35.かのニーチェの思想は果たして何処を遊んで居たのか?
ー遊びとは、あるはっきりと定められた時間、空間の範囲内で行なわれる自発的な行為もしくは活動である。(…)遊びの目的は行為そのもののなかにある。ー哲学研究者・岡本裕一朗「苦しくて意味のない人生を生き続けるにはどうするか。ニーチェの出した答えは〈遊び〉」 (msn.com)より
ー人生には意味がなく、苦悩以外の何ものでもない。これがニーチェの若いころからの確信であった。それにもかかわらず、生き続けるには、どうすればいいのだろうか。宗教や道徳のように、何か外の目的を見つけて、そのために生きることだろうか。しかし、ニヒリズムを自覚したニーチェにとって、それは取りえない戦略だった。だからといって、苦悩を苦悩のまま生きていくのは、いっそう耐え難いはずだ。ニーチェはどうしたのだろうか。
これがまさに、「遊び」だったのである。意味のない人生を、いかに遊び楽しんでいくのか? 永遠に同じことの繰り返しである人生を、飽きることなく(あるいは飽きつつも)歩んでいく方途、これこそが超人の遊びである。ー哲学研究者・岡本裕一朗「苦しくて意味のない人生を生き続けるにはどうするか。ニーチェの出した答えは〈遊び〉」 (msn.com)より
遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。梁塵秘抄 - Wikipediaより
其の宗教とは元より社會を救うやうなものでは無い。
其れは宗教もまた社會化されると同時に限定ー非普遍化=特殊化ーされて仕舞うからなのだ。
但し宗教の意義を我は否定せず。
其れは何故か?
何故なら其れは個に取り「救い」を齎すものなのだから。
対してかのニーチェは上で仰るが如くに宗教の意義が死に絶えた近代以降の社會の理想の価値をまさに「超人の遊び」として捉えて居たのだらう。
「超人」とはさうして永劫に無意味なる遊びを連ねることだらう精神の変革者であり同時にまさに先祖返りした子供のやうな無垢なる心の持ち主の謂いである。
其の意味では我が今到達せし思想とはニーチェの思想其のものに或は近いのやもしれぬ。
但し大きく違うのはわたくしは人間を信じて居らず其の代わりに神佛を信じて居る点であらう。
さうして神佛から離れたニーチェは最終的に自分を持ち堪えられずに発狂した。
ニーチェもまたゴッホも極めて眞面目に人間と向き合った挙句にさうして気が狂った訳だった。
まあわたくしもまたかうして可成の眞面目人間なので危ないと思い半分は神佛の方へ御縋りしたく思って居る。
要するに社會的に神佛が死んで居やうがどうしやうが自分でもって信ずるものは生き返るのではなからうか。
其の「遊び」もまた極めて難しいものである。
其れも邪心無く子供のやうに遊ぶことは人間に取り常に難しい。
逆に大抵の人間はまさに欲得に目が眩み打算的、功利的に全ての価値認識を成立させて仕舞うものだ。
故に邪心無く子供のやうに遊ぶことは出来ない、所詮は其れが無理である。
邪心無く子供のやうに遊ぶことは子も無く金も無く家も無い、つまりはルンペンさんのやうな立場の人の方がし易いのではないか。
或は自分のやうに自分は文人だから半分は死んで生きて居るのだなどと述べて居る人の方が明らかにし易いことだらう。
ですが我はあくまで今此の世が無意味なものであるなどとはまるで思っては居ない。
むしろ大いに意味のある同時に有意義なものとして其れを感じ且つ憎んでも居るのである。
其れはまさに愛と憎しみの同時進行のやうなものだ。
例えば此の世に価値が無いと見ることと此の世に価値が有ると見ることは實は同じ穴の狢の認識である。
無⇔有
其処に所謂相剋し且つ相即する関係が有るが故に其れは無いともまた有るとも決めかねぬ。
むしろ認識其れ自體にそんな作用があるので此の世での価値を壱元化することはそも出来ぬ話である。
では其の相対認識を脱するにはお釈迦様がかって述べられた如くに両極否定を行うか其れともイエス様の如くに此の弐元対立を神の次元へと繰り上げて行くより他は無い。
