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善悪の基準の是非ー+ホーキング博士による文明論より學ぶことー

善悪の基準の是非ー+ホーキング博士による文明論より學ぶことー

 

 

 

 

何と此の猛暑でかうしてチョコレートが全部溶けて居る!

尤もドロドロのチョコレートはまるで溶岩のやうで美味そうではあるが…。

 

此の溶けたチョコレートを水に入れチョコレート氷飲料などをつくってはどうか?

おそらくは其の凍る寸前のチョコレート氷飲料は滅茶苦茶に美味いことであらう。

 

 

尚現存在の場合は元元事の良し悪し、また善悪の基準などに就き其れを持ち合わせては居ないのである。

何故なら現存在に取り大事なのはあくまで己に取っての良し悪しでありまた善悪の基準なのだから。

 

つまるところ其れでは、

1.価値観が利己主義に陥る

2.価値が感情的に流される

 

側面を多分に持って居る。

 

であるからこそ其処に宗教的な解釈が是非必要となる。

勿論其れは法律や道徳や社會正義と云った所謂社會的規定以上に厳密に定められることだ。

 

ところが其の宗教もまた宗教や宗派の違いによりむしろ大きく価値観が変わるものである。

だから往往にして其処では正教と邪教の区別が生ずるが其の区別自體が實は内部論理にて組み上げられるものだ。

 

即ち自分のトコだけは正しいとさう何処でも信じられて居るが其の正しさ其れ自體を組み上げて居るものとは其れ即ち其の根拠には欠けしかも理性的では無いー信仰と云うー思い込みな訳だ。

だからと言って無論のことわたくしは宗教の意義を否定するのでは無く只さう云うものだと述べて居るのである。

 

 

要するに宗教であらうがまた藝術であらうが最終的には其の思い込みにより価値観を形成して居るのである。

元元其れは客観的要素が欠けて居るので所謂普遍的価値とはなり得ぬ筈なのに何故かさうもまたなって居るのである。

 

では近代科学に其の思い込みが無いのかと言えば其れとはまた別の次元で思い込みが強くある訳だ。

近代科学とはむしろ其のやうに現存在の内部論理にて組み上げられし強度の思い込みとしての産物である。

 

ところが其の思い込み其れ自體は「考える動物」としての現存在のアイデンティティ其のものなのでもまたある。

よって現存在から其のアイデンティティの部分を奪い且つ否定する行為は其の「考える」と云う「理性」を認めぬことと同じである訳だ。

 

無論のことそんなことは元元無理なことで何故なら現存在とは「考える」動物なのであり従って決して🐈や🐕と同じではあり得ぬからなのだ。

では其処でどう「考える」べきなのだらうか。

 

 

個人的には其れは「理性的」に「考える」ことでなくてはならないとさう思う。

「理性的」に「考える」こととは現存在が寄って立つ価値に対し自ら制限を加えまさに其処にて「理性的」に「考える」ことだらう。

 

即ち理性とは其の自ら選び取る欲望の制限であり抑制のことである。

 

求める→求めない

もっと欲しい→もう欲しくない

👩に飛びつく→グレイヘアだけにする

 

尚其処でグレイヘアだけがあれば良いのでありグレイヘアの付いた中身の方はむしろ要らぬのである。

 

さて問題はまさに其の内部論理としての此の世の進め方のことだ。

今や現代社會が求める正義がさうして本能化して居るのはあくまで社會が其の内部論理の内側にて回されて行くからのことだ。

 

だけれどもとりあえず表面化して居る問題が中露による社會主義的覇権主義國家と自由主義資本主義國家との対立の様であり決定的な断絶の様である。

だがむしろ問題の本質は其の内部論理規定にこそよることだらう。

 

其れも、

 

1.価値観が利己主義に陥る

2.価値が感情的に流される

 

の部分へと集約されて来るのではないかとわたくしは見て居る。

 

つまりは宗教的規定の弱體化により其の事の良し悪し、また善悪の基準にせよ須らく内部論理化して仕舞って居るのである。

であるからこそそも他の論理なり価値観に対する寛容性や理解力に欠ける訳だ。

 

要するに其処では客観性に基づくであらう普遍的な視野が得られて居ない。

其れを壱言で述べればさうして理性が原始退行化して居るのである。

 

要するに其の価値基準其れ自體が利己化され尚且つ狭まって仕舞って居る。

 

 

よって理性の枠はなるべく大きく捉え普遍的に事象を見詰めて行く。

まさに其れが眞の意味での理性の働きであり近代的な価値としての要諦でもある。

 

