目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

抽象性と云ふ哲學上の恐怖と映画評

人間にとり恐怖や性と云ふものはまさに根源的な何かなのだと申せませう。

恐怖は「死」への方向性を向くものなのであり性は「生」への方向性を向くものです。

食事もまた「生」への方向性を向くものであり病もまた「死」への方向性を向くものなのでもある。

 

其の恐怖や病こそは苦でせう。

ところが自然界での恐怖や病は人間にとっての恐怖や病とはまた違ふものなのです。

 

我我にとっての苦と其の自然界での苦のあり方が謂はば質的に異なって仕舞って居ます。

さてではどう違ふのか?

 

 

即ち我我にとっての苦には必然として其処に抽象性が混じるのです。

ところが彼等にとっての苦はあくまで具象的なものです。

 

より正確には我我の苦は具象的な苦と抽象的な苦が混ざり合って居る、つまりは其れがブレンドされて居る状態にこそあります。

 

ところが自然界での苦にも少しだけ其の抽象的な苦が混ざり合って居る、つまりは其れがブレンドされて居る状態でもあるのです。

 

 

但し其の比率が逆転しております。

 

其の比率としての逆転現象こそが人間存在としての本質をさう規定していくものです。

 

人間の場合にはむしろ苦を半分以上抽象的に捉へて居ることでせう。

 

 

第一我我がもし死ぬのだとして、其の折にまず何を考へませうか?

 

其れは死による肉体的な苦しみと云ふことよりも死後の身近な世界のことなどを屡考へて仕舞ふことでせう。

 

死後の自身のタマシヒの行方とかまた死後に家だとか👪だとか自らが属して居た組織だとか、さうしたものに大きく影響が出ぬやう何かを確りと整理しておかうと誰しもがさう思ふことでせう。

 

ところが、其れって實は可成に抽象的な苦の領域なのです。

 

 

🐵にせよ🐺にせよ🐅にせよまた🐗にせよ🐊にせよ🐍にせよまさか其処までは考へて居たりはしなひ筈です。

 

尤も🐵はケモノの中では頭が良ひ分少しは心配などもして居るのやもしれませんー頭の出来が人間に一番近ひのでーが、其れでも人間程抽象化して物事を理性的に捉へ考へて居る訳ではありません。

 

要するに自然界では基本的に本能主導の下での恐怖または生を営んで居るだけのこと。

 

尤も社会性を持つ動物は其の社会性に応じた抽象的領域がそれぞれに形成されていくのやもしれませぬ。

 

 

では🐜などはどうなのでせうか?

🐜や蜂は常に社会的でありどうも他の生き物とは違ふやうです。

 

でも🐜や蜂は抽象的な社会に生きて居るのでは無く只具象的に社会を形成し其処で本能を発揮して居るだけのことでせう。

 

兎に角恐怖にせよ、また病にせよ、其れは生存にとり対概念としての死へと歩みを始める為のきっかけとなることです。

勿論其れが酷くなれば実際に死んで仕舞ふことさへあり得るのです。

 

ところが恐怖の方が病による負荷よりも抽象性が高ひ訳です。

 

 

つまり恐怖の方が實は病其のものよりも怖ひ。

 

そんな訳で人間に与へられる苦は謂はば二元化されて仕舞って居る。

 

一言で言へば抽象的に感じられる苦の方が具象的な死への歩みによる苦よりも常に大きひのであります。

 

即ち其処がまさに問題なのです。

 

 

 

苦⇔楽

 

では苦の対概念としての楽の方はどうなのでせう?

 

此れも實は抽象化して仕舞って居ます。

 

事實として我我は今抽象的に幸福を捉へて来て居る。

 

戦後國民生活に於ける新たな三種の神器として次のやうな流れが生じた。

1950年代後半、白黒テレビ洗濯機冷蔵庫家電3品目➡1960年代半ばのいざなぎ景気時代には、カラーテレビ (Color television)・クーラー (Cooler)・自動車 (Car) の3種類の耐久消費財2003年平成15年)頃から2010年(平成22年)頃にかけて急速に普及したデジタル家電デジタルカメラDVDレコーダー薄型テレビデジタル三種の神器三種の神器 (電化製品)ーより

其のDVDレコーダーの代わりに今はさしずめスマートフォンなのだらう。

 

尚わたくしは思想としてスマートフォンを持つことを拒否して居る。

 

要するに沈思黙考型の人間なので現實的にはまるで器用では無くー至極不器用なものですからーそんなものを持ち歩くと至極危なひので決して持たぬのだ。

 

其れとスマートフォンの底の浅さ、手軽さのやうなものがそも嫌ひである。

 

わたくしはPCに於ひても常に思考が深ひのでデスクトップ型でなひと何も考えられぬのだ。

 

ノート型?

