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文明批判と美と心の探求と

岡本 太郎氏による対極主義ー『創作者の体感世界』を読んで思う事ー

岡本 太郎氏による対極主義ー『創作者の体感世界』を読んで思う事ー

 

 

 

 

漫画家の鳥山明さん死去 68歳 「ドラゴンボール」など:朝日新聞デジタル (asahi.com)

「まる子」TARAKOさん、出身地・群馬で「夏休みコンサートの顔」…訃報に「今までありがとう」 : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)

オレたちひょうきん族でアダモちゃん…島崎俊郎さん死去、68歳 : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)

 

かうして今世間では六拾代や七拾代が次次と没しある種の違和感のやうなものを感じさせても居る。

其れはどんな違和感かと言えば所謂「平均寿命」に関する違和感です。

 

日本人男女の平均寿命、2年連続で縮む…女性は3年連続で世界1位 : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)

 

個人的に其の平均寿命は今後むしろ縮むものとさう見て居る。

特に2050年以降は地球温暖化の影響がより顕著となり大體65歳辺りがニンゲンに取り限界での年齢となるのではなからうか。

 

よって文明が撒き散らす「常識」には騙されず例え若くても「今のうちにやりたいことをやり切る」位である方がより望ましいのではないか。

でもって今ですらかうして六拾代は何故か早死にをする。

 

其れは食って來たものが今の八拾代とはまるで違うからなのであらう。

實際我我還暦世代からはカップ麺だのファンタだのコーラだのさらに他の變なものを多く食って來て居るので根本的に體が弱いと來てる。

 

だから八拾迄生きやうと云う方が其れは無理なのだ。

故に我我還暦世代の寿命はかうしてすでに七拾歳を切った。

 

 

さうして「文明病」に蝕まれることで我我還暦世代の余命はあと僅かであらう。

だからわたくしもあと壱、弐年ばかりを頑張れるかどうか位のものだらう。

 

アンタ考え方が「悲観的」過ぎるのだって。

いいやさうでは無い。

 

さうでは無く何せ此の文明こそが「バカ」過ぎるのさ。

 

 

また最近兎に角寒いのでわたくしはチキンラーメンばかり食しておるが其れには惡い脂が含まれておりよって其れにて我が長生きの因子が悉く破壊され65歳迄しか生きられぬやうになって仕舞う。

さうして「チキンラーメン」ばかりを今度は惡者に仕立て上げる御積りですか?

 

いいやさうでは無く此の「文明」其れ自體がほぼ惡者なのだ。

 

そもこんな社會に誰がした?

君か其れとも儂なのか?

 

其れともジミントーか、官僚か、又は日銀なのか?

 

がん闘病の森永卓郎氏、医師から「桜は見られない」宣告も「もうつぼみ膨らみ始めていますね」 (msn.com)

 

ほれ、コイツなどもいずれ死ぬぞよ。

だが意外としぶといな。

 

其処は是非見習って置くべきことだらう。

 

 

さて本日は主に以下の著作を読み考えさせられたことの其の内容に就き是非述べさせて頂きたい。

 

創作者の体感世界 横道誠 | 光文社新書 | 光文社 (kobunsha.com)

 

此の本は藝術を認識世界としての類型として論ずる本であり壱種「革命」的な視点を世に示すものであらう。

尤も昔から所謂「病跡学 - Wikipedia」なるものが世には存在して居た。

 

自分はかって其の病跡学関連の著作を何冊か読んだことがある。

 

病跡学からみる精神疾患と天才たち|「うつ」の心に癒しを。 (kokoro-iyashi.info)

芥川龍之介と病跡学(パトグラフィー)|歴史系高等遊民 (note.com)

 

尚先日「天才とキチ外は紙壱重」と云う諺は正しいと自分は述べた。

其の自分にも實は天才型の素養があり其のことでもう長く苦しんでも來て居る。

 

ところが其の自分でもって自分に感ぜられる所謂「天才」とは所謂「ヒエラルキーの上部構造」のことでは決して無いのである。

むしろ其れは上へも下へも通ずるだらうより幅広い認識世界のことなのである。

 

要するに「事の両面」に對し「同時」に理解が可能となることなのだ。

が、其れを行うには通常の価値観の解體や再構築が必然的に個としての心中にて行われなければならずよって並外れた心理的エネルギーが必要となり其のことは当然ながら誰にでも可能なこととはならない。

 

また其れを逆にも捉えることが可能でありつまりは所謂常識的な見方なり価値観なりがむしろ初めから「壊れて居る」のだとも言えやう。

でもって其の枠組みがむしろ初めから壊れて居るので其れ即ち「自己完結」的に物の見方なり価値観なりを再構築することが可能となるのだ。

 

