「翡翠TV」を視聴し感動したことー物に関する認識論に就いてー
さて其れでは「物に関する認識論」に就きまずは説明させて頂きます。
まず物は物であり所詮モノです。
ところが観念による認識が所謂「相對認識」となるが故に其処には最終的に自己矛盾が引き起こされ要するに「破壊過程」が生ずるとのことがわたくしの「哲學」での主要な概念です。
とさうあくまで概念として其の「自己矛盾」を捉えますれば其の「破壊」は必定となり事實として認識上のバランスを欠くことだらう観念的近代社會はむしろ「破壊」にこそ勤しむが如き様相を呈して來てさえ居る。
では壱體どうすれば其の破壊を免れ認識上のバランスを保った上で我我は生きて行けるのであらう?
其の問いに對する答えはあくまで「無理」とのことです。
何故なら観念的近代社會はすでに堅固に築かれて居り其処ではむしろ日毎に「破壊」の度を進めつつ歩んで居るからです。
では所謂「諦めて」居れば良いのか?
諦め=明らかに究めることでもまたあるが故に認識上個として達観することで社會的価値を「放棄」することなどもまた壱つの究極的な解決法でせう。
ですがわたくし個人に限れば其れをやりたくてもやれない状態にある。
よって主に其の逆方向をあえて模索して参りました。
なんとなれば価値としての概念はさう常に弐極化する訳なのですから。
「さうして社會は變わりやうが無い」
おそらくは社會が變革され例えば世界革命に至るにせよ「ヒエラルキー秩序」はしかと生じますので根本的に「破壊」を食い止めるやうなこととはならない。
であるのだとすれば其処には、
「變革し得るのはむしろ自己認識の方」
との結論がまずは得られやう。
無論のこと社會變革に挑むこと其れ自體に価値が無い訳では無いにせよ其れでは徒労に終わる可能性の方がどうしても高くならう。
其処で「物其れ自體」のことを自分はむしろ考え始めた。
するとやがて「物」其のものには観念的な意味での分離の幅が無いことに気付いた。
と云うことは「物其れ自體」には實は「相對矛盾」が引き起こされる余地は無いこととなる。
即ち物=物で且つ物=モノ、なのだった。
そんな「物其のもの」にはつまるところ「罪」も無ければ「煩悩」もまた無い。
「罪」であり「煩悩」である物との関係性とは主に「社會的」なものに限られる。
例えば「酒池肉林」を常に望むやうな物の希求をすればまさに其れが「魔境」と化す。
故に其のやうに「放埓」では無い即ち「建設的」な意味での「物」との関係性を築くべき。
さうかうするうちに此処🗾に於ける「物」への認識の仕方が炙り出されても來た。
🗾に於ける「物」への認識の仕方は欧米流の合理的近代認識とは異なるだらう「現世利益的」で且つ「地に足が着いた」タイプでのものとなる。
要するに其れが古來より連綿として続く「🗾のモノ創り」としての體制となる。
また其の「體制」には基本的に「資本主義」もまた「社會主義」も無くさらに言えば「高級」もまた「低級」も無い。
つまりは其れが「心の面」より捉えられた「要る物」としての姿なのだった。
さう其れはあくまで實存に取り「要る物」なので其れが必要不可欠なものとして其処に創られる訳だ。
其れはさう其処に「置かれる」物であり不要物には非ず。
されど欧米流の合理的近代認識に毒されし我が國の認識世界はたった今まさに「玉石混交」なのだと言える。
つまりはさうしてゴタ混ぜにされても居り要するに「要らん物」ばかりをまた次から次へと買わされる羽目にも陥って居る。
だが故にこそ「自己限定」した上で其れと付き合わねばならない。
くれぐれも「社會としての価値観」には踊らされること無く自らの判断にて要不要を決めイザさうして置きむしろ其のモノの垂れ流しとしての現實を利用する位でなければならぬ。
其処に曰く、
「物其のもの」に「矛盾」は生ぜず。
物は有無の中にあるが故に其れ自體は「劣化」する運命にあるが其れは「無い」のでは無く「有り」且つ本來豊穣な世界を形作るものなのだ。
むしろ「概念化」される物の方にアムビバレント性及び妄想が含まれるのでありイザ其れを脱すれば物は物としてタダの「物」たり得やう。
「タダのモノ」
全く其れで良いのである。
其の認識がすでに我我🗾人の中には刷り込まれて居る。
だが我我還暦世代に限り幼き頃に経験した貧乏生活がむしろかけがえのない財産ともなるのである。
ー当時は皆貧乏であり例えば我が家のやうに中流の上の方の家庭でさえエアコンも無ければ風呂も薪で焚くものであったー
まずはそんな年寄りの知恵をこそ是非活用しやう。
いやワタシは必ずしも「年寄り」では無いが。
むしろスーパーカーに乗れと言われれば今すぐにでも其れで330キロ位が出せますのですが。
またつまりは其の「相對認識」からの「自己矛盾」=「破壊の世界」を離れ野に咲く壱輪の🌸の如くに清い認識へと至るのだ。
また我我🗾人には必ずや其れが可能とならう。
さうして物からの呪縛より離れるのでは無くむしろ自分から「物」へと飛び込め!
