36.自分を救うためにまず「幸福感受性」を取り戻すべき
社会学者の見田宗介さん死去 84歳 「現代日本の精神構造」 (msn.com)
其の見田氏による「宮沢賢治――存在の祭りの中へ」と云う本を我は八拾年代に読み感銘を受けて居る。
述べられて居ることがまさに只者では無い感じがして此の人は凄い人だとさう思い続けて来た。宮沢賢治 - 岩波書店 (iwanami.co.jp)
然し以降見田氏の著作を読む機會が無かった。
さうかうするうちにかうして亡くなられて仕舞った。
どんなに偉い作家や學者でもかうしていつの間にか死んで仕舞うものなのだ。
すると生の本質とは喪失だと云うこととなる。
其れも観念と肉體の全的な喪失である。
其の観念と肉體の全的な喪失だけはたとえどんなに頭が良くても与えられる非合理領域のことだ。
どんなに頭が良くてもさうして滅びなければならぬので所詮は人間とはそんなもので其れが特別に偉く出来て居る訳でも何でも無い訳だ。
むしろ其の辺の野良🐈や野🐕と同じ部類での生き物なのであらう。
私に取り理解し難いのが何故其のことが所謂常識的人間には理解し難いのかと云う壱点のみである。
ーでは、70年代以降の地球とそこで生きる人間が、「安定平衡期」か「絶滅」かという種の大きな曲がり角にあるとして、われわれは、そのような「現代社会」をどうとらえ、どう乗り越えていけばよいのだろうか。
著者は、「現代社会」の矛盾に満ちた現象は、(有限性が見えているにもかかわらず――筆者注)「高度成長」をなお追求してやまない悪しき慣性の力線と、安定平衡期に軟着陸しようとする力線との拮抗するダイナミズムの種々相として捉え、今や変化が急速だった「近代」の爆発期は過ぎさって、もはや変化の少ない「安定平衡期」に向かう展開点に、立ち尽くしているのが「現代社会」の本質だという。ー[書評]『現代社会はどこに向かうか』 - 今野哲男|論座 - 朝日新聞社の言論サイト (asahi.com)より
見田氏の本を探してみるとまさに我に取り御誂え向きの『現代社会はどこに向かうか』と云う著作が出て来ていずれにせよ其れはなるべく早く読まねばならぬとさう思うのである。
但しわたくしは其の現代社會の問題とはあくまで「認識上の誤謬」の問題だと近年さう捉えて来て居る訳である。
其の認識とは個が集まり形成する社會的な願望つまりは欲望の方向性がそもオカシイとさう述べて居るのである。
其のオカシイのをむしろ徹底的に糾弾してやらうかとさう思うのであるが、其処は急に足腰の調子が悪うなったりまた最近は歯茎の調子が悪く實は其れどころでは無い。
だがとりあえずはチョット言うこと位は出来るのでかうしてまた出て来てあれこれと其れを論じて行く訳だ。
個人的には其の「近代」の爆発期は仮想認識の方でむしろ加速され行われて居るやうに思う。
また其の「近代」の認識の暴走其れ自體を論ずることこそが此のブログのテーマなのだ。
何故なら其の「近代」の認識の暴走により人類はやがて自滅を迎える可能性が高くあるからだ。
でも我は其れを食い止めやうとして居るのでは無く、まさにソコに付和雷同して居る限りは誰しも救われやしないとさう述べて居るのである。
そんな地獄への特攻のやうなものはむしろこちらから願い下げである。
だから「僕は特攻は御免です。」とさう言えるかどうかと云うことだらう。
より正確には「僕は美女もまた子孫もまたデカい墓や名誉は要りませんのでもうアンタらとは別物となります。」と宣言出来るかどうかである。
尚良く考えてみれば有限としての現象界に∞としての価値を追い求めるのは何も近現代人による専売特許では無くむしろ太古の昔より我我人間が望んで来たことだった。
但し技術的に常に有限性が足枷をして居りやりたいことがやれなかったと云うことでは無かったか。
其の妄想的認識、即ち抽象的な価値に掛かりきりとなるのが人間存在の精神の悪い癖であり同時に動物とは違いかうして人間であることのアイデンティティーの部分である。
