目覚めよ!

文明批判と心の探求と

愛は人間を救ふのか Ⅰ

巣ごもり、骨が危ない ビタミンD不足注意 短時間の日光でも必要量

 此れまでに何度も何度も述べて居るやうに、具象と云ふ自然から離れた抽象的価値を追求してやまぬ現代文明のあり方は誤りで従って其の考への持ち方の誤りにて人類は今後五十年程で滅ぶ可能性が高ひ。

だから日光に当たらぬことこそが「大罪」である。

大罪ばかりを犯して来ておる現代人にはもはや何も言ふ事は無ひのだが兎に角日光、此の神様を毎日拝み出来得れば素っ裸にて其の陽光に刺し貫かれてみよ。

さすれば文明に毒されし心身はたちどころに回復しやう。

其れを「紫外線は危なひ」だの「日焼けはイヤ」だの「ゲームをしたひ」だの「時間が無ひ」だのと言ふまことに自分勝手な理由にて陽光に当たらぬ現代人こそが嗚呼、永遠に地獄へ堕ちる思想へとすでに頭の中が改造されて仕舞っておる訳だ。

 

其のやうな分別にてもはや人間の肉体が救われやう筈もなからう。

さうでは無く今すぐに文明の悉くを否定せよ、ええひ、いますぐに🐵に戻るのだ!

おそらく🐒は日光浴が大好きだぞよ。

自然界では皆さうしてヴィタミンDを自ら創り出して来て居るのだ。

 

ビタミンDはそれぞれの細胞の受容体に結合すると、その細胞の成長と分化をコントロールします。
具体的には、次のような働きです。
細胞が分化するときには、遺伝子がキレイにコピーされていく必要がありますが、ビタミンDはこの「遺伝子のコピー」がキレイに行われるように働く、といわれています。
例えば、何らかの原因で遺伝子が傷ついてしまうと、キレイにコピーされなくなり、元の正常な細胞とは違う遺伝情報をもった細胞ができてしまいます。
しかしここで、十分な量のビタミンDが異常を来した細胞の受容体に結合すると、この細胞の増殖を抑えるという力を発揮します。

体内でビタミンDを合成するためにもっとも手軽な方法は、屋外で日光を浴びることです。
ビタミンDを作る働きがあるのはUVBと呼ばれる紫外線です。
季節や緯度などにより日光浴の時間は異なりますが、1日20分ほどの日光浴で健康維持に必要なビタミンDを作ることができるとされています。ー体内で作れるビタミンDが不足している!?意識してビタミンDを摂取しようより

 

ほうれみよ、紫外線が悪ひなどと其れはウソコキの言ふことじゃ。

さうして此のヴィタミンDこそが生きんが為の必須の栄養素なのだ。

 

日光を浴びぬと病気にもなるは、骨も筋肉も弱くなるは、さらに風邪も引くはでもうロクなことは無ひ。

いや、死ぬぞ、お日様を拝まぬとみんな死ぬのだ。

文明の価値観に従って居ると其れだけでみんな死ぬのだぞよ!

 

ビタミンDには免疫を調節する働きがあり、かぜやインフルエンザ、気管支炎や肺炎などの感染症の発症・悪化の予防にも関与することが分かっています。

ビタミンDが不足すると、骨や筋肉が弱くなる傾向があります。とくに気をつけたいのが、高齢者や肥満の人、更年期をすぎた女性です。
閉経後は、女性ホルモンの分泌量が減り、骨粗しょう症になるリスクが高くなります。骨粗しょう症により骨がもろくなると、転倒、骨折リスクが高まり、寝たきりなどの要介護につながるケースもあります。ビタミンDを摂り、骨や筋肉を丈夫にし、転倒の予防につなげましょう。
また、日照時間が短くなる冬は、インフルエンザの流行時季と一致して、血液中のビタミンDの濃度も低くなります。ビタミンDを摂取することで、インフルエンザの罹患率が下がることが、私たちの研究結果から分かっています。流行前に日光浴や食事などでビタミンDを蓄え、インフルエンザを予防しましょう。 ービタミンDで丈夫な体づくり-かぜ・インフルエンザの発症予防にも-

 

ほうれみよ、だから大日如来様を毎日全裸にて拝みなされ!