一体何だ、其れは。

そんなもの触れたことさへ無ひわ。

 

 

さて男性の肉体にとり女性の肉体は愉しみのひとつです。

其れは自然界の何処に於ひてもつまりは宇宙中でもってさうなって居ります。

 

有性生殖をする生命の段階に於ひては矢張りと言ふべきか必然としてさうなりませう。

 

物凄ひ理性でもって其れを愉しみどころか不快なもの、何か厭ふべき悪ひものとさう捉へられもしませうが其処まで行かぬ限りは皆皆様が👩に飛びつくのはごく自然なことです。

自然なのですが、此処でも實は抽象化が行はれて仕舞って居る。

 

要するに肉欲を愉しみにして仕舞って居る。

 

では自然に於ひて肉欲は愉しみでは無ひのですか?

 

否愉しみ其のものです。

 

 

なんですが、其れはのべつまくなしに愉しひ訳でも何でも無ひ。

自然界にはちゃんと恋の季節が定められて居り基本的に其れは生殖目的での行為に限られやう。

 

ところが人間の性は其れとは違ふ。

其れはズバリのべつまくなしでの行ひでせう。

 

 

實は其処こそが問題なのです。

 

何故問題なのか?

 

其処に苦を抽象的に肥大化させて仕舞って居るのであります。

 

抽象的な苦を抱へ込む方向性にて性其れ自体を抽象化して仕舞って居るのだ。

 

 

其れと同じ原理にて死をも其れ自体を抽象化して仕舞って居る。

 

其の抽象化こそがまさに悪なのですか?

 

どうも悪臭ひ。

 

どうも臭ふぞ。

 

つまりはホシかもしれなひ。

 

 

だが何度も述べて居りますが如くに人間には理性による二元的選択が常に可能です。

 

だけれども理性もまた矛盾化し本能へとなだれ込んでいく虞が常に御座ります。

 

 

 

お分かりだらうか?

 

其の抽象性がむしろ苦を二重に増幅していくのです。

 

なので何時まで経っても人間は本質的に救はれやしなひ。

 

 

つまり苦の領域をじぶんでもって倍だとか二乗だとかそんな掛け算やら何やらを仕出かして拡大かまたは増幅要するに拡張し其れでもって苦しひ、苦しひ、などと泣き言を常に述べつつ何かとてもHなこと、また何かとても苦しひ死に方などをわざわざ好んで選んでして来て居るのです。

 

はあー、つくずく困った者よのう。

 

そんな抽象性など早う捨ててお仕舞ひ!

 

 

 

 

美⇔醜

 

勿論美醜に関しても其の抽象性と具象性の二元分離のうちに価値ヒエラルキーを設定していくのが人間と云ふものです。

 

其の美しさを抽象的に捉へる能力と醜さを抽象的に捉へる能力とにより美しさ其れ自体と醜さ其れ自体を抽象領域の彼方へと押しやっていくのである。

 

其れをすればおそらくは美其のものと醜其のものの境界線が曖昧となり交互に入り組み逆流を始めやう。(?)

 

要するに美其のものと醜其のものの基準其のものを抽象化して仕舞って居るのだ。

 

 

其の人間存在の癖としての精神性即ち抽象的思考領域とは煎じ詰めれば人間をして楽な方向へと導くものでは無くむしろ苦としての方向性を増していくものなのだ。

 

勿論理性の働きとしてのより良ひ選択にて其の抽象的思考領域を目立たせぬやうにすることはおそらく可能でありたとへばかって老子が述べたところでの所謂道の思想はさうした抽象性への自戒を込めし限定的な思想だった可能性が高ひ。

 

 

其の点に関して釈迦とキリストはまた別の解決法を模索しまさに其れを世に伝へても居る。

 

釈迦が目指したのは抽象的思考領域ー観念性ーと具象的領域ー肉体性=物質的なものーを共に離れることによる抽象的相殺ー抹消ーでありキリストが目指したのはむしろ具象的領域を抽象的思考領域ー神ーへと丸投げし全てを精神化ー理性化=抽象化ーすることにこそあった。

 

謂はば全的に消し去ると云ふことと逆に全的に建設し直す、と云ふことであらう。

 

全的にマイナスなのと全的にプラスだと云ふことなのでもまたあらう。

 

だがいずれにせよ其の侭では居られなひ、事實其の侭では煩悩に汚れ或は罪に苛まれ人間は次第次第に地獄へ堕ちる他無くなる訳だ。

 

 

其の抽象性を断じていくことこそが眞の意味での宗教の目指すところなのでもある。

 

但し釈迦は抽象性ー煩悩ーを齎す素地其のものを消し去ることー佛を生むことーで苦を滅しキリストは逆に全的に抽象的な神へと其の人間の抽象的に生ずる罪深さを移動することで苦を滅していくのである。

 

いずれにせよ人間が癖として持つ抽象性こそは隠滅されていかねばならぬことだらう。

 

何故なら其の抽象性に寄り掛かり事を為せば為す程に我我人間の味わふ苦は何処までも増大し続けやがてはたとへ死んでも拭ひ去れぬ一つの大きな過誤を生み出して仕舞ふからだ。

 

 

兎に角今我我は抽象的な死を迎へやうとして居るばかりだ。

 

抽象的に社会的な死並びに抽象的な個としての死以外に死にやうが無ひのだ。

 

だが其れは果たしてほんたうの死なのだらうか?

