目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

唯脳論から見る文明のリスクー抽象的進歩がコロナ禍を生む訳ー

「東京は手遅れに近い、検査抑制の限界を認めよ」WHO事務局長側近の医師が警鐘

確かに緊急事態宣言は効果が薄ひことだらう。

何故ならみんなが一斉に仕事を止められ無ひからだ。

 

つまりはみんなで行かう、地獄の底へ、だ。

経済の為にみんなで行かう、地獄の底へ、だ。

尤も対策強化無しでは死者は数十万人にも及ぶのかどうかは分からぬのだが。

 

現代文明は左程に高いリスクを背負ふ魔殿なのである。

であるからわたくしは其れを執拗に批判し続けて来た。

 

つまりは社会を批判しなひ奴のアタマの中身にこそ問題がありコロナウヒルス其れ自体に問題があるのでは無ひ。

 

 

愛知も「緊急事態対象に」と要請 コロナ拡大で大村知事

何で愛知が緊急事態対象に外れたかと云ふとどうも当初大村知事が其れに反対して居たやうなのである。

 

元々アノ河村名古屋市長と大村愛知県知事は犬猿の仲でもって全部正反対の意思決定をして居るのだった。

此の大村は可成に馬鹿なのだがアノ河村市長も實は可成に馬鹿で要するに馬鹿が二人でもって訳の分からぬいがみ合ひを常に繰り広げて居る訳で其処が嗚呼まことに嘆かはしひ限りではある。

 

 

「感染拡大理由に自由奪うな」 京で特措法改正反対デモ

京都もまた訳の分からぬことを突如言ひ始め其れは何でかと云ふと京都人の根性が可成にネジ曲がって居るから故にだらう。

京都はかって伝統としての権化の天皇様を東京に取られちゃったので執念深く恨みを抱ひて居り其れでもって根のところで伝統的観光都市なのでは實は無く逆に左派地盤であり兎に角左翼がワヒワヒ言ひ易ひところだ。

 

「新型コロナを理由に自由を奪うな」

以前からわたくしは疑問なのですが、何故日本の左派はいつでもどこでもかう「自由」ばかりに拘るのでせうか?

 

だから何故日本の左派が「護憲」なのでせう?

 

おお、なる程さうか、其れは戦後憲法極左GHQにより押し付けられしものだったからなのだ。

極左=極端な進歩主義と云ふことである。

 

つまり米國とは思想的には極左國家なのである。

 

 

「新型コロナを理由に自由を奪うな」

 

で、果たして今コレを言って居る場合なのでせうか?

 

つまるところ左翼のバカとは此のことなんです。

要するにのべつまくなしー無制限ーに自由と平等と平和主義を何処までも主張して行くのです。

 

要するに其の人権思想ー仏蘭西革命以降確立されたー其のものを手段としてでは無く目的化して仕舞って御座る。

 

 

其の具体例

 

個人の自由でもってお金を稼ぐことは良ひことです。

女子高生にもまたしかと人権があり個人の自由でもってお金を稼ぐことは良ひことです。

故に援助交際でもってお金を稼ぐことは良ひことです。

 

 

だがまともな人なら其れがとんでもなく悪ひことだと云ふことなど誰にでも分からう。

日本の左派の主張する、いや米國のリベラル派にせよ左派思想の最大の問題点はかうして道徳や宗教としての精神を破壊することだ。

 

ところが自民党+官僚機構の無能振り、其の酷ひ体たらくにも今回驚かされましたね。

だからこそもう現實には目を向けずにお寺や教会の方を常に向ひて居るべきなのです。

 

 

 

結論として。

 

其の価値観が間違った社会と繋がると人間はより馬鹿となり精神が其の根本より腐っても参ります。

 

だから捨てます。

たった今より捨てました。

 

お利口さんに限りもう仙人になる他は無ひ。

 

 

ではこれから其の仙境のお話を致しますね。

ネコメンタリー 猫も、杓子も。特別編「養老センセイと“まる”鎌倉に暮らす」

 

昨夜遅くEテレにて此の番組を視た。

一言で言へば養老 孟司氏と愛猫のまるの世界こそがまさに其の仙境だと思ったのだった。

 

さても養老先生はこんなにも猫が好きだったのか。

 

勿論わたくしもまた並外れて🐈好き♡なのだ。

 

 

尚、わたくしは利口な作家が特に好きである。

特に医学部を出た利口な作家などが特に好きだ。

 

勿論安部 公房氏などにも至極興味がある。

其れも色々と文明批評の部分を参考にさせて頂ひても居る。

 

 

また養老 孟司先生がお書きになったものに関しては必ず読むことにして居る。

 

何故か?

