其の価値ヒエラルキーに於ける破壊と創造の意味の捉へ方こそが重要なのだ。
所詮価値ヒエラルキーも二元分裂しやうから破壊と創造の意味が其処で固定化され得る訳ではなく其処でもって相対的にしか規定し得ぬこととならう。
するとたとへば以下のやうな対立概念が生ずる。
1.変へたい者ー左翼ーにとっての革新的価値⇔変わりたくない者ー右翼ーにとっての伝統的価値
2.夢見がちな男性にとっての浪漫ー観念的追求ー⇔現実しか見て居ない母性のとっての価値ー子宮思考ー
ところが必ずしも諸価値は絶対的な対立関係により規定されて居る訳ではない。
たとへば理性的なものが良い領域もあれば逆に子宮思考の方が合って居る領域もまたある。
浪漫が必要なこともあれば逆に常に現金で居た方が良いこともあらう。
また一般的に土人は運動能力に優れ近代人よりも肉体的に強ひ。
頭の悪ひ奴は打たれ強く頭の良ひ奴は逆に打たれ弱ひ。
なんですが、こと近代社会に限り余りにも現金思考に傾き過ぎて居るのではないだらうか。
つまるところコレは社会的規定なのである。
社会的規定は人間的規定であり其れは個による生の価値観の規定とは異なる。
何故なら誰も原爆など望まぬ筈なのに事実原水爆は此の世に充ち溢れておる。
誰も環境破壊など望まぬ筈なのに環境は大いに壊れかけておる。
さうした価値の破壊を齎すものとは何か?
其れが人間ー文明ーによる絶対的な価値の構築に由るのである。
即ち個の価値観とは所詮相対価値を免れぬものだ。
たとへば辛ひものが好きな人も居れば嫌いな人も居る。
偏差値が高ひ、高過ぎる奴も居れば偏差値が低い、低過ぎる奴も居る。
女好きも居れば女嫌ひもおる。
近代バカも居ればわたくしのやうに反近代を標榜するバカさへおる。
と云ふことは、個による絶対的な価値の創出はそも無理だと云ふこととなる。
ただしこと生きる上では勿論自分が絶対でもあるのだけれど、其の自分の価値観は外部では否定され相対化せざるを得なくなったりもする。
つまりは個とは絶対化することの出来ぬ相対者であり続ける以外ないものだ。
たとへ自分が死にたくなくても実はそのうち死なねばならぬ。
左様にオンナ好きでもそのうち女は全部消え去るのだ。
対して人間ー社会ーはどうなんだ?
実は人間ー社会ーは絶対化することが可能だ。
其れは純粋に観念的な営為なので、相対的規定を離れ絶対領域へと離陸して仕舞ふ。
平たく言へば他から規定ー批判ーされることが大枠では無ひ。
勿論社会はずっと規定ー批判ーされて来たやうには一見見へやう。
第一仏蘭西革命が其の前近代社会への批判であり否定であった。
また左翼思想が其の前近代社会への批判であり否定であった。
ところが、近代と云ふ枠組み其のものは否定されるどころか次第に絶対のものとして価値化されたのだ。
さういうのを、社会科の領域では全体主義と呼んで居る。
全体主義は近代其れ自体に拡張され即ちより強固に観念化されるに及んだのだ。
近代とは歴史の終わりを齎すものだとの考へ方があり、其れは近代にはどんな批判を加へても本質的に其れが変化し得るものではなく人間の歴史過程にとっての最終的な立ち位置であるとされるものだ。
勿論左の思想と右の思想は拮抗し様々にやりあったりもして居るものだが其れは近代と云ふ人間の体制の中でのいざこざに過ぎず近代自体を否定乃至は批判するものではない。
其処で左翼にとっての価値とは創造的破壊であり、逆に右翼にとっての価値とは破壊的維持である。
ところがあくまで相対領域の話なので、実際には左翼思想が行ふ破壊もあれば右翼が行ふ破壊もまたある訳だ。
また子宮思考が行ふ破壊もあれば浪漫の追求が行ふ破壊もある。
また其の逆に両者による創造もあらう。
其のやうに相対的規定だと云ふことだ。
つまるところ思想とは個の領域にしか属して居ないものだ。
対して社会とは、歴史の一断片でありあくまで人間としての欲望の構造のこと。
其の欲望の構図に実は批判がならない、批判することさへ実はままならぬ。
わたくしはまさに観念的に対抗し其れを行ふ、まさに純粋なる理性体と化しあへて其れを行って来た。
よって近代を批判することとは思想を語ることではなくむしろ思想を捨て去ることなのだ。
其れが思想である限りは個の領域ー相対領域ーに留まり矛盾化の枠組みの中でしか世界を論じられぬ。
然し近代を批判乃至は否定する為にはさうした相対価値を離れ観念的絶対性をあへて構築していくより他はない。
其の観念的絶対性は近代の枠組みそのものに対する対抗措置としての絶対性なのだ。
其処に於いてこそむしろ近代の価値観の絶対性は相対化され得るのだし其れを批判の対象として俎上に乗せることも可能なのだ。
だが其れは思想ではない。
思想を超えたひとつの信仰のやうなものだ。
謂わば個と云ふ限定の範囲の中で行われる相対化としての脱思想的な絶対化のことだ。
かようにわたくしは個を批判して居る訳ではない。
わたくしが批判するのは其れ即ち社会である。
社会と云ふ人間である。
環境を破壊することに勤しむ現代社会であり社会的なものにタダ唯々諾々として従って居ることだらう現代人の集団心理なのだ。
其の社会的自我こそが強固に観念化されかつ全体主義化され、また人間の自由と平等を目的化し世界を破滅へと導く欲望のカタマリのことだ。
破壊にせよ創造にせよ、まさに其れは相対的な価値観として規定されており其処に絶対の価値が付与されて居る訳ではない。
だが其の立場にもし固執したとすればまさに破壊的な対立関係が生じひいては滅びへの坂を転げ落ちて行くことだらう。