目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

そんな三重の森でもってまた癒されたい

そんな三重の森でもってまた癒されたい

 

 

 

要するにホモ・サピエンスは妄想を生きて居るそんなヒマがあるなら今すぐに其れを止め眞實としての今を生きるべきだと壱貫して詩人はさう述べて来て居ります。

要するに此の妙に暑いのは人間共の仕出かして来たことの其の報いでありいざさうであるならばまさに此の文明のあり方其のものが間違って居たのです。

 

また其の文明のあり方其のものが間違って居ることに対し深く悩み苦しむことはむしろ悪いことでは無くアナタの心が其のやうに穢れて居ないからなのだ。

ですが例えば精神科へかかるとまずは「確かに君の気が狂って居るので此処で先生と壱緒に治しませう。」などと言われることだらうがでも其れは壱つの文明の手であり決して其れに騙されてはなりません。

 

だからまずは「先生、むしろアンタの方が文明に洗脳されて居るのだ。」とでも言ってやりませう。

ですがまさか教師をバカにしてはイケナイ。

 

教師は今滅茶苦茶になって居ますが特に國語の先生からは學ぶことが大です。

國語の先生からは三島由紀夫芥川龍之介の生き方などを是非學ぶべきだ。

 

其れから宮澤賢治中原中也の生き様をまたしかと學んで下され。

 

 

左様に人生とは勉強です。

勉強とは👩遊びなどとは違いストイックなことです。

 

最近ホモ・サピエンスが滅茶苦茶なのはそも認識の仕方が狂って居るからです。

どう狂って居るかと云うにホモ・サピエンスは此の世に対し多くを求め過ぎて居ます。

 

ですが其のホモ・サピエンスの半分は動物であるに過ぎない。

残りの半分はニュータイプですが其れが狂うと其の動物であることさえもが維持出来なくなる。

 

でもってすでに其の動物であることさえもが維持出来なくなりつつある。

いや確かに今のところはかうしてなんとかなってるが時間の経過と共に破壊は進むつまりはより問題が深刻化して来る。

 

 

ではどうすれば良いのか?

まずは価値観をなるべく自己化して下され。

 

すると此の文明社會が築きし諸価値の虚妄性に気付くことが出来る。

すると自然と其の文明の諸価値より距離を置くやうになる。

 

さすればアナタ自身がむしろ認識上は救われるのです。

但し地球温暖化だの核戦争だの領土侵犯だの労働の破壊だのそんな数数の社會問題からは元より救われる訳では無い。

 

ですがあくまで個としての認識上はかうして具象的に救われて参ります。

但し其れも理性として選択したところでの社會的隔絶ー精神的な意味でのーが常に求められて居る。

 

 

うわっ、冷てえ。

此の凍る寸前まで冷やした「おいしい麦茶」が兎に角冷てえ。

 

まるで露西亜へでも行ったかの如き気分ぞ。

 

プーチン氏の「裸で乗馬」姿を冗談に、G7首脳がサミットで (msn.com)

 

おい待て、かのプーチン氏にはかうして露出狂の趣味が矢張りしかとある!!

つまりは其の獣であることこそが彼の好みなのだ。

 

G7首脳らがプーチン氏の“裸いじり”? 侵攻後初の動きも…|テレ朝news-テレビ朝日のニュースサイト (tv-asahi.co.jp)

 

でも個人的には先進資本主義諸國の首脳は其のプーチンのケモノ性を笑えぬことかと思う。

なんとなればお前等先進資本主義諸國がこんな温暖化を仕出かしたと云うのにまずはソチラの方をしかと反省すべきでありプーチンの露出趣味などはまだまだ可愛いものではないか。

 

 

 

さて本日は陽の光の具合が良い。

 

だからつい先程迄日光浴をしつつ貴蛋白石を観賞して居た。

貴蛋白石はかうして色とりどりに輝く。

 

静かなる午後がかうして過ぎて行く。

だから其処はまるで絵画のやうに幻想的な現實の様だ。

 

此の時を永遠化したいがそも其れは出来ない。

何故なら諸行は非常であり此の幸福な瞬間もまた半年後、また来年にはどうなっているものやら分からぬ。

 

現存在とはそんな移ろいゆく瞬間をしか生きられぬものだ。

 

尤も自然はもっともっと移ろいゆく瞬間の集積である。

自然に於けるどんな記憶もまた儚げで其の場限りでのものばかりである。

 

 

其の意味では理性とは即ち文明とは其れを永続化しやうとする試みであった。

謂わば其れはキリスト教の現世版のことである。

 

だがキリスト教の現世版は矢張り邪教となるのであらう。

つまりはさうして人間界は邪教をやりながら👿ー悪夢ーを生きて御座る訳だ。

 

さて其の永続化の試み程危険なものは無い。

なんとなればキリスト教は別に現世に神の國を築かうとする訳では無い。

 

キリスト教はさうしてあの世にて救われるのだから其処は浄土教とまるで同じであくまで安全な思想である。

 

尚佛教もまた永続化したいのだが其れが限定された生命の流れー現世としての生ーでは無理なのでむしろ其れを止めれば逆に生命の連鎖より解脱出来るー永遠化出来るーとさう佛陀は考えた。

