目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

永遠なるルドン -Ⅱ-




ルドンの描く色彩は自然の描く色彩の如くに完全に調和して居る!

わたくしにはまさに其のことこそが不可思議な出来事だった。

さう自然の描く色彩は常に調和して居る。

丁度今ならば海や川の青と山や森の緑が調和して居る。

其ればかりでは無ひ。

野に咲く花々の鮮烈な赤や黄も色彩の調和を見せる。

然し厳密には文明の中に其の調和を見出すことなど出来ぬ。

近代建築でも中世の街並みでもまた京都や奈良の寺院でも教会のステンドグラスでもモスクのアラベスクでも他のどんなものでも此の完全なる色の調和を見出すことは叶わぬ。


其のやうに自然だけが完璧なのだ。

対する人間の営為は須らく不完全でむしろ醜ひ。

まあひでえ言ひ方だが感覚の極にて申せば其のやうなこととならざるを得ぬ。



まさに色の中に自身が埋没して仕舞ひたい程に其の色自体に恋ひ焦がれておる。
まあさういふ人間もまずは珍しからうが別段わたくしにとっては変なことでも何でもなく其は逆にただひとつの重要な価値なのだ。


故にこれまで様々に色のことを考へて来た。

或は見詰めて来た。

結局色とは諧調であらう。

其れは精神ー心ーと相克ししかも相即した形での諧調である。


かうして色は固有の振動数ー波長ーでもって心を揺さぶる。
なので色と心理が混ざって居ることがあらう。

自然界に黄色や赤色のものがあると其れは危険色である。
なんですが、こと果物に限れば其れは熟れ頃を示す色だ。

此処からも人間が作為的につくった果物は自然物とは言へぬのやもしれぬ。

さうして青ひ空や白ひ雲、またエメラルドグリーンの海や川、また緑に染まる山並みを見詰めて居るだけで何だか心が落ち着く。

色が何故心と相克するかと言へば、人間の心は色其のものからは常に疎外されて居るからだ。

即ちわたくしのやうに色其のものと重なりたく思ふとする。


ところが人間自体には色は無くー白と黒と薄黄はあるが其れは色では無ひー色のあるのはむしろ動物や植物の方だ。

なので人間は常に色から疎外されて居ざるを得ぬ。

色其のものにはなり得ぬのだ。

だが動物や植物が色の全てを識別出来るかと言へばおそらくはさうではなひ。

左様に色の感受性は生物種により大きく異なって居やう。


なんですが、どうのこうのと考へる前に矢張りどう考へても人間よりも夏の空の下キラキラと輝きつつ飛ぶ蝶の方がより美しひ。

兎に角見た目にはより美しひ。

わたくしには自然が常に輝いて見へ其れは齢三十を過ぎた辺りから自然とさうなっていったのだった。

だからこそ絵が分かる。

さらに詩の何たるかと云ふことも分かる。

尤も分かる分だけ分からぬと云ふ部分もまたあらうから別に自慢をして居る訳では無ひ。


なのだが兎に角藝術のことが自然に分かる。

其れもムリをせずとも常に其処に居ると云ふ形で。

で、問題は其の藝術と自然との親和性のことだ。


ただし藝術は自然其のものにはなかなか重ならぬ。

藝術は特に言語による藝術は観念的表出なので其処に其れを表現した人間の癖が頑固にこびり付ひても居らう。

実はさういうのが次第にイヤになって来て詩にせよ絵画にせよ音楽にせよどうも今ひとつ不純なんじゃないかと云ふ思ひが出て来困って仕舞ふ。

なので齢五十を過ぎてから以降はむしろ自然の中により普遍的な絵画を見、音楽としての旋律を聴き、さらに自然自体が詩であることを実感しつつ其れと戯れて来た。


だからすでに其れが文化となって居るのであへて美術館だの、音楽会だの、詩集だの何だの、どうのこうのだのと云ふ部分にもはや拘らなくなり何でも兎に角自然を観て居るだけで満足であり其れでもって十全なのだ。


其の自然は岐阜だの長野だの、つまりは中津川だの開田高原だの、白樺湖だの蓼科だの清里だの、また軽井沢だの岩木山だの、はたまた北海道だのそんな大自然でなくとも良くたとへば家の庭の自然、であるとか、自転車で買い物後に通る空き地に草が生えて来た様だとか、或は近くの相生山であるとか、兎に角そんな身近な自然を愛し其の様を観察し得る立場であることこそがわたくしにとっての幸せ♡なのだ。

が、こんな夏休みには一度だけで良ひが是非北海道へは行ってみたひ。

地球温暖化が進めば北海道もクソも無くまずは食ひ物が無くならうから、また外気温が42,3度となる虞も大きくあり、其れは大体2050年辺りから徐々に気温が上昇しおそらくは21世紀の終わり頃には日本の都市圏は全て其の位の外気温となることだらう。


藝術と自然の相性の良さはまさに「原生的疎外」としての二元的分離を共に其の侭に内包するからではなひか。

宗教に就ひては、意外と宗教と云ふもの、其れも一神教ともなれば案外自然との相性が宜しく無ひ。

対して多神教又は東洋起源の宗教は自然との相性が頗る宜しく、其れも山岳宗教や神道などはまさに自然と密接に結び付く宗教観を有して居り其処ではまさに自然こそが神であり神の座所でもあるのだ。