ところがいまひとつ方法があり其れはかのヘーゲルが述べし弁証法過程である。
其のヘーゲルが述べし弁証法過程は近代以降の歴史過程に於いて常に正しい。
但し其れを過去の価値観と照らし合わせ考える場合には常に間違って居る。
要するに近現代社會の価値観に取っては其れは常に正しく前近代的社會の価値観に取っては其れは常にオカシイ訳だ。
ショーペンハウアー→ニーチェの思想の流れとはおそらくは其の前近代的社會の価値観に取っては常にオカシイ近代思想に対する反駁であり批判であったのだらう。
ショーペンハウアーの場合は其れを東洋の思想を混ぜ込んだ形で行い、ニーチェの場合にはキリスト教批判を混ぜ込んだ形で行った訳である。
尚ニーチェの思想には末人 - Wikipediaと云う現代人に取り壱種センセーショナルな概念が出て来る。
ー末人(まつじん、独: Letzter Mensch)は、フリードリヒ・ニーチェによる哲学によって用いられていた概念である。『ツァラトゥストラはこう語った』で述べられ、超人の対極にあり、最低の軽蔑すべき者とのことである。末人というのは社会において生きる大多数の中流市民ということになる。彼らは病気に罹ることと疑うということを罪して考えて生きている。そして互いが摩擦を起こさないように、ゆっくりと歩むようになる。彼らは貧しい訳でも、富んでいるわけでもなくこれらはいずれも煩わしいものであるとされる。人々がこのようになるのならば、誰かを統治しようと誰も思わなくなるし、他者に服従しようとも誰も思わなくなる。人々がこのようになれば社会には牧人はいなくなり誰もが平等であり、誰もが平等を望む社会ということでもある[1]。末人の生き方というのは、ひたすら安楽を求めるということである。社会においての最高価値が信じられなくなりニヒリズムが広がってきたならば、人々は頑張らなくなり創造性を欠いた安楽を求める人間ばかりになるということであり、このような状態となった人間というのが末人ということである[2]。ー末人 - Wikipediaより
先に「安樂全体主義」に就いて述べたのだったが、此のニーチェの「末人」なるものもまさに其の「安樂全体主義」に毒されし大衆的価値観を指して居るものと考えられる。
では其の対極にあるとされる超人 - Wikipediaとは何か?
ーニーチェはその著『ツァラトゥストラはかく語りき』において、人間関係の軋轢におびえ、生活の保証、平安、快適、安楽という幸福を求める現代の一般大衆を「畜群」と罵った。その上で、永劫回帰の無意味な人生の中で自らの確立した意思でもって行動する「超人」であるべきと説いた。ー超人 - Wikipediaより
ー畜群(ちくぐん、独: Herde)とは、フリードリヒ・ニーチェがひろめた哲学の概念。ニーチェの原文ではHeerdeと綴られることが多く、もともと群れの意味で、とりわけ羊・牛などの家畜を指す語だったが、人間についても付和雷同する群集・大衆を軽蔑した比喩として使用される。ニーチェ著の邦訳では「群畜」「集群」等とも訳される。
『悦ばしき知識』『善悪の彼岸』などで用いられていた。デモクラシーを趣味として、能弁と達者に生きる人々のことを奴隷として批判するためにこの言葉が用いられていた。畜群というのは孤独というものを知らず、己の孤独を持つこともなく、遅鈍で正直な連中であるということであった。畜群とされる連中が求めているのは、全ての人のために与えられる生活の保証、平安、快適、安楽という幸福であるが、これらは一般的な緑の牧場の幸福であると批判された。畜群にとっての教養というのは平等と同情の二つであった。ー畜群 - Wikipediaより
ニーチェはさうして付和雷同して「安樂全体主義」をやるつまりは自分では考えず只長生きをしたいだけの群衆の群れを「畜群」として強烈に蔑んで居る。
畜群に取り教養は無用でありむしろ其れが常に平等と同情とにすり替わる訳だ。
なので例えば危機の折には「絆」が持て囃され「みんなで壱緒に」其れを乗り切ることが強調されるのだった。
でもさう云うのをニーチェは馬鹿野郎!とまさに罵倒して居たのだった。
