目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

佛教とキリスト教の相違

もしも宇宙から見詰めることが出来れば此の世の全ては人間の持つ独特の癖ー価値観ーに基づく巨大なる戯画のやうなものであるとさうも見へて来やう筈です。

さうした戯画は実際詩の方からは屡見詰められて居たりも致します。

 

賢治にせよリルケにせよまど みちおにせよ谷川 俊太郎にせよまたW.B.イエーツにせよ皆宇宙からの俯瞰を為し其の巨大なる戯画の様を見詰めて来ても居りませう。

或は仏教などでも華厳宗だの真言宗だの、さうした何処かに宇宙を感じさせる教義の内容を持つ宗派が古くより存して居やう。

 

尤もキリスト教に至っては神が其の宇宙の創造主なのですから、其処で神を信じることが即宇宙を俯瞰することに繋がるのかもしれません。

 

 

対して仏教は本来ならば自己の内面を只ひたすらに見詰めていきます。

自己の内面を只ひたすらに見詰めていかず外側に救済を求めるあり方は本来の仏教の形では無ひ。

 

なんですが、其れは仏教のキリスト教化、即ち他力本願としての仏教と云ふことで確かに不純ではあらうが其れもまた仏教の現実化ー社会化ーとしての流れなのだと思はれる。

 

要するに問題は何故人間は宇宙的な視野を持つことが出来ず目の前の利益にだけ群がりさうして挙句の果てには争ひに至るのかと云ふことです。

 

争ひもまた破壊なので其処で同時に何故人間は破壊せずには生きていけなひのかと云ふ部分に問題は集約されて来やう。

 

 

人間の破壊の問題点は其れが抽象的概念に寄り添ふ形で何処までも膨らんで来たと云ふ部分でせう。

 

破壊其れ自体か又は劣化其れ自体は自然と云ふ枠組み自体にもあり實は自然自体が其の劣化過程なのでもある。

 

だけれども、最終的には滅ぶ其の自然の営みこそは十全であり唯一本質的破壊を免れたものでもまたある。

 

 

要するに其れが楽園だと云ふことです。

 

楽園なので永続するかと思ひきや何十億年も経てば必然的に地球は太陽に呑み込まれ消滅します。

 

と云ふことは其れは真の楽園には非ず。

 

 

では真の楽園とは何か?

 

其処でもってキリスト教では精神的な意味での楽園を説きます。

 

物質的なものは左様に滅びるので神に帰依することで永遠の命を得ること、即ち精神の覚醒を促し霊としての楽園をこそ生きていくのだと。

 

 

確かに其れにも一理はあり。

 

ですが佛教はまた正反対のことを言ひます。

 

物質も精神も共に人間の癖ー錯誤ーにより生じせしめたものであるのでさうした相対分別こそが苦である。

要するに人間であること自体が苦である。

 

佛教では善悪規定による二元的概念対立をむしろ超へていかうとする脱概念主義を取るが故に其処では善も悪も無くさらに天国も地獄も無ひのです。

 

 

エッ?

地獄はあるじゃないですか、ちゃんとお寺の本堂やらに地獄絵図がかけてあったりもしますよ。其れも浄土教のお寺などでは良く。

 

ですから、其れは厳密には釈迦の佛教では無く日本の偉ひ御坊様方がキリスト教と融合させて創った天国と地獄の模様の日本版のことなのです。

 

つまりは浄土思想のこと、即ち極楽と地獄の二元的対立概念のことです。

 

 

キリスト教に於ひては近代以降に屡其の二元的対立の構図が批判されて来ても居ります。

特に現代思想はさうした古臭ひ構図での二元的対立自体を嫌ふと云ふか認めやうとして来なかった。

 

其れは何でかと云ふと近代思想其のものが制約ー限定ーを解除する方向性で展開されていくものだからです。

逆に二元的対立が生じて居た方が世の中は変化せずある意味では安定します。

 

中世の頃はさうした意味で西欧諸国も宗教的な権威により安定して居りました。

 

 

つまるところ、キリスト教では二元的概念対立=相対的概念分離其れ自体の枠組みを変へることなく其れを一度葬り去り精神的に生じる二元的概念対立=相対的概念分離のみを再生し其れを神の眷属へと化していくのだ。

 

どうも難しひ話ですね。

 

いや、實はカンタンなことです。

 

要するに神を信じるか、其れとも神を信じなひか、と云ったお話です。

 

 

では仏教ではどうなるの?

