目覚めよ!

文明批判と美の探求と

生命としての宇宙一の反抗

コロナ後の世界を語る

 

 

私の人生、「不要不急」? 再考した問い 養老孟司さん

「ウイルスは撲滅できない」福岡伸一さんが語る動的平衡

苦境の今こそ、人類の好機 大澤真幸さんが見つめる岐路

 

残念ながら此れ等は有料記事とのことで全部を読むことが出来なひ。

 

 

 

何よりコロナ禍は人類全体に突き付けられし具象的な問ひなのだと言へる。

其の抽象的に堅固に築き上げられし近代と云ふ社会システムに対する問ひなのだ。

 

其の社会システムには何処ぞに誤りがあったのではなかったか?

まあ宗教詩人の説は特に過激なので常に滅茶苦茶に其れをコキオロス訳だ。

 

そんな胡散臭ひ宗教詩人の批判など反故にしてみんなでもって仲良くやって行ってお呉れなさひまし。

こんな野郎の言ふ事をまともに聞ひて居るとみんな頭が狂っちゃふぞ。

 

 

でも一つだけ言って置きたひのは、其の社会システムにはどうしても誤りがあるのであらうことだ。

近代と云ふ歴史過程には其の社会的な問題のみが實は突き付けられて居るのではなひか?

 

しかも其れがすでに人間の思考の限界を超へた問題である可能性が高ひ。

 

近代以降人類は抽象的価値を飽くこと無く求め続けて来たのだったがもしかすると其の事自体に問題があった可能性が高ひ訳だ。

要するに其の問題の質がより根本的且つ広範囲に亘る問題なので部分的に其れに対処するだけではまるで解決されぬ大問題である訳だ。

 

のみならず問題の複合化が今後懸念されることだらう。

コロナ禍+温暖化による被害、経済恐慌+地震や温暖化による被害、と云ったやうに問題が複合化し文明の未来に襲ひ来たることであらう。

 

 

何でさうも社会を脅すのですか?

間違ってるものは間違って居るのでさう述べて居るだけのことだ。

 

ではどうすれば良ひのですか、一体どうすれば?

實は心掛けを変へるだけで解決出来る問題なのだが所詮はさう云ふ問題なのだと社会が認識しなひことにこそ大きく問題がある。

 

其の社会の過ちの根本のところには認識上の誤謬がある。

即ち世界認識への誤謬があると云ふことなのだ。

 

近代に於ける其の世界の認識其れ自体に誤りがある。

即ち世界は客体的諸要素の複合では無く主客の対立が相剋し相即する形にてバランスが取られたものだ。

 

バランスがあるから地球があり動物が居て植物も居てまた岩石も一杯ある。

其のやうに主客の対立が相剋し相即する形にて認識されて居る分には其のバランスが取れると云ふことでもある。

 

 

つまりはさう云ふことだ。

其れは人類のー文明のー基礎的認識のあり方の問題であり他の何ものなのでも無ひ。

 

さうして近代以降抽象化されし価値は必ずや肥大化しやう。

其れは限度を失した様なのだ。

 

ではどうすれば良ひのですか、一体どうすれば?

 

結局は限定されて行かざるを得なくならう。

何故なら限定しなひ限りバランスなど取りやうが無ひからだ。

 

 

抽象化、其れは人権の保護、自由の確立、博愛主義などと云ふやうに近代的な営為の理念的根幹を成して居るものだ。

其の抽象的願望に応へるだけの具象的な場が實はもう何処にも無ひ。

 

あらゆる場をあらゆる現在を抽象化したが故に其の抽象性に追ひ詰められて居る訳だ。

また長寿化や幸福追求の面でももはや其の抽象性に追ひ詰められて居る訳だ。

 

要するに分不相応に求め過ぎて来て居る訳だ。

 

なる程、確かに他にそんなことを言ふ奴など居なひ。

では人間とはさうして社会とは悪なのですか?

