目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

安倍先生は不倫のせいで早く亡くなったのではないか


安倍 公房氏は惜しひかな早くに亡くなられたのだったが、其の著作や対談などを今読んだり視たりする限り高度な理性的能力をお持ちの方だったやうで、わたくしの場合遅ればせながらも其の的確な社会時評に感服して居る次第である。

実際此の方が今生きて居たらどんなことを仰るのだらうか、まさに其のご意見を伺ひたいのだけれど元より其れも無理なこと。
かの三島 由紀夫先生のご意見も是非伺ひたいのだけれどさういう方々に限ってもう此の世に存在しては居られぬ。

安倍 公房氏の社会時評は其の内容が一種難しひと云ふか可成に観念的である。

『死に急ぐ鯨たち』と云ふ著作は1986年に出された安倍先生の思想的集大成と云った趣の本で現在のわたくしにとりまさにドンピシャリと云ふ感じの内容のものだった。


たとへば此処に先生が「散文精神」と云ふことを述べて居られる。

散文は本質的に儀式化に対抗出来るものだと云ふやうなことを述べられて居る。
たとへば俳句や短歌は様式化された上での言葉の洗練度を競ふ様式美の世界のものだ。

詩も定型詩などは明らかにさうだ。
いや散文詩の場合にも屡其れは当て嵌まる。

詩と云ふもの自体が儀式化された言語であることはほぼ間違ひないことであらう。

ただしわたくしの場合は其の儀式か否かと云ふことに対する拘りが実は無ひ。

かって坂口 安吾は『日本文化私観』に於いてまさに其の儀式性=様式美をコキおろして居たものだったがわたくしはさうは思わずむしろ様式美こそが真に美しひのではないかと次第にさう思へるやうになったのだった。


其れは何故か?

安吾が理想とした美の「実質」とは所詮戦後日本の経済成長に貢献したばかりのことで、ある意味では其れが無味乾燥な合理化の領域とも結託して来ざるを得なかったからなのだ。

つまるところ実質=無駄の無き合理的なもの、には浪漫が含まれて居ない。

ところが安吾が生きた戦前の世界はまさに其の浪漫の集大成でもあったのだった。

明治浪漫、さうして大正浪漫、並びに昭和の帝国主義浪漫としての流れでの集大成だ。

勿論其の浪漫を否定するところにこそ戦後世界は開闢したのである。


なので安吾は其の合理化をこそ求めたのだった。

だが合理化の行き着く先としての今はどうだらう。

皆が平等で自由だと云ふことは少なからず其処に浪漫が無くなると云ふことでもある。

即ち何処にも浪漫が無ひ。

其れどころかまさに諸制度は破綻しつつあるわ、家族は崩壊するわよって老後も安心出来ぬわで。

さてこんな社会に誰がした?



なんで、わたくしはむしろ浪漫主義を標榜することとしてみた。

即ち男の浪漫、日々読書に明け暮れ沢山の萬年筆と戯れる。

山へ行き石などとも戯れて来る。

昔の話ではあるが滝に打たれて修行さへして来る。

ただし危険なので飲む、打つ、買ふはしない。


兎に角わたくしは浪漫をつまり夢を見られる社会でなくちゃならなひとさう思ふのだ。

ところが世界は次第に夢のなき殺伐としたものとなりつつある。

そりゃ何でや?



わたくしは其れを合理化の適用の範囲の誤りだとさう結論付けても居る。


其れでインテリ共は何故そんなカンタンなことに気付かぬのだ?と云ふことを屡訴へて来た。

安倍氏が反儀式主義を標榜して居られたのは、其れは即反権威主義と云ふことなのであり、其処を煎じ詰めれば軍国主義の否定と云ふことであり集団行動としての服従への拒否と云ふことに繋がらう。

其れでもって散文には右への全体主義に対抗するだけの精神ー個としてのーがあると述べられたのだらう。

確かにわたくしも其の反権威主義でもって尚且つ個の領域での浪漫指向が強ひ訳だ。


なんですが、社会自体を止めよと言うておる訳ではなく近代自体を止めよと言うておるだけのこと。
止められないなら止めなくても良ひが少なくとも国家は解体して共同体主義を標榜すべきだと述べておるだけのこと。

其の実質重視にせよ、また反儀式主義にせよ、形式美を否定すると云ふ点に於いて共通項で括れる訳である。

なんだけれども、自然の美と云ふものは逆にほとんど形式美なのではなかろうか。

自然は自分の意志で美しく染め上がって居るのではなく謂わば神から与へられし範囲での美を形式として纏って居るに過ぎぬ。

美の本質とはまさしくさうしたことで、逆に規定されて居るからこそ美しく制限されて居るからこそ美しひのだ。

人間の生はまさにどうしやうもないカスのカタマリなのだけれど其れでも尚美しひ、いや美しくあれぞかし。

美しくもなれる、いや必ずやさうもなれやう。


其の美を形作るものとはむしろ形式性だとわたくしは捉へるのだ。

かのハイデガーではないが有限性の象徴としての死を常に感じて居てこそ人間は実存として現在にしかと立つことが出来やう。

有限性とは形式であり、よって其れは自発的に開発する自由なのでも平等なのでもない。


形式とは限定であり限定であるからこそ我我は現象の相対性から逃れることが出来ぬ。

対して∞性とは非形式であり其れは永遠の自由であり平等でもある何ものかである。

だが永遠の自由であり平等であるものとはむしろ有り難くも何ともないものであるに過ぎぬ。

かように不足なきものは往往にしてただ退屈なだけの牢獄と化すことだらう。


よって我我は限定と云ふ其の有限性に於ひて初めて真であり善であり美であるものとまみえることが出来やう。
さうして不完全であるが故に愛の意味を知り信仰の確かさと死と云ふニヒリズムと対峙することが可能なのだ。