 

佛教では二元的概念対立こそがむしろ苦の元凶だとさう捉へる。

 

だから生きる欲望を極限にまで抑へ二元的概念対立=相対的概念分離其れ自体を抹消していかうとする。

 

其れも難しひ話ですね。

 

我我の日常とはかけ離れた話なので何言ってるのかまるで分かりません。

 

 

いや、實はカンタンなことです。

 

要するに肉体への執着と精神ー心ーへの執着を同時に消し去ると云ふお話です。

 

じゃ死ねとでも仰ひますので?

 

 

さうでは無ひ。

 

第一死んで花実が咲くものか。

 

其れでも芥川は死にましたがアレは特殊ー特別?ーな死で君等の死とはまるで違ふものだから其処での心配はまるで御無用。

 

 

じゃどうすれば良ひのですか?

 

昨年末に👪は持つなとか👩に触るなとか滅茶苦茶申されて居ましたがそんなの読むだけでもう気分が悪くなりますわ。

 

 

だから気分が悪ひ=苦しひ、また其の反対に頗る気分が良ひ=楽しひ、と云ふ二元的概念対立=相対的概念分離其れ自体が苦の温床だとさう釈迦は捉へられたのだ。

 

さうでしたか、どうも頭の良ひ方ですねえ、東大生や京大生でもまさか其処までは考へられぬことでせう。

 

さうなんです、だから釈尊の知性こそは一級品だったのですぞ。

 

 

其の気分が良ひ=楽しひと云ふ楽もまた限定されし楽=虚の楽であり真の意味での楽には非ず。

真の意味での楽とは人間の消去であり生命としての現象の消去にこそ存する。

 

 

まさに危険思想だぞ、其れは!

アンタは我我を消し去ろうとしてそんな極端な思想を即ち極左破壊思想を今此処に述べて居るのだ!

 

さうでは無ひ。

わたくしは至極大人しく常に君等の精神の味方なのだ。

 

要するに釈尊が見詰めて居られたのは苦の抹消なのだった。

 

だが動植物には苦を抹消することなど出来はしなひ。

 

何故なら彼等は楽園の住人だがまた其れも移り変わり滅び去る運命にある虚としての楽園の住人なのだ。

 

 

では人間様だけが苦を抹消することが出来るので?

 

まあさうだ。

 

じゃ人間様だけがスペシャルな存在で神にも佛にもなれる謂はば一流の生命なのですか?

 

…でもなひ。

 

逆にとんでもなく下品な生命だとさう規定することさへもが出来やう。

 

 

かうして悪魔と連なった人間の心をどう変へていくかと云ふ其の過程こそがキリスト教其れ自体の歴史を物語っても居やう。

 

かうして煩悩と連なった人間の心をどう変へていくかと云ふ其の過程こそが佛教其れ自体の歴史を物語っても居やう。

 

 

さて其処で重要なこととは、キリスト教の場合は二元的概念対立=相対的概念分離其れ自体を悪魔の仕業と見做し全能の神へと其れを丸投げすることで結果的に其れを善と見做す部分にこそあらう。

対して佛教の場合には二元的概念対立=相対的概念分離其れ自体をあくまで人間の仕業と見做し人間其れ自体の現象を消去していく訳だから本質的には其処に善も悪も無ひが楽と苦の違ひだけはあらう。

 

まだキリスト教の方が分かり易くもある。

佛教の方は究極の危険思想ですぞ!

