目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

此の程身罷られた石原 慎太郎先生による文明論

13.此の程身罷られた石原 慎太郎先生による文明論

 

 

 

さて石原 慎太郎先生が御逝去されましたさうでまずは心よりお悔やみを申し上げます。

かの橋下 徹氏によれば最期に会った折に先生は「文明論を書いてみたい」とさう述べられて居たさうです。

 

要するに石原 慎太郎先生は只の右翼馬鹿などでは御座りませんでした。

其処は三島 由紀夫先生と同じでいま少し高度な意味での日本としての文明のあり方に就き憂慮されて居たことだったでせう。

 

石原 慎太郎先生がお書きになったものは以前ネット上でも拝見して居りますが其の内容たるやまさに的を射たものでした。

 

 

この地球の運命は|コラム|石原慎太郎公式サイト (sensenfukoku.net)

作家や詩人などの文人はまずは此の大きな問題に対し常に挑んで居なければなりません。

 

有名であるか無名であるかを問わず常に挑んで居なければなりません。

無名のわたくしが自ら文人を名乗るのはまさにわたくしが常に大きな問題に対し挑んで居るからなのです。

 

さてもそんな石原 慎太郎先生が何故あえて政治の世界へと進まれたのか?

元より文學や哲學とまさに生臭い政治の世界とは元元異なります。

 

 

政治の世界では往往にして権謀術数だの忖度だの所謂世渡りの上での手練手管の類が幅を利かせ其はまさに現世利益上の伏魔殿の如きものでまさか純粋な意味での知性的営為である文學や哲學とは縁遠い世界のものとなりがちです。

 

ですが三島先生もまた石原先生もまた我も實は法科出身者なのです。

法学部と云うものは結局社會をこそ學ぶところです。

 

故に学校を出てからも常に其の社會の動向のことこそが壱番気になります。

でもって三島先生は日本の将来を憂いて自決なされて仕舞いました。

 

石原先生が政界へ進出なされたのはまずは其のことの影響が少なからずあったことでせう。

石原先生は文學では直せぬ社會のあり方を政治へと自ら立ち上がることで直さうとされて行ったのだと思う。

 

然し現代文明の自己矛盾の様は芥川賞作家独りが如何に叫ぼうともはや如何ともし難いところにまですでに達して仕舞って居る。

いや石原先生ばかりでは無く石原先生とは同い年の五木 寛之先生にせよまさにこれでもかと云う程に日本に対し述べられて来て居ますが其れでも文明其れ自身は気付けぬ訳だ。

 

 

結局其の社會と云うものこそが変わり得ぬものなのだ。

社會とはあくまで自分では無い他者が築く世界のことですのでかうして変わりやうが無いのです。

 

僕なども其のことに就き長年に亘り悩み抜き「さても壱體どうすれば良いのだ?」と其のことばかりを考え込んで来ました。

ですので、まさに其れが法科を出た文人の宿命なのです。

 

 

ー経済の発展に託した人間達の物欲が文明発展と言う輝かしい看板の元でいかなる犠牲を我々自身に強いてきたことだろうか。

 西日本を恐怖にさらした異常気象のもたらした惨事を契機に、私達は自分自身よりも更に愛おしい子孫達の為にもっと大きな視野で空を眺め、海を眺めなおす必要があるのではなかろうか。この地球を守り抜くために。ー◆日本よ◆ 地球はどうなる|コラム|石原慎太郎公式サイト (sensenfukoku.net)より

 

其の文明発展に対しもの申す立場で居られることこそが文人としての意義です。

文人ーや藝術家または學者や宗教家ー以外の世間の人人には其れを行う能力が元元欠けて居ります。

 

故に彼等には異常気象による災害への恐怖もまた文學や哲學などのまさに悩み多き世界もある意味では無縁です。

其のやうに元元みんなには大きく且つ明瞭に世界の現實が捉えられぬのです。

 

ですが其れをいざ捉えたとなると其処からはまさに荊の道が始まる訳だ。

僕の経験からはまさに其処から「世直し」か「世捨て」の道が始まるのであらうと思う。

 