だが其れはPCだとかさう云うモノでは無く単なる「石」であり「ペン」である。
「タダのモノ」としての「石」であり「ペン」
つまりはさうしたこととなる。
「タダのモノ」としての「スーパーカー」であり「美食」
と云うのは例えばダメなのか?
ダメだ。
兎に角「社會的妄想」の部分が入るやうな価値にはむしろなるべく手を触れるで無いぞ。
では、
「タダのモノ」としての「壱億円の💎」であり「弐千萬円の限定万年筆」
と云うのは例えばダメなのか?
ダメだ。
其れも「壱萬円の💎」であり「弐萬円の限定万年筆」に是非「限定」するべきだ。
糸魚川ひすい探しの旅episode8 第7話 「翡翠TV史上最も美しく最大の原石」ヒスイ海岸で拾いました!! (youtube.com)
糸魚川ひすい探しの旅episode9第3話「ベテランハンターさんが採取されたひすいたち」@糸魚川 歌海岸 (youtube.com)
糸魚川ひすい探しの旅EPISODE9第5話 「過去最多!!ろうかん?!青?!ひすい拾いの収穫」@糸魚川 歌海岸 (youtube.com)
糸魚川ひすい探しの旅EPISODE9 最終話「拾ったヒスイとともに天空露天風呂へ」 (youtube.com)
さて「物欲」追求での横浜JOYTECさんによる翡翠の旅ですが昨年は「万年筆蒐集」の方が忙しくまるで動画を視られて居ませんでした。
其れ等を昨日ようやく視ることが出來まさに「感動」致しました。
尚其の翡翠もまた所詮は「物」ですので「永遠」のモノでは無くむしろ「劣化」し變化致すものとなる。
ですが其れは「只其処に有る」ものとなる。
「只其処に有る」が故に其れは基本的に経済成長だのまた宇宙開発だのさうした意味での社會的価値とは本來別物です。
故に本質的に其れは「静か」な物でありまた其のことは主義や主張などの社會的指標とは別箇でのものとなる。
つまりは其れが「自然」の産物であり故にこそ其れは「只其処に有る」ものとなる。
尚個人的に「石」は「筆記具」よりも静けさに充ちたものだと感ずる。
「筆記具」は所詮観念の為の道具であるが壱方「石」はまさに其処に「置いてある」やうなものである。
またつまりは其のやうな価値こそがむしろ「持続性」の有る価値となる。
其れ即ち「人為的な尺度」を元元超越するであらう価値其のものなのだ。
其の意味での超越的存在又は超越的意味は此の世にしかと有りませう。
其れは無いのでは無くかうして常に其処に有る。
尚佛法では基本的に其の超越的存在又は超越的意味を嫌うのですが其れもより不純な佛教に於いては必ずしもさうでは無いやうです。
アノ潔癖な佛法ですらさうなのですから況や我我凡夫に於いてはさう「有の認識」の方へ傾くことなども致し方なからう。
元來普通の認識ではあくまで物は有りしかも其れが目の前に有るのです。ー所謂素朴實在論による認識法ー
さう思いつつ無邪気な形でかうして石拾いに興じることは此の世での最大の樂しみでなくて何でせう?
さう「石拾い」の醍醐味とは實はかうして「観念世界」を離れ感覚的に遊ぶことこそにある。
自分なども2010年位迄は様様な産地へ出向き主に💎系の鉱物を採取して参りましたがズバリ申せば其のことこそが人生に於いて最も樂しい経験となった。
勿論「万年筆」を操ること以上に樂しいことであったのだと言える。
「万年筆」はさうあくまで「理性」が司る物であり他方で石はほぼ「感覚」が支配するものであるが故に。
まさにニンゲンは其の「理性」と「感覚」の複合體ですので完璧なニンゲンであればある程にむしろ「感覚」の方も重視して行かざるを得ぬ。
尤も中途半端なインテリ野郎程其の「感覚」の方を軽視するのでまあ僕に言わせれば「バカ」なんですが。
さう何せ「バカ」にも色色とあり「學者バカ」だとかインテリ風バカの類が確かに此の世には巣食って居ります。
さて動画の感想ですが兎に角滅茶苦茶に面白かった。
でもって相變わらず日本海は綺麗です。
尤も震災が有ったので今は其れどころではないのでせうが。
ですが海の中を大規模に浚い良質の翡翠原石のみをトラック壱台分程選別し其れをヤフオクや楽天でもってして売っては如何か?
いや其れでは所謂「自然破壊」となるのか。
だが屑翡翠はまた海の中へ戻せば良い話でせう?
