目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

人間にとっての具象的現在に立ち戻れ!

「地球よーごめんね」藤原紀香、謎の“コロナポエム”に集まった批判

 

こんな自然に寄り沿ふ紀香ちゃんのまさに正しひポエムが何故炎上するのか?

コレでもって今の若ひ者共の気が狂って居ることがハッキリと分かった。

 

気が狂って居るからこそ此れからかうして滅んで行かねばなるまひ。

むしろザマミロ、である。

 

此の自然に対する不感症こそが現代人の陥った深ひ病の正体だ。

 

 

さてパンデミックはまさに文明が「壊れる」ものであることを我々に対し示して居ることだらう。

其れはひとつの信仰に対する破壊なのだと思ふ。

 

我我はかうして文明を信仰して居り、故に其の価値観の中で上下左右、優劣を競ひながら現在を生きて来た。

だから其の価値としての選択肢に文明の破壊だの人類の滅亡だのは元々入って居なひ。

 

だが其れがある、其れはあり得ると言って居る人は一部に居た訳だ。

勿論わたくしもまた其の一人である。

 

 

何でそんなことをあへて言ふかと云へば其れが見へて来たからこそさう述べて居るまでのことだ。

ところで其の想定内での信仰と云ふものは一体何なのか?

 

つまりは其れが人類は信仰する生き物だと云ふ事を指し示して居る。

其の信仰により人間は自然と反自然を同時に成り立たせて行く生き物なのだ。

 

 

肉体性ー具象的自然ー⇔観念性ー抽象的理念ー

 

かくして自然が欲するものと人間が欲するものは常に異なって居る。

 

自然は具象的にのみ欲望を規定するが人間は其れに加へ抽象的にも欲望を規定する。

 

抽象的に規定される欲望は結果として人間を追ひ詰めて行かう。

 

其れも人間其れ自体、社会其れ自体を同時に追ひ詰めて行くのだ。

 

人間とは具象的自然であり、社会とは抽象的理念である。

 

 

抽象的に規定される欲望が其の双方を追ひ詰めて行くのである。

 

此処からも抽象的に規定される欲望が臨界値に達したからこそ今回のやうな破壊が双方に齎されて居ると見て良ひことだらう。

 

具体的に言へば人類は抽象的に欲望を規定し過ぎて来た。

 

自然をまるで奴隷のやうに扱ひ其れを搾取の対象と為して来たのだ。

 

一言で言へば人間は自らの自然をあへて無視することで高度な文明を築き上げて来た。

 

 

 

されど其れは誤りだった。

しかも其の全てが誤りだったのだ。

 

何故誤りなのか?

むしろ其の理由を理論的に明らかにすることこそがわたくしの願ひであった。

 

其れが此の世に於けるわたくしのたったひとつの願ひであり生きる目的でもあった。

 

たとへば釈迦が又キリストが間違って居ると言ったにせよ其れをもはや現代人が鵜呑みにすることなど無ひ。

 

現代人はさうした宗教的な規定をまるで信用などして居らぬからだ。

 

だが其の姿勢は誤りだと此れ迄わたくしは述べ続けて来た。

 

何故か?

 

さうして人間が自分でもって意識的に創り上げて居る価値こそが誤謬である可能性が高ひものだからなのだ。

 

社会的価値も其れに影響を受けた個としての抽象的価値も實は誤謬である可能性が高ひものばかりだ。

 

 

 

自然ー肉体性ー⇔意識ー精神性(観念性)ー

自然ー具象性ー⇔意識ー抽象性ー

 

との二元的対立が文明と自然との相関関係として歴史上成り立って来た。

此の対立に於ひて東洋文明は其れを対立とはしなひ智慧を成り立たせて来たのだと言へやう。

 

東洋文明は自然を大事にする文明の形をずっと維持し続けて来た。

其の自然と人間、自然と文明が相剋し尚且つ相即する文明の形は特に日本の文明に於ひて顕著に見られるものであった。

 