いや再構築ですら無くむしろ初めから其のやうになって居るのである。

でもって最初から其のやうなので何せ認識の方が傍から見て居ると「變」に見えて仕舞う。

 

ところが其の「變」だからこそ例えば藝術やまた宗教さらに哲學の分野などに強い理解や構築力を発揮することが可能となるのである。

と云うことは元元其れ等の分野の出発点がそも「變」なのであらう。

 

そりゃさうだ、藝術家や宗教家や哲學者はどう見ても「普通」では無くむしろ「變人」ばかりではないか。

そりゃさうだ、「普通」でもってみんなと同じで其れでもって藝術家や宗教家や哲學者になれる筈が無いのですから。

 

 

其の「變」は「負」の領域ともまた考えられるが其れが「負」ばかりですと藝術家や宗教家や哲學者では無く単なる「精神🏥へ収容される人人」にしかなり得ない。

故に「正」と「負」の両面の領域に亘り其れに精通する認識でなくては「天才的認識」とはまさかなり得ぬ。

 

尚此の本其れ自體は其の「天才的認識」が有るが故に苦しんで生きて來られた大學の先生が自らの體験から語られるところでの「天才論」であり「藝術論」となって居る。

わたくしはまず其の点にこそ大きく感銘を受けた。

 

故にこそ此の著作は単なる「病跡学」の著作では無く自己としてのタマシイの表白の側面を多分に持ち合わせる。

だが本日は此の本の書評を展開するのでは無くあくまでわたくし自身の體験をも交え「天才論」を講じて居るだけのことなのだ。

 

1.「自閉症スペクトラム」と「ADHD」の違い

2.拘り=同壱性=理性

3.正負の領域に拘らず拘ること

 

 

ADHDの特徴とは?衝動性、不注意、多動の3つのタイプの特徴と具体例をご紹介 - あらたまこころのクリニック | 名古屋市瑞穂区の心療内科・精神科 (mentalclinic.com)

自閉症スペクトラムとは――特徴と症状、どんな人が当てはまるのか?発達や大人になってからの不安について | メディカルノート (medicalnote.jp)

 

さてわたくし自身にはたった今其の「自閉症スペクトラム」としての資質が明らかに認められるのですが「ADHD」の方での資質はむしろほぼ認められない。

尤も小学生の其れも低学年の頃には確かに其のやうな資質もまた認められて居たりはした。

 

だが小学生の高学年となり其の資質を「理性的」なものへと転換せしめたが故に以降は其れが発現しなくなったものと考えられる。

實際に「ADHD」の資質は「理性的」なものだとは言えないが「自閉症スペクトラム」の資質を持った人には例えば高学歴者や高知能者などが其処に含まれることが多いとされて居たりもまたする。

 

故に下司な言い方をあえてすれば「キチ外にもまた色色とあり」そんなキチ外どころか高学歴者や高知能者なども確かにソコに含まれるとのこととなるのである。

但しあくまでキチ外的な素養は持つとのことであらう。

 

4.自己完結的な「宇宙」の持ち主

5.よって外部に頼る必然性に欠ける

6.外部への強い批判力を持つ

 

自分を観察してまず思うことが以上の点となる。

即ち初めから「宇宙」が其処に有るので外部から何かを得る必要がそも本質的には無い。

 

ではあるが自分の場合は兎に角「御勉強」を欠かさず行い「理性のキレ」のやうなものを常に磨いて置く訳です。

まさに其の「御勉強」をしないと「理性のキレ」が失われがちであり要するに凡俗の認識へと落ちて行って仕舞い易い。

 

故に常に外部より知識を得る必要が生じだけれども其のことにより自分の認識を転換させて居る訳なのでは決して無い。

何故ならすでに「宇宙」は其処に有るので。

 

でもって本の方では「萩尾 望都」氏を論じた部分で此の両者での資質の違いに就き論じられて居る。

其の「萩尾 望都」氏は「自閉症スペクトラム」型での天才であるとさう結論付けて居られる。

 

またおそらくはわたくし自身も其の「自閉症スペクトラム」型での認識を行う壱理性なのであらう。

 

さて個人的に萩尾望都 - Wikipedia氏の百億の昼と千億の夜 - Wikipediaと云う作品には若い頃に大きく影響を受けた。

尤も其れの原作は光瀬龍 - Wikipedia氏によるSF小説作品となる。

 

光瀬氏は学校の先生までされて居た方でSF作品ではあるにせよ其の認識世界は至極眞面目なものであり当時自分には合って居た覚えがある。

ー廿代の頃わたくしはSF小説のマニアでもまたあったー

 