 

三島先生と石原先生、其れにキリスト教などは其の「世直し」の方を選択されたことかと思われる。

対して芥川や太宰、また加島先生や我、其れに佛教などは「世捨て」の道の方なのだと思われる。

 

其れも結局自分も守れず地球も守れぬので「世捨て」するより他は無くなる。

 

尤も👪主義や復古主義でもって「世直し」しやうとするのはほぼ偽善に陥りませう。

其の意味では三島先生と石原先生はそんな偽善者などではありません。

 

 

さて其の「物欲」ですが確かに其れが大問題です。

ですが我は「物欲」にもまた良し悪しがあるのだとさう思う。

 

悪い物欲の方には大抵は要らない物が含まれて居ます。

其れは本質的には要らぬ物だと云うことです。

 

ですが我に取り万年筆は文人にとっての刀のやうなものでありどうしても要るものです。

でも男性用化粧品やシャンプーやまた台所用洗剤などは不要です。

 

また酒やギャンブルや👩遊びなどもまるで不要です。

此のやうな欲への限定と云うことが世間では行われて居ない訳だ。

ですのでまずはソコが問題です。

 

其の「物欲」を問題とされる石原先生にしてからもがまた豪華ヨットなどを所有されても居たやうで…。

なのですがあくまで文人は壱般人のやうに「消費が美徳」だなどとはまるで思っていやしない。

 

其れどころかいつも「此の世界はヤバい」とさう思って居ります。

なので其の侭に経済成長や會社人間や👪が大事だと言う所謂俗物共とは違うところにどうしても精神が行って仕舞って居ます。

周りの人人はそんな僕を嗤うのでありますがでも三島先生や石原先生、其れに五木先生や養老先生さらに「求めない」詩人であらせられた加島先生の言説に励まされ此れ迄生きて来られたことこそが僕の幸運でした。

 

 

ー世界中を大きな不安に貶めているイスラム系のテロに冷静に対処するためには、あれらの暴力行為の歴史的蓋然性について自覚することこそが何よりも肝要に違いない。

 要約すれば数世紀続いてきた白人の世界支配はヨーロッパの衰退と混乱が暗示しているようにようやく終わろうとしているのです。その今、新しい大規模な宗教戦争が始まろうとしているのです。それはかつてハンティントンが予言した文明の衝突以   外のなにものでもありません。-歴史の蓋然性について ー白人世界支配は終わったー|コラム|石原慎太郎公式サイト | 宣戦布告.net (sensenfukoku.net)より

 

 

其の過激暴走老人としての石原先生はかうして白人の世界支配に対し宣戦布告されて居たのでせう。

其のキリスト教圏文明の暴走と云うことは明らかにあることかと思う。

 

但し個人的にはキリスト教が悪いのだとは考えて居ない。

キリスト教が悪いのでは無く人類の罪に対する自覚が無いが故に此の世界がまさに👿にやられても行くことでせう。

 

今後はまさに中華文明がどう白人の世界支配に対し拮抗して行くかと云う課題が残る。

まさに其のことも歴史の蓋然性が齎すものであることだらう。

 

 

では「日本」はどうなるのかと云う部分に就いてですが、三島先生と石原先生がさうして社會へと身を投じ「世直し」しやうとされたにも関わらず三島先生の御意見は無視され石原先生はアノ厚化粧の👩に都知事の座を奪われしかも石原先生の長男、アノ男は何時の間にやら腑抜けのやうにされて仕舞いまだしも活躍して居るのは良純氏だけなのではないか。

 

其の「日本」はどうなるのかと云う部分では明らかに今後様様なものが壊れて行くことでせう。

其の意味での三島先生と石原先生の日本に対する御憂慮はまさに的を射たものでした。

 

ですが個人的には日本は現世利益主義から壱旦退き精神的な世界観の方をこそ磨いて行くべきなのだと思う。

其れもかっての精神論のやうなものでは無く理性的態度を培う意味に於いての知的成就をこそ是非成し遂げるべきである。

 

