目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

オリムピック其のものへの批判と逃げる価値への共感ースポーツによる露西亜の覇権主義批判と「我が逃走」論ー

21.スポーツによる露西亜覇権主義批判と「我が逃走」論ー

 

 

 

 

さうした各種の宗教団体やまた哲學などはある種此の近代と云う狂騒の時代に対する歯止めとしての批判者でもあることでせう。

あえて其の近代とは何かと問うのならば其れは「本能の抽象的な形での履行」であると我は答えることにして居る。

 

要するに其れは理性的な場なのでは無い。

理性其れも原始退行せし理性が只の本能を神の如くに祀り上げ其れに対し國民國家としての大衆が跪きうやうやしく崇拝する其の様のことだ。

 

では學者はどうかと謂うに彼等は彼等でまた社會に洗脳されて御座るが故に特に近代体制の御用學者に至っては學問の上での眞理などどこ吹く風で要するに自らの論文が世に認められるやうに当たり障りの無い學説を発表し其の場を逃げて居るだけのことなのだらう。

 

其の手の馬鹿學者もまたおそらく半分位は居るのでせう。

 

でもって「困ったなあ」と幾ら悩んだって「自己超越」するかしないかと云う位に常に己が知性を磨いて置きませんと自分なりの答えを得ることなどはまず難しいことだらう。

尤も僕の場合すでに答えは得て居ますが其れでも其れが完全な解であるのかどうかと云う事は結局自分でも分かりません。

 

只かうして様々な分野のことを論じつつ其の種の自説つまり自分の哲學なども盛り込んで来たつもりです。

哲學と云うのはまさに論理ですので其の通りに論理的に其れを述べて来た筈です。

 

 

ですが僕に限り脱論理の方も實は得意なのです。

どだい僕は共感覚者でもって主に数字に色を感ずることが出来る。-古来より詩人には其の共感覚者が多いとされて居る-

 

さうした謂わば超感覚的なものは脱論理的展開でもある藝術などに屡見られるものでせう。

要するに凡人であることを超越するやうな感覚的展開です。

 

また直観即ち般若智などの宗教的要素とも密接に其れは連なって居やう。

 

でもって僕は常に其の論理と直観の双方を行き来して居る訳だ。

 

其れにつけても変な奴だなあとさう思われますか?

いや変なのは其の変だなあと思われたアナタの方です。

 

 

さてオリムピックもたけなわですが其れに就き壱つ批判をさせて頂きます。

まず以前にオリムピックに於いて軽業が重宝されて居る旨を書きました。

 

要するに弐回クルクル回るよりも参回、いや四回やったれば其れが最高難度だとか何とか言われ高得点に結び付く訳だ。

要するに其れは近代的プラス思考が具現化されたものです。

 

近代的プラス思考が具現化されたものであれば其れもまた壱種の合理化なのだ。

ですが其処には常に具象的に限定されるものがある。

 

例えば羽生選手は四回転半が完璧には跳べなかった。

ですがチェン選手は其の四回転半をも完璧にこなしダントツの成績にて優勝を飾りました。

 

其れは確かに視て居て面白く且つ凄いことなのですが其れが五回転やまた五回転半まで行くかと言えば其れは疑問です。

何故なら人間の肉体は具象物に過ぎず其の抽象的目標に対し常に限定されて居るからだ。

 

 

次に女子フィギュアの方を視てみる。

すると坂本選手が銅メタルを取った。

 

坂本選手は参回転半の技をあえてやらずに技の完成度を高めることで参位に食い込んだ。

其れは良いことなのですが其れも露西亜の選手がジャンプに失敗しなかったらまさか得られなかったことでした。

 

露西亜の女子フィギュアの選手は今「使い捨て」でもって拾代の其れも細く体重の軽いしかも👩の體になって居ない少女ばかりを集め彼女等に「軽業」をさせることでメタルを独占して行くのです。

其れはおそらくアノプーチン覇権主義がさうさせたものでもあることだらう。

 

アノプーチンの馬鹿が國の力とスポーツの力をごちゃまぜにしつまりは誤解し金のメタルだけ取れば其れが壱等國の証拠だとさう頑なに信じ込んで居るのです。

いえアノプーチンの馬鹿ばかりではありません。

 

何処の國の指導者であれまた國民であれ金のメタルだけ取れば其れが壱等國の証拠だとさう頑なに信じ込んで居るのです。

 

