目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

其の「対極主義」としての全的な闘争に就いてー岡本 太郎論 弐ー

其の「対極主義」としての全的な闘争に就いてー岡本 太郎論 弐ー

 

 

 

 

ー飲茶:「仕事に疲れたら読む哲学の本」のようなテーマをご提案いただいた記憶があります。ただ、当時の僕は「哲学はビジネスの役に立ちません」という主張をTwitterでもブログでも発信していて、中村さんのご提案もめちゃめちゃに否定した気がするんです。

――そこまで「ビジネス×哲学」というアプローチを否定されるのは、どうしてなんですか?

飲茶:哲学はそもそも、利益なんて度外視で、「本当に正しいもの」「真理」「本質」を追究する学問です。それって「ビジネス的な考え方」とは真逆なんじゃないかと思うんですね。その証拠に、哲学者って生活が破綻している人が結構多いんですよ(笑)。

――なるほど(笑)。

飲茶:もちろん哲学者でお金持ちという人もいなくはないですが、基本的に哲学そのものを使ってお金を稼いだ人はまずいません。有名どころでは、マルクスニーチェも生活は破綻していますし。そんな人の考え方を参考にしても、ビジネスは成功しませんよ、というのが僕の主張なんです。

――ぐうの音も出ない、説得力のある主張ですね(笑)。ー世界は「3つの正義」で動いている。「平等」「自由」、そして「宗教」 | 正義の教室 | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)より

 

所謂哲學は「難しい思考=考え」をするものだとの感想が壱般にはおありなのかもしれないが其れは別に難しいものでも何でも無く要するに其の観念化の方へと現存在の認識をシフトして行っただけのものです。

ところが観念化の方へと現存在の認識をシフトして行かぬ場合にはまた其れが理解不能な認識とも化すのである。

 

また哲學や宗教さらに藝術の間には常に強く親和性があり言わば其処にて行ったり來たりして居る訳です。

逆に言えばまさに其れ等こそが所謂世間離れした非功利主義であり非現世利益的な観念世界のこととなるのです。

 

ところが所謂世間體なる価値観の世界は往往にしてより現金化しつまりは持ってれば持ってるし持って無ければ何も持って無い世界を生き易くなる。

 

現實主義⇔理想主義

即物主義⇔観念論

 

のやうに其処で幾らでも分離し且つ価値観の對立を引き起こす。

ですがより正確には其の理想論に傾き過ぎても所謂「観念地獄」へ堕ちることとなり決して宜しくは無い。

 

ですが其の「哲學の世界」に限れば「太った豚より痩せたソークラテース」との命題が屡言われて來たりも致して居る。

【出口学長・哲学と宗教講義】「太った豚よりも痩せたソクラテスになれ」のほんとうの意味とは? (msn.com)

 

まさに其の今に満足した大衆の考えよりも不満足で不幸で最期には牢死したソークラテースの思考の方が尊いとさう言うのであります。

 

で自分は元元藝術や宗教には強く要するにさう云うアタマの内容を持って此の世に生まれ出でて來ております。

ですので普通にしていてもいつも何かを考えるそんな人間なので次第に哲學者のやうなことまで言うやうになりましたのです。

 

其れもごく自然にさうなりました。

尤もさうなったのはむしろ齢五拾を過ぎてからのことです。

 

 

其の哲學は矢張り知識がありませんと其れらしきことを言ってもすぐにボロが出ます。

要するに御勉強を積み重ねて居ませんとすぐに其れらしきことも言えなくなるのです。

 

そんな訳であくまで自分に取り其れ等の分野は同根を持つ壱つの理想世界の建設の為のものです。

つまりは「観念的な樂園」を此の世に築かんとせんが為の武器なのでありよってむしろ認識や価値観の流れを整えんが為のものなのだ。

 

ところが世間の人人に取り常に其れは縁遠い世界で其れもまあ此処をあえて好んで視て居られるやうな方方はまた其れとは違うのやもしれませんが大抵の場合世間は所謂「現實的」にのみものを見且つ判断を下します。