ー畜群にとって苦悩というものは除去されるべきものとされたが、ニーチェにとっては人間というのは逆の条件に置かれるということから成長できるとのことであり、人間というのは邪悪なものや恐るべきものや暴虐なものや猛獣的なものも種族の向上のために役立っていたということであった。ー畜群 - Wikipediaより
其の逆向き思考或は反対思考と云うことを我の場合はニーチェから學んだのでは無くかっての純文學の文豪達から學んだ訳である。
だが結果的に同じやうな方向性のものとなることは否めない。
純文學の文豪達はニーチェの如くに発狂する前に皆自決するに及んだ訳で其処はまあ似たやうなものなのだらうか。
尚かってわたくしは強烈に左翼批判をなして居り特に「自由」や「平等」などと云う抽象的な価値観に対し可成に批判的であったが次第に特に「平等」に関する考え方が今では大きく変わって来て居る。
と言うのも例えば宗教は神佛の前に人間は「平等」であることをまずは説いて居る訳だ。
さらに「安樂」に関してもむしろ個が其れを求めることは本能として当たり前のことである。
よって現在我は個のレヴェルでの「平等」と「安樂」と云う価値を認めるに至って居る。
但し其れは社會が我我個に対し強要するやうな価値なのでは無い。
されど「同情」と云うある種感情的に齎される価値に関しては常に否定的だ。
つまりは「同情」することで済んだら社會的な矛盾は其処に須らく解消されやう。
むしろ其れでは済まぬ部分こそが社會的な意味での矛盾であり問題なのだ。
どだい其の「平等」にせよ社會的な意味では其れが達成されるとは言い難い。
故にあくまで個としての「平等」と「安樂」をある程度許容するに至ったと云う話である。
ー社会においての最高価値が信じられなくなりニヒリズムが広がってきたならば、人々は頑張らなくなり創造性を欠いた安楽を求める人間ばかりになるということであり、このような状態となった人間というのが末人ということである[2]。ー末人 - Wikipediaより
現代人が創造性を欠きつつあると云うのはまさに其の通りでのことなのだらう。
また自立的思考を失いつつあることもまた確かなことなのだらう。
然し其処で良く考えてみれば前近代の民人は皆創造的でしかも自立的思考をして居たかと言えばさうでもあるまい。
要するに昔から其れも太古の昔より人間とはそんなものだったのではなかったか。
近代以降の社會にはさうした無駄と云うか無能と云うかそんなものを許容する力が逆に欠けて行って居る。
即ち其処に全てが合目的化され其の目的に沿い合理化されて行く訳だ。
其の全的な合理化過程こそがオカシイと我は述べて居るのである。
よって誰がオカシイのかと言えば其の社會の価値観即ち認識こそが誤って居るのである。
では現代の大衆に罪は無いの?
いやちゃんとありますのですよ。
其れは罪を自覚出来ないで居ることの罪であり且つみんなでもってさうして何でも進めて行くことの過ち其のものでせう。
壱方でニーチェが述べて居ることもまた正論であり、まさに創造性どころか他人の目ばかりを気にしつつ同じやうなことをやりさらに苦悩どころか兎に角子孫繁栄と長生きと金持ちになることだけを夢見つつ我等は生きて行くのである。
今僕は我等と言い自分をも其処に含めた訳であるが其れは多分に自らの願望が含まれて居る。
僕などは昔からそんな大衆の壱人として世界に紛れ込んだ形にて生きて居たかったからだ。
かうして世間とは逆向きのことばかりを言い目立つのでも無くましてや藝術家なのでも無く只のボンクラとして生きいつの間にか消え去って置きたかった。
嗚呼、でも僕の才能が結局かうして世に出て仕舞った。
結局は普通にして居るだけでかうして目立って変わって仕舞って居るのでありむしろ其れが自分ではイヤでたまらぬのだった。
どだいショーペンハウアーやニーチェが好きだと云うだけでもう其の辺を歩いて居るオッサンとはまるで違う訳だ。
嗚呼、イヤだなあ、其れもほんたうに…。
僕は普通のオッサンのやうに出来ればなりたい、おお早く大衆の壱人となりたい!
