万年筆1
〝行方不明〟エスパー伊東の消息判明!「今は老人ホームに。あまりいい状態ではない」と事務所社長 (msn.com)
いや、まさに他人事では無く還暦を過ぎると基本的に人間は何時どうなってもオカシクは無い状態へと至るリスクが増すものと相場が決まって居やう。
其の股関節を我もまた昨年拾月より痛めたのだったが幸いなことに彼のやうに寝たきりのホーム老人とはならずに回復しつつあるのだと言って良からう。
また最近六拾代の頭の狂った爺がクリニックに火を点け医師を焼き殺したりまた散弾銃にて医師を撃ち殺したりとまさに滅茶苦茶をやって居るので個人的にはなるべく大人しくして置きたいものだとつとにさう思うのだ。
其のやうに頭を狂わせない為にはまず何ぞ美味いものを食い且つ何ぞ樂しいことをするなどして気を紛らすことまさにコレに尽きて居るのである。
『エスパー伊東の毎日ハイ〜ッ!』 熱熱おでんニコニコ喰い - YouTube
うわあー、面白ーい、其れも如何にもバカバカしくて面白いぞ。
さてわたくしの樂しみと言えばまずは石でありさらに筆記具趣味であることはすでに皆様御存じであることかと思う。
其れで、實は壱昨日凄い萬年筆群がヤフオクの方にて落札されて居たのである。
ヤフオク! - C01290/PLATINUM プラチナ/万年筆/ペン先 14K/... (yahoo.co.jp)
まさに其れがコレだ。
此の大阪の骨董屋ー或はバッタもん屋か?ーがかやうにプラチナの戦前の蒔絵萬年筆を五本も出品して居り其れ等が壱昨日落札されて居た訳だ。
ヤフオク! - C01295/PLATINUM プラチナ/万年筆/RK14/ペン先 ... (yahoo.co.jp)
ヤフオク! - C01294/PLATINUM プラチナ/万年筆/RK14/ペン先 ... (yahoo.co.jp)
其の戦前の國産萬年筆の世界は万年筆趣味の中でも最もディープな世界のものだとわたくしは思う。
我は凡そ半世紀に亘り万年筆を愛好して来コレクター歴の方は参拾五年程となるが最終的に行き着いたのが矢張り其の戦前の國産萬年筆の世界であった。
其の前はより古い米國や英國製のアンティーク萬年筆の蒐集家であった。
中でもL.E.Watermanをとりあえずは専門領域として居たのである。
で、何故さうして古い萬年筆の世界へ行くのかと云うことがおそらくは若い方方ー五拾代より以前の方方ーには分からぬことかと思う。
其の理由としては以下のことが挙げられる。
1.洋の東西を問わず戦前の萬年筆は其の素材及び作りが良く長持ちするーつまりは眞の意味での萬年筆であるー
2.兎に角實用筆記具として完成されて居る
3.高い審美眼に対し耐え得る物としての美しさと品格とを兼ね備えて居る
尚わたくしは萬年筆論を述べるのが得意である。
とりあえずは何でも理窟を連ねーこねー述べることが得意なのでそんなもの位ならば幾らでも述べられる訳だ。
事實其れをとある掲示板にて長く書いても居た。
ですが其の物欲論の方には必然として限界があり其れでもってこんなことー文明批判などーもまた書くやうになった訳だ。
つまるところ物質的要素にはむしろ限界が早く来て其れは決して永遠化、普遍化することが出来ない。
だが万年筆コレクターでもってソコを問題にする哲學者などはまず居らず要するに物は見た目がまずは大事で且つ自分が其れを得られれば其れで良いのである。
だが僕の場合はまた少し違うので謂わば「万年筆の哲學者」とでも言うのが妥当なところではないかと思う。
でもさう云う人はおそらく日本中で僕独りなのではなからうか。
