにせよ何にせよ要するに高いレヴェルでの知性を持つ人はかうして必然的に周りを相手にしなくなるものなのだ。

 

なんとなれば己のあり方と周りの知性力との間に齟齬や断絶を感じやがて絶望したり無視したりする他は無くなるからなのだ。

僕の場合はIQは低いわ欲ボケだわでそんなに利口だとはまさか自分でも思えぬのであるが但し感度の方だけは特殊なものを持ち合わせて居るので矢張り同じやうに周りの能力との間に齟齬や断絶を感じ絶望したり無視したりする場合などが多くある訳だ。

 

 

また僕の場合は非社交的なのだとは必ずしも言えない。

むしろ常に謙虚な面さえも持ち合わせて居りよって本心の部分が分かるとむしろ人から好かれたりもする。

 

が、其の本心の部分まで到達する迄の所謂「とっつきにくさ」がまさに芥川賞作家並なので通常人はまずソコまでは行けずよってみんなとは大抵喧嘩別れとならざるを得ぬ。

とりあえずわたくしに其の社交性が無い、欠けて居る面は確かにあることだ。

 

要するに極めて理解し難い自我ー気難しい自我ーの持ち主でもある訳だ。

だがさうした人に限り何らかの藝術的な感度や能力を持ち合わせて居ることが實は多い。

 

 

「精神的能力の優れた人は、孤独を選ぶ」ともテキストにはある。ーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー

即ち其の種の人は精神的能力を所有して居るので外部から必要とするものは常に少なくて済み自分以外のものが重要ではなくなるのださうだ。ーわたくしの纏めー

 

謂わば「精神を持って居ない」奴こそが群れたがると云う訳なのだ。

ショーペンハウアーの場合も何せ変人なので結局周りに理解されず其の精神的能力に優れし孤独者として長きに亘り生きたのであらう。

 

但し彼が居たお蔭で我は初めて救われたやうな気さえもが今して居る。

だから其の精神的能力が高くある非社交的な人は概ねショーペンハウアーとは相性が良いものとわたくしは見て居る。

 

 

081.自分を低くしてまで、人と交わる必要はないショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー

 

ちなみにショーペンハウアーの母は所謂サロンでの社交好きの女流作家でつまりはそんなおバカな様が彼に取っては許せずよって🚺に対する攻撃が屡加えられる訳だ。

また我の母なども全く似たやうなところがありズバリ申せば昔文學少女だった大社交家なのだ。

 

ところが其の逆方向の性格の人にとってはショーペンハウアーやまた我のやうな非社交的な性質が👽に見えて仕方が無いのであらう。

特に違うのがまさに「自分を低めてしか人と交われぬ」気質の部分なのではないか。

 

要するに社交家の人は別に「自分を低め」ずとも人と付き合えるのである。ーもしや最初から其の知性のあり方が低いのかー

ところが非社交的な人人に取りまさに其の周りの知性のレヴェルに合わせることこそが苦痛でしか無い訳だ。

 

 

「人間のうち6人中5人は、道徳的にみて、もしくは知性の点で問題があり、できるだけ接触しないほうがよいくらいだ。」

「大部分の人間は性格も才能も全く低級で所謂月並みなので相手にしない方が良い」との仰せである。-わたくしの纏め-

 

酷いことを言って居るやうで居て眞實を語って居る面もまたあるのではなからうか。

僕は長い間社會関係ー組織の上での人間関係ーに身を置いて居たのだったが特に五拾代に其の人間の低級さや愚かさを見せつけられた思いがしたものだった。

 

但し其れこそ六人中壱人位は良い人がまた居るものだ。

また頭が良く能力に長けた人も居られる。

 

只其の割合が極少数なのだ。

だからむしろ其処だけに絞り人間関係を築いて行くべきだ。

 

だが其れもまた面倒なのであればむしろ孤独に徹しても良いのではないか。

其れも何かを「持って居る」人間の場合には。

 

 

082.気の合う仲間を見つけるのは嬉しいものだーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー

083.似たもの同士の交友が快適だーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー

 

自分と似て居る人と云うか感じ方や考え方が似て居る人は概ね気が合うものだ。

我に取りそんな人が現れたのは病院に勤めて居た頃である。

 

彼とは置かれた境遇や変人であるところが似て居りさらにコレクターであることさえもが同じであった。

だから今でも屡電話をかけ決まって長話をする。

 