だから日本の文明の形其のものはむしろ立派なものであり其処に問題が大きく存するやうな文明のあり方なのでは無ひ。

即ち循環持続型の文明であり、また大きく世界を改変せぬ文明であり、且つ自然に優しくまさに物事がつまりは自然の摂理が良く分った上での智慧ある文明のあり方だった。

 

東洋文明でも自然との二元的対立は生ずるが其処に萬象は相剋し尚且つ相即すると言ふまさに佛法で語られる縁起の法則を重視して居るが故に破壊を生じぬ文明を築ひて居たのである。

ところが西洋文明では其の構図が成り立つものでは無ひ。

 

しかも其の自然と意識の乖離は近代以降加速しつつ行はれて来たのである。

 

 

 

養老孟司「自然とは?」

 

養老先生の仰るやうに自然が意識的なものでは無ひのだとすると、まさに其処では、

 

自然ー具象性ー⇔意識ー抽象性ー

と云ふ対立乃至は乖離が引き起こされて行かう。

 

そんな肉体性と観念性の対決の場と世界が化して行くと云ふことだ。

其れは自然が用意した世界ー場ーなのでは無くあくまで人間がさう規定せし世界ー場ーである。

 

そんな肉体性と観念性の対決の場が三百年にも亘り続ひて来、よって必然的に何かが持ち堪へられなくなり世界が崩壊して行く動きが始まって居ると見ておくべきだ。

 

 

要するに其れが戦争であった訳だが人間は概ね感度が悪く其れが戦争だったことなど誰も気付ひていやあせぬ。

余程に感度が良ひかまた余程に頭が良ひ人でなければそんなことは誰にも分かりゃあせぬ。

 

其の具象性と抽象性に於ける二元分離ー二元分裂ーは社会にとり個にとりつまるところは文明にとり最大の大問題なのだ。

 

つまりは其れが今我我に突き付けられて居る。

だがみんなは文明に対し尻尾を振り給料を貰ひ其れで何らかの欲望を成就させることがまさに大事でわたくしのやうなことは考へて居ないとさう断言出来る。

 

つまり価値観が違ふ。

 

詩人はかうして日々苦しみつつ文明の問題のことばかりを考へ心配し続けても来たがみんなはそんなこと考へては居らずまずはじぶんの愉しみのことばかりを求めて来て居るのだ。

嗚呼わたくしはいつの間にかかの宮澤 賢治のやうになって仕舞った。

 

だからもう何時死んでも悔ひなど無ひ。

 

かうしてもう全部をみんなに言って来た。

大事なことは社会の価値観では無ひよとさうハッキリ言った訳だ。

 

 

意識とは人間其のもののこと。

肉体とは自然其のもののこと。

 

本質的に自然は想定出来ぬものなので自然科学は其の想定を不十分にしか扱へぬ。

自然科学は逆に其の意識と肉体の関係の断滅を加速させて行く可能性が高くあらう。

 

常に想定出来る文明を意識ー人間の社会ーが創り上げるのだから、文明とは其の意識的な欲望の表白の場でしか無くむしろ自然から搾取するだけの対象へと自然其れ自体を変成させて仕舞ふ。

 

 

さて不自然とは何か?

 

不自然とは意識的な広がりとしての世界のことである。

現代文明とは其の意識的な広がりを純粋に抽象化して行くもののことだ。

 

意識的に純粋に抽象化するので具象物としての肉体は必ずしも其処に厚遇されぬ。

ではどんな肉体が良ひのか?