だから何度も述べて居る如くにわたくしは常に我が道を行くまさにオンリーワンでの人間なのだ。
自慢話の方はコレ位にして置き兎に角万年筆のことに就き以下に述べる。
結論から申せば万年筆は昔の物の方が明らかに良いのである。
またもしや昔の時計や昔の👩なども或は今のものよりは良かった可能性などがまたあらう。
で、現在でも高額品の中にはおそらくはまずまずの品があることであらう。
だが其れは本質的な意味での優位性を其処に蔵して居るのでは無い。
何故かと申すに戦後特に廿壱世紀以降の万年筆は其の製作工程が合理化されて居り所謂物マニアが求めるやうな「味わい」に欠ける物の方が多い訳だ。
要するに其れは所謂「書き味」だのまた軸の意匠や作りだのに関するまさに本質的な意味での価値に欠けて居る物が多いのだ。
其のことはおそらく所謂大衆文化や大量生産と云った時代の要請としての価値と密接に繋がって居ることであらう。
所謂戦後民主制の如くに多数決での品を合理化しつつ作るのでいきおい其れは凡庸な物とならざるを得ない訳だ。
万年筆趣味も昂ずればやがて其の大衆化がイヤになり謂わば貴族趣味としての戦前の萬年筆へと興味が向いて行くものと相場が決まって居るやうだ。
だが最終的には万年筆趣味もまた物質主義でありもう少し高級なものとなるにせよ博物館即ち蒐集物の博覧會となるしか無いのであらう。
つまり僕に取りより大事なのはズバリ哲學であり観念の方である。
しかしながら物質主義は意外と心を癒しても呉れるものだ。
観念を磨いて居ると往々にして絶望したりもまたするものだが物質主義でもってさうしてヘラヘラと笑いつつ石や万年筆を弄って居ると明らかに其れはそんな観念苦よりも樂しくもまたある。
プラチナ 蒔絵 紅葉山水 | 萬年筆グラフ 目録 (ameblo.jp)
さても僕は此の萬年筆を持って居るのだけれど以前にヤフオクでもって得たものであり實はペン先がオリジナルのものでは無い。
とりあえずはプラチナの戦前の蒔絵萬年筆では此の「紅葉山水」が壱番の物とされて居る。
だが「紅葉山水」はヤフオクなどに出たにせよ常に高価である。
他にも我は五本程プラチナの戦前の蒔絵萬年筆を持って居る。
だが僕がついに得られなかったプラチナの戦前の蒔絵萬年筆があった。
つまりは其れがコレなのだった。ヤフオク! - C01290/PLATINUM プラチナ/万年筆/ペン先 14K/... (yahoo.co.jp)
…うわあ、出たな。
何とか五萬円位で落札出来ないものかな…。
ところが最終的には矢張りと言うべきか壱番高値にて落札されて居た。
最終的に弐人が競い合いちっともオークションが終わらずさう云うのを視て居るだけで存外に面白いものだ。
で、万年筆の素人さん方が見ると何でこんなに小汚い品に拾六萬五千五百五拾五円も支払うのかとさう思うのであらうが我我ー戦前の萬年筆ファンーにとっては其れが特段オカシイことでも何でも無い訳だ。
つまりは万年筆としてのモノが違うのである。
ー近年プラチナの戦前の蒔絵萬年筆の相場が上がりつつあるやうだー
但し八拾年、九拾年、百年と云う時を経た萬年筆は場合によりペンポイントが取れたりすることがある。
基本的に作りは良いので今でも實用出来ることとは思うのだがペンポイントがもし取れれば書けなくなる虞がある。
故にプラチナの戦前の蒔絵萬年筆はとりあえずは観賞用なのだ。
まさに其の侭に保管する為の御品である。
さてプラチナの戦前の蒔絵萬年筆を集める前に我はイーベイ・オークションにてアンティークー百年前後の御品ーの萬年筆を集めて居た。