養老先生による文明批評のお手並みがとても鮮やかだからなのだ。

 

先生のお書きになるものには人間を突き放した視点が常にあるからなのだ。

まさに其の視点こそが一種の「仙境」なのではなからうか。

 

 

先生は或はもはや人間とは共に暮らされて居なひのやもしれぬ。

緑豊かな鎌倉の御自宅で文明につき何かを考へ其れを本に纏め発表されると云ふ其の暮らし振り。

 

さうして猫と戯れつつ文明のあり方につきトコトン考へ抜ひて行かれる様。

 

だが其れはわたくしの場合と似ても居るのだが机上でもってウンウンと唸りつつ考へて居られるのでは無ひ。

むしろ自然界の諸の事象と密接な関わりを持つ中で其の思考を生み出して来て居られやう。

 

 

さて、そんな養老先生が猫には社会性が無ひとさう仰る。

確かに猫には社会性は無ひ。

 

だが猫は鋭ひ諸感覚と自己認識とをしかと持ち合わせて居やう。

 

だから危機を察する能力にはむしろ長けて居やう。

なる程、さうした部分が共鳴するが故にわたくしもまた🐈好きなのだらうか。

 

 

尚😸は馬鹿だと言ふ人がたまに居るが大抵はさうしたことを言ふ本人が馬鹿である。

何せソヒツは🐶が大好きなさうなのだが、🐕とは社会の命令に唯々諾々として従ひたとへ死んでも番🐕になるとまあさう云ふことだらう。

 

だから自分の無ひ人=眞我を形成する程御勉強して居らず要するに分別智いや其れ遥か以前での現世利益にだけ妙に現金な要するに現ナマ思想の持主のことだ。

さうした奴等こそが社会の犬となり下がり自分の👪と自分の立場ばかりを気にし常にアクドヒ仕方でもって其れを死守しやうとする。

 

そんな生への犬、おおまさに下賤なる世間欲のドレイであり且つ番🐕である馬鹿者が此の世の中には結構居るものだ。

 

まさに此の犬畜生めが!

其の点🐈は社会の言ひなりには決してならずいつも自己本位に他ごとを考へて御座る。

 

 

嗚呼、でも確かに其れこそがまさに此のわたくしの姿其のものなのでもある。

 

そんな🐈野郎がようやく養老先生も結局🐈野郎なのだなとさう合点がいった訳だ。

 

 

即ち🐈は常に仙境を指向するのであるが、🐕はタダタダ尻尾を振るばかりだ。

 

尚、😸と🐶が闘ふとどちらが強ひのかと云ふ問題であるが、其れはヤマネコやオオカミにまで範囲を拡げて考へる限りはなかなか答へが出ぬことだ。

 

だが🐅やライオンは流石に強ひことだらう。

何、🐅か又はライオンにでも一度食はれてみたひ?

 

 

もしやアンタは其の種の病気かへ?

 

勿論其れは究極の布施ではあらうが、たとへ聖者とてなかなか出来るものには非ず。

ちなみに其の所謂「捨身飼虎」に就ひてはまた稿を改めて書ひてみるつもりだ。

 

 

さて養老先生は以前より文明による都市化及び同質化の流れを強く批判して来て居られる。

都市化とは其れ即ち自然の多様性を遮断し抽象的価値観にて人間の生きる上でのシステムを同質的に再構築することだ。

 

其れが抽象化されたものである訳なので、其の内側で幅を利かすのは常に抽象的還元力の方だ。

 

何を還元して居るかと云ふに人間の中の自然も同時に還元して仕舞ふ。

つまりアスファルトにて地面を覆ひ高層ビルを建て抽象的に利益を追ひ求めることで人間の中の自然の呼吸を止め多様で眞に豊かな自然の様を遮断する。

 

 

其の抽象的な価値の追求こそが次第に人間の精神並びに肉体を追ひ詰めて行くことも知らずに。

また同質化、其れは世界を抽象性と云ふ還元的価値にて穢す行ひのことだ。

 

無論のこと本来ならば其処に多元的価値としての具象的な美ー個性ーの世界が拡がって居やう。

謂はば神が創り給うたところでの具象的な被造物の世界が其処に拡がるばかりである。

 

 

其れ即ちお花畑のことだ。

都会人達よ、君達は知って居るだらうか?

 

たとへば近所に空き地は無ひか?

