目覚めよ!

文明批判と心の探求と

善悪規定から論ずる「進歩の罠」と「理性の罠」

 

其の善と悪との対立こそが人間にとっての最終戦争の様なのでもあらう。

 

だが其の善と悪の規定はそも困難である。

 

善⇔悪

 

人間は其れも現代人は自らが善の者だとさう信じ込み易い。

 

されど、

 

自然⇔文明

と云う相対概念から判断する限りはむしろ文明こそが其の悪の塊なのでもある。

 

またどんな善人にも綻びがある。

 

たとえば我我の中に一人でも🐜を踏み潰したりしたことの無い人が居るのであらうや?

また我我の中に一人でも他の生き物を殺し其れを食したことの無い人が居るのであらうや?

 

要するに其処からしても我我はむしろ悪なる現象であることからは免れ得ぬ。

 

眞の知性とは即ち潔癖なる心性とはまさに其のことに心を痛め自らの悪の行いに対し頭を垂れる者のことを言う。

 

 

其のやうな理智、即ち心の目の階梯に於いて初めて此の世の悪の何たるかが了解されるのでありまた逆に善なる者の其の姿がおおまさに其の澱み無き心の目が開かれるのだ。

 

 

善⇔悪

 

の違いは其れは確かにある。

 

例えば新自由主義経済体制などは明らかに悪であったのだらう。

またグローバリゼーションなどもまた明らかに悪であった。

 

だが其れをむしろ正しいとさう信じ込んで居る輩も居た。

 

第一オウム教などもまた悪であったのだらうが其れを正しいとさう信じ込んで居る輩などもまた居た訳だ。

 

また幕藩体制の時には将軍家こそが正しくつまるところは善であり悪役は大抵の場合尾張藩が引き受けて居たものだった。

明治維新の折には維新政府こそが正しくつまるところは善であり此の場合の悪役とはむしろ徳川政権なのであった。

 

また例えば宮廷女官チャングムの誓いでのチェ一族の悪人振りは明らかに悪であり逆にチャングム側即ちハン尚宮の側はもう誰がどう見ても善であり正しい生き方としての見本であらう。

 

で、一体全体何が正しくさらに何が善であり眞の価値だと言えるのであらうや?

 

 

ところが善も眞も所詮は相対概念による二元的価値規定です。

善⇔悪

眞理⇔妄想

 

だから分別規定すればする程にむしろ其の善悪と云う相対価値自体に振り回され次第に何が何やら分からなくもなりませう。

 

ですが、其処で悩む知性はまだずっとマシなもので其れは所謂獣其のものでは無いとさうも言い切れるのだと思う。

 

知恵者とはさうして己の姿を見詰め常に其れを悩み続けるもののことだ。

 

逆に獣とはさうした本質的問題から逃げて居る者のことを言うのでせう。

 

いや違った。

 

其れが本質的問題だと捉えられぬ境涯にあることをこそ言うのであらう。

 

 

さうして善悪としての二元性の問題こそがまさに此の現象界を貫くであらう大問題なのだ。

 

誰しも若くて心が純粋な頃は一度位は其の根本での人間の心の課題に取り組んだりもする訳ですが結局は其処にはあえて蓋をしてーつまりは臭いものには蓋をしてー所謂オトナの心性つまりは👿染みたーー獣チックなー心のあり方になって行かざるを得ぬものだ。

 

もしや其れはまるで肥溜めの蓋の如きものですか?

 

さうまるで肥溜めの為の蓋の如きものです。

 

 

其の課題に対する宗教的な解決の方法がたとえば弐種に分かれる。

壱ー相対分別概念を去ることで善悪規定其のものから去るー自力にて佛となり悪を滅ぼすー

弐ー相対分別概念をより徹底させ善悪の最終戦争へと持ち込み悪を滅ぼすー全知全能の神が悪を滅ぼすー

 

対して世間的ー社會的ーな解決の方法は本来ならば理性が担うものです。

どだい古代より文明に於ける善悪の対立軸は其の理性により解決されて来た筈です。

 

ですが近代的な理性のあり方とは弁証法的に一種歪曲されたものです。

弁証法的即ち進歩の為の止揚過程が正の方向だけを向いたものであるばかりに理性のバランス其れ自体が崩れ完全とはなって居ない=一種壊れたものとなって仕舞って居る訳だ。

 

何故ならまさに其の観念論の祖としてのカントは理性が限定的にしか機能せぬものであることを説きましたが弁証法的進歩過程の確立後はむしろ其の限定性が解除され「イケイケドンドン」でもって何でもやれる=全知全能であるかのやうな社會が築かれて行くこととなりました。

 

 

ですが、キリスト教での教えとはまるでさうしたものでは無かった筈です。

キリスト教は人間又は人間の社會が全知全能であるなどとはまるで述べて居りません。

 

なので理性の自己矛盾をまさに地で行ったのが近代と云う歴史過程であり其れを平たく言えば人間が神に昇り詰めやうとした過程其のものが近代と云うバランスを欠く理性の仕業でした。

