目覚めよ!

文明批判と美の探求と

養老學説と地元の史跡巡り 壱

再燃する小池百合子の「学歴詐称」疑惑…首席も、卒業すらも嘘なのか

まさに此れぞ大問題だ!

こんな女はとても信用など出来ぬ。

 

 

 

養老孟司先生「森とは何か」-2020年1月-

養老孟司先生「森とは何か」(ダイジェスト版)--2020年1月-

 

丁度パンデミックの直前にかうして養老先生が様々なことにつき述べて居られた訳です。

先生の視点は一種哲學的でしかも其れだけでは無く御専門の解剖学の知見などが織り込まれて居り非常に優れたものになって居る。

要するに其の内容が可成に高度なものとなって居る。

 

只の文系作家では此処まで論理的に踏み込んだ生への解釈を成り立たせることは難しひ。

流石は解剖學者としての知性が論ずる人間であり社会の姿だとわたくしは思ふ。

 

文系の作家や詩人の弱点は論理の構築力が弱ひことなのでせうが理系作家である養老先生による其の論理構築力は流石のレヴェルです。

 

尤もわたくしの場合には根っからの文系人間ー感性人間ーの癖に反面妙に理窟っぽくもまたある。

だから理窟っぽひ説が兎に角元々好きなのだ。

 

 

尚以下に展開する思考の内容は養老説に基づくわたくし自身の文學的解釈であり養老説其のものでは無ひにせよおそらくは其れに近似するものでもあることだらう。

 

 

感覚⇔論理

感覚ー具象性ー⇔論理ー抽象性ー

 

との二元論が實質的に此の世の価値をさう規定して居ります。

但し二元論を否定する論理展開も哲學的には常に成立致しませう。

 

昨今興隆して居る新実在論なども含め近年の哲學的潮流は二元論其れ自体に寄り掛からぬものが多ひ。

第一ポスト・モダンの相対主義は其の二元論の否定でもまたあった筈。

 

ですが二元論はむしろ伝統的に歴史過程としてさう規定されて来て居るものです。

二元論の上からもいや二元論の上からでこそ了解される眞理はあるものと仮定し論理を展開して行くのがわたくし自身が取る考へ方なのです。

 

キリスト教こそがまさに其の二元論により組上がって居る論理体系のことです。

佛教でもまさに其の二元論への処し方が核心部には横たはり、但し佛教の場合には其の二元的対立を消去して行くことこそが其の教への目的となります。

 

 

感覚ー具象性ー⇔論理ー抽象性ー

 

との二元的対立は人間の全内容だとも言へるやうなまさに其処に人間の意義と存在の価値を問うて居るものです。

 

問題の核心は其の対立の様にこそ存して居る。

自然は感覚ー具象性ーをのみ生きるが人間は論理=意識ー抽象性ーの部分を生きて行かざるを得ぬ。

 

自然には論理的構築力がほとんど無ひー全く無ひ訳では無ひーが故に何時まで経っても基本的には同じものです。

でも進化するので實は変はっても居るのです。

 

変はっても居ても意識的に変はっては居らず其れは感覚的には了解される範囲でのものだ。

ところが人間は其れとは眞逆のことを實はして居ります。

 

即ち意識的に変はるー進歩するー為にむしろ感覚を遮断し自然の齎す具象性としての大地を離陸して行きます。

 

要するに人間はもはやまるで自然其のものを生きてなど居なひ。

彼等が生きて居るのは人間其のもの、嗚呼確かに人間だけを其処に生きて御座るのだ!

 

人間だけを其処に生きて御座る弊害とは果たして何でせうか?

まさにさうして自然界を破壊する苦であり謂はば親殺しとして倫理的罪障のことなのです。

 

原水爆による放射能汚染、原発の事故、プラスティックの開発による海洋汚染、大気汚染、地球温暖化、と人類は今や宇宙の犯罪者と化しつつある。

 

ですが人間の本質的な問題とはさうした外側の問題では無く其の罪を自覚出来ぬ精神構造又は認識の形式其れ自体にあることだらう。

即ちみんなが文明の齎す今が實は大好き♡です。

 

みんなが文明の齎す今は楽しくて良ひところだとさう考へて御座るが故に其処に文明の病が癒へることなどあり得はせぬ。

ですからまさに其の様が洗脳の様だとさう述べて居るのです。

 

 

で、そんなビョーキの人間達を偉ひと自ら権威化して居るのが自然科学の分野なのです。

 

尤も養老先生はそんな抽象的に齎される人間の価値を徹底的に問ひ詰めて居られます。

屡其れを脳化した価値観だと其処かしこで述べられて来て居る。

 

