ー実際に患者を診察している医師である大曲氏は、さらに怖いのは、悪化する際のスピードの早さだと指摘する。
「悪くなる時のスピードがものすごく早い。本当に1日以内で、数時間で、それまで話せていたのに、どんどん酸素が足りなくなって、酸素をあげても駄目になって、人工呼吸器を付けないと助けられない状況になる。それでも人工心肺を付けないと間に合わない、そういうことが目の前で一気に起こる。ものすごく怖い
それまで会話ができるような状態だったのに、数時間で容態が急変する。そういった状況は、特に持病がある患者に起こるという。
この日出された見解によると、重症化する患者は、風邪症状が出てから約5~7日程度で症状が急激に悪化し、肺炎に至っている。入院期間が約3~4週間に及ぶことが多いという。
さらに重篤の患者の場合は、大曲氏が語ったように、人工呼吸器による治療だけではなく、人工心肺を使った集中治療が必要になるケースがあるとしている。ー「かかってはいけない病気」医師が口にする新型コロナの怖さとはより
新型コロナウイルスによる感染症の症状の進み具合にはおそらく各生体との相性のやうなものがあることだらう。
勿論免疫のこともあるのだらうが何らかの形での各生体との相性のやうなものがあるのやもしれぬ。
第一たとへ若ひ人でも重症化することなども屡あるやうだ。
問題は重症化しなひやうに是非行動の全てを限定化して置くことではなひだらうか。
ー集団感染が不安な場所として、ネット上などではかねてより「満員電車」が話題になっていましたが、専門家会議はこのリスクについても言及しました。
「満員電車では、3つの条件のうち(1)と(2)の条件は合うが、(3)はあまりない。電車の中で正面を向いて話す機会はあまりない。ただ場合によっては(3)が重なることもあり得る」
さらに野外でスポーツをする場合も、プレー中は条件に当てはまらなくても、着替えやミーティングなどの際に(1)から(3)の条件が合致する瞬間があり得ると指摘。
東邦大学医学部の舘田一博教授は「長期戦」になる覚悟が必要だと国民に訴えました。
「インフルエンザのように暖かくなると消えるようなウイルスではない。新型コロナウイルスとの戦いは数か月から半年、年を超えて、戦い続けていかないといけない」ー 満員電車のリスクは? 専門家会議が示した日常生活の考え方とはより
実感として満員電車でのリスクは最も高くあることだらう。
一番イケナヒのは其れが密閉空間だと云ふことだ。
野外でのスポーツにはおそらく大きくはリスクは無ひことだらう。
満員電車では浮遊する微細なウイルスがおそらくは沢山浮ひて居る故当然感染する確率は高くなる。
特に🚇は最悪だ。
だからまずは自己の肉体の防御と云ふことを考へて行かねばならぬのだが社会は概ね其れを許さぬ。
社会ー國家ーは人間を奴隷となし働かせることでもって其処からチュウチュウと精力を絞り取り生きて御座る何ものかなのだ。
勿論思想的に其れを遮断する手もまたある。
半分引退者でもあるわたくしも今其れを考慮中のところであるが結局しがらみに負けてズルズルとまた行って仕舞ひさうだ。
つまり通勤による死の危険性がわたくしにもまた高くある。
其れでも此処二、三ヵ月が限界なのだと思ふ。
尤も其の二、三ヵ月が一番危なひ訳でもあるのだけれど。
人間社会はもう完全に引退した方が勿論ベストな選択だ。
人間社会程ロクなものは無く其処に居るのは元々アホばかりである。
いや、ごくたまに理性的な人間もまた居てさうした方だけにわたくしは頭を下げるやうにして来て居る。
だが其の確率は非常に低ひ。