かぜやインフルエンザばかりか實はコロナにも効くのであーる。

さらに骨も筋肉も強化されやう。

つまりは良ひこと尽くしじゃ。

 

文明の阿呆はかうして当たり前のことをむしろ嫌っていくと云ふことだ。

其の当たり前の具象的現在を放逐し人間の肉体をビル詰め、薬浸け、抽象的価値浸けにして仕舞っておる。

 

だからこそ文明はあと五十年しか持たねへんだ。

 

 

 

尚其の世に対する「呪ひ」の有無こそが即保守と革新の立場を分け隔てても居ることだらう。

一般に保守派は体制に対し尻尾を振る訳なので「呪ひ」もクソも無くまた怒りもクソも無ひ。

対して革新派は概ね体制に対し批判を繰り返し「呪ひ」または怒りを其処にブチまけても行かう。

 

其の立場の違ひはまさに+と-の性質が其処にせめぎ合ふ様だ。

かように物質的次元のみならず精神的次元に於ひても二元的対立の縮図は常に成立して居やう。

だが其れはほんたうは三元的に成り立って居る。

 

たとへば保守と革新の立場に分かれ対立し合ふのは其れは理性に於ける価値観のことだ。

だがほんたうは其処に馬鹿の価値観と云ふものが加はるのだ。

 

利口⇔馬鹿。

利口➡+保守と-革新又は-保守と+革新

 

と云ふやうに四分割されるのだが大枠ではむしろ三分割されやう。

 

即ち利口の二元と馬鹿の一元とに三元化される。

 

さて、此処にて聖なる数である七が登場する。

 

其の七とは四+三のことだ。

其の7こそが世界の真理を表す数なのだ、おそらくは。

 

 

アナキストを馬鹿に分類したのは彼が保守と革新のどちらをも否定し政治的涅槃に入って仕舞ふからなのだ。

即ち其れは政治には興味の無ひフィギュアヲタクと大差無ひ馬鹿振りである。

 

さて、其のフィギュアに興奮出来るかどうかこそがヲタクとマニアとの分かれ道なのだ。

だが残念ながらわたくしは尼僧フィギュアにはまるで興奮など出来ぬ。

 

だからわたくしは ヲタクでは無く単なる尼僧マニアなのだ。

 

 

さても其の体制へと尻尾を振る🐕共は兎に角ウルサクしかも鬱陶しひものだ。

其れに対しマルクス主義者は皆🐈のやうにやる気が無ひ。

 

だがほんたうの😸として我関せずなのはむしろ共同体主義者としてのアナキストの方だ。

 

では、アナキストには其の「呪ひ」は有るのか?

有る。

 

では、ヲタクには其の「呪ひ」は有るのか?

分からぬ。

 

ヲタクが何を考へて御座るのか、其れは所詮永遠に分からぬことなのだ。

 

 

ヲタクはある意味で具象的に抽象性を生きて御座る。

 

要するに抽象的に性をまた生を構築せざるを得ぬ新人類のことだ。

 

つまりはニュータイプのことでせうか?

社会的にはあくまでさうなのだらう。

 

 

其のヲタクが尻尾を振るか否かは別としてさても問題は其の尻尾を振ることの良し悪しであり善悪のことだ。

良し悪しであり善悪のことはあくまで相対論に陥ると云ふことは先にも述べて居る。

 

つまり価値の良し悪しか又は善悪を絶対的にさう規定することなどは出来ぬ。

どんな価値でも無論のことさうだ。

 

相対価値はさうして矛盾化して行かざるを得ぬ。

 

たとへばみんながさうして國家や國家が齎す価値に尻尾を振りつつ現在の価値を成り立たせておる。

労働を、👪を、🏫をまた文明を信じ現代と云ふ今を成り立たせて来ておる。

 

 

だが其の時代と云ふ歴史の一断片の価値を良きもの、より素晴らしひものだとして其れ自体を規定することなどは出来ぬ。

 

そりゃアンタ方が尻尾を振りつつ現在の価値を成り立たせておるだけのこと、要するに信仰だ、信仰、信心だ、信心。

だから其処をあへてアナキストが尻尾を振る訳も無ひ。

 

アナキストは文明が悪ひもので尚且つ人間其れ自体も悪魔だとさう考へて居りつまりは文明なんぞは壊れた方が良ひとさうも常に思って来て居る。

 

 

むしろソッチ側の方でさう信仰しておるのである。

ところでアナキストは一体何に対し興奮するのですか?