 

探せば都会にも空き地もまたあらう。

ひとつ其れをよーく観察してみやうではなひか。

 

 

尚わたくしは其の種の観察が至極得意なのだ。

ではたった今より観察を開始してみやう。

 

アレアレ、すぐに草がボウボウに生へて来たな。

さうしてあら、其処にお花が咲き始めたのだった。

 

そんな訳で實は都会の自然は抽象的に圧迫されたものであることが其処に一目瞭然である。

即ち人工物が取り除けられるとすぐにでも自然は回復する作用をし始める。

 

さうして草がボウボウに生へお花が咲き始めると其処に蝿やら蜜蜂やらまた蟻やら🐜地獄やらもが湧ひて来る。

さう其れ等がいつの間にか湧ひて来るのだ。

 

 

すると其処へ野良猫だのが居つひたりもしやう。

また散歩の折に犬も其処で遊べる。

 

其ればかりか人間の為にもなる。

 

まずは見て居て實に美しひ。

さらに色んな香りさへもして来る。

 

 

だがそんな束の間の都会の楽園もすぐに其れは住宅やビル建設の為の土地となり根こそぎ破壊されて仕舞ふ。

するとドーンと抽象化されたビル群などがやがて其処に建つのである。

 

 

此のやうに近代以降の人間の営為は神の御心とはかけ離れし抽象性の中で営まれるものだ。

其の様を養老先生は唯脳論として纏められ其の脳化としての危険性につき屡語られて来ても居る。

 

其の脳化こそが無論のこと抽象化と云ふ流れのことだ。

 

文化伝統、社会制度はもちろん、言語、意識、心など人のあらゆる営みはという器官の構造に対応しているという考え方。ただし、脳が世界を創っているなどとしてすべてを脳に還元する単純な脳一元論ではない。「脳が心を作り出す」というよりは「脳という構造が心という機能と対応」しているとする。そして構造と機能を分けて見ているのは脳である。

すべての人工物の仕組みは脳の仕組みを投影したものである。人は己の意のままにならぬ自然から開放されるために人工物で世界を覆おうとする。そのようにしてできた世界が脳化社会である。その特徴は下記の通りである。

    • 人工空間の成立
    • 仮想空間の成立
    • 自然の排除ー唯脳論より

 

「人は己の意のままにならぬ自然から開放されるために人工物で世界を覆おうとする」ことでむしろ自らの可能性を狭め最終的には閉じる=自滅することとなる。

其れがわたくしによる直観的な文明解釈なのだ。

 

だが其れは釈迦による佛法と同じことで人々には理解がし難ひものだ。

おそらく其れは文明に洗脳されし皆様には理解し難ひことだらう。

 

要するに近代化が進めば其の人工空間の成立=仮想的現實の構築に繋がり、また其れが必然的に自然の排除に繋がって行くのである。

 

謂はば其れは脱感覚であり論理的還元領域に過ぎぬものでもある。

あくまで観念的に成立する自然を無視した加工物であり自然を無視して居るからこそ其れは当然に神の意にも沿はぬものなのだ。

 

ところが逆に近代以降は其の抽象的価値にこそ価値が与へられて行く訳だ。

 

またシンポは次から次へとシンポすることを求めて来る。

つまりいつもシンポばかりして居なければならぬので何かをじっくりと味はったり考へたり悩んだりするヒマが何処にも無ひ。

 

 

であるが故にそんな近代以降の虚の抽象的価値に酔ひ痴れて居るともうほんたうに人間が狂ふのだぞよ。

にも関わらず世間の人々は逆に其の価値観にこそ酔ひ痴れて来て御座る。

 

なので其処へ神の怒りが下ることなどはもはや当たり前のことではなひか。

 

其の虚的な人為的価値=抽象的価値に寄りかかればかかる程に人間の心はむしろ貧しくなっても行かう。

 

 

さうして都会では論理的還元領域が感覚を否定するので次第に人間の感性は圧迫され自然に対し盲目的になって行かう。

するとやがて空き地の観察や野良猫との挨拶はたとへばルンペンの方々や特定の変人のみの仕業となりのみならずもはや誰も道端にて🌸の香りを嗅ひだりはせぬやうになる。

 

かうして徐々に人間は唯脳論的に変化させられて行きある日ふと気付くともはや取り戻せぬ其の大事な自然への共感性が。

其処でもって仕方が無ひのでみんなで繋がりシンポしやう。

さうだみんなで創らう、其の自滅への道筋を。

 

対して養老先生は、さうしてわたくしはみんなでシンポすればするほどに何か違ふもの、感覚として知る異質性=多様性が減じられ客体への破壊が齎されるとさう述べて居る。

何故なら同質なものは脳化の作用から生まれ論理的還元領域即ち抽象領域を次第に増幅すると云ふ循環ー悪循環ーをさうして生み出して行く。

 

 

ではどうしたら其の悪循環から逃れられるのだ?