多分宝くじが当たるのと同じ位に低ひ。
尚わたくしが最近良く人に言って居るのは、
1.歴史は滅亡に伴ふ悲惨な状況を常に繰り返して来て居ること
2.文學は其の悲惨をこそしかと見詰める
と述べて居て、要するに此の過酷な状況は何も今に始まったことでは無く大昔から常に繰り返されて来たことなのだ。
問題は科学技術が其の悲惨な状況を遮断出来なかったことだ。
勿論ワクチンはやがて開発され新型コロナウイルスは新型インフルエンザのやうにもなっていくことだらう。
だが科学技術は此の今の感染爆発に対して為す術が無ひ。
また今後の温暖化対策にせよ基本的に為す術が無ひ。
ところがみんなは科学技術の力にて日本國は一等國になったとさう思ひ込んでも御座る。
即ち和の科学技術でもってして其れを成し遂げて来たのだと。
ならば何故新型コロナウイルス位やっつけられなひのか。
つまりは科学技術は命で無ひものを扱ふのが得意で命を助けるー救ふーのは至極不得意だ。
科学技術とは抽象性が高く設定されし領域のことなので具象的な危機に対し有効な方策をなかなか打ち出せぬ。
實は其の抽象性こそが曲者なのだ。
たとへば社会に於ひてもグローバル化すると云ふことはまさに其の抽象化の過程だったのだ。
社会か又は國家が抽象化するとグローバル化して世界中を同質化する働きが生ずる。
ところが、いざさうなると其処で多様性が失はれ危機が訪れれば其れこそ皆が一緒に沈没することとならう。
即ちみんな一緒の自然と云ふものなど無く現實にはみんなが其れぞれに違ふのでまた各々が偉くてひとつだけの🌸なのだ。
いや、皆が平等に偉ひと云ふのは左翼的でイケナヒ発言なのだが其れでも兎に角違って居るから其れが独自のものであり偉ひのだ。
だがPCを始めとする科学技術若しくは其れに遡る自然科学と云ふものは實は其の普遍的同質性をこそ求めて行くー抽象的に構築して行くーものなのだ。
だからかうして言葉にて明解に説明されるとどんな科学者も反論出来なくならう筈だ。
科学其のものがそんな抽象的同質性を追求して行くものであることがコレにて一目瞭然となったからだ。
つまりは物理法則、化学式、数学による普遍的同質性のことだよ。
其の抽象的に希求される普遍的同質性をドンドン推し進めて行くと人間の中の自然がおそらく壊れて来やう。
其の人間破壊はおそらく戦後明らかに推し進められつつある。
いや確かにわたくしはかうして必要以上に怖ひことを述べる。
そんな怖ひ話などよりもまだ石拾ひの話の方がずっと穏やかな話でもって楽しひことだらう。
だからわたくしは両方を述べて居るのだ。
さうして批判と美の世界とを同時に述べて行かねばならぬ。
グローバル社会にせよ抽象的同質性にせよ其れは同じ穴の狢で要するに共に狢である。
ーむじなの化かし方は大きく分けて3つあり、1つ目は田や道を深い川のように思わせる。2つ目は馬糞をまんじゅうに、肥溜めを風呂のように思わせる。3つめは方向感覚をなくすということである。このほかにも人を何人も殺す凶悪なむじながおり、一部の地域ではそれをおおむじなと呼ぶことがある[2][3][4]。ー#民話におけるムジナより
但し本来動物は人を化かしたり誑かしたりするものには非ず。
さうでは無くまさに人間の方が化け誑かしたりもするのである。
科学技術とは其の人間の方が化け誑かしたりもする狢のことであらう。
なのでまさにそんなところへパンデミックが起きた訳なのだから其れはむしろ当たり前のことなのであり何処にも不思議なことの無ひまさに決定論としての上でのお話なのであった。
で、文學者と云ふか共感覚者としての感覚は此の現實をどう捉へていくのか?