其れを視野狭窄の域にまで落とし込むのは現存在の中に内在するケモノとしての欲望である。

現代社會はむしろ其のケモノとしての欲望をのみ加速させつつ文明の今を成り立たせて来て居る。

 

よって今現代人に取り大事なのはあくまで己に取っての良し悪しでありまた善悪の基準なのである。

 

其処からしてもキリスト教に於ける善悪規定は今大変重要な役割を担って居る。

政治的なまた組織的な善悪規定はもはや矛盾の限界を超えて来て仕舞って居る。

 

其のやうなケモノとしての欲望の場にこそ善は善、悪は悪との潔癖なる宗教的認識こそが是非求められて居る。

 

 

さて本日はまさに採集日和の光の良い日であったが歯医者の予約がある故其れをやっては居られない。

 

其の歯医者に行くだけで實は大変である。

何故なら気温が35度程もあると流石に自転車は厳しいのである。

 

おそらく弐、参拾年後には其れが軽く40度を超えて来る筈だ。

 

であれば、将來自転車は夏場に使えなくなる虞が多分にある。

其れで夏には強い筈の我も兎に角汗ダラダラにて相生山の拾番坂を登るうちに可成に其の暑さが堪えたものだった。

 

だが帰りにはすでに何とも無かった。

 

歯医者ではまた大規模な治療を行うのでまた弐万円ほどもかかる。

だが此の歯医者は信頼出来るのでおそらくは患部がもっと良くなることであらう。

 

良くなる?

其れはもしや近代の齎す罠なのでは?

 

いいや医者とアマゾンー本と文房具ーは矢張り我に取り必要である。

だとするとあくまで限定的には近代的価値を認めるのですか?

 

いや認めざるを得ぬ。

また誰もが結局はさうなる。

 

 

だが馬鹿はむしろ無制限に其れを認める。

対してわたくしの場合は要るものにだけ其の価値を認める。

 

馬鹿は其のやうに常に理性による歯止めが効いて居ない。

尚昨夜NHKの番組で村山と云う高名な宇宙物理学者が変なことを述べて居たのが酷く気になった。

 

 

NHKアカデミア 第3回<宇宙物理学者・村山斉>② - NHKアカデミア - NHK

 

宇宙も人生もすべて数式で表せる!? NHK ACADEMIA ~宇宙物理学者 村山 斉~|予告動画 |NHK_PR|NHKオンライン

 

で、此の人の本を確か読んだこともまたあるのだけれど其の「宇宙も人生も全て数式で表せる」ともしも本気にてさう考えて居るのなら其の考えはもう捨てた方が良いことだらう。

だからさう云うのが合理化と云う事なのであり実際の人間の行いは其れー数式ーよりも遥かに悪どくてしかも常に罪深くしてドロドロして居る。

 

合理化のイケナイところは其のドロドロの部分さえをも変数化?して捉え其れでもって人間が分かった気になることである。

より正しくは人間を學ぶに当たり文學以上に其の人間の本質を捉えた試みは他に無い。

 

其れが数式にてそも表される筈が無い。

第壱文學作品にはまず数式など出ては来ない。

 

 

でもかうして確かに人間を描き切って居る。

つまりは数式や化学式でもって人間其のものが捉えられる訳が無い。

 

むしろさうした考えでもって自然科学者等がやりたい放題にやって来たお蔭でこんな最悪の結果を招いて仕舞って居る。

どだい此のクソ暑いのは果たして誰の責任なのだい?

 

其れが文學と僅かでも関係があるのかい?

いいやさうでは無く其れは科学や科学技術との関連が矢張り壱番疑われる。

 

其の村山氏の壱種高揚したかのやうな発言をTVでもって視て居た我は「此れは酷いな」と正直さう思ったものだった。

其の科学浪漫への耽溺振りつまりは科学者の自己陶酔振りが余りに酷く感ぜられもはや弐の句が継げられなんだ。

 

 

ー発病による心境の変化について、著書『ホーキングの最新宇宙論』で「早死にするかもしれないという現実に直面すれば、誰でも命の大切さや、やるべきことが山ほどあることに気づく」と振り返っている。

 自身の研究を紹介した一般書『ホーキング、宇宙を語る』は世界的なベストセラーに。数式をほとんど載せなかったのは「数式を一つ入れるたびに、売れ行きは半減する」からで、宇宙の魅力を分かりやすく伝えることに心を砕いた。

 死の直前も「宇宙は複数存在する」との学説を証明する論文を仕上げていたといい、最期まで研究に情熱を注いだ。ー【クローズアップ科学】ブラックホールはどうなる? ホーキング博士、革新的理論で常識に挑んだ宇宙論の巨人(4/5ページ) - 産経ニュース (sankei.com)より