ですから、其れは如何にも馬鹿のやることだよと云うのが此のプラチナ・メタル保持者としての直観詩人が壱番言いたいことなのだ。

でもって、其の露西亜の女子フィギュアの選手達は拾代でもって金のメタルだけを取って後はボロボロとなり消えて行く身なのださうだ。

 

いやー、恐ろしい話ですねえ。

露西亜の女子フィギュアの選手達は👩だてらに皆四回転をバンバン跳びますがよーく見て居るとたとえ金のメタルを取ったにせよ表情にはまるで余裕が無い訳です。

 

 

要するに彼女等は露西亜と云う國家の奴隷です。ワリエワの「地獄は終わった」…「安心して暮らし、呼吸できること」を“先輩”メドベージェワ願う (msn.com)

 

中國などもまたさうなのですが眞の意味での共産主義國家の建設を目指すのであれば資本主義だの何だの其の種の力の論理を振り翳してはイカンことだらう。

 

左様に露西亜体制崩壊後は余計に悪い子ちゃんでの國家にどうもなりつつあるやうだ。

なんですが、此の話は其の露西亜を責める話では御座りません。

 

問題は近代オリムピック其のものとなることでせう。

所謂近代思想が脈脈として流れることだらうオリムピック其のものがすでに陳腐化し「平和の祭典」ならぬ「お馬鹿の祭典」化しても居りませう。

 

 

より速く,より高く,より強くとは - コトバンク (kotobank.jp)

さて此のクーベルタンと云う👨は右翼馬鹿みたいな奴で人種差別とかもまた平気でして居たさうだ。

 

JOC - オリンピズム | 人類にプラスのレガシーを

まあ如何にもエエことが書いてありますがどうも僕に言わせれば如何にも偽善者臭い文言だ。

其のプラスのレガシーとのことですが今やむしろ近代オリムピック其のものがマイナスのレガシーをこそ築き上げつつある。

 

ですから僕はかうして自分でもって決めたプラチナ・メダリストですのであえて言いますのですが、第壱其の「より速い、より高い、より強い」と云う価値観其のものが如何にも胡散臭い思想でしか無い。

「早い、安い」と云う牛丼チェーンや回転寿司みたいなキャッチフレーズの方がまだしもまともであり其れならば許容出来るにせよ其の「速い、高い、強い」と云う価値観其のものを是非わたくしは全否定させて頂きたい。

 

逆に、「遅い、低い、弱い」では壱體何でイカンのだ?

即ち眞の意味で多様な視点と価値観を共有するのであれば其の価値の逆方向があってこそしかるべきだ。

 

 

とは言え、確かによりクルクルとより沢山回りまたビュンビュンとより速く走り強靭なる肉體と精神を併せ持つことには誰しも引き寄せられて仕舞うものだ。

なんですが、其の根本でのところをそも考えて置くべきでせう。

 

第壱今壱回転多く回ったり百分の壱秒早くゴールしたり壱メートル多く飛ぶことに果たしてどんな価値があると云うのだらう。

よってまずは其の根本での価値観の部分に疑義を呈してみたい。

 

 

即ち其れぞまさに抽象性がより高まった価値である。

其の価値を目指すことで逆に具象性ー人間の肉體ーは圧迫を受けやう。

 

肉體ばかりか経済的にも其れが問題を引き起こす。

即ち壱部のみが儲け全体的には税の取り立てが厳しくなりみんなに迷惑をかける。

 

でもってオリムピックがもしやれれば其れでもって壱等國だ、などともされるのである。

アホか?

どだいアノナチスはな、其のオリムピックをこそ懸命にやったぞよ。

 

 

あらら、宇宙開発とオリムピックは全く同じ理窟にて営まれる人類としてのおバカの祭典其のものなのですな!

 

さて僕の其の哲學的な帰結、結論とは「人類ー文明ーは認識上の誤りにて滅びる」、「イザさうなればもはや弐度と立ち上がれぬ」と云うことである。

つまりは其のおバカさが、馬鹿さ加減こそが人類ー文明ーを破滅へと導くことだらう認識上の暴走を齎す訳だ。

 

さて此の度のパンデミックで屡話題に上ったのが「エッセンシャル」な価値とは何かと云う点である。

抽象的に其れも高度に築き上げられし其のオリムピックに於ける「より速い、より高い、より強い」と云う価値はしかしながら其の本質的な価値では無い。

 

即ち彼やまた彼女等が何回クルクルと回らうがまた何秒早くゴールし何メートル多くジャンプしやうがそんなことは人類の種としての實存に取りまさにどーでも良いやうなことばかりだ。