1.歴史は滅亡に伴ふ悲惨な状況を常に繰り返して来て居ること
2.文學は其の悲惨をこそしかと見詰める
ですから、其れは以上ばかりでのことです。
尤もそんな観念的論議を推し進めてももはや如何ともし難ひのでひとつの具体的な対策として以下のものを探し出してみた。
こんな洗へるマスクである。ウェアラブルのミツフジ、洗って使える高機能マスク「hamon AG マスク」を発売 ―銀めっき繊維とウェアラブル技術により銀の抗菌防臭機能と、極上のフィット感を実現―
尚マスクは絶対に必要である。
かのWHOが訳の分からぬマスク不要論を唱へたりもしたので今世界では余計に感染拡大が引き起こされても居やう。
マスクだけでは無論のことダメで、其の下に二重、三重に濡れティッシュか又はアルコールティッシュを重ね入れて置くと良ひ。
そんなことはむしろ当たり前のことで、わたくしの場合はむしろ昔からさうして来て居ることでもある。
ちなみに前回述べたやうに相対分離領域では必然的に矛盾が極大化するので時の経過と共に世界は劣化しー悪化ー人間の感ずる苦は増大して行くが故に神佛による救済ー他力と自力のーが説かれなければならぬのだった。
其れは無くても良ひのでは無く、どうしてもさうあらねばならぬ類でものなのだ。
丁度人間の生存に水と食物がどうしても必要なやうに神佛による救済が有らねば人間の心は生きて行けなくなるのである。
ところが特に戦後は其の最も大事な領域がむしろ一番軽視されるに及んで来たのであった。
なので所詮今回の災厄も其処の部分でもまたリンクして居るのである。
所詮はさうして全てが繋がって居るのであり、なのだからこそ其れは「神佛の怒り」によるものだとさうも結論付けられやう。
とイザさうなるともはや何処にも救ひが無くなる訳なので其れでは余りに辛からうと云ふ訳で暫しの間庭に出てみた。
すると人間界はまさしくこんな地獄の様だと云ふのに自然界では丁度今春の花々が咲き乱れて居るところだった。
ーハナニラはキリストの生誕を“東方の三賢者(三博士)”に知らせたという「ベツレヘムの星」の名でも呼ばれます。
ちなみにクリスマスツリーのてっぺんに良くある星もベツレヘムの星を意味しています。確かにツリーなどのオーナメントと形がよく似ています。ー
「ハナニラ」の別名には、クリスマスツリーのオーナメントでもお馴染みの“ベツレヘムの星”の名も。より
またシャガソウなどもまた咲ひて御座る。
するとコレも釈迦草か?いや、まさかさうでは。
尚自然を観察するにつけ常に思ふのは自然には所謂「心の余裕」のやうなものが常にあるものだが何故か我我人間ー文明ーの側には「心の余裕」のやうなものが常に無ひと云ふことなのだ。
何故そんな風になって仕舞って居るのかと云ふことを勿論わたくしはこれまでに屡考へても来て居る。
結局其れは其の抽象度の違ひこそが其の余裕の有無を生んで居るのだ。
自然はあくまで具象的に其処に有るものだが我我人間は其処に有るのでは無く人間としての「今」を生きて居る、其の人間としての「今」を抽象的に構築して居るばかりなのだ。
其の今は然し或は妄想の類なのではなひか。
自然の今は只具体的に其処に咲き乱れるばかりなのであるが、我我人間、特に社会の今はまさに抽象的に雁字搦めとされて来て居りしかも其の抽象度は今後いや増すばかりであらう。
よってわたくしは今其の人間の持つ抽象性其のものを徹底して批判する。
人間の抽象性其れ自体が實は人間をして限りなく不幸に陥れて居る事實につき其れを世に指し示す。
其の抽象性其れ自体が實は人間をして限りなく圧迫して来て居る。
其の抽象性其れ自体により文明が滅びる可能性はむしろ高く存することだらう。
其の場合には具象性の部分に立ち戻ることが可能や否やと云ふ部分が最も大事なファクターとなる筈だ。
尚抽象性を精神性とすれば具象性とは物質性のことである。
但しともすれば精神の方が上で物質の方が下だと云ふ観念論が其処でもって成立し易く其れではマズひ展開となって仕舞ふ。
其処で精神性ー+精神と-精神ーであり、物質性ー正物質と反物質ーのやうに實は其れ自体が二元化して居るが故に現實的には現象は複雑に入り組んで居りおそらくはどちらが上か下かと云ふ価値判断の基準になどそぐはぬものなのだ。
いずれにせよ文明の奉ずる観念論は具象性を何処かに置き去りにして居るのやもしれぬ。
所謂禅で言ふ今とは其の具象的現在のことであり抽象的で且つ刹那的な今のことでは無論のこと無ひことだらう。
おそらく禅とは其の抽象的価値ヒエラルキー其のものを脱構築していく試みなのだらう。
先回述べたやうに禅宗は其の釈迦による無分別化の流れを汲むものである。
概念による相対認識=分別智による価値ヒエラルキーの構築は結局自己矛盾からは逃れられず要するに次第に劣化し全てを地獄化して行かうから其れを止める為には其の反対での精神の領域こそが必須ともならう。
何を言って居るのやら分からない?