 

さうさな、其れはまず完全な靑に対してだ。

次に人間を離れしものにだ。

 

何故なら人間の営為は須らくウルサヒ。

人間は兎に角いつも尻尾を振りたがり要するに🐶になりたがる。

 

つまり人間の営為ー文明ーとは革新的な思考に対し尻尾を振ることで即ち盲従し模倣をすることでさう構築されるものだ。

革新的な思考に対する模倣即ち文化としての営為が進歩を引き起こすのだ。

 

 

尚、思想とは革新であれ保守であれ何でも良ひのだ。

 

何故さう結論付けられるかと云ふに、所詮其れは相剋し尚且つ相即する関係にしかなり得ぬからなのだ。

即ち其のどちらにも長所と短所があり完全な概念とは其れはなり得ぬものだ。

 

いや概念其れ自体が二元分裂して居ざるを得ぬ。

 

いや性格其れ自体が思考其れ自体が二元分裂して居ざるを得ぬ。

だから所詮はどんな思想的立場も概念的に不完全なのだ。

 

よってわたくしは思想其れ自体に精神として全的に寄り掛かることはしなひ。

さうして思想とは其の思考の不完全性をまさに世に指し示すものなのだ。

 

であるが故に右の思想もまた左の思想も矛盾化する。

尤もアナキストは矛盾化などせぬが、結局其は社会から永遠に締め出され仙人か又はルンペン化して行くより他は無し。

 

 

思想、其れは我我人類に残されし最後のディストピアだ。

 

 

さて、宗教政党がみんなに十万を出せと安倍氏に迫ったお蔭でこれからみんなに十万が配られることとなった。

だが其の十万までの道のりが何だか非現実的な迄に遠ひ。

 

其のまさにどーにもならぬ対応の遅さ、國民に対する眞心の無さが政府+官僚組織の抱へることだらうまさに特権意識であり上から目線其のものであることはもはや間違ひ無ひことかと思はれる。

其のやうな特権意識、國民を奴隷として扱ふ意識、其れも特攻を二遍やらせて置ひて其れでもテータイムして居る其の権力の側の余裕振り。

 

其の穢れた國家権力に擦り寄り尻尾を振り続ける官僚共、経済団体、さうして大衆達。

所詮は君等もまた同じ穴の狢だ、狢。

 

だが心ある人々は殺されても死なぬ。

社会的にどう殺されやうがかうして生きて行ってやるぞ!

 

畢竟おまへらの根性が悪ひからかうしてみんなが殺されるのだ。

でもタダでは死なぬぞ。

 

おまへらを呪ひつつ死んで行ってやる。

 

 

ちと言葉が過ぎたやうだ。

だが権力はかうして虚としての抽象性を次第に増して行くことだらう。

 

其の虚としての抽象性が我我の首をまるで真綿でもって締め付けるやうに締めて行くのだ。

 

即ち保守の馬鹿とは個を圧死させて置きつつまるで其れを顧みぬことなのだ。

対する革新の阿呆とは進歩に対し尻尾を振り続けることなのだらう。

 

また保守は現状に対し尻尾を振り続けてもおる。

だが革新は個を解放させ過ぎまるで風船の如くに膨らませやがて爆死させて仕舞ふ。

 

嗚呼、何てバカなんだ。

実際何てバカバカしひのだ。

 

 

さても其の馬鹿の様を知性はどう見詰めて行くべきなのだらう?

まあ結局知性はあれこれとやった挙句に思想を放棄して行かざるを得ぬことだらう。

 

何故なら思想其れ自体が不完全だからなのだ。

 

 

なんですが、今わたくしが見詰める思想乃至は価値とは「愛」=優しさを持ったもののことだ。

「愛」?其れに優しさ?

 

そんなことを言って居るから左翼教育が蔓延し日本の青少年がグズグズに壊れて行くのだらう?

 

いや、わたくしが述べて居るのは単なる左翼による甘やかしでの優しさなどでは無ひ。

第一わたくしは常に教師には鞭が必要だとさう考へて来てもおる。

 

其れが所謂「愛の鞭」だ。

其の「愛の鞭」こそが凄ひぞ。

 

もう尾木氏などとは正反対でもってしてまさに特攻にも近ひぞ。

 

左様に愛とは常に厳しひものだ。

正反対のものを愛さねばならぬ嗚呼まさに其れぞ荊の道ぞ。

 

兎に角優しさとは甘やかすと云ふことには非ず。

だが優しさとはまさに愛であり慈悲である。

 

愛とは悪魔としての人間を赦すことであり悪としての人間を救ふ菩薩の心である。

もしや「愛は世界を救ふ」とさう仰りたひのでは。

 

 

違ひます。

より正確には「愛の持ち方を変へることで世界は救はれる」なのです。

 

つまりは「愛こそは全て」なのですか?