 

だけれども其ればかりを繰り返せば所謂「現金主義」に毒されて行くことでせう。

いや其れもそんな大阪の商人根性ばかりを批判する訳では無いのですが兎に角金ピカ主義に凝り固まりことなどは目に見えて居ます。

 

ですからアノ秀吉公好みでの「黄金の茶室」ばかりではもうキンキラキンなのだけが偉いとさう云うこととなってまう。

其処をあえて「世の悲惨さ」や「まさに長大な現存在による歴史の流れ」の方を向き少なくとも観念的な「自由」=非ヒエラルキー化の流れを得んが為の精神的闘争こそが其の宗教であり藝術でありまた哲學上の目的です。

 

さて人生の価値は其処にこそ尽きて居るものとわたくしは考えます。

其の要らぬバイアスを取り除き如何に自律的、自立的な思考を其処に磨いて行けるかと云うことのみです。

 

またつまりは現存在の生で最も大事なこととは👪主義でも現ナマ主義でも「日本國萬歳!」でも無く自分でもって意思決定し何処まで考え続けられるかと云うことのみです。

何故なら現存在は最終的には「思考」することでこそ此の世に其の生を成り立たせて居る生物なのですから。

 

わたくしが此処で最終的に世間での認識のあり方其のものを批判し其れを「洗脳」と申したのはまさに其のやうにわたくしには今此の世の様がさう見えて居るからなのであり故に其れは文學の御話では無く所謂哲學的直観としてまさにさう見えたのである。

 

 

さてまさに此処から「岡本 太郎論」の方へとシフトして行かうかと思う。

 

 

「藝術は対極だ」

 

其の岡本 太郎氏はしかし常に其処に「立って」居る感じが致します。

對して大衆は「立って居る」のでは無くして「何かを拝んで居る」やうな感じでせうか。

 

要するに「自立する精神」ではよもやありませんのです。

さて自分はかうして偉さうなことも述べますがあくまで半分は大衆其のものです。

 

其れも意外と大衆嫌いなのですが自分自身の大衆性に関してはもはや如何とも出来ぬところがあります。

もしや其の如何とも出来ぬところをこそ岡本 太郎氏は藝術の方に組み込もうとされたのかもしれません。

 

藝術とは左様に其の侭では大衆に受け容れ難いものです。

何故かと申せば先に述べた如くに藝術と大衆が寄って立つ価値観其のものが異なるからです。

 

異なるものは對立し火花を散らしたりもまた致します。

ですがあえて其の對立を岡本 太郎氏は藝術の中に取り込んで行ったのやもしれません。

 

 

岡本太郎の思想「対極主義」とは

岡本太郎が提唱する「対極主義」とは、当たり前やそれまでの常識など既存のイデオロギーや様式に あえて、それに反する「対極的」な考え方をぶつけ、一つの作品に詰め込みます。その矛盾(つじつま が合わないこと)から生まれる緊張感が、見た人にその矛盾について考えさせ、新しい考えが生まれて 前に進むことが出来るという考え方です。ー2年美術コロナ課題その5 (chuo-tky.ed.jp)より

 

なる程、まさに其の藝術が即哲學なのだ。

他方で哲學的要素をむしろ極力排して行く藝術などもまたあることかと思われる。

 

問題は其の「ぶつけ合う」やり方が日本の體制とはそも正反對となることでせう。

何故なら日本の體制のあり方とは異質なもののぶつかり合いでは無くまさに同質なものとしての調和なのです。

 

そんな「みんなで同じをやる」ことがむしろ壱番だとされる世間を形成して居り其処を岡本 太郎氏のやうなことを言えばむしろ煙たがれられます。

当の岡本 太郎氏は其れでも「自己本位」に其れをやり遂げて行く訳です。

 

其の反発力と申すか反骨精神のやうなものが岡本 太郎氏自身を世に屹立させて居る力其のものであることでせう。

でもって其の「対極主義」こそがまさに自分の哲學的概念に瓜二つであることに今回初めて気付かされた。

 