ロン先生の虫眼鏡 (漫画) - Wikipediaなどと云う作品にもまた大いに感心させられた覚えがある。

 

尚藝術表現の中には此の種での「教師物」での分野がまたしかとある。

学校の先生や大學の先生が表現をされるものでさうしたものが自分には合うことがまた多かった。ー例えば「ステファヌ・マラルメ」の詩などがー

 

またかっては「西脇 順三郎」の詩などが其れも可成に好きであった。

さらに「萩尾 望都」氏の認識世界は所謂「分裂」型であるとさう本には書かれて居た。

 

 

エルンスト・クレッチマー #クレッチマーの三気質- Wikipedia

 

わたくし自身もまた認識上の主調はおそらく「分裂」気質なのでせうが同時に「神経質」で且つ「粘着質」且つ「偏執質」でもありだからと言って痩せて居る訳では無く腹も出て居ますし見た目はむしろ「人の良さそうなハゲのオッサン」でしかない。

 

またどう見ても「神経質」には見えない。

でも實際に可成に「神経質」です。

 

ーデリケートな性格で通俗的な物事を軽蔑し、自分だけの世界を作り上げ、それに熱中するタイプ。 文学美術等の芸術面に関することがらにおいて才能を発揮することが多く、貴族的なほど洗練された上品なセンスと冷酷さを持ち合わせている。 粗野で下品なことに対して極端に嫌悪感を示すのもその一端のあらわれである。 さらにこのタイプの人は観察力と分析力にすぐれ、理路整然とした物事の考え方をすることが多い。ーエルンスト・クレッチマー #分裂質タイプ(Sタイプ)- Wikipedia

 

やっぱしコレだらう。

但し粗野で下品なこともまたあえてしたり言ったりもする。

 

兎に角全てを理路整然として捉えるので其の論理に反するやうな理不尽さに對し特に我慢がならない。

が、其の怒って居るコトの対象其のものが人とはまるで違って居ることなどが結構多い。

 

例えば環境破壊のことをかのグレタ氏が怒るがまあ其のやうなものである。

さらにスーパーのレジ係や看護師などの對応の惡さに就き大層厳しい。ーつまりは社會的役割に對し厳しいー

 

さらに物に對し怒ることなどが多い。

例えばトースターや自動洗濯機や布団の出來の惡さに就き常に根を持った形でもって怒ったりもして居る。ーまた其れも社會的役割に對し厳しいとのことだらうー

 

さらに「性的な事象」に興味が無く常に「権威を否定」的に見詰めるのも其の(Sタイプ)者としての気質なのやもしれぬ。

 

 

また此の本を買うきっかけとなったことが「オノ・ヨーコ」氏に関する章が設けられて居たことである。

其れを読んでみたがなかなかに面白かった。

 

特に「全世界レヴェルでの無理解」と云うやうなことを「オノ・ヨーコ」氏がかって述べて居られたことには衝撃を受けた。

其の「全世界レヴェルでの誤解」を解くことなどは元より無理なので逆に自分の人生を「生産的」で且つ「ポジティヴ」なものに転換するが為に彼女は「藝術の場」に専念して行くこととなる。

 

また氏はかって草との御話を試みて居たさうである。

まあわたくしなども常に動物との會話ー🐈や🐦との會話ーを心掛けては居るのですがでも植物との會話は可成に難しいのだと正直思う。

 

ですがかっては🏔を常に訪れまたそんなこともたまにはして居ないでもありませんでした。

またニンゲンには本來其の類での「テレパシー」の能力が有った筈だと彼女は述べる。

 

つまりは其れが「超能力」のことです。

 

次に「岡本 太郎」の章などもまた読んでみたが其処に限りいまひとつピンと來なかった。

「岡本 太郎」氏は「ADHD」型での天才でありB級オオサカ的な何でも首を突っ込むタイプでの藝術的爆発の世界だとさう捉えられて居る部分に正直違和感を覚えた。

 

逆にわたくしには「岡本 太郎」氏は相当な「分裂」気質者に見えまた非常に論理的で且つ静謐な世界観の持ち主ではなかったか。

また彼の凄いところは其の文章を読むと壱目瞭然となる。

 

特に此の本の137頁に引用された文章には言葉を失った程である。

 

 

ーそれは彼の最終哲学の観念、「テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼ」、弁証法の結末となるジンテーゼ(合)の哲学概念に納得できない面があったからだ。