それも文學だの哲學だの藝術だの、そんなものにもはや振り回されたくは無いのだ。
でも其れ等をこそ愛しておいでになるのでは?
…さうでした。
たった壱つの此の世に対する其れが愛だった。
自分の愛とはまさに其れなのだ。
自分の愛とは👪愛でも宗教的な次元での愛でも無く只文學だの哲學だの藝術への愛である。
さてわたくしが批判するケモノとはまさに其の「畜群」のことなのでもまたある。
だけれどもニーチェとは異なりわたくしは「畜群」の中にも努めて入って行く。
さうして人嫌いなのにあえて其処に交わり…。
交われば交わる程に火花が散るが其れでも猶…。
其の「畜群」に取り「苦悩」とはむしろ理解出来ぬものの壱番手のものだらう。
だがショーペンハウアーとニーチェは逆に其の「苦悩」をこそ重んじたものだった。
また我などにも其の「苦悩」がむしろ頻繁に生じる。
さうして苦悩が常態となるからこそ其の「遊び」への親和性が生じて来る。
つまりは其の遊びこそが苦悩を滅せんが為の「遊び」なのだ。
でも「苦悩」を感じたことの無い人人に取り其のことはあくまで「なんのこっちゃ」である。
ところでニーチェの哲學で重要なのが所謂永劫回帰の思想である。
ーニーチェは、キリスト教が目標とするような彼岸的な世界を否定し、ただこの世界のみを考え、そしてこの世界を生成の世界と捉えた[1]。永劫回帰とは、この世界は、全てのもの(大いなるものも卑小なものも)が、まったく同じように永遠にくり返されるとする考え方である[1]。キリスト教的な時間解釈では、この世の時間と物事には始まり(天地創造)があり、終わり (神の国の到来)があって、歴史はこの終点を目的として進行する[1]。だが永劫回帰する世界には、それ以外の世界はなく、そこには始まりもなく終わりもない[1]。彼岸的な神、神の国、この世ではない理想の世界などを考える思想にとっては、それらが人生の目的となり、そうした目的との関連で人生の様々な物事は意味を与えられる[1]。しかし、永劫回帰においては、到達すべきものとしてのいかなる究極目的もないので、その限りにおいては、いかなる世界内の物事も意味、価値がない[1]。ニーチェは、こうした一切の彼岸的なものと世界内の物事の価値の否定を伴う永劫回帰思想を『カへの意志』において「ニヒリズムの極限形式」であると述べた[1]。ー永劫回帰 - Wikipediaより
かうして只無目的にしかも無意味に何度でも此の世界が其れも寸分違わずに繰り返すのだとすれば其れはあらゆる価値を消失した世界であり其処ではまさに彼岸と此岸との弐項対立をも認めない虚無的世界である。
逆に申せば弐項対立が引き起こされ彼岸的な価値ー絶対としての価値ーが有るところにこそ物事の意味や価値が生じて来るのである。
ーしかしニーチェは、永劫回帰を引き受ける意志こそが最高の「力への意志」であると考えた[1]。すなわち、永劫回帰においては一切の物事は永遠にわたって回帰し戻ってくるのだから、根本的には何物も失われずに、存在する[1]。ゆえに、永劫回帰を引き受けることは、ニヒリズムの極限であると同時に、自己を含む一切のものの肯定、しかも無数にくり返される肯定であるというのである[2]。ー永劫回帰 - Wikipediaより
其の自己をも含む世界の「肯定」こそが其の積極的ニヒリズムを成立させる訳だ。
しかしながら其処で全肯定して仕舞うが故に「力を意志」して仕舞う訳である。
其れを逆に全否定するのであればまさにショーペンハウアー流に「あらゆる力を消し去る」方へと進むのである。