だが其れは人間としては出来ぬことなのでもはや人間を辞めるしか無く其れで無くてはむしろ其のやうに佛と云う価値を永遠化することなどは出来ぬ。

 

より正確には相対分別を脱することで価値認識を根本より浄化し且つ価値の永遠の放棄をこそ得る。

さうして永遠の有を得ることなのでは無く永遠の無化を行う。

 

 

またより正確には有でも無く無でも無いところに認識をシフトし👿でもまた神でも無い佛としての認識を築く。

さらにまたより正確には其の認識は築くのでは無く放棄することにより結果的に得られる認識としての形である。

 

左様に佛陀の認識は現世を永遠化する試みを捨て去ることでむしろ自己を永遠化する試みである。

 

其の自己とはむしろ「求めぬ自己」である。

何をも求めずしてむしろ全てを得るに至る。

即ち其のやうな論理以前での眞理の履行である。

 

 

夕方にバルコニーより布団を仕舞うと新瑞橋のユニー(現ドンキホーテ)のネオンサインが何時もの如きに見える。

但し天気の良い日は特に其れが美しく輝いて見える。

 

🌸などもまたこんな日は輝いて見える。

昼頃に見たOさん宅の赤い芙蓉の🌸が極めて美しかった。赤花芙蓉はどんな植物? わかりやすく解説 Weblio辞書ー丁度こんな感じであるー

 

かように此の世のなべてはむしろ美しいが只壱つ人間の認識だけが曇って居るかのやうだ。

人間には人間であること自體がおそらくはついぞ乗り越えられぬ試練なのだらう。

 

また🌸も🌸を乗り越えられずさらに🐈も🐈を乗り越えられはせぬが其れでも彼等にはおそらく罪は無いのであらう。

かうも罪深くしてしかも欲深い人間の営為とは違い其れは常に汚れ無き何かにさう其の自然の摂理に従い生きて居る命としての強みを持って居る。

 

だが人間共には其の摂理は通用せず、さうして日日彼等は何らかの価値に突き動かされ如何にも騒騒しく立ち回るのだ。

 

さうして罪無きものは常に美しく逆に罪深い者共は常に醜い。

其の醜さの象徴こそが我が家の前の道を猛スピードにて走り去る🚙の数数だ。

 

まさに其処にこそ人間の抱え込む心の貧しさが正確に表れて居る。

彼等は果たして何をそんなに急いで生きて御座るのか?

 

 

さて昨日寿司を差し入れて呉れた従妹の父、つまりは母の弟である叔父が壱週間程前に田舎でもって自転車で転び入院したのださうだ。

其の田舎とは三重県菰野町のことであり叔父は今其処で壱人暮らしをして居る。

 

其の叔父は仕事の出来た所謂豪傑の人だがかって中学で壱番の成績だった人でもあり現在は俳句を詠む生活を其の壱軒家にてされて居るさうである。

ゴルフが大好きでかって私は叔父にドライヴァーを壱本贈呈したことがあった。

 

従妹が家を観に行くと🐈が沢山居て近所から苦情などもまた出て居るらしい。

何やら我が家の状況と瓜弐つで笑えて来て仕舞った。

 

其の叔父に是非手紙を書きたいところなのである。

家の親戚縁者でもって田舎暮らしをして居る文人などと云うのは其の人ばかりなのである。

 

 

菰野町は何故か昔良く行ったが良き処である。

 

2022年 菰野町で絶対外さないおすすめ観光スポットトップ10【定番から穴場まで!】 トリップアドバイザー (tripadvisor.jp)

 

森で癒される | 三重県民の森 (mie-mori.jp)

と云うことで何故か其の癒しの為に昔は屡こんなところまで訪れて居たのだった。

 

 

全く何をやって居たのだったか?

さうして三重や岐阜やまた静岡などにも屡出没し兎に角さうして森を訪れて居たのである。

 

だがわたくしはまさにソチラへと心の中身ー価値観ーが偏向されたが故にかうして文明其れ自體を批判的に捉えることが可能となるに及んだ。

おそらくはそんな経験が無ければ文明其れ自體を批判的に捉えることなどは決して出来なかったことだらう。

 

わたくしはそんな自身の経験を然し外れ者、はぐれ者の人生だとかっては認識して居り其れを積極的に人に話したりはして居なかった。

だが今其のやうな體験こそがむしろ光り輝くやうな記憶と化して居るのはまさに不思議なことである。

 

 

今思えばむしろ信ずるに足る経験とはそんな自然との交感の體験のみである。

資本主義によるどんな美果もまた其の體験に比せば其れは貧しいものであるに過ぎぬ。

 

叔父へは早う手紙を書き出さねばなるまい。

学生時代に山岳部に居た叔父は山にて滑落して命を失いかけたが生きて帰って来た。-かっての新聞にも其れが載った-

 

其の後大企業の重役まで勤め上げ今はさうして俳人となって居る人だ。

其れにかうして我が何かを書く人間であることもまた叔父は知って居るのである。