まあ其れは単なる妄想ですがもしもやったら凄い石が幾らでも出て來さうです。
でもって「荒木」氏は相變わらず元気ですね。
實は弐年前に鉱物ショーで彼と話をしたことがあり其の折に「是非もっと動画を!」とさう述べて置きましたが以降は思って居た以上に凄い仕上がりでの動画を視せて頂いたりもして居る。
元気だからこそ「翡翠原石の引き」の方もまた並では無い。
ですが糸魚川迄行くだけで大變です。
まず弐、参萬はかかることでせう。
ところが弐、参萬も払うとネット上で翡翠原石の其れも良いのが壱つは買える。
實際個人的にはこんな原石などもまたヤフオクの方で得て居ます。
尚此の翡翠原石は、
1.デカい
2.安いー壱萬参千円ー
3.荒荒しい緑
の石となる。
でもって現在はコレを「握り石」として使用中です。
ですが壱度で良いから糸魚川を訪れてみたくは思う。
其れも採取の方よりも翡翠の販売店をしらみつぶしに訪れ秘蔵の翡翠を是非見せて貰いたいところです。
糸魚川ひすい探しの旅 episode8 第1話 小さな糸魚川ひすい原石館で美しい国産翡翠の原石たちに出会う (youtube.com)
糸魚川ひすい探しの旅episode8 第2話 小さな糸魚川ヒスイ原石館での感動体験!美しいろうかん翡翠原石が登場【市振海岸への探検】 (youtube.com)
其の糸魚川での翡翠原石採取や翡翠原石の現金採集はまさに現代社會の動向とはほぼ無関係な具象的現實であり且つ實存的な壱つの物語です。
わたくしはむしろさうした意味での實存的な物語をこそ大事にするべきでありまたつまりは其れが「社會の発展や進歩」とのイデオロギーとはほぼ無関係の価値であることこそをたった今此処に述べて置きたい。
さうして日本海の海岸で美しい翡翠原石を拾いまた糸魚川翡翠の展示館やフォッサマグナミュージアムなどを訪れ地球科学に於ける研鑽を積み重ねること。
まさに其れこそが具體的な「文明批判」の様であり「石がものを言う世界」での御話のこととなる。
とまあ理屈で申せばさうもなりますのですがむしろ其れ以前に「日本海で翡翠原石を拾い秘境の温泉に入り現地の店で原石を観賞した」ことだけですでに奇跡的な大観光の様では御座りませんか。
實に羨ましいです。
羨ましい限りですが現在の自分の夢は、
1.東山若しくは相生山でまた💎級の石英を拾う
2.奥三河の棚山を参年振りに訪れる
とのことであるに過ぎない。
翡翠原石も現状で数ばかり多くを持ちますのでとりあえずは整理整頓をした上で良い物のみを残せば良いこだらう。
いずれにせよ常に「石は寡黙にして語るところがむしろ多い」とのことでせう。
現在販売中のJOYTECさんの商品ではコレなどが良いかと思われますが兎に角高価です。
ですが別に此の程度に高価なのが惡だとは言い切れずむしろ實存との関係に於いて其れが必要かどうかダケのことでせう。
如何にも怪しい形状の黄翡翠でもってしてもしやこんなワタシにピッタリの御品か!
兎に角黄翡翠は「壱般的」では無いが嫌いでは無い。
そも石にこんな作品が有るの?
糸魚川翡翠(ヒスイ)の磐笛(石笛) (ID:248390) | 榎本通商 (enomototsusho.jp)
以前から大いに気になって居ますが此の商品はもしや糸魚川産の檸檬翡翠ではないのだらうか?
また此のやうにおそらくは糸魚川産の翡翠にも稀に黄色系の原石が有るのではないか?
おそらく赤翡翠は無いにせよ其の黄翡翠は有るやうに個人的に思われてならない。
尚翡翠はあくまで蒼系での岩石です。
其れは何処となく靑っぽく要するに陰性の色合いでの岩石です。
ですが暖色系の色合いの翡翠が有ればそんな翡翠に對する印象がまた異なっても來る。
BLOG | 翡翠専門店 ジョイテック (jadeite.co.jp)
ミャンマー行ってきます! ろうかん(2009/09/17)/翡翠にまつわるとっておきのお話 (jadeite.co.jp)
ちなみにこちらは其のJOYTECさんが現在復活させて居るブログの方です。
自分はかってこちらを樂しみにしつつ読ませて頂いて居たものだった。
故に早速また今夜にでも読んでみたい。
かうして翡翠と云う石の上で大きく我我を樂しませて下さるJOYTECさんに是非感謝しつつ其れを読ませて頂く積もりで居ります。
Yahoo!オークション - 【厳選されたコレクション】全透過する上質な翠...
さても此れなどがまさに其のロウカン翡翠なのか?
尚ロウカン翡翠とは緑色のゼリーか又は羊羹のやうな石質の翡翠原石のことです。
ロウカン翡翠は普通頗る高価ですので庶民にはまず買えずよって我我が集めるやうな石は屑石であることが多いのですが要は其処にイザ「物語性」の部分を堅固に構築すれば誰が何と言っても其の石こそが値段や評価を超越する上での御寶と化す。
また其のことの原理は他のモノであるにせよ全く同じこととなる。
よってとある物を御寶とさう信じ常に其れと付き合えばまさに其れが實存に取っての御寶と化すのである。
最終的に其のことは對人関係であるにせよまさにさうです。
そんな御寶である物や人をなるべく増やして置くのはこんな生き辛い世の中を樂しく生きて行くことのまさしく秘訣なのだらう。