世界では日本人と独逸人だけがかうして平均的に頭が良い訳ですので其れは成し遂げられぬ夢物語なのでは無い。

むしろかっての旧制高校生の如くに超然として知的世界に遊ぶ位のことでなくては折角の其の頭の良い部分こそが泣きませう。

 

 

さらに宗教的に大乗佛教はもっともっと「救済を説く宗教」としての側面を打ち出して行くべきでせう。

何故なら此の白人の世界支配による文明世界は今病んで居ます。

 

其れもコロナの問題ばかりでは無く地球環境の破壊などの面で明らかに病んで居ります。

其のイスラム教の価値観がある意味で活躍して居るのはイスラム教もまた救済宗教であり所謂アッラーの神を信じて生き且つ死ねば救われるのですから如何にも分かり易い訳です。

 

故に大乗佛教もまた佛に救済される面を強調し其れを凡夫に対し喧伝することで今よりもハッキリとした救済宗教となり其れにより信者の獲得に繋がり且つお布施の額なども増えることだらう。

ですが個人的には禅宗との縁が深くあるが故にそんなものはまさか信じないことかとは思いますのですが。

 

 

ー「ことさらに来世なるものを信じている訳でもないが、次に何に生れ変ってこの世に現われたいかといえば、いつか相模湾の外れの三つ石崎の沖合いの潮目で出会ったような巨きな離れ鯨になりたい気がしている」ー石原慎太郎さんが遺言状に記した後始末「葬式不要、戒名不要。我が骨は必ず海に散らせ」 (msn.com)より

 

個人的には我もまた葬式は要らずまた戒名も要りません。

と申しますかむしろ今自分でもって其れを考えて居るところです。

 

其処には「學」と「本」又は「石」を何とか入れたい訳でありと申しますのもまさか「筆」やら「万年筆」を入れる訳には行かずまた名前の方から「明」も入れますので其処での組み合わせ方がなかなかに難しい訳です。

其の「明」と云うのは頭脳が明晰な僕には如何にも相応しい漢字でせう?

 

 

我が骨は、其の骨は。

…是非我が家の庭に撒いて下され。

 

其処には何匹も猫が埋まって居ますのですし。

其れに庭の木木の栄養に是非なりたいのです。

 

 

わたくしは石原先生の如くに實積も何も無い無冠の自称詩人ですのでそんな大きなものには生まれ変われず従って野に咲く露草の壱輪にでも生まれ変わることが出来れば其れでもって本望です。

ちなみに来世はあるのか其れとも無いのかと云うことですが、其れは生きて居る間に到達せし知的レヴェルにより規定され得ることなのやもしれぬとさう最近は考えて来て居ます。

 

かのショーペンハウアーがまさに其のやうに考えて居たのではなかったか。

結局は本能領域を強く生き過ぎるとまた何度でも生まれ変わるのやもしれません。

 

ですが理性は其れを望まぬ方向へと人間の心を誘うものです。

よって理性的な人程壱般に次なる生を望みません。

 

其処をあえて望むのであれば壱度植物に生まれ変わりたいとわたくしの場合はかねてより思って参りました。

さうして光合成をやり静かに生きる様程わたくしにとり魅力的な命としての形はありません。

 

 

でもどうせならもっともっとデカい木にでもなれば?

つまりは巨樹に…。

 

いやだから何せ器が小さいのでそんなんにはとてもなれないのだとさう思えてなりません。

矢張りわたくしの場合は野に咲く壱輪の御🌸になりたいのだ。

 

 

よって多くの人人はまた生まれ変わります。

また其処でケモノをやる為に。

 

其れならばいっそのことお前も其の獣に生まれ変われ!

アアーご無体な、金輪際イヤだわ、おほほほほほほほー。

 

 

石原 慎太郎先生の生き方其れ自體が如何にも直球勝負であったことであらう。

ですので我に取り永遠に重要な作家であり政治家なのだ。

 

特に石原先生の其の文明への悩み方が個人的には好きである。

まさに眞面目に生其のものを悩んだことだらう其の生き様こそが好きなのである。