 

画一的な肉体である。

基準に沿った同じやうなものであることが其れは望ましひ。

 

 

さうして意識は徹底的に基準に外れたものを排除しやうとする。

意識にとり意味あるもののみを大都市圏の内容物として築き上げて行くのだ。

故に大都市の中には意味無きものは無く全てが意味化され存在することになる。

 

 

其の意味化及び意識化が現代文明の目指すところであらう。

だが意味化し意識化されたものは人工物だけを其処に残し自然を排除して仕舞ふ。

 

次第に其の意味化と意識化に慣れ人工物だけを其処に残し自然を排除して仕舞ふ感覚へと人間の感覚が変化して行かう。

挙句の果てには感覚を無視し遮断する。

 

感覚は其処に非常に限定される。

かくして感覚を限定するから全ては其処に抽象化されやう。

 

 

つまるところ、いつしか我我はそんな不自然なものの中へと放り出されて行く。

我我の文化はさうして文明はいつしかそんな不自然なものの中へと放り出されて行く。

 

ところが其れを不自然と捉へる感覚其れ自体がいつしか消へ去り不自然なのがむしろノーマルなものとなるに及ぶ。

だから紀香ちゃんの詩が分からぬ者が多く出る。

さうして感覚バカが増へ自然が大事だなどとはもはや誰も思はなくなる。

 

 

 

第一🚗、✈、此れ等なども實は不自然極まりなひものだ。

尚わたくしが車に乗るのを止め良かったと思ふことは以下の点である。

 

1.歩ひたり自転車にて移動するとまさに具象的に美しひものに多く出遭ふことが出来る。ー花々や美しひ家や色んな人々とー

2.金がかからぬ点

 

文明物を止めると全く違ふ視点、生の異なる次元の様が明らかに見へて来る。

と云ふことは文明物が其の自然的な感覚や場などを抽象的に圧迫し其れを我我の目に届かぬやうにして居るのだ。

 

逆に文明物に慣れると其の自然的な感覚や場などを忘れて行って仕舞ふのである。

しかも其の事實に、其の恐るべき事實にいつの間にかもはや気付けぬやうになるのである。

 

 

文明とはさうした抽象化過程のことであり其の抽象化其れ自体に問題があるのでは無く自然との関係性を遮断するからこそ全てが不自然で且つ不健全になるのである。

尤も都会でも自然を回復しやうとする試みが皆無な訳では無ひ。

 

だが其れでも猶文明とはさうした抽象化過程のことでしかあり得ぬ。

其の抽象化過程につき従ふやうにつまりは尻尾を振るやうに文明は美味しさうな価値を並べ立てみんなの欲望を刺激するのである。

 

即ち年間〇百万ばかしの給料を。

不細工な妻と出来の悪ひ子とを。

 

趣味に応じたサヒトと動画の数々とを。

學問を。

 

飲み屋を。

弁当屋を。

 

キャバクラを。

外車を。

映画館を。

 

ゴルフを。

神社、佛閣、教会とを。

 

 

だが現代文明は今後何を仕出かすものかまるで知れたものでは無ひ。

現代文明其れ自体はたとへ宗教であれ救へぬ性質のものであるに過ぎぬ。

 

宗教にて個の心や魂は救へても文明の間違ひだけはもはや誰にも救へやせぬのだ。

そんな不自然極まり無ひ現代文明と何故貴方方は心中しやうとして居られるのか。

 

わたくしはもうそんな価値は全否定して山の中に独りで住むのだ。

まさに其れが唯一の夢だと云ふことなのだが。

 

 

ー文明よー

止まれ!

止まった。

 

嗚呼、其れぞまさに陶酔の瞬間なのでもあった。

其れに関して養老先生は最近何を言って居られるのだらうか?

 

 

 

コロナも多様性の一つ 養老孟司氏

 

物質と云ふのは皆仲間で何が仲間かと言へばまさに不完全でもって多様な点でこそ仲間である。

さうして星々も田んぼも木々もさうして具象的に現象する全てのものは自分の肉体の仲間であり眷属なのだ。

 

コロナのウヒルスも自然界のものなので結局は人間の仲間だ。

但し人間の肉体としての仲間であり眷属のことだ。

 

養老先生はコロナ禍をあくまで自然現象として捉へられて居り即ち想定し得ぬところで変化する自然現象としてむしろ肯定的?に捉へられて居る点が矢張りと言ふべきか流石に只者では無ひ。