かように我我にとっての天国は我我をして天国へは連れて行っては呉れぬ。

我我を天国へ連れて行くのは逆に不自由であり不平等であり且つ不具性なのだ。

其の不具性の理解と自覚こそが何より大事だ。


尤も其の不具性自体が生の意味として光り輝く訳ではない。

其れは負債であり且つ盲目である。

其の認識が曇って居ると云ふ意味では誤って居やう。

だが不具性を認められる理性の働きこそが光り輝く。

ただし蝶は理性へと傾く訳ではない。


即ち空を舞ひ飛ぶ蝶はむしろ形式として自然の中でこそ輝く。
形式とは権威ではなくましてや理性でもなく与へられしなにものかなのだ。

神仏=全体としての人智を超へたもの、よりまさに与へられしなにものかなのだ。

形式ではない美は、其の実質としての美程切なくさうして殺伐としたものはない。

其れが現実としてしか機能しないことから美としての轍を踏み外して居るからだ。


美とはさうしたものではなく、多分に湿り気=夢を含んだものだ。

カラッとしたものではなく常にしっとりとして居るものだ。

即ち合理的に割り切れるものではなく其処に体温が感じられるものだ。


我我が理性へと傾かざるを得ぬのは我我が常に人間=社会を生きて居るのであり自然を生きて居る訳ではないからだ。

社会とは欲望の具体化であり且つまた欲望の正当化のことだ。

我我人間は一人では赤信号の道を渡れぬのに集団ともなれば其れが可能だ、いや事実さうして来て居る。

我我は今赤信号の点ひた未来への道をみんなで渡り安心し切って居るがそも其れが誤りなのだ。

其の社会的な認識の過ちを正さぬ限り現代文明に未来は無ひことだらう。


我我が有限の存在であると云ふことはまさに其れが形式であり様式美であると云ふことが其処に示されて居やう。

我我が持ち得る美が形式であるからこそ其処に浪漫を見出すことさへ出来る。

我我は限定であり限定であるからこそ美しくさらに無限に生きることさへもが可能だ。
逆に我我が∞の現象であれば其処で生きる生こそが有限とならう。

即ち∞を望むが故に我我は種として限定されやがては滅びの時を迎へて行かざるを得なひ。


我我が限度を知り其処に於ひて美を攫み取ることが出来れば逆に種としての寿命は延び形式としてまた様式美としてしかと地の上に立つことが出来やう。

ゆえに求めないことこそが求めることで、

望まないことこそが望むことだ。

美に与することなくば其れが美で、

無理に長く生きやうとしなひことこそが長生きの秘訣だ。


有限であれば即ち其れが∞で、

∞を目指せば逆にすぐに限定地獄へと堕ちやうぞ。



価値は美に於ひて構築されるべきものであり、其の美とは観念的価値には非ずして人間=社会以外のものから与えられしものだ。

自然と云ふ形式の中から汲み取ることの可能なもので、また神仏と云ふ人智を超へた叡智より与へられしものなのだ。


其の価値を決して観念=社会的欲望でもって汚してはならぬ。

観念的欲望=社会的願望は自己保存の欲求を最大限となしていく。

我我は永遠に快適に生きたひ、また永遠に宇宙の支配者でありたひ。

との妄想願望から形式を破壊し未来を閉ざし其れも自らさうすることで今まさに自らの首を絞めつつある。


観念が危険なのは、個の領域に於ひてでは無ひ。

一人一人としての我我は地球を破壊し尽くす程の欲望を持って居なひ。

たとへどんなに邪な思ひを抱こうとも個の領域には必ずや抑制力が作用することだらう。

さうした意味で性悪とは個が性悪なのではなくまさに社会が性悪なのである。


個はいずれ何処かで其の出た部分の杭を打たれるのである。

だが社会の性悪を食ひ止めるものなど何処にも存在して居ない。

嗚呼まさに立憲君主制に於ひて王ばかりを批判して居る訳にもいかぬ。

共産党一党独裁に於ひて共産党ばかりを批判して居る訳にもいかぬ。

かように社会には大きな圧力が生じ其れが個を大きく規定していくのだ。


其の挙句に、我我個は社会の言ひなりにされ赤信号を皆で渡っていかねばならなくなる。

だからかって岡林はさういうのををこそクソ喰らへ!と叫んだのでありだから彼は間違ってなどまるでなくむしろ正しく心の叫びを歌にして居たに過ぎぬ。

わたくしの述べて居ることとは元々社会には善玉は無ひのであるからむしろ皆様は其の事実をしかと掴み取りたとへ社会が自由だ、性が自由だ、ゲノム編集は自由だ、其ればかりか地球をブチ壊して火星へ移住するのは正しひ、などとまるで悪魔の申し子のやうなことを述べて居る=観念的欲望ばかりを追求して居ることに対して無視または否定して個としての目覚めた価値観を追求していかねばならんと云ふことのみ。

だから不倫は自由だと云ふ社会的流行程危険なものはない。

或ひは安倍 公房氏が早う死んじまったのも彼が不倫をして仕舞って居たと云ふ事実から引き起こされて居たことなのやもしれぬ。