ショーペンハウアーはニーチェの謂わば師匠であり互いに大衆を批判し「苦悩」を生きる理性を重んじたことでは同類なのだが結果的にはかうしてむしろ正反対の結論に至ることとなる。
さて其の世界の「全肯定」と云う思想こそが至極危ないものであるやうに個人的には思われてならない。
逆にニーチェが否定した其のキリスト教に於ける世界観やまた佛陀を始めとする印度の解脱思想の流れは所謂現世利益否定主義でありむしろ世俗の価値を全否定した上での聖なる価値の構築の世界観を形作る。
其のやうにむしろ「いっぺん否定したってから肯定する」価値観の方がどうも正しいものであるやうにわたくしには思えてならない。
さらに言えば「全肯定」とは熱狂であり熱狂とは理性的に選択されし価値なのでは無くむしろ感情ーに基づく本能ーが選び取る価値観のことなのだらう。
其の意味ではヘーゲル流の進歩主義もまた其の熱狂であり熱狂とは理性的に選択されし価値なのでは無くむしろ感情ーに基づく本能ーが選び取る価値観のことなのだらう。
故に近現代社會に於ける熱狂的な進歩主義こそがまさに其の非理性的な世界観を形作るものであらう。
つまりは其の科学的狂騒曲だの帝國主義だのはたまた覇権主義だの革命思想だのの全てが其の熱狂的且つ非理性的な観念であり行動であるに過ぎない訳だ。
要するに我は近代的価値其れ自體を本能による暴走だとさう定義付けて来て居るのであくまで本質的にはあらゆる近代的価値をかうして疑ってかかって居るのである。
なので理性と云うものはさうして兎に角疑ってかかるものだ。
さうして疑いつつ今を見て屡過去の価値と照らし合わせて居たりもするものだ。
故に古臭いと言われやうがどうしやうがちゃんと宗教の方にも向き合う。
其の宗教を全否定することは無いが社會の奉ずる価値観はむしろ「いっぺん否定したってから肯定する」方が余程にまともである。
「超人」と云う概念はさうして徹底して能動的ニヒリズムを受け容れた上で生きることをあえて肯定し其処に「遊ぶ」自立的思考者の群れのことでありだからこそ其れは大衆とは対極の現象なのだが其れが何故か所謂権力志向と結び付いて仕舞う訳だ。
ところがニーチェの師匠のショーペンハウアーの方はあくまで徹底的に反権力志向なのであり所謂隠遁者気質なのだった。
要するにショーペンハウアーは半分本気にて解脱を目指して居たがニーチェは逆に究極的に強く生きる人間であることを目指さうとした。
其処で力の入り方とすればどうも逆方向となって仕舞って居る。
さて個人的に興味があるのは「生きんと欲する強さ」では無く「生きられぬ弱さ」の方であり其れは中学、高校と太宰文學に傾倒したことで醸成されし興味でありテーマなのだ。
其れと高校時代に芥川 龍之介全集を読破したことで得られた理知的なものの本質的弱さ=生命力の無さに就きいまだに興味がありまさに筋肉ムキムキでの生命力の強さのやうなものに関心はどうしても持てずに此れ迄来た。
我が人生はむしろさうしたマイナス領域での航海が長く続いて来て居り其の点ではニーチェの思想などもまた良く理解出来るのだが最終的に其の「肯定」壱本槍となって仕舞った時点で或はニーチェ自身の思想の失敗もまた決まって居たのやもしれぬ。
「肯定」壱本槍となるのは宗教もまたさうなのではあるが必ずしも宗教は現世肯定から入る訳では無くむしろ現世を否定的に見詰めて行くところこそがむしろまともなところなのではないかとさうも思う。
さうしてまともですと少なくとも気が狂わずに生涯を終えられる訳だ。