つまるところ其れはあくまで自然現象なので人間の抽象的思考の範囲のものでは無く従って其れは其のやうに事實として認めて行くものであり観念的にジタバタしても始まらぬものである。

 

即ちコロナ禍とは台風や地震と同じで起きたものはもはやどうしやうも無ひものなのだ。

むしろ起きて当然、さうした自然の範囲での変化はあって当たり前と云ふご意見のやうだ。

 

まさにそんな透徹した自然派指向での考へ方であるところに深く感銘を受けました。

 

 

 

人生は予想どおりにいくわけがない──養老孟司流「変化」の乗りこなし方

 

其の「かうすればかうなる」と云ふことこそが近代以降の理性が追ひ求めて来たところでの抽象的価値である訳だ。

「かうすればかうなる」のは縁起のことでは無くむしろ縁起を無視した範囲で合理化を進めると云ふことなのだらう。

 

合理化=抽象化であり、合理的なものは意味あるものばかりとなるので意味無き不合理や不具合の全ては其処に排斥されて行くこととなる。

 

「かうすればかうなる」のが成り立たぬこと=変化が自然の本質的性質=諸行非常なので、たとへば今回のコロナ禍とはまさに其の自然界の法則が変化を嫌ふ人間界に齎されたと云ふこととなる。

 

「かうすればかうなる」のは抽象的理念なので自然界を刺し貫く具象的現在とは対置されざるを得なひ。

理念とは観念であり意識なので其れは本質的には現在では無く過去を見さらに未来を構築する文明としての基本的な抽象的価値のことだ。

 

其の文明による未来の構築とは自然への反乱であり自然の摂理としての諸行非常への根本的離反である。

 

現代文明とは基本的にさうした反自然でのテーゼを内包するものであり逆に言へば其れは内なる自然を殺して観念ばかりを何処までも肥大化させ自らを神に等しひ存在へと変化させて行く訳だ。

ところが其処に築かれる未来は想定内のものともなるのである。

 

自然が無ければさうした「変化無し」での人間ー社会ーの変化となるものが、現實には自然がある故其の影響から「変化有り=諸行非常」とならざるを得ぬ。

だから其処に近代が追求して止まぬ理性は限界を突き付けられやう。

 

 

ー「日本人は逆でしょう。外ばっかり見ている。しかも、根拠もない世の中の常識に踊らされている。だから不安になるんです。外の状況によってはいいこともあるだろうし、悪いこともある。でも、自分はこうやって生きていくのだと決めていれば、そんなことは関係ないと言えるはずだ」

 

新型コロナウイルスによって、大きな変化の時代を迎えつつあります。これから世界がどう変わっていくのか、誰にもわからない。しかし、そこで不安になるのは、変わらないことを前提として考えるからです。変わることを前提に考えればいいのです。

養老さんは、人間は変わるのだと言われました。人は変わるもの。自分はいつも揺るぎないなどというのは勝手な思い込みだ、と。

「若い人の最大の弱点は、自分が変わることを受け入れず、いまの自分で世界を考えたがるところです。自分が変われば、世界も変わることに気づいていない」

これは若い人に限ってのことではないと思います。人間なら、誰にも当てはまることでしょう。まずは、変わることを受け入れること。自分から変わっていくこと。自分を変えるのは、怖いかもしれない。予想がつかなくなるからです。だからこそ、そのとき、勇気というものが意味を持ってくる。ー人生は予想どおりにいくわけがない──養老孟司流「変化」の乗りこなし方より

 

 

根拠とは摂理であり世の常識とは摂理とは関係の無ひタダの洗脳のことです。

和を大事にする余りか洗脳には弱ひ日本人が多ひので日本人はほんたうは馬鹿なんじゃなひかと最近わたくしにはさう思へても来て居るのです。

 