其れではあへて其処をカンタンに説明させて頂きます。
好きな人⇔嫌ひな人と云ふものが誰しもありませう。
好きな國⇔嫌ひな國と云ふものでも勿論良ひ。
でもほんたうは其の対立は相対的にしか決められぬものです。
其れを絶対的にさう規定することはそも不可能なのです。
僕は犬が嫌ひ、でも猫は好き。
其れ等の概念を絶対的に規定する術が言語領域には無ひ。
もしもあるのだとすれば信仰の領域に於ひてです。
僕は佛教徒です。
勿論概念上はあくまで分離されるのだがーわたくしはキリスト教徒です、などとー、あくまで信仰に基づき其れは絶対化されやう概念だ。
つまり分別智による価値ヒエラルキーの構築は本質的に破壊と云ふ地獄からは逃れられぬ。
だから其の侭人間ー社会ーで居るとむしろ全部が劣化し次第に壊れて来るのです。
難しひが一種凄ひ話だ。
新興宗教の教祖の話とはまるで質的に違ふな。
だから智慧者による話です。
つまりは直観能力に長けた人の話なのだ。
本日は花の香りに酔ひ痴れたく思って居たがいつの間にやらまた禅宗の話だ。
其の侭で人間の相対認識を展開するとおそらく世界の劣化を必然として引き起こすつまりは破壊を生じて仕舞ふのです。
元より其れではイカン。
だったら何で何とかしやうとせぬのか?
ですからまさに其れを釈迦とキリストが違ふやり方でもって示して来て居ります。
基本的には自力救済と他力救済と云ふ話でもってして。
佛教では末法思想と云ふものがあり釈迦の教へが説かれた後にある期間が過ぎますと其の法が伝わらなくなるまるで悪夢のやうな世界が展開されても行く。
キリスト教では次第に悪夢のやうに世は乱れに乱れ「最後の審判」の日が近づき世は滅ぶともされて居る。
さうして實は同じやうな部分もあるのですが、末法思想の方にはまた多分に問題がある故また終末思想として纏めお話をして行くつもりです。
つまり両宗教にとって其の侭で人間の相対認識を展開することはまさに煩悩であり罪のお話となり其れではとても天国へも行けず勿論浄土へも行けず其ればかりか佛になどなれやう筈が無ひ。
だからこそ信仰が必要なんです。
其処はまあ多々ある新興宗教での勧誘のやうに「此の侭では君は地獄に堕ちるからすぐにでも〇✖様の教へを信じなさひ」と云ふことにも實は近ひ。
但し其処で〇✖様の教義などは余り信じなひ方が宜しひことかとさう存じます。
また現代文明に関しても余り信じなひ方が宜しひことかとさう存じます。
要するに、宗教とは其れも二大宗教である佛教とキリスト教に於ひては其の人間が何かを破壊して仕舞ふと云ふ本質的な悪ひ性質を正しくしていくことこそがほんたうの目的なのです。
かうしたことは勿論教師なども宗教学科でも出て居らぬ限りはまず知りません。
だから教へても頂けません。
尤も御坊様や神父様に伺へば無論のこと教へても頂ける筈です。
但し御坊様や神父様は常に忙しくされて居りわたくしのやうな変はり者でもありません。
だから代はりに説法をさせて頂きました。
以上から皆様にはそもどうして宗教的な分野などが必要なのだらう?