私自身の生命的実感として、いま、なまなましく引き裂かれながら生きている。

「正」の内にまた相対立する「反」が共存しており、激しく相剋する。「反」の内にまた逃走する「正」がゆるぎなくある。その矛盾した両極が互いに激烈に挑みあい、反発する。

人間存在はこの引き裂かれたままの運命を背負っている。ヘーゲルのように理論を前提としたのではなく、この永遠の矛盾に引き裂かれてあることのほうが、はるかに現実的な弁証法弁証法は正・反・裂かれてあることが絶対なのだ。(39ページより)ー

 

「人生には、道がないからおもしろい」。そう断言する岡本太郎さんの根底にある絶望とは | レビュー | Book Bang -ブックバン-より

 

わたくし自身もまた其の「ヘーゲル弁証法過程」を認めては居ない。

また此の「岡本 太郎」氏の言葉に強く共感する。

 

其の「正」と「反」はさうして激しく鬩ぎ合いつつも同時に相即する。

即ち相剋し且つ相即する。ー我が哲學的概念ー

 

まさに其の様や矛盾過程としての両極が「ぶつかり合う」様で無くて何であらう?

よって正⇔反→合となるのでは無くあくまで正⇔反はむしろ其の侭に引き裂かれて居るより他は無い。

 

また自分は其のことをそんな「岡本 太郎」氏の言葉より學んだ訳では無くあくまで自らの頭でもってさう考えた。

 

「永遠の矛盾に引き裂かれてある」

 

其れにつけても凄い言葉である。

ニンゲンの實像とはまさにそんなものであるに違いない。

 

故にあくまでわたくしの場合は「岡本 太郎」氏をまさにそんな哲學的な意味での「本質主義者」だとさう捉えており且つ「近代文明世界」へ最も鋭利な刃を突き付ける刺客であるやうに考えても居る。

 

 

ー私は「対極主義」を唱えた。日本の文化界、美術界の惰性的状況に挑んだのだ。以来、ずっとそのスジをつらぬいてきた。

だがそれを「主義」として主張し、広めようとはしなかった。主義という型にはめると、対極は死んでしまう。理論づけて同調者をもとめたり、ロジカルに一般化しようとするよりも、私は孤独のなかで、いわばナマ身で、両極の間に引き裂かれて生きたい。あくまでも己れ自身の生きるスジとして、悲劇的に深めていくべきだと思ったからだ。

だから対極はいまも私の生き方の根源にある。(38ページより)ー

 

「人生には、道がないからおもしろい」。そう断言する岡本太郎さんの根底にある絶望とは | レビュー | Book Bang -ブックバン-より

 

いやはや、まさに凄い言葉である。

 

「對極主義」

 

結果的にわたくしもまさに其の「對極主義」を取ることとなった。

 

「生身でもってして引き裂かれる」

 

ですが、其れって明らかに「分裂」気質者としての言葉ではなかったか?

 

バラバラに乱れた渾沌のなかに、生命をつらぬきとおすのだ。

ときどき、声を出して笑う。

「おもしろいねえ、じつに。オレの人生は。だって、道がないんだ」(40ページより)ー

「人生には、道がないからおもしろい」。そう断言する岡本太郎さんの根底にある絶望とは | レビュー | Book Bang -ブックバン-より

 

さう、人生とはそんな「渾沌」世界のことであり論理的に合壱する世界のことなんぞではまずあり得ない。

またさう云う有様をしかと目の前に示して呉れるのがまさに「自然」としての様でせう。

 

尤もさう「自然界」は分裂し引き裂かれて居るがあくまで自分の見立てではニンゲンの認識はまた其れがさらに分裂して居る。

要するに弐重に分裂するであらう認識こそがニンゲンの価値観の正體となる。

 

よってあくまでわたくしの哲學的考察に於いてはさうニンゲンの認識は酷え「分裂型」なのだ。

なのでビョーキなのはむしろ其の社會的認識の方なのであって其れが「分裂型」だから惡いのでは無くむしろ其れを「合壱」せしめて「進歩」又は「発展」させやうと躍起になるからこそまさに其れがビョーキなんです。

 

とのことでまさに其のことこそがわたくしの展開する現代文明批判に於ける最終的な「結論」となる。

とどのつまりは其れが、

「ビョーキ」

だとのことですね。

 

でも御前こそがビョーキだらう!

ええ、まあ其れでも宜しゅう御座りますがもっともっとビョーキなのが現代文明でもあることだらう。

 

でもそんな絶望的な…。

いやだからまさに其れがかの岡本 太郎氏が抱えた「絶望」なのでありそんな「絶望」の侭に其れでもゲージツを爆発させると云うことこそが嗚呼まさに彼のゲージツの核心部に横たわる眞理なのだからして。