 

どうもわたくしには其れが余分な死なのであり所謂自然な死に方では無ひやうに思へてならぬのだ。

 

つまりは其の死に方自体を変な風に頭でもって加工して仕舞って居るのやもしれぬ。

 

 

丁度性が本来ならば生殖の為のものであると云ふのに我我は其れに余分に手を加へまさに妙ちくりんなものへと加工していって居る。

 

愛だの何だのとさうして抽象的に性を抽象化していくが本来ならば其の愛には愛と云ふ概念など含まれて居らずズバリ其れはHだけのことだ。

 

 

尤も其の愛をさらに究極的に概念化、普遍化し神の愛にまで高めしキリストの考へこそは流石にアッパレなのだけれども。

 

尤も佛陀もまた究極の概念的加工にて人間と其の人間としての属性である抽象性を永遠に放逐されて仕舞って居るのだ。

 

 

結局どちらがより凄ひ苦の放逐なのか現時点では何とも言へず、だ。

 

だけれども我我庶民としては兎に角もう助けて下され、だ。

 

もう今がモタぬ、兎に角何とかしてお呉れ、だ。

 

 

 

其れも政府が何かとモタモタして居るので肝心要のマスクが無ひ!

 

マスク無しでもって客の対応をしこっちに向かって平気で咳をして居るな、此の老店員めが!

だが其の罪は神の赦しの前には誰も問へぬことともならう。

 

さうか、凄ひな、宗教は。

 

さう言へば釈迦はお布施として出された粗末な食事がまさに御腹に当たり亡くなったのだった。

 

が、其の志は充分に受け其れを恨んでなどは勿論居らぬ筈。

宗教はかうして怒らぬ点が兎に角凄ひのだがインテリおバカ=修羅は其れにも動じずかうして何故かいつも怒りまくって居るのだった。

 

 

其れに寒ひのだ、兎に角寒ひぞよ。

 

こんなに寒ひとまたぞろウイルスが増へるのだぞよ。

其れも地球が温暖化して居ると云ふのに何故か何処までも寒ひ。

 

 

 

尚映画評ですが都合によりカンタンにさせて頂きます。

 

 

映画『魂のゆくえ』公式サイト

 

映画『魂のゆくえ』あらすじネタバレと感想。名作『タクシードライバー』との共通点を読み解く

 

尚此の映画も究極的には文明其れも現代文明と云ふ野放図な欲望の追求を暗に批判しキリスト教者としての一牧師が其の社会が背負ふ罪に対し如何なる精神的模索を為しどう心を決着させるかと云ふ部分を描ひた映画です。

此の映画を製作したシュレイダー監督は屡70年代の名作映画とされる『タクシードライバー』の脚本を担当して居ました。

 

タクシードライバー』は当時のどうにもならぬ社会矛盾への怒りを表明した過激な映画でもまたありました。

但しわたくしは西洋流の過激な個と社会の思想的闘争の世界を實は余り好まぬのです。

現實的な闘争が實は好きでは無く言はば山の中にポツンと独りで居る方が性に合っても居ります。

 

其れでもって『タクシードライバー』は半年程前だったか、プライム・ヴィデオにて初めて視たのでしたが流石に其処からのインパクトは可成に強かった。

なのですが、其のラストシーンはわたくしには良く分らず何処か物足りませんでした。映画『タクシードライバー』あらすじネタバレと感想!ラスト結末も【スコセッシ×デニーロ代表作】

 

 

『魂のゆくえ』の場合も牧師のトラーは此の悪ひ社会を形作って居る人間達に対して破壊を目論み教会にて爆死!しやうとさへするのです。

なんですが、最終的には悪ひ世の中に絶望し潔癖に自決した環境保護者の👩とねんごろになり其の愛♡に救はれ爆死を止め未来へと二人で羽搏いていくと云ふ何とも振幅の激しひストーリーとなって御座る。

尚其のラストシーンもわたくしには良く分らず何処か物足りませんでした。

 

キリスト教を取り入れた映画は何でまたかう「愛♡」でもってして大罪やら大矛盾やらをカンタンに救って仕舞ふのか、其の点がわたくしには納得出来ず其れも大抵は👩の愛又は👪愛にて全てが救はれて仕舞ふものだ。

 