 

 

個人的にホーキング博士は所謂ものが良く分かった科学者だったのだと思って居る。

博士はかって御自分では樂観論者だと述べて置きながらも人類の未来に関しては極めて悲観的な発言を繰り返されて居た。

 

ホーキング博士が警告 滅亡をもたらす「人間の欠点」とは | ハフポスト NEWS (huffingtonpost.jp)

ホーキング博士「人工知能の進化は人類の終焉を意味する」 | ハフポスト NEWS (huffingtonpost.jp)

 

尚個人的に興味があるのは其のホーキング博士が病と云うマイナスの立場を背負われた天才科学者であったことだ。

 

ー発病による心境の変化について、著書『ホーキングの最新宇宙論』で「早死にするかもしれないという現実に直面すれば、誰でも命の大切さや、やるべきことが山ほどあることに気づく」と振り返っている。ー

 

兎に角此の壱点である。

其の死を見据えると云うこと、或は己の限界としての病を突き付けられた時に初めて人間の認識は謙虚に且つ清らかになるのである。

 

要するに其の人間に取ってのマイナスの領域を直に見詰めぬ限り其の人には人間に取っての「苦しみ」とは何なのかと云うことがついぞ分からぬものなのだ。

まずは現代人には其のことがまるで分かって居ない。

 

ハイデガーがかっていみじくも述べた如くに「現存在は死を先駆することで初めて本来的な認識へと至る」のだ。

また其れは宗教以前での其れこそ現存在に取り普遍的な認識のあり方のことである。

 

 

で、何故ホーキング博士が其の天才にも関わらずむしろ壱般向けの本では数式を壱切使わなかったかと云う点が重要だ。

何故なら其の数式は現存在の心のあり方を本質的に規定するやうなものでは元より無いからなのだ。

 

また自然界ですら其れを数式のみにて規定することは出来ぬのである。

其れこそ自然界にもまた矛盾は満ちて居り其はまるで此の人間界、文明世界とも似た者同士なのだとも言える。

 

要するに此の世界はそんな合理的に割り切れぬ世界なのだとさう申す他は無い。

また文學は其の割り切れぬ世界である複雑怪奇な此の現象界とむしろ眞正面から向かい続けて来たのである。

 

どだい文豪が其れも多くの文豪が何故幸せには死ねなかったのか?

其れは其の文豪の死其れ自體が其の不条理でもってして割り切れぬ此の世の實相をむしろ其の侭に映し出して居るからのことだらう。

 

 

ー発病による心境の変化について、著書『ホーキングの最新宇宙論』で「早死にするかもしれないという現実に直面すれば、誰でも命の大切さや、やるべきことが山ほどあることに気づく」と振り返っている。ー

誰しもがもしも己の死を先駆的に見詰められたのであれば現存在の認識はおそらく今とはまるで違うものとなることだらう。

 

さて文人は其の先駆した死を生きて居るかのやうな人がまた多いことかと個人的には思って居り其の意味では我もまた其の「半分死んで」今を生きつつある人間の壱人である。

其のやうな心の状態とイザなると、其れこそ社會が擦り寄らうとして居る価値の虚妄性に気付いて行かざるを得ず、またさらに「自分は今何をすべきなのか?」と云う問いに対し此れ以上無い程に明瞭な回答が得られるものなのだ。

 

現代人及び現代社會にはまずは其の理のやうなものがまるで分かって居ない。

では我我は其処に何をすべきなのか?

 

ですがわたくしはすでに其れを日日やって来て居ります。

我はすでにそんな認識世界を日日生きて居りおそらくは其の認識が齎す価値観と現代人及び現代社會が奉ずる価値観とでは根本的な相違がある。

 

よって我はなるべく其の部分を織り込む形にて其の認識に於ける内容を具體的に示して来た積もりである。

其の現存在の未來に関する悲観性は其の認識こそが指し示して居ることなのであり其れは我が曇った心にて其れを語って居るのでは無くむしろ澄み切った心よりさう見えて来るものを其の侭に言語化して居るだけのことである。

 

 

だからホーキング博士もまたそんな負の要素をも見据えた壱種の清い認識でもってさうした発言を繰り返されて居たに違いない。

尚其のやるべきこととは此の世でもってやらんで良いことを除いた上での「やらねばならぬこと」である。

 

個人的には現文明がやらんで良いことをやり過ぎた挙句にかうなって居るものとさう考えて居る。

やらんで良いことをやらぬやうにさう導いて呉れるものとは其の数式などでは無く心のあり方の方だ。

其の心のあり方を整える為にこそ人文學は決まって威力を発揮して呉れる筈である。