いや、違ひます。

 

むしろ「愛の持ち方を変へる」ことが全てなのです。

 

 

保守の愛も、また革新の愛も、所詮は維持ー固着ーの愛でありまた進歩ー変化ーの愛であり其れは完全なる愛の形なのではありませぬ。

愛の形には二種がある、つまりは其の愛さへもが二元化して居やう。

 

どう分かたれて居るのでせう?

 

ですから其れはたとへば凹凸つまりは左と右に分かれて居ります。

 

謂はば特攻での國家愛と人権思想での個への愛とに分かたれやう。

また神佛への愛と利己愛とに分かたれて居りませう。

 

 

ほんたうの愛とは其れ等の分かたれし愛を認め合ひ其処でこそバランスを取るもののことだ。

 

なる程、其処にてキリストと釈迦の教義が融合する訳ですか。

キリストと釈迦の教義がさうして融合し其れでもってして人類は皆救はれるとさう云ふことなのですか?

 

「愛」とはひとつの抽象的な心の段階でもって其れに拘ればむしろ「憎しみ」を生じさせます。

即ち抽象的に規定される相対概念が其の反対の性質のものに対する憎悪を生み出すのだ。

 

事實愛の力の反対はまた破壊でもある。

人間の社会を全的に愛すればまた自然破壊にも繋がりませう。

 

キリスト教は其の不完全な愛の形を完全化しやうとする。

其れ即ち神の愛、神からの愛の価値へと愛其れ自体を昇華させて行く。

 

よってキリスト教の語る愛とはもはや憎しみを生じることの無ひ愛の形です。

抽象的に規定される相対概念が其の反対の性質のものに対する憎悪を生み出す以上より昇華されし神の愛か又は神への愛以外にほんたうの愛など生まれやうが無ひ。

 

 

ところが佛陀は其の抽象的に規定される相対概念其れ自体を滅し去ろうとする。

其の消滅はむしろ愛ー神ーと憎悪ー悪魔ーとの双方の抹消です。

 

だがであるが故に其れは慈愛に満ちたものなのです。

即ち愛無き世界の不毛を慈愛と云ふ愛にて救ふのです。

 

ですので方向性は異なりますが共に「愛」はあるのだと思ふ。

 

先に佛陀の教説は相対価値を滅すると云ふ意味に於ひて「無」だと述べたのだったがより正確には有無の対立其れ自体を概念的に超越して行くものです。

故に其処では「無」も無く「有」も無く「愛」も無く「憎悪」さへもが無ひ。

其の意味では確かに其れは「無ひ」、謂はば「無ひ」と云ふ愛の形なのだ。

 

 

「無」➡「有」とするのはある意味でキリスト教化されし大乗佛法、其れもキリスト教的な浄土教に於ひて其れが成立することでせう。

 

 

佛陀の考へ方にも愛がある?

 

まさに其はゆゆしきことぞ。

そんなことをこれまでに言った奴などこれまで何処にも居なひ。

 

何故なら釈迦は諸事象のバランスを取ることでむしろ相対分別を無化されて行かれた訳だ。

 

即ち世界を否定されることなどは其処に為されなかった。

世界を全否定し自決することにて實は世界と自分は救はれぬものであるが故に。

 

世界の全否定にて成佛は不可能なのであらゆる相対事象から概念的に距離を置くことで渇愛ー利己的な愛ーを滅しむしろ其のことにより慈愛ー眞の愛ーの階梯を成就された。

即ち佛陀の考へ方にも結果的に愛が生ずるのだ。

 

だから其の愛の階梯に於ひてこそキリスト教と佛教には違ひなどむしろ何処にも認められはせぬ。

即ち方向性が異なるだけのことで普遍的な愛の成就の階梯に於ひて其れはむしろ同じものなのだ。

 

 

だがたとへば日本共産党自民党が言って居ることは矢張りと言うべきか大ひに違ふ。

其れもまあ俗世間での話なのでギャーギャーグオーグオーとウルサヒ限りなのではあるがまあ兎に角勝手にやってろ、さうしてやりあって居れ。

 

そんな突き放されたことを申されましても生きて居る以上はみんなが必死です。

だから誰もがかうして尻尾を振りつつイヤイヤ生きて居るじゃあなひか、其れもまるで番🐶のやうに。

 

おまへのやうにもう🐈で行くんだ、元々😸なので兎に角😸で行くんだとそんな自分勝手でしかも他人への愛♡に欠けた奴など他に何処にも居やあせぬ。

おまへはさうして眞理を語るフリをしつつ世間を恨んで居る悪魔だらう?