なのですが映画の中盤まではまさに粛々と話が進む非常に真面目な映画であり其の種のものはほとんど無ひのでまさに引き込まれるやうに視られました。

 

重要なことは西洋文明の最大の推進者である米國にはかうして文明の自己矛盾と対決しやうとする姿勢が宗教や藝術の流れとして元々あると云ふことです。

尤も其れは此処日本國にはハッキリとした形では存在して居なひのかもしれませんのですが。

 

個人的にはキリスト教者としての初老の一牧師が環境破壊を推進するお偉ひさん方もろとも教会を吹き飛ばし爆死しても良かったのではなからうかとも思ふ。ー其の日は丁度其のお偉ひさん方が教会に集ふ日だったのですー

 

 

が、勿論其れではキリスト教の教義には背ひて仕舞ひます。

キリスト教とはあくまでわたくしの理解では悪魔の文明をむしろ其の侭に推進させていかねばならぬ精神の流れのことです。

其れでもって文明は兎に角滅茶苦茶になりませうから其の時にようやく神の怒りにより世は滅びキリストが降臨し最後の審判が行はれ生前に善の心を持って居たタマシヒだけが選別され永遠の神の國へと入ることが出来る。

 

勿論佛教徒は多分其処へは入れて貰へません。

でも佛教徒にはまた違ふ救ひのあり方があり其れはどちらがより正しひと云ふ問題では無くどう心を入れ替へたかと云ふ問題ですので別にキリスト教が絶対だと思ひ込む必要など御座りません。

 

むしろわたくしには日本人並びに日本政府の文明に対する盲信振り、或は其の洗脳の度が深ひのかもはや誰も文明に対し疑義を呈して居なひ点のみが一番気になるところなのです。

どだひ一体誰が文明はオカシヒだなどと申せませうや?

 

其れを仰って居たのはわたくしの知る限りではこれまでに梅原 猛先生のみでした。

 

勿論もう少し深くキリスト教の述べる愛、神の愛による赦しの部分、其の贖罪の部分をこそ學んでいくべきなのやもしれぬ。

 

なんだけれども、👩とくっつくことが其れも「こんな腐った世界に生きてなど居たく無ひ」とあへて死んだ👨の👩とアナタはくっつくことが出来ませうや?

少なくとも佛教徒である我我にとっては多分其れは誰にでも無理なことなのです。

 

 

 

尚『グリーン・インフェルノ』の方はエログロー其処には實は少しばかりエロな要素も盛り込まれて居ますーに隠れてなかなか見へては来ぬ文明対自然の大問題の部分に着目して鑑賞する必要が御座ります。

 

さうして最終的にまさに其の過酷な体験をした少女が何と食人族であるヤハ族を擁護する発言をする。

仲間が目の前で殺され切り刻まれ焼かれ食はれる其の有様を見た彼女がむしろ人食ひ族を擁護する。

 

勿論其処には資本主義文明が仕出かして来て居るほんたうにデカひ罪に対する気付きの気持ちが大きく影響して居ることでせう。

普通人間はそんな恐怖の体験をすればそんな恐怖をつくり出して居るもの其のものを憎む筈です。

 

其れでも彼等を、其の人非人としての人食ひ族を擁護しやうとさう思はせる程に文明が罪深く森林伐採やヤハ族の掃討を目論んで居た訳だ。

 

即ち大學生の彼女には其れも良家の子女として教養を身に付けた彼女にはほんたうに恐ひものが何なのかと云ふことが見へ始めても居る。

 

食人と云ふ文明人にとっては耐へ難い習慣にせよ其れは彼等にとっては伝統であり慣習としての儀式のやうなもの。

 

むしろ其れよりもブルドーザーにて密林を根こそぎ伐採し其れを儲けの手段と化して居る資本主義社会の支配層の方こそが悪魔だったのです。

 

 

尚矢張りと言ふべきか資本主義社会には大矛盾があり其れは人類を滅亡に導く原動力でさへあると言ひ得るものだ。

資本主義社会にはかうして悪魔が蠢ひて居る故其れを全的に支持したり経済成長の夢を追ふなんてのは所詮は馬鹿のやることですよ、馬鹿の。

其れも何処ぞの國の首相が馬鹿だと云ふことです。

 

ならば革命か?

革命も馬鹿であることには変はりは無ひのですが資本主義社会よりはまだしも自然には優しひのかも。

 

では今の中國は自然には優しひのか?

何故か優しくは無ひ。

 

 

そも自然に優しひ中國ならばおそらくこんなことにはならなかった筈。

だから共産主義が悪ひのでは無くあくまで経済だけを資本主義化した中國が所詮悪かったのだ。

 

ところで中國の🐼ちゃん達は今回皆無事だったのでせうか?

さても🐼が笹竹を食ふと云ふまさに其のことが實に不思議なことではある。