 

いや、だから、俗人には確かにさう見へやう。

 

でも考へてもご覧。

 

たとへばテストでいつも八十点の及第点を取ることとテスト自体を失くして仕舞ふこととではどちらがより楽か?

 

 

でも其の譬へ自体がおかしひ。

 

どだいキリスト教では何も八十点も取れと言ってる訳では無く馬鹿でも悪人でも神を信じれば皆救われる筈だ。

 

なんですが、近代以降プロテスタントによる勤勉性が近代文明規定を為し誰もが懸命に働き社会を進歩させなくてはならぬ羽目にも陥ったのだ。

 

だから結果的に其れは皆が八十点の及第点を取らねばならぬ論理だと云ふことだな。

 

 

其の近代文明規定はつまるところキリスト教による矛盾点ですか?

 

まあさうだ。

 

キリスト教には元々矛盾点が多々ある。

 

だが矛盾して居るからこそ矛盾した現象=人間にはより分かり易く其処には常に愛♡が感じられるのだ。

 

 

愛♡は大事でせう。

 

愛を貶されるおつもりですか?

 

 

貶してなど無ひよ。

 

但し佛教は逆に愛をたとへば渇愛と云ふが如くに二元的概念対立=相対的概念分離の一形態だとさう見做して居るのだ。

 

ヤッパリ愛を否定されるのですか?

 

 

否定したひところながら否定など出来ぬと云ふのが正直なところです。

 

また👩を貶したひところながら否定など出来ぬと云ふのが正直なところです。

 

 

要するに佛教の方がキリスト教よりも正しひとさう仰りたひので?

 

おそらく本質的には。

 

 

但しキリスト教は現実的に人間を救ふ教へとして優れて居やう。

 

解脱する人間など釈迦以外には居なひが神を信じて死ぬること位は多くの人々にも可能なのだから。

 

だから佛教も一種俗化ー社会化ーして救済思想を確立していったのだった。

 

浄土教は極楽でもさらに修行し最終的には佛になることを目指すが故にキリスト教とは本質的には異なるが救済宗教と云ふ面に限ればむしろ其れはキリスト教其のものなのだとも考へられやう。

 

 

宗教詩人さんは教会へは行かれたりもして居るの?

 

いやまともな服を持ってなひので恥ずかしくて教会へはとても行けなひのです。ー行きたひ教会の多くが何故か高級住宅街にある為ー

 

でも寺や神社へはいつも行くのですね。

 

まあ自転車での買ひ物のつひでなどに良く寄りますよ。

 

 

で、地獄の話の続きはどうなりましたか?

 

さうですね、地獄と極楽、或は地獄と天国と云ふ抽象的概念対立其れ自体がとりあへずは普遍化されし概念としてかっては世界中の何処にでもあった訳です。

 

一神教の場合のみならず多神教の場合にもまさに其れが存立して居たのであります。

 

だから其れはキリスト教ユダヤ教由来の概念では無くより普遍的な概念として世界の精神構造をさう規定して居た筈です。

 

おそらくは其れこそが人間に於ける二元的概念対立=相対的概念分離の様がさう規定していったものであらう。

 

 

でも佛教には本来地獄は無ひと仰ひましたが。

 

むしろ其の在る地獄を失くしていくのが佛教に於ける修行の目的です。

 

地獄が無くなれば天国=極楽もまた無くなるが故に元より其処には何も無ひ訳です。

 

さらに自分も失くなりませう。

 

じぶんが無ひので👪も無く社会も無く過去もまた未来も無い。

 

 

また訳の分からぬことを申されましたな。

 

そんなものはもはや人間では無ひのではなひでせうか。

 

 

左様人間では無ひ。

 

人間では無くなること只其れだけが仏法上での真理なのだ。

 

 

人間では無ひとしてでは一体何になるのですか?

 

まさか🐻や🐼や🐵や🐗や🐍や🐊に生まれ変はるのだとさう申されるのですか?

 

 

即ち🐻や🐼や🐵や🐗や🐍や🐊では無く佛に生まれ変はるのだ。

 

では佛とは何ですか、たとへば👽などよりも偉ひのでせうか?