 

さうです、實は👿ちゃんでーす。

アレ、😸と👿のアイコンが何故かとても似て居りますのですが。

 

 

ズバリ愛とは呪ひですか?

愛♡とは憎しみとの対概念です。

 

だから👪愛も郷土愛も國家への愛も最終的には憎しみとの対概念でしか無ひ。

 

右派の拘る愛には往往にして其の憎しみへの反省の部分が欠けて居りませう。

即ち限定されし体制に対し愛の尻尾を振ることばかりに捉はれまさに普遍的に存する愛のことをつひ忘れて仕舞ふ。

 

対する左派は普遍的に存する人権を兎に角常に成り立たせやうとするが限定されし体制に対し其れは机上の理想論と化すことであらう。

 

 

従って愛とは宗教的次元にて達成されざるを得ぬものだ。

何故ならさうして少しでも具体化されると同時に愛は矛盾化しやう。

 

さうして愛が矛盾化すれば往往にしてまた憎しみや呪ひにも転化するのだ。

 

だから「愛」の取り扱ひこそは是非慎重に。

即ち一歩間違へば愛は容易に憎しみへと転ずるのだ。

 

概念的ー抽象的ーな事項に慎重な人、其の人をまさに聖者と呼ぶ。

聖者は愛の意味を理解し憎しみを決して愛の中には取り込まぬものだ。

 

 

 

キリスト教では7と云ふ数字が特別なものとして屡登場する。

佛教でも関連はするが其処ではむしろ八と云ふ数字の方が特別なのだらう。

 

 

古代日本においては、8 は聖数とされ、また、漠然と数が大きいことを示すのにも使われた(例:八島八雲八咫鏡八重桜)。同様に、八を用いた八十(やそ)、百八十(ももやそ)、八百万(やおよろず)等も「数が大きい」という意味で用いられる。

 

  • 名古屋市の紋章は、漢字の八を丸で囲んだものである。
    • 八を丸で囲んだ紋章は、尾張徳川家が八を丸で囲んだ字を印鑑として使ったことに由来する。
  • 法華経は全部で8巻ある。
  • 西洋では不吉な数字とされており、八本の足を持つタコなどは「悪魔の化身」等と呼ばれる。ー8#その他_8_に関することより

 

尚個人的に7と8はとても好きな数字である。

勿論777とか888とかになれば余計に好きである。

 

が、わたくしはタコ焼きの中のタコは食はぬ。

またこのわただのモツだの内臓系の食べ物も食さぬ。

 

また個人的に7は二元分裂した数字なのではなひかとさう思ふ。

幸運と不幸がせめぎ合ふかのやうな又は神と👿が敵対するかのやうなイメージを持つ数字なのだ。

 

何処か不安定で聖なるものでもあるやうなそんな感じさへもがする。

何せわたくしは7月17日生まれなので生まれつきに持ってる数字が謂はば717なのだ。

 

 

対して八はまさに東洋的に安定感のある数字なのだと思ふ。

釈迦の説ひた八正道なども其の東洋的な安定感としてのひとつのメタファーであるのやもしれぬ。

 

屡語られることであるが、東洋の思想に於ひては往々にして其の二元的対立を超克して行くものだ。

だから八とは相対分離を離れた精神的境地としての象徴なのかもしれなひ。

 

 

また個人的には西洋の思考と東洋の思考は是非交はるべきだとさう考へて来て居る。

西洋の思考と東洋の思考の融合こそが人類のあるべき未来を指し示す指標となるもののやうな気さへもがする。

 

だが大抵は其れもまた理解し得ぬうちに互ひに批判し合ひやがてはブチ壊れて仕舞ふことだらう。

其れもまるでかの日本共産党自由民主党の政策上の対立の如くにだ。

 

で、わたくしが今やって居ることとは其の異質な文化的対立から共通項を見ひ出しくっつけて仕舞ふ点なのだ。

わたくしには元よりさうした異質なもの同士への接着力の如き気付きの力があるのやもしれぬ。

 

また其の接着力こそが或は愛とも呼び得る何ものかなのであるのやもしれぬ。