つまるところ人間である以上はさうならざるを得ぬのであるから其れは善いも悪いも無くつまりはさう云うものなのだ。
近代以降其の足枷が外れた人間は新たに「自由」及び「平等」と云う近代的価値に目覚め其の自由でしかも平等な価値観の下で只ひたすらに社會の進歩を追い求めて来た。
また其のことは誰しも疑いやうが無かった価値である。
何故ならあくまで其れは正しいことだったのだから。
しかれども「正邪」の区別と「善悪」の区別はまた別物なのだ。
個人的にはさうして「正邪」の区別をつけるより「善悪」の区別を是非つけて置くべきだったのではないかとさうも思う。
第壱今露西亜に取りウクライナの解放こそが國家としての正義なのだ。
だがウクライナに取っては侵略者である露西亜を追放し國を救うことこそが正義である。
其処でもって「善悪」の区別でもって判断すればむしろどちらも「悪」となり得るのではなからうか。
また其の進歩主義にせよ其れは「正邪」の区別による価値では無く「善悪」の区別により論じなければならぬ価値である。
さうして判断する限り進歩主義が「悪」である可能性は可成に高いものとなることだらう。
ー近代という時代の特質は、人間の生のあらゆる領域における<合理化>の貫徹にあった。未来に置かれた「目的」のために、現在の生を手段化すること。現在の生を犠牲にして、それ自体を楽しむことを禁圧すること。こうして未来へ未来へとリアリティの根拠を先送りし続けていた人間は(受験生などはその典型の一つだろう)、1970年代以降に起きた世界全体の意外な増殖率の低下をメルクマールとして、初めて生のリアリティの空疎化に気づき始め、少しずつ社会の表面に沁み出してくる。ー[書評]『現代社会はどこに向かうか』 - 今野哲男|論座 - 朝日新聞社の言論サイト (asahi.com)より
其の近代的な意味での合理化と云うものがさうしてむしろ我我の現在ー今と云う現成ーと云う価値を限りなく疎外して行くのである。
だから今と云うものを真の意味で樂しめず、つまりは常に急かされて居るので其の種の實存的価値と向き合うことがむしろ疎かとなり生きて居る實感がまるで持てやせぬ。
其れは個がどうのかうのと云うことでは無く現代社會が我我個に対し常に強いて居る価値観ー進歩主義ーなのだ。
ーこんなにも広い生のリアリティの空疎の感覚は、ロジスティック曲線が急展開するステージ、つまり「現代」に固有のものだと著者は言う。「加速に加速を重ねてきた走行の果てに、突然目的地に到達して急停車する高速バスの乗客のように、現代人は宙に舞う」と。未来に置かれた「目的」のために現在の生を犠牲にして、それを楽しむ自由を封圧し、未来へ向かってリアリティを先送りし続けた人間は、この危機にあたってどうあるべきなのか。ー[書評]『現代社会はどこに向かうか』 - 今野哲男|論座 - 朝日新聞社の言論サイト (asahi.com)より
近現代以降社會のみんなは社會が世の中を良くして行って呉れるとさう信じて居たのだった。
信じて居さえすればさうして全ては良くなる。
さうして全ては良くなるのが進歩主義の奉ずる正義としての価値だ。
だが我に言わせれば所詮其れは悪の価値だ。
そんな悪が暗躍するからこそかうして世界は虚無ーニヒリズムーの中へと引き込まれて仕舞う。
…人権思想に彩られし近代的自由。
だが其の自由こそがむしろウソの自由である。
第壱ほんたうに自由があるなら生きることがむしろ樂しい筈だ。
むしろさうして自由の名の下に自由を抑圧する全体主義ー進歩主義ーの為に我我個は何をしたって樂しいとは思えなくなる訳だ。
現代社會が曰く、「未来にこそ目的としての自由がある」のだと。
だがそんなもんある訳無からう。
其の自由はな、今、ココにしか無い。
其れも選択する自由があるばかりだ。
現代社會を否定するか、其れとも肯定するかと云う選択の自由があるばかりでのことだ。
「未来にこそ目的としての神の國がある」
此れは何やらキリスト教の教義のやうなものですね。
じゃあキリスト教はダメなのか、かのニーチェが述べた如くに矢張りダメなのか?