 

👽も所詮は人間です。

 

でも佛は超人です。

 

 

でもかのニーチェの超人とはまるで別者です。

決して現象することの無ひ純粋なる理性体のやうなものが其の佛です。

 

 

では佛と神とはどちらがより偉ひのですか?

 

救ひとしての尺度乃至は次元がそも異なるので其処に比較することなどはそも無意味です。

 

 

佛と神が日本には両方居ますがどちらがより偉ひのですか?

 

そも日本の宗教は特殊ですので同じ位に偉ひとさう見ておく方が無難なのでせう。

 

 

宗教詩人さんは🐻や🐼や🐵や🐗や🐍や🐊などには生まれ変はりたくはありませんか?

 

生まれ変はりたくはありません。

 

生まれ変はるのだとすれば其れは植物です。

 

 

宗教詩人さんは👽には生まれ変はりたくはありませんか?

 

生まれ変はりたくはありません。

 

生まれ変はるのだとすれば其れは宇宙植物です。

 

 

ところで善悪規定による二元的概念対立が近代的な諸の破壊を齎すのでせうか?

其れとも其れ以前での二元的概念対立=相対的概念分離として人間に根源的に規定される抽象概念としての矛盾過程が其れを齎すのですか?

 

どうも難しひ質問が出来るやうになって来ましたね。

おそらく後者なのだとわたくしは思ひます。

 

おそらくは一神教に於ける二元的概念対立が全て悪ひと云ふ訳では無ひことだらう。

 

但しキリスト教も現在激しく自己矛盾の嵐のさ中に投げ込まれ激しく揺れ動ひて居ることだらう。

 

また其れは佛教に於ひても實は同様なのだ。

 

何故なら近現代の社会思想の根本に限定性の解除、人間の可能性の拡大、抽象的に達成される進歩への是認と云ふ側面がある限り伝統的な宗教は須らく其れと対立することを余儀なくされて行くことだらう。

 

 

ところで信仰により神の元で霊として永遠に生きると云ふキリスト教の教義は善なのですか?

 

善悪を即ち二元対立をむしろ目一杯に観念化ー抽象化ーし神と悪魔との二元対立を最終的には神の価値観として一元化することこそがキリスト教の目的である。

 

さうした二元対立をむしろ認めると云ふかとりあへずは其の矛盾を利用し推進力と化し悪を根絶せしめることこそがキリスト教の目的である。

 

即ち其の善悪による二元規定から神としての価値観を絶対化するのであるからキリスト教の教義にとり善と悪の対立はむしろ必須のことなのだ。

 

尚愛♡と云ふのは其の善と悪との二元対立より生じることだらう憎しみや罪を打ち消す作用=対概念のことなのだらう。

 

重要なことは欧米社会がさうした概念的に規定されし抽象的なる二元対立を軸に組み上げられし世界だと云ふことである。

 

 

但し其の枠組みが壊れかかって居るのだとも言へやうが。

 

 

ー霊として永遠に生きる⇔此の世から永遠に消へ去るー

 

 

宗教や哲學にはおそらくは弱ひ日本人は佛教を理解することなく其れどころか誤解、曲解して居ることだらう虞が大きくあることだらう。

 

特に浄土教の宗派の家の人は「霊として永遠に生きる」=浄土に生きる、極楽往生する、位に或は思っていやあしなひか。

 

だが其れはキリスト教の方での教義である。

 

佛教の教への場合にはむしろ永遠に生きなひことをこそ選び取るのだ。

 

じゃ死んでるのかと言へば其の死からも永遠に離れるべくして修行に励み兎に角此の世から消へちゃう。

 

其の消へちゃうこと其の究極としてのマイナス思考こそが佛教の教義としての要諦なのだ。

 

 

皆様におススメしたひ文献

哲学と宗教全史 出口 治明 ダイヤモンド社

ちなみにわたくしも持っては居りますがまだ読めては居なひ本です。