 

現實主義⇔理想主義

即物主義⇔観念論

 

つい先程も此の弐元論を展開して居ますがつまりは自分は其の「対極主義者」なのです。

 

また本能⇔理性

 

との課題にも此のところは取り組んで來て居る。

 

で、其の対極のものをぶつけ合うと火花が散りますが其の火花其れ自體を岡本 太郎氏はまるで意に介されて居ない。

むしろ火花が散りませんと変わりやうが無いので其処に「進化」が止まって仕舞います。

 

岡本 太郎氏は其の停滞をこそ藝術としての自我により打ち破らうとされて居たのだらう。

藝術としての自我には破壊力もまた内包される訳でつまりは藝術としての理想を形作らんが為には破壊もまた辞さぬ訳ですが最終的には破壊其のものでは無く「進化」をこそ促して居る訳です。

 

また自分の考えの方でも「ぶつかり合い」が無いと眞の意味での「理解」に至ることなどは無い。

むしろぶつかってこそ初めて相手が分かることとなる。

 

まさに其の部分が顕在化した自我解釈となる訳で其れが所謂日本の伝統的な自我解釈とはまるで異なる部分です。ー其れは多分正反對なのでせうー

 

 

写真家・岡本太郎 -「対極主義」の眼|コラム|写真家・岡本太郎の眼-東北と沖縄|せんだいメディアテーク (smt.jp)

 

ところがかうして岡本 太郎氏は頻繁に旅をしむしろ「過去が保存されて居るであらう東北や沖縄」の写眞を膨大に撮影されて行く訳です。

其のもはや都會より失われて久しい「日本の過去」への旅がおそらく最も大事なインスピレーションの部分となり得たことでせう。

 

自分はなかなか今は其処までのことが出来ずよって単純に其れが羨ましく感ぜられる。

自分には感度の高さだけはあるので東北や沖縄へ行けばまた色んな化学反応が起こることでせうに嗚呼勿体無い話だ。

 

また自分が特に興味を持つのは矢張り東北地方です。

其の縄文文化圏への文化的な興味がかねてより心中に大きく渦巻いて居ます。

 

と申しますのも参拾代の頃は宮澤 賢治の文學の研究の方を独力にてして居りました。

故に宮澤 賢治の詩などに就いては元來強い訳です。

 

でも下らぬ社會批判の為に其れが書けなかったことはまさに心外であり書く内容の上での不満点の壱つです。

 

 

ー私はまず「抽象」という方法によって、直接自分をうち出し得る予感を得た。それはパリで闘う、闘える自信となった。そこにとけ込むと同時に、闘う……逆説のように思われるかもしれないが、闘わなければ真にとけ込むことは出来ないのだ。ー[岡本1998a:22]中島岳志 岡本太郎は対極主義により日本の伝統の本質に迫ろうとした – OHTABOOKSTANDより

 

何でまたさうも闘わねばならんのか?

實際此処日本は所謂「花鳥風月」に満ちた美しき國であり闘わずに「調和」することで長きに亘る平和を築いて來し國である。

 

個人的には日本がまた鎖国體制を布き先進國であることを自ら降りるのであればまた其れは可能であるとさう見て居ります。

だけれども近代先進國家である以上本來ならば全てが闘いなんです。

 

また此処日本も戦前の場合はそんな「ぶつかり合い型の闘争世界」を政府が主導し行って居た訳です。

岡本 太郎氏の場合にもそんな古い日本人の壱人だからとさう思えないこともまた無いのですがだからと言って戦前の日本人が皆「ぶつかり合い型の闘争世界」を生きて居たかと云えば其れにもまた疑問が残ります。

 

 

ー常に私が望んでいた具象と非具象のからみあい、人間存在全体のコントンとした情感をぶつけることが出来た。だがこれはもう抽象絵画ではない。私はその時点で組織との訣別を決意したのだ。ー[岡本1998a:25中島岳志 岡本太郎は対極主義により日本の伝統の本質に迫ろうとした – OHTABOOKSTANDより