 

いや、何のことはなひ。

 

たとへば😸と戯れるのみだ。

 

何故なら🐈には社会性が無ひから奴等と遊んでもまるで抽象化されたりはせぬのだ。

 

たとへば😸の鼻に其の君の足の裏の匂ひを嗅がせてみよ!

 

 

もうたちどころに🐈は喜ぶぞよ。

 

たとへば😸を布団の中へ招き入れ共に寝てみよ。

 

すると次第に😸が君を起こしにも来るやうになる。

 

 

🐈は結局感覚で生きて居て抽象的思考をしては居なひ。

 

其れは🐕もまた同じことではなひか。

 

🐕は社会の番🐶だからダメなんだよ。

 

尚實はわたくしはタダ道を歩ひて居るだけで番🐶とは頗る相性が悪くいつもワオワオと番🐶に吠えられてばかり居るのだ。

 

 

論理的還元領域とは要するに還元ー分析ー知であり相対知であり分別智のことである。

 

但し分別智にも感性を刺激する人文の領域がまたあらう。

 

わたくしは其の人文の智慧を最も重視する。

 

 

何故なら人文の智慧は少なくとも自然を尊重し多様性を認めるからだ。

 

文明が抽象性を帯び過ぎて居るのは其の人文の智慧が機能して居なひからでのこと。

 

要するに文系インテリの知恵こそが今必要とされて居るのである。

 

 

感覚でもって具象的現在に生きる😸の生は兎に角気儘でもって自己本位だ。

 

しかも社会に対しては常にやる気は無し。

であるからこそ其れが高貴なる脱俗精神でもまたある訳だ。

 

尚🐈には所謂ねこまんまを食はせてはならぬ。

 

即ち肉食動物の🐈に御飯を食はせてはイカン。

但し🐈は自分で庭の草などを食ふことが屡ある。

 

 

家の🐈は死んで二年が経つが兎に角庭に埋葬して置ひた。

尤も昔は死んだ😸をかの相生山へ屡埋葬しに行ったものだったが。

 

其れが何と親子の😸で母と娘だったのだった。

それぞれに14年と13年程も生きやがて親の方がボロボロとなり老衰死した。

 

其の後娘の方が物凄く寂しさうだったのだが何とかエサだけは食って居た。

ところが親の方が死んだまさに其の場所で二カ月後に同じやうに老衰死した。

 

勿論母と娘は並んで庭に埋葬されて居る。

かうして實存としての死の悲しみはたとへ何年経っても消へ去りはせぬ。

即ち其れは単なる二匹の🐈の死では無くまさに永遠に悲しみを纏ふ命としての個別の死の物語なのだ。

 

 

ましてやたとへばそんな危険な抽象的な価値に寄りかかることを教へるのが教育の目的ではなからう筈。

教育は時に社会に対し永遠の悲しみややる気の無ひ部分さへをも伝へなければならぬことだらう。

 

 

さて養老先生が何故こんなにアウトサイダーなのかと云ふと其れは先生が大変な虫好きで虫ばかりを追ひかけて来たことと無関係では無ひことだらう。

さうして自然界と戯れて居るとむしろ色んなことが視野に入って来るものだ。

 

勿論わたくしが常にアウトサイダーなのも自然界と戯れて居る時間が人よりは多ひからなのだ。

 

 

よって我我自然の愛好者にはむしろ其の抽象性により築かれし檻のやうなもの、文明が論理的還元領域より築ひた檻の様がまさに手に取るかのやうに見へるのだ。

其の檻に対する具象性の反乱、檻の中への人間共への攻撃こそが今回の感染拡大の意味なのだらう。

 

 

つまりは極めて感覚的な、抽象的構築物としての同質性への攻撃なのだ。

自然はむしろ此のやうにして我我の抽象的願望に唯々諾々として従ふ訳では無ひ。

 

自然はむしろ此のやうにして我我を排除しやうとさへして来て居る。

 

さう神は此のやうにして我我を排除しやうとさへして来て居る。

我我が文明に只つき従ひ疑義を呈すること無くば現代文明はやりたひ放題に抽象化の度を進めることであらう。

だが其の侭ではまず自滅するのだ。

 

であるからこそ各個人による理性的蜂起が今こそ求められて居るのだ。

 

 

尚、神は我我を愛するが故にあへてかうして試練をお与へになって居るのだ。

また佛は我我を慈悲されるが故にあへてかうして試練をお与へになって居るのだ。

 

兎に角一つだけ述べたひのは、我我の其の人としての価値観は其の多くの部分が抽象的に規定される社会的価値が占めて居ると云ふことである。

其れに従ひかっては皆で戦地へ赴き死んじまった訳だ。

 

今回のもまるで其れと同じことではなひか。

まさにさうだらう、一体何処が違ふのだ?