其の折に感じさせられたことは革新國家であるかの米國には意外と保存状態の良いー其れもほぼ未使用品ーアンティーク萬年筆が多くあったことである。
つまりは流石に國が大きいので何処かの倉庫などにさうした品が必ずや眠って居るのである。
されど日本の場合には何処かの倉庫などにさうした品が眠って居ることなど余り期待が出来なかった訳だ。
特に戦後高度経済成長を目指した我が國では「新しい物こそが良い物だ」との価値観が芽生え我我還暦世代の小学生時代などは其れこそ🚅こそがサイコーの鉄道なのでありジャンボ機こそがサイコーの旅客機なのでありかの大阪万博こそがサイコーの「人類の進歩と調和」であるとの価値観がしかと根付いておったのだった。
しかしながらアレはまさに参拾年程前であったことだったらうか、いつものやうに名古屋丸善の万年筆売り場へ出向いた我は其処に見慣れない古い萬年筆が数本並んで居ることに気付いたのだった。
また其処にはかう書かれて居たやうに記憶して居る。
「最近丸善の倉庫から出た萬年筆ですので此の度特別に販売させて頂きます」
其のうちの壱本がまさに此の「蒔絵螺鈿」の戦前のプラチナであった。ヤフオク! - C01290/PLATINUM プラチナ/万年筆/ペン先 14K/... (yahoo.co.jp)
其の値段は拾萬円程であった。
拾萬は高いのではあるが当時わたくしが求めて居た多くの限定万年筆に比しより高かった訳では無い。
私は購入を迷った。
次の週にまた名古屋丸善の万年筆売り場へ出向くと、まだ其れが売れては居なかった。
まさにソコで決断すべきであった。
プラチナの戦前の「蒔絵螺鈿」であり、しかも未使用品なのである。
結局其れを逃したのは我が当時古い萬年筆に対する敬意をまるで持ち合わせて居なかったからである。
当時我は多くの限定万年筆に目が釘付けとなって居り古い萬年筆にもまた蒔絵萬年筆にも大きくは興味を抱けないで居た。
今思えばまさに其れこそが本物のプラチナを得る為の千載一遇のチャンスであった。ー元元我はプラチナの万年筆のファンであるー
其れより年月が過ぎ齢五十五を過ぎた頃からようやく其の戦前のプラチナ萬年筆の世界へと足を踏み入れて行くこととなる。
ヤフオク! - C01292/PLATINUM プラチナ/万年筆/RK14/ペン先 ... (yahoo.co.jp)
此のタイプの物も弐本得、壱本は其の後暫く實用して居た。
戦前の萬年筆の金のペン先は手間暇をかけ鍛金されて居り兎に角強い。ー曲げに対し強いー
戦前の日本人の精神もまたさうであった可能性が高くあり対して我我六拾代の精神はどうもかうして甘いやうな気がしてならぬのだがもしや其れは気のせいなのだらうか。
尚近頃は中國の万年筆の軸に戦前の金ペン先を付けたものばかりを愛用して居るのだが此の「蒔絵古銭」はオリジナルニブ付き故探し出してまた是非使ってみたいものだ。
戦前の萬年筆への愛好は万年筆ファンの中でも特にコアな部分であり謂わば万年筆の本質面を探り其の本質としての質の高さをこそ評価して行く向きでのものだ。
要するに万年筆趣味の中でもズバリ上位に位置するものである。
其の物質主義としての価値ヒエラルキーを前提とする限りではまさにさうなる。
だが例えば作家などでも筆記具などには拘らずまさに書く内容の方こそが壱番大事だと考えて居られたものである。
逆に申せば物欲作家や物欲詩人にはロクなものが書けぬものとさう相場は決まって居るのであらう。
ですが我に限り最終的には面白いことや樂しいことが壱番好きでありまさに其処は別に哲學者でも何でも無いのである。
即ち本音では哲學などするよりももっともっと常に物と戯れて居たいだけなのだから…。