 

 

善悪と云う相対価値は最終的には矛盾化しまさに破壊を齎す訳なので宗教的にか又は理性的に其れをしかと統御して置かねばなりません。

 

ですが其の弁証法的進歩過程の中で理性はむしろ分裂ししかもあらうことか分析的理性=還元知のみが持て囃される社會を築き上げて行って仕舞う。

 

尤も其れは宗教の責任などでは無くまさに理性のあり方としての責任なのです。

 

何故なら宗教に於ける善悪規定は決して誤ったものなどではありません。

 

宗教が機能するうちは其れこそ其の弐種の方策にて悪を滅することが可能だったのです。

 

ですが其の宗教が弁証法的進歩に対して弱められて仕舞う。

 

 

其れが即ちまさに神々からの離反であり佛からの逃避です。

 

其れを進めたところ我我はいつしか皆唯物論者となって行かざるを得なくなった。

 

しかも其の宗教もまたあらうことか次第に現世利益化して行った。

故にか我我は次第に現世利益化したウソの宗教ー或は邪教か?ーを信じ込まざるを得なくなった。

 

其の唯物論者であり現世利益主義者である我我はふと気付くと其の利益としての今、抽象的な進歩としての今にのみ縛り付けられむしろ其の進歩が齎す果實にのみ群がり其れを切望するやうにさえなる。

 

私は其れを「進歩の罠」であり「理性の罠」であるとさう捉えて居ります。

 

重要なことは其れが現代文明と云う社會的な営為として正統のものとして即ちまさに善であり正しきこととして大衆に認識されて居ることです。

 

勿論誰もがそんな洗脳に与して居るなどとは申しません。

 

ですが所謂意識の高い方々、高き見識をお持ちの理性的な方々には私が申しますことなども通じて居る筈なのだと思う。

 

 

ですが残念ながら其の意識の高い方々、見識のある理性的な方々の絶対数がそも少ないのです。

 

全く宝くじに当たる位の確率でしかさうした人に出遭うことは無い。

 

 

ところでアナタは神をまた佛を信じ現代社會と闘うのですか?

 

いえまずは理性を信じます。

 

最近は其の完全なる理性に戻すことばかりを今は考えて居ります。

 

完全なる理性とは所謂全知全能の理性なのでは御座りませぬか?

 

其れは違います。

完全なる理性とはむしろ自らの行いを律する理性のことである。

自らの至らなさを知り實る程に頭を垂れる稲穂哉の理性である。

 

其れはもしやハン尚宮の側の理性つまりはチャングムの理性のことなのでせうか?

チャングムの理性も所詮は👩の理性なので信じ切ることなど出来ませんがチャングムの誓い其のものは至極面白い時代劇だとさう思って居ます。

 

たとえば何処が面白いのですか?

まさに獣の世界の如くに次から次へと問題が起き其れが基本的に善悪対立から引き起こされて居る事こそがまさに現實社會の縮図にて人間の生としての普遍性に彩られて居るが故に至極面白い訳だ。

 

もしやチャングムを演じたイ・ヨンエが物凄く好きだとかさうしたこともあるのですか?

かっては其れもありましたがあくまで今は日本と同じ漢字文化圏としての韓国の歴史物と云う点から興味深く視て居ます。

 

ですが其れとは裏腹に中國と韓國と日本の仲がとても悪いのが可成に気になっては居ます。

 

 

其の「進歩の罠」であり「理性の罠」であるところへと今まさに嵌り込んだ文明は以降どのやうに進んで行くことでせう?

 

其処にはひとつの鍵として進歩と云う概念の再構築か又は脱構築を目指して行く手が考えられる。

 

何故なら其の進歩への概念規定こそが先の善悪規定の部分と重なっても来るからだ。

 

 

進歩⇔進化

進歩⇔自然

 

さうして人間の社會の場合には其の進歩概念ー弁証法的な上昇指向ーこそが善=正しいと奉じられよって其の社會に擦り寄りやって行くことこそがほぼ全的に認められて居る訳だ。

 

でももしもですよ、もしも其れが「進歩の罠」であり「理性の罠」であるところでの誤りの思想であったのだとすれば一体どうしますか?