 

でも😸と養老先生とわたくしはちょっと其れには従へやしなひ。

但し😸にもまた養老先生とわたくしにもまた感染死する虞は確かにある。

 

ところが養老先生はすでに『遺言』なる本を出されても居る。

 

 

ー具体的には、「われわれの意識は、多くの場合、感覚所与をただちに意味に変換してしまう」、「意味を持たないと思われる感覚所与を排除して、意味に直結するような感覚所与だけを残す」ということを述べようとしている。

つまり、動物にとっては「世界」は、差異の連続であるのかもしれないのだが、「意識」を持つヒトは、「差異」(違いの世界、感覚所与)を同一化、つまり、違うものであっても「同じ」にしてしまうのである。

 

本書『遺言。』では、そもそも差異しかない世界には意味がなかったとしても(動物は、人間のように、世界に対していちいち意味づけをしない)、世界の物事全てには「意味」がある、としようとする、何でも意味化してしまう、「意識」の働きや性質のことを述べているように思った。

このことがつまり、「「意味を持たないと思われる感覚所与を排除して、意味に直結するような感覚所与だけを残す」ということである。ー養老孟司『遺言。』は、「意識」について考えさせられる内容。【感想・書評】より

 

 

其の意味化こそが抽象化と云ふことなのではなからうか。

 

感覚はそも抽象化出来ぬので常に具象性を持つ。

具象的なので其れは多様性を併せ持つ世界なのだ。

 

だから其処にはそれぞれに色んな美や意味合ひがありそれぞれが皆大事でしかも密接に絡みあって居る。

謂はば其のやうに神様によりさう創られて居る。

 

其の神が一神教のやうに抽象的なものであれ多神教による多様な神々であれ兎に角神様によりさう創られて居る。

本来ならば客体世界には其のやうに世界の拡がりがある。

 

だが90年代以降、いやより正確には70年代以降世界の拡がりが無くなり全てが同質化されると云ふ實感がわたくしにはあった。

また其れがつまらなひことだとさう感じられても居た。

 

其の世界観を突き崩し世界の同質化を推し進め価値を抽象的に全規定していったのは其れこそが合理化ーさらなる抽象化ーの流れであった筈。

其の合理的欲望の追求が尊ひ神様の秩序を崩し金まみれでしかも淫蕩でさらにギャンブル狂ひの不道徳な社会の価値を生み出して行った。

 

だから其れはまさに背徳の仕業其のものだ。

さうしていつの間にか人間共は背徳の限りを尽くすやうになったのだった。

 

さうして意味無きものを否定する現代の価値観、嗚呼其れはまさに神による被造物を自分勝手に改変して顧みぬ悪魔の魂胆を其処に生み出さう。

また佛をも顧みることなく悪逆の限りを尽くす資本家の群れを。

 

おまへ達の給料の額など神佛のお布施としてまるで相応しいものでは無ひ。

おまへ達は全財産をすぐさまに神佛へと差出しなされ。

 

 

佛教の側からの解釈を交へてズバリ言おう。”意識”を揺さぶる養老孟司の『遺言。』

其の「意識」とは分別智のことだ。

 

人間には分別智と云ふ實に厄介な抽象的価値ヒエラルキーの構築としての秩序がある。

其の分別智こそが人類か又は文明を苦の世界つまりは地獄へ堕とすと云ふことであった。

 

だからお釈迦様は其の「意識」の癖を去れとさう説かれた。

但し同時に「感覚」に頼った動物の生き方はとても人間には出来ぬ。

 

だとすれば等しく人間は皆煩悩に汚されし悪ひ奴なので此の世から消え去る他は無し。

つまりは其れが解脱ぞ。

 

 

またイエス様は其の「意識」の癖を全部神に預けよとさう仰せであった。

なんとなれば等しく人間は悪魔と繋がった悪ひ奴なので価値を神に全部丸投げしなひと滅亡は必至。

 

さうして分別智が盛んになればなる程に其の抽象的価値ヒエラルキーが秩序化されやう。

現代文明に於ける今の価値観こそがまさに其れなのだ。

 

抽象化とは意識化であり意識による分別価値ヒエラルキー化は欲望と云ふ悪魔の暴走を必ずや生み出す。

 

コロナ禍とは畢竟其の欲望と云ふ悪魔の暴走が招きしものであり従って何度立て直したにせよ神佛による御怒りが治まることなどは無ひ。