 

具象表現⇔抽象表現

つまりは藝術上の表現手法の上でも岡本 太郎氏はさうしてしかと「ぶつかり合って」居たのです。

 

しかもさうして「組織」とは決別するのだとも。

尚画家にはそも強烈な個性があるのか「組織」を嫌い孤高化する壱連の人人がまた古くから居るやうです。

 

また其のタイプは文人の方にもまた居ることでせうが作文の方はまたある程度は「おべっか」の部分ー美化の部分ーを取り入れませんとまさか「賞」などは取れないことでせう。

 

ー何といっても、抽象論で人間存在を研究するのとはまるで違った、現実の彩りがここにはある。時空を超えた人間本来のあり方、そこからわき出てくる、むっとするほど強烈な生活感。ダイレクトにこちらにぶつかってくる。こんな具体的な資料を土台に、われわれは抽象論よりも、それを超えた人間学を学ぶべきではないか。ー[岡本1998a:28]中島岳志 岡本太郎は対極主義により日本の伝統の本質に迫ろうとした – OHTABOOKSTANDより

 

元より近代と云う時代其れ自體が謂わば「抽象的観念」を生きる時代なのです。

其れ即ち時計も🚙や🚃、さらに🚢や✈に至るまで全てが「抽象的概念」化されし人工物です。

 

また🏢だのタワーだのそんなものがまさに其の「抽象的概念」化されし人工物です。

ところがさう云うのには其れこそ本質的な意味での「生きる實感」のやうなものが無い。

 

まあ其れでも庶民はさうした文明の利器を上手く利用し其の近代を生き抜く訳でむしろ其処は藝術にはまるで無い部類での逞しさであったりもする。

ですがあくまで「本質」を追求する藝術だの哲學だのからすればそんなもんは直接的體験では無いタダの幻としての建造物でありつまりは抽象論としての被造物でしか無くなる訳だ。

 

本質⇔現象

 

先にも述べましたが此のどちらを追求の対象とするかにより物の見方はむしろ百八十拾度変わったりもまたする訳です。

其の意味でも藝術だの哲學だのまた宗教だのは万人の為のものではありません。

 

何故なら認識をそも変えませんと藝術だの哲學だのまた宗教だのは其処に築かれぬこととなるのです。

但し所謂似非藝術だの似非哲學だのまた似非宗教だのは常に「現象」内に成立可能です。

 

嗚呼さう言えば最近ニュースになったのがアノ幸福の科学の教祖が死んだことなどでせう。

まあ似非宗教ですがね、其れもつまりは。

 

まあ似非宗教の教祖なんぞはなるべく早う死んだ方が世の為人の為になることでせう。

 

ーさまざまな人間の思考は、どちらかというと、演繹的なわけね。芸術などはとくにそうですよ。自分の主観からこうだ、と決めてくるエゴセントリック(自己中心的)なものだけれども、民族資料のもっている意味、ぜんぜん自分を捨てちゃって、ものから帰納的に世界を見なおす、世界観を帰納的に見なおしつくりあげるという反対の状況にぼくは感動した。ただ芸術家としていい気になっているんじゃなくて、もっと現実のものそのものから、ずっとこっちにひきよせ、こっちもひきよせられるということに情熱を感じて、民族学をやった。ー[岡本1980:315-316]中島岳志 岡本太郎は対極主義により日本の伝統の本質に迫ろうとした – OHTABOOKSTANDより

 

また此の部分はまさに興味深いことを仰られて居る。

 

藝術は元來主観としての産物ですので取りあえずは所謂「人間中心主義」なのです。

ですが「人間中心主義」では無い藝術もまた展開し得るのやもしれない。

 

例えば東洋の藝術であるとかまた民俗学的なものとしての近代以前の人間の生活體験であるとか其のやうなものにこそ其の「生の帰納的體験」が込められて居る可能性が高い訳です。

また其の部分は所謂世紀末に画家ゴーガンが文明世界を捨て去り南洋の島島へ移住したことなどにもしかと重なる部分です。

 

其れと藝術は形式性に堕すると其れがまるで大量生産品のやうにもまた見えて來るものです。

繪画にせよ書にせよ展覧會などへ出向くとむしろ幻滅させられることなどが自分には多多ある。

 

 

さて其の「現實其のものからこっちに引き寄せこっちも引き寄せられる」との発言もまた思い切りに非世間的な価値観を標榜する言葉です。

其の「現實」って果たして何のことか?