逆に申せばそんなことにかまけ其れでもって金のメタルを取ったから国威発揚であり英雄だ、などとやるものだから其処により認識の曇り、認識上の馬鹿ー誤謬ーがより酷くなって行く訳だ。

 

まあ僕はこんな認識ー哲學的認識ー詩人ですのでしかももうほとんど人生も終わって居るので何でも言うたりますが正直なところを述べればまさにさうしたこととならざるを得ぬ。

 

さて其の「エッセンシャル」な価値とは人間と云う「迷いとしての實存」に対しどうしても要るもののことだ。

逆に「迷いとしての實存」に対し要らぬものは追求すべきでは無い価値なのだ。

 

 

只ゆめゆめ誤解など無きやう。

僕はスポーツなるもの、其の體育としての価値を否定したのでは無い。

 

體育には価値があり、さらに言えば日本の武道などが心身の鍛錬になり良い訳である。

また其れと似たものに實は藝術がある。

 

藝術は主に心の鍛錬の方に頗る効くものだ。

スポーツと藝術はほんたうは「エッセンシャル」な価値なのでは無い。

 

但し「人はパンのみにて生くる者に非ず」である。

故にスポーツと藝術もまた人間に取り「エッセンシャル」な価値なのだ。

さらに無論のこと宗教などもまたさうなのだ。

 

 

だが近代オリムピックと宇宙開発はよもや人間に取り「エッセンシャル」な価値なのでは無い。

よって近代オリムピックと宇宙開発を今すぐに止めてお仕舞い!

 

其の代わりに世界中に全人口の弐パーセント位の割合で今生きて居る「自己超越」への道を目指す超人達に是非本物のプラチナ・メタルを与えるべきだ。

 

さうか、アナタは其のプラチナ・メタルがどうしても欲しい訳だ。

 

いやまるで欲しくは無い。

僕が欲しいのはもっともっとお利口となった人類ー文明ーから理性的な微笑みを投げかけて貰うことだけだ。

 

でないと僕は此の侭では死ねやしない。

こんな馬鹿人類であり馬鹿文明ではまさか安心して冥途へは旅立てぬ。

 

 

相変らずつい大口を叩いて仕舞いましたのですが、まさに其の女子フィギュア・スケートの壱件からしても近代オリムピックが限界を迎えて居るであらうことがほぼ明らかです。

さらに言えば同時に近代ー統治ーシステム其れ自體が限界を迎えつつあることだらう。

 

近代ー統治ーシステムはおそらく極めて合理的な形でもって崩壊の途を辿ることだらう。

故に我我個は残された時間を其其に噛み締めつつ日日を送るべきです。

 

よってわたくしの結論とは禁欲では無く「エッセンシャル」な欲望と向き合いむしろ其れを噛み締めつつ残りの時を後生大切にしつつ生きると云うことのみだ。

だからかうして庭へ来る小鳥にエサをやり且つ🐈と共に寝、さらに山へ小石を採りに行くことこそがまさに其のわたくしの大切な時間なのだ。

 

其れ以外の抽象的に齎される価値によもや踊らされて居てはならぬ。

価値は左様に心が決めるものです。

 

汚れた価値程大法螺を吹き、清い価値程さうして謙虚なものだ。

かくして文明は今穢れ切って居るので、清い価値の方をだけ向き是非歩んで行きたいものだ。

 

 

 

尚以下は数日前に書いた「逃走論」に対する解釈ですが此処に併せて記して置きます。

 

 

「逃走論」40年後の世界 浅田彰さんは今なお「逃げろ」と訴える:朝日新聞デジタル (asahi.com)

此の記事を是非読みたいのですが有料記事なので結局読めません。

 

其の浅田 彰氏による「逃走論」なるものはまるで知りませんでした。

ですが憶測するに要するに文明の自己矛盾からは是非逃げて置くべきだとさう仰って居るのではないか。

 

尚わたくしが此処弐年ばかりだらうか、「逃げる、逃げる」と良く申して居るのですが無論のこと其れには根拠があるのです。

要するに其れは此れ迄に培って来た學識と文人的感度からさう結論として導かれるものだと云うことです。

 

 

ですが學識も文人的感度も無い人人に対し其れを押し付けて居るのでは無い。

無いのですが、かうして分かって居る人は分かって居ると云うことが實情なのでせう。

 

其処で僕自身の認識を披歴すれば此の近代的文明世界は今や極めて危険な認識世界です。

其のことは沢山學んだり感度を研ぎ澄ませ文學的また哲學的宗教的な感度を高めて行かねば普通気付けません。

 