或は其れはチャングムが生きたやうなまさに古き良き世紀とはまるで異なるであらう善悪規定となって居るのやもしれません。

 

 

弁証法的な進歩過程に於ける対立軸とは要するに以下のものでせう。

 

自然ー具象的システムー⇔社會ー抽象的システムー

精神論ー観念論=理想主義ー⇔唯物論素朴実在論=現世利益主義ー

 

重要なことは其の抽象的な価値観の檻の中へと閉じ込められた我我の唯物性ー獣性ーが極限にまで高まって来て居ることです。

 

即ち現代人は何でも欲しがり其れは抽象的でも何でも無くあくまで具象的な際限無き欲望のことだ。

 

つまるところはまさに抽象的に具象性を解除して居ると云うことだ。

 

其の物質欲に関して言えば具象性を伴う限定的な欲がむしろ人間には必要です。

 

何故なら誰しも飯を食い何かを飲まねばやがては死に至りませう。

 

 

なのではあるが其れを抽象化するつまりは限度をなくして仕舞うとまさに其れが「進歩の罠」であり「理性の罠」であるところへと陥って仕舞うこととなる。

 

よって全ては其の限度=限定=人間の分、身の程を分かった上で行動しなければならぬ訳です。

其れを分かるやうにする働きこそが眞の意味での理性の働きのことだらう。

 

宗教に必ずしも其の理性が要らぬのは、其処で他の精神的支柱ー神や佛ーを設定するからこそまさに其処に御縋りする要素が生じる訳です。

 

尤も佛教の場合には神だの教祖様に御縋りせよなどとは釈迦は一言も述べては居らずあくまで自分自身としての眞我に対して御縋りする訳なのだが。

 

其処からも佛法はむしろカントが述べた理性の限界を述べた認識論にも程近いものなのだと思う。

 

いざ限定と云う価値基準でもって判断しますれば宗教は基本的に人間に対し全て限定的に作用するものです。

 

逆に限定しないのが邪教と進歩思想であることだけは間違いありません。

 

 

自然に於ける其の具象的進化のシステムは言うまでも無く限定的です。

 

対して進歩思想は抽象的に齎されるものであり基本的に非限定的なものです。

 

ー観念は何処までも飛躍する。理系思考の陥り易い盲点が来るべき未来を樂観しつつ見て来たことで逆にかっての文豪連中が陥ったのが全部を悲観し自決して仕舞ったことであったりもする。ー

 

 

「進歩の罠」であり「理性の罠」であるところでの誤りとは、まさに其の限度を撤廃し抽象的価値を具象化して行った部分にこそある。

 

其の限度への認識は理性が担うべき本来の役目です。

 

其の本来の役目が出来なくなったことに対し問題が生じて居る訳であり其れはコロナが悪いだのまた温暖化が悪いだの隕石の落下が悪いだのとさうしたことではまるでありません。

 

其の「理性の罠」に気付けば同時に「進歩の罠」に気付くことも出来或は一旦文明をストップさせることなどにも繋がるのやもしれない。

 

 

すでに今文明はSTOP中ですが…。

 

さう言えば嗚呼さうでした。

最近はもうワイドショーだのニュースだのを視て居ないので個人的には文明が今どうなって居るものやらほとんど関心が御座りませんでした。

 

さうして韓國ドラマばかりを視て遊んで居るのだな?

いえ毎回涙を流しつつ其れから學んで居ります。

 

社會とはあえて距離を取るとでも申しますか社會の馬鹿さ加減にはもはや付き合いたく無いと申しますか兎に角社會と関われば関わる程に正常な思考が出来なくなりませうから要するに其処であえて馬鹿は切ったと云うことです。

 

 

然し厄介なのは其の社會はそも我我個を規定するものでもまたありますので無論のこと其処から完全にフリーとなる訳には参りません。

さても困ったな、もはや人間の社會とは縁を切りたいのだが何処までも其の馬鹿さ加減が纏わり付いて来るぞ。

 

ですので、其処は個として理論武装するかまた物質にて補充するか或は信仰の世界へ走り神又は佛と暮らして行くより他は無いのです。

 

逆に現代社會が齎す価値にばかり耽溺して居るとまさに痛い目を見ることとなりませう。

 

よってむしろ今は現代社會をなるべく客観的に見詰め其処に対し大きな期待などは抱かぬ方が良いことかと存ずる。

其の現代社會はそも自分でもって自分を救うしか無いのですから其処に於いて様々に考え此れ以降どうすれば理性やら自然とのバランスの問題点を解決に導けるかと云う事だけを實行に移して行って頂きたいものだ。

 

アア、私?

私は丁度此れから庭の手入れと云うか三度目となる木苺の収穫の方を致します。

 

さうして下らぬ報道を視たり聞いたりする時間をなるべく抑えじぶんの感度でもって世としての関係性を捉えまさにじぶんの生き方でもって今を生きて居る訳だ。

現代文明は数々の問題を抱えて居りまさに其れは深刻にならざるを得ぬ課題ばかりなのだ。

 

だが私は其の問題が悪いと述べて居るのでは無い。

其の問題に対する処し方としての心のあり方がまずは何よりもオカシイと大衆に対しさう述べて居るのである。

 

何よりもまず我我現代人は文明其のもののあり方に疑問を呈して行かねばならぬ筈であるのに逆にほとんどの人々が其れを信じて居るかのやうに見受けられる。

 

だが果たして其れで良いのだらうか?

近代社會はかって我我を戦禍に陥れたやうに今度は其の善悪の最終戦争としての自然破壊としての結末を用意して居る最中なのやもしれぬ。