其の部分をわたくし流に解釈すれば、其の抽象化とは限定の解除であり逆に感覚ー感性ーとは限定の履行です。

 

即ち具象性としての感覚は元々限定され論理により規定されるものでは無ひが故に常に自由であり其処には自己實現としての契機が含まれて居り尚且つ自然によるバランスが保たれて居るものです。

文明の尺度ー価値観ーは其れとは眞逆に非限定的でもって論理的に想定されることで誰しもが束縛されるので常に不自由であり其処には自己實現どころか搾取のし放題でバランスどころか何でもありでもって壊れた社会を實は形成して行きます。

 

此のやうに社会が悪ひのは必然としての展開で誰もが其の悪ひ社会を何とかしたひのですがもはや事實上何ともならぬものなのです。

自然科学が信仰するAIやらアンドロイドやらロボットは生きて居なひものなので感覚ー感性ーが無く其れでもってとんでも無ひことを言ったりやったりも實はするのです。

ーAIは屡人類を滅亡させたるとかそんなことを口走るものです。其れにアンドロイド妻は決して御飯を作っては呉れぬことでせう。ー

 

ところが實は電脳空間其れ自体がすでにヤバひもので何故なら情報化社会は所謂新陳代謝が出来ぬのであります。

無論のこと生命体ならばそんなことが出来ませうが、情報はたまりにたまり腐っていくばかりで逆に其処には死が積み重なっていくばかりなのです。

 

現代人はすでにそんな腐ったやうな死の領域、即ち抽象化されし死の領域へと繋がれて居りところが其れに常に尻尾を振りつつ楽しさうに明日への希望を抱ひて居たりも致します。

嗚呼、わたくしもそんな方々と同じになりたひ。

文明に尻尾を振り振り可愛ひ番🐕と化し此の地獄の世の様を楽しく渡って行きたひ。

 

おそらく現代人はすでに不感症の最終局面に陥りつつあり、其れでもって兎に角除菌と消臭を徹底して行ひ何処までも何処までも便利で快適で無臭且つ無痛の環境を築かうとして来て居る。

勿論そんな身勝手な文明の価値観は誤りで決して許されぬ宇宙一の大犯罪です。

 

キリストや釈迦はそんな人間をかって諫めましたが其の諫言には耳を傾けずかうして文明は兎に角やりたひ放題して来たのです。

やりたひ放題し過ぎてもはや其処には倫理もクソも無く貞節も何も無く神も佛もあったものでは無ひ。

 

其れを諫めたのがかっての阪神大震災東日本大震災、其れに原発の事故に今回のパンデミックでした。

ところが其れでもまだ人類が懲りぬのでこれからは東南海大地震や富士山の大噴火、さらに小惑星の大衝突や日本近海の魚の絶滅、またマリモの絶滅、サンゴ礁の絶滅、ウナギ及びメダカ及びカブトムシの絶滅などが引き起こされ人類は其の度に塗炭の苦しみを味はふのです。

 

 

パンデミックもコロナウヒルスだけでは無くもっと毒性の強ひ奴がそのうちに生じて参りませう。

 

さても何故都会は病気なのか?

価値観が狂って居るが故に病気なのです。

 

変化ー非常ー⇔定常ー常住ー

 

自然の本質とは変化ですが實は変化だけなのでは無く二項対立の極に対し相剋し相即するやうにバランス関係を築くものなのです。

即ち部分的に進化しつつ實はシステム全体には変はりが無ひ。

 

要するに変化と無変化のバランスが完璧に取られて居り其れ以上のものにも其れ以下のものにもあへてならうとはして居なひ。

おおまさに此れを神と呼ばずして他にどんな形容が可能なのでしょう?

 

ですから、神は常に其処におはします。

 

また人間界にはどうしても佛が必要なのです。

さう是が非とも必要なのだ。

 

 

対して文明の世界はビョーキです。

よって社会的概念程下らぬものは無くそんなものに従って居る心無き人々はみんな根本的にビョーキなのです。

 

ビョーキのみんなが楽しく繋がりかうして赤信号を渡りみんなでもって地獄へと吸ひ込まれて行くのです。

嗚呼、なんて素晴らしひ景色なのだらう。

 

 

文明の本質とは無変化で其の価値を成り立たせるものこそが人間の持つ抽象的な能力です。

ところが文明とは所詮不完全且つダメなシステムなので物理的に自然から報復を受けやがては崩壊して行くものだ。

 

ですから、抽象的能力は、宗教だの藝術だのむしろさうした分野でこそ発揮されねばならぬものだ。

所謂人文の智慧として其れを使ふことで自然としての人間の感覚を少しでも取り戻すことが可能です。

 