ですから、「逃げる」ことは悪いことでは無くむしろ良いことです。

壱旦其の社會が強制する価値観の枠組みを離れ自らが価値を再構築する為に必要なものこそが其の逃走です。

 

 

其れはまずは外部を客體視すると云うことだ。

ところが外部は自己を概ね規定し切って居ます。

 

むしろ我我は社會により貼られたレッテルー肩書きーにより初めて自己となって居る。

なのでみんなが皆其のレッテルー肩書きーを何とか高めやうとして必死な訳です。

 

なのだがたとえ大學教授だらうがCEOだらうがスーパースターだらうが老いて死ぬことは皆平等です。

其処へ至る努力を否定するか、其れとも其れを肯定するかで人間の認識の質が決定される。

 

例えば思慮深く外部を客體視する即ち文明を俯瞰的に捉えられる人は概ね努力の否定の側に回るのだと思う。

逆に何かに遮られ認識を曇らせて居れば其の無駄な努力に生涯を費やして行く訳だ。

 

と申しますか努力する其の対象をむしろマイナス領域へとシフトして行く筈だ。

かくして理性的努力と云うのは特に人文的努力なるものは學べば學ぶ程にむしろ欲望の鎮静の方向へと舵を切るものなのだ。

 

 

ところが近現代社會が組み上げた社會的枠組みはむしろ須らくが物質的拡張だの科学的拡張だの兎に角そんな人間社會中心の価値観にて全てを肥大化させて行かうとする試みに貫かれて居る。

まずは其処が理性的なものでは無いのである。

 

逆にお釈迦様によるマイナス領域への認識のシフトチェンジにせよ、またキリスト様による神の価値観の受け容れによる現世否定でのシフトチェンジこそが至極理性的に齎されて居るものだ。

即ち哲學的には近現代の文明によるプラス領域へのシフトアップこそが自滅行為だと申す他は無い。

 

理性的なやうで居て其れは非理性的な即ち獣の如き仕業でありつまりは欲望に突き動かされる暴走行為其のものでしか無い。

 

 

では其処でどうしたら良いのでせう?

第壱自分とは社會的規定なのだから其れを否定的に見詰めるだけでもはや生きにくくなることは必定だ。

 

其の強大でしかも暴力的な全体主義に対し立ち向かうには己自身が考え眞の意味での己が価値観をしかと形成せねばなるまい。

お釈迦様が説かれた自灯明の教えとはまさに此のことなのだ。

 

其処でひとつには自然即ち大自然の摂理、宇宙の法則のやうなものを體感して行くことこそが大事だ。

しかも其れは壱旦人間界の価値観を離れてみないと厄介なことにまるで體得されぬことなのだ。

 

日常的自我を壱旦遮断し非日常としての宗教的自我に目覚めるとでも言うのか。

でも宗教に限らず藝術の分野もまた有効です。

 

或はルンペン化することやかのランボーの如くに反抗することなどもまたアウトサイダーとしての自我形成には有効です。

但し此の場合は非社會性が必然として高まるが故に法的秩序をはみ出さぬ限りに於いて有効だと云うことなのだが。

 

 

さて其の「文明社會の洗脳」に就きわたくしは述べ続けて来た訳です。

何故さうしたことをあえて声高に言うやうになったかと言えば我は昔社會科や國語つまりは文哲方面のことを多く學んだからなのでした。

 

結論から申しますとさうした人文學は自己の価値観の形成に就き大いに役立ちます。

何故なら人文學の大元に「人間とは何か?」と云う問いの部分がしかとあるからのことだ。

 

ですが今此の世の中を駆動させて居るものは例えば金銭的価値でありまた例えば合理的に達成されるだらう成果でありそんな欲望の成就への強い執着心です。

つまるところ其処には何処にも人間自身に対する問いが無い。

 

 

かってお釈迦様やイエス様は其れこそ極限まで其の問いを突き詰めて行かれたと云うのに。

いや其れは神道儒教、其れにイスラム教などがダメだと言って居るのではありません。

 

何故なら宗教または其れに類似する社會規範上の教えは其其に事の眞相、眞理を見詰めて居るものが多い。

よってむしろ壱番ダメなのが文明社會が築く其の「イケイケドンドン」での価値観なのだ。

 

まずは其のことに気付き文明による価値構築の上での洗脳を解きませう。

尤も其れをやるのはまさに荊の道です。

 

何故なら僕も君もまた其の周囲の人人も皆文明により管理されむしろ其のことにより人間としての価値を与えられて居るのですから。

でも価値観は本来もっともっと多様であってしかるべきものだ。

 

 

ー 「連合赤軍の関係者は、革命を目指しながらも仲間内での悲惨な殺し合いに陥っていきました。そこには気になる傾向があった。自らの逃げ道をあえて断つことで、『革命家としての自分のアイデンティティー』を確固たるものにしようとしていたのです」

 ――逃げ道を断つとは?