彼は頭が良くおそらくは感度の方さえもが優れて居る。

そんな人に巡り合ったのは初めてである、其れも五拾を過ぎてからそんな友に巡り逢えた。

 

だが彼の母ちゃんは「此の子は変わって居るので」とさう言って居たのだったが其の折に「私も変わって居るので同じです。」さう述べて置いたのだった。

 

尚、ショーペンハウアーによると優れた人は人とすぐに仲間になれぬものなのださうだ。

そんな人でも似たところがある相手が見つかればほんたうに嬉しくなるのださうな。

 

 

084.誰もが仮面をかぶって、人に合わせようとするーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー

 

人は他人に取り入ろうとする時に仮面を被り其の仮面は相手に合わせた虚像であるに過ぎぬ、と云うやうなことを述べて居る。-わたくしの纏め-

其の仮面は逆に社會生活に於いては不可欠なものであらう。

 

但し性格や能力により其の仮面生活が極度の苦しみと化すことなどもまたある訳だ。

例えば内省的で考え深い人にとり其の仮面はまさに苦痛でしかない。

 

ところが外向的で人好きな人に取り其の仮面はまさに樂しみの為の儀式なのだ。

ショーペンハウアーは然し其の社交性が齎す欺瞞性の部分を鋭く突き結局其れは知性的では無いからだとでも言いたいのであらう。

 

 

086.他人を変えようとするな、他人は変わらないーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー

087.人の意見や行動を変えようとしてはいけないーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー

 

全く不思議なことながら此処でショーペンハウアーは佛陀による認識とまるで同じことを述べて居る。

性格と云うものは修正が出来ず全ての人間の行動は内面的な原理から流れ出るものなので何度でも同じことをするものなのださうだ。-わたくしの纏め-

 

と云うことはたとえ其れが誤った方向性の考えや行動であれ其れを変更させることは外部からは出来ないのである。

但し批判なり助言などから本人が其の考えや行動を変えればおそらくは変えられるものなのだらう。

 

だが本質的には「放って置け」と云うことらしい。

まあ誤りの程度が酷い場合には無視して置くのが壱番なのではないか。

 

 

088.他人に対しては、怒るなーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー

089.他人の不快な行動にも腹を立てるなーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー

090.怒りに駆られて相手をやっつけてやろうなどと思うなーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー

 

此の壱連の認識もまた佛陀による認識とまるで同様である。

我は逆に瞬間湯沸かし器のやうに怒り且つキレる人間なので此の辺りは是非學んで置くべきことだらう。

 

尚088.でショーペンハウアーは面白いことを述べて居て、例えば「鉱物」に怒る場合を考えてみよ、などとも述べて居る。-わたくしの纏め-

つまりそこらに転がって居る石に対し腹を立てれば其れは無意味であり、人間の行為に対し怒るのも其れと同じことだとさう述べる。

 

だが石と人間はまた違うのではないか。

確かに石に対し腹が立ったことは無い。

だが兎に角人間に対しては腹が立つものだ。

 

人間に対し不快感を持ったり怒りを覚えたりすることは結局己を相手の土俵に入れて仕舞うことなので益が無いと云うことなのやもしれぬ。

だが其れもまた義憤とさうでは無い感情論とではそも違うのだし僕はあくまで道理に外れて居る場合には「怒り」もまた必要なのではないかとさう思う。

 

其の他に対して寛容なのは壱般に宗教が目指すところでの価値観なのだが我の場合其の寛容性には常に欠けて居り要するに人間としての器が小さいのであらうか。

然し他に対して徹底的に「放って置く」つまりは「無視する」こと位ならば何とか出来るのやもしれぬ。

さうだ、むしろ此れからは其の「瞋り」の代わりに無視を決め込むこととしてみたい。

 

 

093.本心から寛容の気持ちを持てーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー

098.すべからく相手を嬉しがらせて味方につけよーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー

 

さうは仰いますが果たしてショーペンハウアー先生はそんなに寛容な方だったのでせうか?