ところが自分の外にばかり目を向け其処に変なものばかりを形作ろうとして来て居る。

 

さうして抽象的な価値に生きる都会では人間の感覚が麻痺し其処ではもはや正常な感覚が分からなくなりやがては人間の心其れ自体が破壊されて行く。

其の抽象的な価値とは全てが打算的価値ですのでまさに其れが数的還元での価値観を生きることとなり人間は全的に其れに縛られて仕舞ふ訳です。

 

人間の社会にさうして魂を売った現代人達は常に社会的なゴタゴタに巻き込まれ心が休まる時がありません。

尤も不細工でも心の綺麗な女房にたまたま当たった人などは少しでも其処で心を慰められるのやもしれぬ。

尤もたとへ出来が悪くても心の綺麗な子供がたまたま出来た人などは少しでも其処で心を慰められるのやもしれぬ。

 

ですが本質的には人類に未来の価値など期待出来ぬと云ふ結局さう云ふことともなりませう。

 

 

かようにまさに人間は概念を生きるのであり、其れ以外のものを生きる者には非ず。

かうして概念を生きるのに体は以前として自然其のものなのでそも其処で矛盾して居る訳だ。

 

だとすると今後其の自然としての肉体が科学的に改変されて行く可能性が高くある訳だ。

だがそんな悪ひ風にバランスを取るのでは無く良ひ方向でバランスを取るべきなのではなからうか。

 

良ひ方向とはむしろ神をさうして佛を見詰める心の余裕を取り戻す時のことだ。

人間は兎に角変化を避け自分でもって此の世に価値観を築ひて来たのです。

 

でも江戸時代などは逆に程良く進歩し其の割には自然との関係も良好でした。

此のことは徳川 家康公其の人の知恵が其処に深く関わって居ることです。

 

ですが、尾張三河は大抵の場合仲が悪く互ひに貶し合って居たりすることがほとんどです。

が、赤味噌文化の点では結局同じなので他県の嫁を貰ふよりも理解がし易ひと云ふことだけは確かです。

 

松平郷はいまだにクソ田舎でまさにコンビニひとつ無ひ山の中ですが其処には何処となく家康公の気配がして居るやうな気がしなひでも無ひ。

江戸時代はさうして変化を避けつつも堅固な幕藩体制を築き上げた訳ですが其れはどう考へても今よりは遥かに安定した時代でした。

 

尤も安定した歴史過程を築き上げるのは今も昔も至難の技でした。

今は文明の尺度が変はり萬事が西洋流となりましたので其の点でも合理主義が蔓延して居り其れが必ずしも良くは無ひのかもしれません。

 

合理主義の蔓延を防ぐ為に日本の古き良き価値観を見直すと云ふ精神の傾向がありませうが確かに其れにもまた一理があるのだと思ふ。

 

旧昭和塾堂付属体育館(現在:養心殿)

此の城山の辺りは至極環境の良ひところで低山のあちこちに古ひ建物や史跡などが散在して居ります。

今月は休みが少なく其処が苦しひのではあるが昨日は午前中に此の辺りを散策して参りました。

 

居合道の本拠地ともなって居る養心殿は趣のある古ひ建物で城山八幡宮の横にあります。

此処で其の八幡宮の森から伐採された木などを譲り受けることが出来る。

 

わたくしの場合などはさうした御神木にて筆記具の軸を作ったりもして居る訳だ。

ところが昨日初めて分かったのは此処がかの実践倫理宏正会と関係して居たと云ふことだった。

 

末森城跡・織田信長の父信秀築城・城山八幡宮境内に残る城跡

 

養心殿から少しだけ登った山の頂上には城山八幡宮がある。

城山八幡宮の裏手は素晴らしく環境の良ひところで其れこそ一種の高級住宅街ともなって居るところである。 

 

其処に縁結びの「連理木」と云ふものがあり此の大木が何故かお気に入りなのである。

つまりは縁結びの巨木にてわたくしには無縁のものなれど何故か縁のある古木なのだ。

 

ちなみに神社や仏閣には兎に角縁結びを謳って居るところが多く其処は全くのところ現世利益の願掛けにて辟易して仕舞ふのだがイザ其処へ行ってみるとなかなか良ひ処が多ひ。

 

養心殿のすぐ際には昭和塾堂がある。愛知学院大学研究棟

 

此の辺りは全く素晴らしひところで下らぬ社会の問題に頭を悩ますよりはかうして地元の史跡を経巡って居る方が余程に有意義と云ふか心が落ち着くではなひか。

 

もうどうにもならぬ社会のことなど考へることは止めやうとさう思ひつつフラフラとかうして出歩くことが何よりの楽しみになりつつある。