 「『革命家をやめて就職することも選択肢に残しておこう』と考える学生はダメなやつとされ、逃げずに『革命家としてのアイデンティティー』を純化させることが大事にされたのです。しかし僕には、それは戦略的に間違っていると思えました。陣地を捨てて逃げた方がいいのに、と」ー「逃走論」40年後の世界 浅田彰さんは今なお「逃げろ」と訴える:朝日新聞デジタル (asahi.com)より

 

其の逃げ場であり逃げ道を確保して置くことこそが例えば人文理性の最大の利点でせう。

されど右左のイデオロギーの差に関わらず「逃げる」ことこそが文明世界では悪とされ且つ壱種のタブーなのです。

 

また修行などから「逃げる」ことも悪とされ且つ壱種のタブーなのだ。

ですが其処で良く考えてみませう。

 

其れは「逃げられる」ことと「逃げられぬ」ことが此の世にはあると云うことです。

 

「逃げられぬ」ことはかうして日々食って寝て生活を営み生きて行くことだ。

「逃げられる」ことは例えば営業マンになるのがイヤなので違う職種の仕事に就いたりすることだ。

 

また社會思想は右が嫌なら左へ行き左が嫌なら右へ「逃げて」行けば良い。

國家の選択ですら日本國が嫌なら例えば東南亜細亜へでも逃げれば良い。

 

 

つまるところ抽象的理念とはむしろ「逃げられる」価値のことだ。

しかれども人間として生きることからは誰しも逃げられません。

 

「逃げる」ことが悪とされ且つ壱種のタブーと化して居るのは所謂社會性ー社會との関係性ーの齎す部分です。

 

其の社會に深く食い込めば食い込む程に雁字搦めとされ「逃げられぬ」訳だ。

されど其れは質的にはあくまで「逃げられる」価値です。

 

 

つまるところ其の社會との関わり方をあえて自己化して行くことでむしろ選択肢が増えて来る訳だ。

逆に周りの顔色ばかりを窺いつつ逃げずに居るから結果としてとんでもないことが引き起こされて仕舞う訳だ。

 

其の「逃げ道」とは自らの理性の避難場所でありむしろ理性にとっては必須の場なのではないか。

其のことをまずは學んで置く必要がある。

 

 

此の世の価値は今や目的を失い錯綜しむしろ其処からは逃げ易くなっても居る。

高度経済成長の頃やバブル期の頃迄は成長神話があり其処から逃げられないものでしたが今や逃げ切れるものと思われる。

 

逆に逃げることにより見えて来る価値がある。

即ち生活の大事さや人間との絆の大切さです。

 

かうして可成に理性的であり人間嫌いな此の僕でも最近はそんなことまで思うのです。

但し利害関係を含まぬ上での人間関係の大切さのことですね。

 

即ち具象的に其処に拡がるであらう生の上での空間なり時間なりの大切さのことだ。

其れこそそんな空間なり時間の中で身近な自然と触れ合ったり🌸を愛でたり詩歌を詠んだりすることが出来る。

 

 

つまりは社會的価値、イデオロギーと云ったさうしたデカい価値から意図的に離れて行くと身近なもの、身近な日常の實存的価値にしかと気付くことが出来る。

さうして全てが壱期壱會での重要な価値である。

 

社會から離れることでむしろ其の種の生が織り成す實存性の重要さにしかと気付くことが出来る。

 

ですが會社へ出て壱日何とか頑張り疲れて帰宅し飯食って風呂入りまた朝起きて會社へ行く。

まあ大事な給料は振り込まれませうが其れではとても文人の看板など掲げられぬ。

 

其れにもう還暦を過ぎ足腰も弱りましたので我はもはや限界でせう。

と勝手に逃げを決め込んで居ますがひと昔前なら還暦は隠居の代名詞なのでもまたあった。

 

まあほんたうは樂隠居の身分ではまるで無いのですが様々な状況と思想からイザかうしてみたら其の實存的価値の重要性にハタと気付いたと云う訳だ。

 

だから「逃げてこそ見えて来る価値がある」

とでも今僕は言いたい訳だ。