むしろ人からは変人扱いされ、其れでもって孤独に徹し社交を否定されて居たのではなかったか。

 

其れに「すべからく相手を嬉しがらせ」ることはむしろ自分を低めないと出来ないことだ。

そこら辺りの矛盾的発言が今ひとつ分からぬところです。

 

 

091.お互いの欠点は見て見ぬふりをしようーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー

 

ショーペンハウアーは此処で孔子の「礼」の思想を引き合いとなし、「礼」とは互いの欠点に対し見て見ぬふりをすること、つまりは仮面を付け表面には本音を出さぬと云う暗黙の合意だと述べて居る。-わたくしの纏め-

彼はかうして屡其の悲観主義哲學とは異なるやうな所謂常識的なこともまた述べて居るが其の眞意に至っては不明である。

 

 

095.他人とのいざこざや陰口は、小石のように蹴飛ばせ

 

此れなどもまた常識的な意見なのだが役立つ認識である。

要するに他人の心の低級さや知性の無さに対し敏感になるな、少なくともまともに其れ等に向き合い気に病んだり悩んだりするべきでは無いと述べて居る。

 

逆に其れを道端の小石のやうに蹴飛ばすべきだとも述べて居る。

個人的には其れもまた良く分かる部分である。

 

要するに其れは「放って置く」つまりは「無視する」ことが壱番なのだ。

 

 

099.敵意ある相手でもていねいに接せよ

 

まるでキリスト教の教義でのやうな御話ですが實際悪い奴や間違った奴には其の相手の心のあり方が低い分指摘なり批判なりが伝わらぬものなのだ。

逆に丁寧につまりは柔和でもって優しく接すると相手の態度もまたさう変わって来るさうだ。

 

しかしながら此れは難しい話です。

僕は参拾歳位の頃だったか交通のトラブルで車をボコボコに蹴られたので倍返しでボコボコに蹴りまくってやったことがありましたがまさか其れはしてはイカンと云うことでせう。-其の折に駆け付けた警察官が呆れ返って居たものでした-

 

其の後僕は佛教徒となり逆に至極穏やかで優しい面持ちとなったのでしたが五拾歳位の頃から逆に人にナメられるやうになりこれではイカンと文人としての批判力だけは常に保つことに致しました。

要するに世間とは必ずしも善が通用する場では無く逆にかのプーチンの如くに悪を押し通した方が尊敬される場合さえもがまたあるものです。

 

そんな世の不条理な様を此れ迄にイヤと云う程味わって来たわたくしはとりあえず今ショーペンハウアーによる世間とは逆向きの考え方は基本的に正しいとさう思うのです。

 

 

100.相手を憎悪したり軽蔑するより、同情したほうが良いーショーペンハウアー自分を救う幸福論よりー

 

其の同情こそが「慈悲」の心にも通ずるものなのやもしれない。

曰く、彼の意地の悪さ、頭の悪さ、間違った考えなどはあえて考慮せずに、むしろ彼の苦しみ、窮乏、不安、苦痛にのみ注目し彼に対し憎悪や軽蔑の気持ちを起こすのでは無く同情の立場を貫くことこそが人間にとってはふさわしいことなのだと。

ーわたくしの纏めー

 

だから最終的には其の「放って置く」つまりは「無視する」ことが「同情」へと移行して行く訳だ。

其の同情のより高次な認識こそがまさに「慈悲」の心でせう。

 

尚個人的な見解では大多数の人間に於けるレヴェルの低さとは所謂観察眼に欠けて居ることです。

藝術家や宗教家は逆に感度が高くあり其其に独自の観察眼を持って居ますが所謂大衆には其の「人を見抜く力」が弱いか又は欠けて居るやうだ。

 

だから肩書きだの實績だの現物としての大金だのに目が眩みむしろそちらの方にこそ彼等は隷属して仕舞いがちだ。

要するにまるで精神の根無し草のやうなものなので見た目での価値、功利的且つ現實的な価値の方にばかり目が引き寄せられて行く訳だ。

 

 

尤もショーペンハウアーのやうな哲學者や文人さらに藝術家や宗教家の面面はむしろそちらの方をあえて向かぬものなのですがまさに其れが大衆的感性と云うべきものなのやもしれません。

要するに「見た目での価値」、「目の前にある価値」でしか人や社會や物事を判断出来ないで居る訳だ。

 

文學や哲學の価値とはむしろ其れをあえて離れて築き上げることだらう観念上の価値です。

其の観念上の価値こそがたとえ時代が大きく移り変わったにせよかうして今を規定し得る認識其のものなのだ。