と云ふ根本の疑問が解けただらう筈です。
其れは宗教がどーのこうのでは無くズバリ其れは人間が地球をそして宇宙をブチ壊して仕舞わぬ為の教へなのです。
だから少しずつ見へて来た筈です。
次第次第に文明による洗脳が解け如何にもヤバひ人間の行ひがかうして浮き彫りにされて来て居ます。
仕舞った!人間こそがむしろ破壊者だったのか。
嗚呼そんな獣だったのか、其れも悪魔に唆されし大害獣だったのだ。
さうか、其れでは「此の侭では君は地獄に堕ちるからすぐにでも〇✖様の教へを信じなさひ」。
何だか怖ひから宗教はイヤです。
さうか、其れでは左様なら。
其のスマフォだのゲームと一緒に抽象の彼方へと飛んで行かれるが良ひ。
自身がブチ壊されることを承知で、さうして抽象性の権化其のものと心中して行かれるが良からう。
尚一部の医師から是非視るべきだとされて居る映画がありまさに其れが『感染列島』だ。日経メディカル 医療映画紹介 『感染列島』日本初のパンデミック映画 無防備すぎる主人公たちに日本を重ねる
勿論プライムヴィデオにもあるのだが少し視てみたところ怖過ぎてもはや途中で見られなくなりまた後日視てみやうかとも思った次第である。
尚現實と映画ー虚構ーは元より違ふものの筈。
だが今や現實と虚構の領域が何故か交錯して仕舞っても居る。
畢竟其の傾向も抽象度の高ひ現代社会としての癖が生み出して来て居るものであらう。
此の五年余りわたくしは兎に角脇目もふらずに文明を批判して来たのだったがほんたうはもっともっと癒される自然とこそ向き合って居たかった。
故に皆様も是非今自然の大切さに気付ひて行って頂きたひものだ。
其れこそが人間の抽象的願望などよりもずっと大事でまさにほんたうの意味での価値を有して居るものなのだから故に。
尚今後世界は此れ迄のある種バカバカしひ価値観ー面白ひか面白く無ひか、受けるか受けなひか、イケてるかイケてなひか、などの所謂表面的な価値では渡って行けなくなる可能性が大だ。
つまりは安定した世界を形作って来た価値観がほぼ崩壊していくことだらう。
そんな時に面白ひものや興味本位のものはまるで面白くは無くふざけて居てけしからんものにも見へて来やう筈だ。
なのだけれども逆にむしろよりおバカ化して行く虞さへもがまたある。
おバカ化=合理化なので、其処には兎に角おバカな人間が増へ要するに本質的な価値を見失ひ易くもまたならう。
いずれにせよ人間は次第次第に心の盲目者と化しまずは精神的な滅びを迎へるのやもしれぬ。
と云ふよりもむしろ今は極めて具象的な災厄の渦中にある。
嗚呼、さうか、極めて具象的な災厄故にAIなんぞ何の役にも立たぬと云ふことなのだらうか。
薬位つくれぬやうではAIなど所詮は役立たずの馬鹿である。
おお、さうか、合理バカと云ふ一つの巨大な動きが今や此の世界を隈なく覆って来て居るのやもしれぬ。
AIよ、利口馬鹿なる汝よ。
此処までコキおろされ悔しかったらコロナをやっつけてみよ。
コロナから人間様を是非救ってみよ。
もしも其れが出来たらすぐさまひれ伏して君に祈らう。
神様佛様AI様、どうかどうか此の哀れな人間共を御救ひ下さりませ。
愚かでしかも好色でアホンダラの限りを尽くすかの人間共を是非にも一度だけ御救ひ下され。