ー「オムレツを作るには卵を割らなければだめだ」というのは、レーニンの有名なことばであった……これに対してダグラス・ラミスは、「卵は内側から破られなければならない」と言った。……肯定的なものの実体が、まず現在に存在し、この実体が力強く育っていく時に、桎梏となるものがあるなら、それはこの生命自体によって、内側から破られるのでなければならない……そうでなければ卵の内部生命は生きられず、新しい権力者のオムレツとして、食べられてしまうだけだ。ー[書評]『現代社会はどこに向かうか』 - 今野哲男|論座 - 朝日新聞社の言論サイト (asahi.com)より
現代社會を常に考え続けて来た我は最終的に現代社會が我我個に対し強いて来て居る「抽象的価値」の危険度に就き思い至った訳である。
ところが其の「抽象的価値」に就きむしろ誰も疑いを差し挟まぬのである。
其れはみんながまるで🐕のやうに御主人様に対し従順で猶且つ所謂常識的な価値判断の持ち主だからなのだ。
でも其処こそがオカシク又は怪しく思われるわたくしはむしろ🐈の如くに御主人様に従う素振りをしつつもあえて逆のことばかりを考え続けて来たのだった。
「抽象的価値」とは例えばキリスト教の教義としての「神の國」などもまた極めて抽象的な且つ超越的な価値である。
ですが佛教の説く「涅槃」にせよまた極めて抽象的な価値なのである。
だが宗教が規定する正義としての価値はあくまで「善」の価値だ。
ところが其れをイザ社會の側が規定すればなかなか「善」の価値とはならずむしろ「悪」の価値へと傾いて行くことがほとんどである。
つまりは其の「抽象的価値」とは利己的なものであってはならぬのである。
ですが人間社會とはむしろ大昔より其の利己的なものであるより他は無かった。
利己的に成就されるであらう抽象的価値は必然として👿化する。
例えば露國は今大量虐殺を続けて来て居るのだしウクライナはウクライナで抽象的価値の成就の為に多くの國民を犠牲にして居るのだ。
其処でもって命が助かるのは祖國を捨て難民として世界中に散らばったウクライナ人だけだ。
要するに其のデカい抽象的対立から逃げ切った人人だけは命が助かる。
書評『現代社会はどこに向かうか―高原の見晴らしを切り開くこと』<br> (mito3.jp)
見田宗介さん『現代社会はどこに向かうか』 (iwanamishinsho80.com)
『現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと』|感想・レビュー・試し読み - 読書メーター (bookmeter.com)
・人間の歴史は今、第二の巨大な曲がり角、=三千年来の〈転回点〉に立っている。
・「近代社会」は、矛盾の産物であり、すでに音を立てての崩壊を開始している。
・青年たち、少女たちのリストカットも無差別殺人も、近代社会の崩壊の局面の一時的な現象である。
・原発等々、現代社会の「リスク社会」化という恐怖は、「経済成長」という強迫観念から覚めることによって脱却できる。
・新しい世代の価値と人生スタイルは、〈シンプル化、素朴化、ナチュラル化〉という方向に向かう。
・経済成長の終了の後に、無数の〈永続する幸福の世界〉が一斉に開花する。樹の塾 TOP (fc2.com)より
見田先生がかうして仰る通りに近代社會其のものが矛盾の産物なのでせう。
ですがほぼ大多数の人人は其れでも猶近代的価値を奉じて来て居る。
近代社會自體がさうした全体主義化した価値なので其処からの脱却はまず難しい訳だ。
逆に洗脳状態である方が現代社會を生きて行くことには決まって有利に働く訳だ。
仰るやうに「経済成長」なるものはまさに妄想による強迫観念でせう。
問題は其れを奉じて居るものが個では無く社會だと云うことです。
其の新たな世代の価値観がーシンプル化、素朴化、ナチュラル化ーするのであればまさに其れがより望ましい話です。
ですが廿世紀後半に日本社會が築いた複雑で絢爛たる且つ人工的な価値が簡単に変わるものとは思えません。
大衆の中でも見識の高い壱部の人人がさうなって行く、現に今さうなりつつあると云うことではないか。
ですが大多数の大衆は謂わば社會に流され生きて行くのですからむしろ無条件に社會の価値観には従うことでせう。
また其の「永続する幸福の世界」とは社會が築くものと云うよりは個の力にて切り拓いて行くしか無いものなのだとわたくしは思う。
丁度熱心なクリスチャンの方方が神を信じることで心を救われるが如くにまずは自分でもって妄想ー進歩主義ーへの信仰を止め「まあコレで僕はもうお前等とはまるで別物だよ、だから金輪際壱緒に御遊戯などしないのだ。」との固い決意を持って善なる信仰の道へ入って行くことこそが大事である。
「この世界の中にただ生きることの、<幸福感受性>」(見田宗介)。-「ダニエルの問いの円環」という美しい文章と論理から。 — Jun Nakajima - 中島純 (nakajimajun.com)
こちらは所謂文化人類学の視点から現代社會の価値観が比較され語られて居り面白い話です。
其の「幸福感受性」をむしろ失いつつあるのが現代人なのだともまた言えやう。
現代人はかうして際限無く社會的な合理化に晒されて居り「今此処でもって樂しい、どうも幸福だ。」と云う實感をむしろ奪われて居る。
即ち何でももっと上のものを、つまりはより上等でより速くより強いものをむしろみんなでもって御遊戯しながら探して行くのである。
なんですが、ほんたうの喜びやほんたうの仕合せはむしろ身近な自然や地元の人との心の交流の中にこそあったりします。ーとは言え心の余裕が無いと其れもまた出来ないがー
要するに社會全体が強迫観念にて突き動かされて居りよって誰もが其れには逆らえぬのですが其れに逆らってやると意を決した場合にだけ其の種の「幸福感受性」を取り戻すことが出来るのです。
近現代社會とはズバリ申せば進歩思想への洗脳社會です。
其の洗脳を解くのはむしろ個人的感性であり個人的思想であり個人的決心でせう。
最終的に其れは個と社會との対決であり闘争と云うことにならうかと思う。
そんな訳であくまでわたくしの論理とすればむしろ「社會の価値観から離れれば離れる程」に「幸福感受性」を取り戻すことが出来るのです。