左様に恵まれし環境にある日本人が何故心底から自然を大事に思わなくなったのか、わたくしにはむしろ其の点だけが謎で、だが強ひて言へば日本人の持つ同調圧力の強さから経済成長に全価値を置く戦後体制を一丸となりつくりあげた手前、其処で自然が大事だとか何だのとかそんなものはむしろ泣き言のやうにしか聞こえなかった訳で、故に次第に自然は近代的日本人の主要な価値からは外れていったのだと説明し得る。

逆に左翼改革思想の側が次第に自然と仲良くなり、事実家の近所の共産党の人などは選挙の時になれば家の周りに共産党候補の選挙ポスターばかりを貼り付けて居られるが、其ればかりではなく其の狭ひ庭を利用して畑などもやって居られ、おや、こんなところにキュウリが沢山なって居るぞ、コレなどはひょっとするとナスなのか?と云った塩梅でまさしく正しく左翼潔癖思想の発露たる自然志向を絶やさず生きて御座るやうだ。

尤も我が家などはもう少し凄く、何が凄ひかと言へば兎に角家の前の歩道の方へ色々と草花、茶花などが盛んに生え突き出ておる。

勿論其れでは見苦しひので子の無ひ従妹がたまに来て其れを引き抜くが実は我はむしろ其の草花の生へるのを愉しんで居るので全く手など動かさぬ。

其処に咲いた桔梗や露草の美しさと言ったら!


兎に角自然が大事だ。

自然はむしろ文明よりも大事であらう。


わたくしの夢は年金生活でもって自然豊かな土地へ移住し其処でもって詩を書ひて生きていくことだ。

だが其れはあくまでも夢なので実現する可能性は今の処低ひ。


其の自然としての色の分離度に就ひて。

先に自然は様々な色を有するが須らく其れが調和して居る旨を述べた。

其の調和とは、おそらくは人間的な即ち観念的な意味付けを離れて居る様のことだ。

色自体から疎外されるべき運命にある人間としての観念を其処に持って居なひと云ふことだ。

逆に言へば色を観念的に分別化しておる人間の眼には其の調和が生じぬか又は非常に生じにくい。

其の色の観念化をどう払拭していくべきなのか?


と云ふ命題が世紀末に於ける西洋絵画の根底に或はあったのやもしれぬ。

たとへば印象派は特に東洋に関心の深かったモネなどは其の色の調和を高ひ次元で成し遂げて居やう。

だがわたくしはルドンの描く色にこそもう少し根源的な色の調和を見るのである。

自然其のものと云っても良ひ、まさに静けさに包まれし色の調和を其処に見ひ出す。


其れで何故其れが其のやうなことになるのかと云ふ点に就きずっと考へて来て居た。

ところが其の秘密を解く鍵はむしろルドン其の人の内面の中にあったのだった。

左様にルドンの内面は長きに亘り激しく相剋して居たことだらう。

色が無き世界を延々と描き続けた彼には突如として色が有る世界の意味が分かったのだ。

其のやうに色のある世界と色の無ひ世界の相剋と相即の様はむしろ極めて現実的なものだ。

故にルドンは所謂幻想を描ひたのではなくむしろ内面に拡がる自然の様を、其の相剋し相即する自然物としての色其のものをむしろ其のままに写し取って行ったのだ。

なので其の色は永遠に反目し合ふことが無ひ。

其こそは調和であり、即自然界の色であり、かつ人間としての観念的分別を其処に超越した色其のものとしての諧調なのだ。


其のやうに了解された時、わたくしにとりルドンの絵画に於ける色こそが永遠なる調和を示すものと化したのだ。

二元的対立は此のやうにある意味で徹底的に見詰めていかねばなるまひ。

其の二元の相剋と相即の様こそが即調和であり、其は万象に於ひて変わらぬので色の世界に於ひてもまた其の関係が成り立つ。

まさに其のやうにルドンは内面の相剋と相即の様をこそ色に表したのだ。

故に其の色は自然なるものとしての調和を永遠に保つ。



かように藝術は最終的には調和=創造的維持の領域を齎す。

其れが理想と言へば理想なのである。

だが藝術には毒があり、即ち其の至高の調和へ至る為には二元対立の過酷な闘ひを経なければならぬ。

屡藝術の分野で猥褻の問題即ち表現の自由の問題が引き起こされたりもして居る。

然し藝術は元来対立から生じ調和へと至るものなのだ。

藝術とはまさに闘ひであり、其の闘ひは藝術家にのみ与えられしものであり其の骨格をして余人に裁かれるやうなものには非ず。


されどまた限度と云ふものがあらう。

ルドンが描くモノクロームでの何か変なもの達は不思議と上品で必ずしも不快な思ひを抱かせないところが今も不思議である。

藝術は學問とは少し違ひ其処に感度が要るがむしろ根の方は人文の領域に属して居やう。

即ち分析のみには傾かぬ二元的屈折が藝術の根幹にはあり、其の二元的屈折が美を求めて何処までも其れを追いかけていくのだ。

だが依然として蝶の美は自然の内なる諧調の中に拡がって居る。

其の自由なる律動を概念的分別で捉へることなど叶わず。


元より其れを知りつつ藝術はあへて其処で創造の真似事をしていくのだ。
其の内面の相剋と相即の様をこそ永劫に亘り表現していくのだ。