 

とさう思われる方が多いのやもしれませんが藝術家に取り現代社會はむしろ非現實的な世界に見えて仕舞うのです。

要するに仮想現實としてのまさにバーチャル空間のやうにさえ見えて仕舞う。

 

またつまりは其れが「ウソ臭い」世界なのであり要は観念的な価値に偏り過ぎ築かれた世界故元元「人間の生活の本質」を欠く世界にしか感じられないのです。

なのでこんな僕にも其のことが常に感じられて居るのです。

 

 

ですが其ればかりでは人生其れ自體が余りにも辛くなるので適当に其れは止めて早速大衆の壱人へと戻り遊んで居れば良いのです。

若しくは岡本 太郎氏級の藝術家となり世に立てば良いだけの話でせう。

 

いや最終的には其れはほぼ無理ですので自称でもってこんな壱藝術家です、とさう名乗って置けば其れで良いのだが。

 

 

ー最初から、うちとけ、ぐっと踏み込んだ雰囲気だった。今日、すべてが精神的にいかに空しくなっているか。憤りをもって、システムに挑む同志が集結して、世界を変えて行かなければならない。二人の問題意識、情熱はまさに同じ方向を指していた。バタイユはがこの時すでにシュールレアリスムの連中と離れていることを知った。私の筋と一致しているのでうれしかった。

バタイユは、ひとりの協力者を得た、と目を輝かせた。ー[岡本1998a:33]中島岳志 岡本太郎は対極主義により日本の伝統の本質に迫ろうとした – OHTABOOKSTANDより

 

壱時期岡本 太郎氏は其のジョルジュ・バタイユ - Wikipediaの影響なども受けて居たやうですがやがて決別したとのことです。

いずれにせよ藝術だの哲學だのまた宗教だのの分野はむしろ自然に「近代的価値に取りマイナスの分野」をこそ見詰めて行かざるを得ぬのだと思う。

 

其れはまさに「近代的価値」に對し逆方面から攻めて行くと云うことなのだらう。

對して所謂ビジネスの世界や「常識」の範囲内での価値観は元元其の種の反意などは持ち合わせて居ないのです。

 

其れと現代では特に「科学技術」が「近代的価値」其のものを担う迄にもすでになって居る。

尤も其の「科学技術」に對しても藝術だの哲學だのまた宗教だのの分野は壱般に懐疑的だと言っても良いことだらう。

 

さて「近代的価値」其のものに對する岡本 太郎氏の問いにはまた強烈なものがある。

少なくとも彼は「進歩主義」に對する懐疑主義者でありよって例の「太陽の塔」は決して文明の「進歩と調和」の様を礼賛せんが為に造られたのでは無く逆に文明の認識としての「進歩と調和」などは此の世には無いことをむしろ声高に訴えるものだったのです。

 

ならば其の「太陽の塔」こそが彼岡本 太郎氏の抱える根本命題への解を指し示すものであった可能性が高くある訳です。

故に次回の論点とはまさに「太陽の塔」とは何ぞや?と云う部分となる。

 

尚藝術や哲學、さらに宗教の分野が特にややこしいのでは無く其の反對方面への精神的な展開を常に難しくさせて居るやうな功利的な精神性ー現世利益主義ーが社會に蔓延して居るからこそ其れが分かり辛くなるだけのことなのです。

故に当の藝術家に取り特にややこしいのはさうして現金主義に汚染され其れでも平気な顔でもって日日を元気に歩むむしろみんなの方なんです。