また自分でもって自分の立場を決められぬ人が多ひ。

元よりわたくし自身には何の価値も無ひー何せ無価値こそが最大の価値なのでーのですが其の立場だけは何故か堅固に築ひて仕舞って居り正直其処では周りの影響などまるで受けはせぬ。

むしろ自我を確立出来ず常識に尻尾を振りつつ生きて居る人はどうしたって幸福にはなれません。

 

変はる変はらぬの問題で言へば其の変はらねばならぬ状況を突き付けられて居るのは個の次元では無くまさに社会のあり方其のものなのでせう。

21世紀の文明規模での課題とは須らく其の個の範囲を離れた社会の問題ばかりです。

 

歴史的課題と言ふか、人間存在其のものへの問ひかけと言ふか、兎に角そんな大問題ばかりで其れは基本的に個の問題なのでは無ひとわたくしは捉へる。

社会が変はれば其れに尻尾を振りつつ個が変はるのはむしろ日本のみんなが得意なことの筈です。

 

ですが、コロナ禍でもって会社が連鎖的に潰れても又は温暖化に伴ふ生態系の崩壊で餓死寸前に追ひ込まれた場合にも其れでも日本のみんなは尻尾を振りつつ周りに従ひ大人しく死んで行くのでせうか。

其れでも良ひと仰るのか?

だから是非もっとアナーキーな視点を持って行かねばなりません。

 

和もクソも無ひぞ、此の社会の馬鹿野郎めが!

と一度位は言ってみて下され。

 

至極スッキリ致しますよ。

 

 

人間の抱へる業のやうなものにこんなにハッキリした形でもって向き合はねばならぬ若ひ人達は確かに大変です。

わたくしが廿代、三十代、四十代の頃はもっともっと個としての悩みの方が大きくこんな風に社会が崩壊して行く様に向き合うなどと云ふことはたとへ理念的にはあっても現實としての問題ではまるであり得なかった。

 

其の意味では今はまさに人間ー社会ーとしての終末期なのかもしれません。

おそらくは至極特殊な時代、謂はば人間にとっての最終段階としての最後の歴史過程なのやもしれませぬ。

 

 

個の次元にて其の変はることに付ひては、所謂現代文明による洗脳を解ひて行く必要があらうかと思ふ。

其れもみんながやって居ることに対し疑問が持てればすぐにでも其の洗脳を解くことが可能です。

 

洗脳を解くと、自分の頭で考へられるやうになり同時に何でも言へるやうになります。

 

さて具象的現在を生きる他は無ひ自然はさうして変化に従ひ生きて居ざるを得ぬ。

だが其れだと生きるのが必然として厳しひものとなるが故に人間の場合は其の価値を抽象的にシフトして行きます。

 

合理化とはさうした生きる上での邪魔者、生きる上でのイヤなものを合理的に抹消して行く過程のことでせう。

ところが最終的には自身の肉体と縁起の法則を抹消することなど出来ぬ訳だ。

 

パンデミックも温暖化も結局は其の自然の摂理が生じさせて居る問題です。

いや、自然の摂理が其れ等を生じさせるやうに人間が思考し且つ行動した即ち価値観を此の世界に展開させて来たことに対する回答なのです。

 

つまりは全てが自業自得でのことです。

人間の社会の罪深さと欲深さが導き出したところでの地獄の様其のものなのです。ー倒産地獄に政治不信地獄と、其れから不倫地獄に未来無き地獄とー

 

 

まさに生き地獄。

まるでウソのやうな此の生き地獄。

 

一年前、半年前には一部の滅亡マニアー滅亡詩人をも含めーの者以外は誰もこんなことを言って居ませんでした。

其れは良ひことですか、其れとも悪ひことですか?

 

大ひに良ひことです。

其処ではみんなにほんたうの価値が何であるかと云ふことが見へかけても来ることでせう。

 

ほんたうに大事なものとは人間にとっての具象的現在に立ち戻ることです。

其れは抽象的理念による価値構造の解体より達成されるまさに自然的なる価値其のもののことだ。