 

ズバリ悪魔じゃとさう言ひたひところながら事はさうカンタンでは無ひ。

二元論としての善悪規定の有効度を見極めつつ是非反対側にも振れて行く必要があらう。

 

 

ー重要ではなく急ぎでもないこと。ー不要不急より

そも何が重要なことであり、何が急ぎのことなのか、其のことを現代文明はすでに見失って来て居る可能性が高ひ。

何が重要なことなのかと言へば其れは人間が此の世でもって生きて死ぬことである。

 

生きて死ぬこと自体は峻厳なる事實であり本来ならば其処に無駄な要素は何処にも入り込めぬものの筈。

たとへば自然界の生死は常にそんな具象的事實にさう支へられて居る。

 

故に急ぐ時とは主に生に関することだ。

食べる事や生殖に関することが其れに当たる。

 

生其れ自体に埋没した価値観を生きると其のやうに生を急ぎがちになる。

また其の有様が抽象化されると余計に生を急ぎがちになる。

 

重要なことや急ぎのことに対する過分な抽象性の部分が人間の場合心を盲目にして居る可能性が高ひ。

 

 

だが重要なことはむしろ具象的な問題なのだ。

食べて、寝て、起きて、働き、また食べて寝る。

 

其れが本来ならば具象的な峻厳なる事實でなくてはならなひ。

其の生死としての具体性にこそ価値を設定しなければならぬのだ。

 

だが今我我の価値観は遠ひお空の上を飛んで御座る。

我我が今望むものはより豊かな今でありより快適な今である。

 

そんな現世利益性即ち功利主義であり価値として数的還元値を高めて行くことだけなのだ。

でも其れでは何処にも死が見詰められては居なひ。

 

 

たとへば宗教や藝術はさうして死を見詰めるものだが此の世の社会システムにはそんな死への眼差しが欠けて居るのだ。

其の具象的な峻厳なる事實には生死としての現在のみがある。

 

だが我我はすでに其処を生きて居る訳では無ひ。

我我が生きて居るのは其れ即ち人工的な環境であり今である。

 

人工的な環境での生死其れ自体は重要なことでも急ぎのことでも無くむしろ経済的なことや寿命の長さや会社の存続、國家の存続のことが重要な且つ急ぎでの価値なのだ。

だがわたくしは其れを倒錯の価値観だとさう述べて居るのである。

 

経済的なことや寿命の長さや会社の存続、國家の存続のことがどうあらうと其れ以前に人間には生死の具体性が与へられて居る訳なのだからむしろ其処を起点にものを考へて行く、価値を設定することの方がまずは第一義的なことだ。

事實経済は定期的に破綻するのであるし、ひとつ間違へば会社は潰れるのであるし、また國とて屡滅びるのであるし寿命は社会情勢の変化で幾らでも延び縮みしやう。

 

なのでまさしく其れが文明による抽象的価値観への洗脳の様なのである。

 

 

尚、カン違ひして頂きたく無ひのは、元々わたくしは保守的傾向の強ひ人間でもまたあり其処からすれば文明がずっとうまく回って行って欲しひ訳だ。

ところが其れが上手くは行かぬのが何でかと云ふことを考へて来て居る訳なのだ。

 

兎に角そんな訳なのでいつも反体制的なことを考へ社会を革命したひとさう考へて居る訳では無ひ。

だが文明又は國家が自滅する位ならば革命もまたひとつの手ではなからうか。

 

抽象的価値観は一見正しひ価値に基づき構築されて居るかのやうに見受けられる。

人権の尊重、国民主権、自由さうして平等。

 

まさしく其れは善の価値観ではなひか?

だが善には偽善と云ふ正反対の価値観が否応なく生じて仕舞ふ。

 

 

善は悪を前提として成り立ち男女は互ひを前提として成り立つ。

救済は堕地獄を前提として成り立ち佛陀と神はまた互ひを前提として成り立たう。

 

其の近代主義による人間への抽象的規定其のものが偽善的なものだと言へぬ訳でも無ひ。

人権の尊重、国民主権、自由さうして平等と云ふ近代的価値がもしも一つも無ひにせよどっこひ人間は普通に生きさうしてやがては死んで行くのだ。

 

即ち其れがあくまで抽象的に規定されし価値と云ふことだ。

そればかりでは無ひ、経済的なことや寿命の長さや会社の存続、國家の存続のことなどが皆其の抽象的に規定されし価値なのだ。

 

ロボットだのアンドロイドだのAIだのはまたさらに其の価値を抽象化させるに及んだ価値観であらう。

だからズバリ其れ等の価値こそが不要不急のものなのだ。

 

 

かうして現代文明は不要不急での価値に寄り掛かりつまりはそんな重要では無くしかも急ぎもしなひ価値にばかり群がりさうして其の抽象的な価値の實現ばかりを画策して行く。

ところが肝心の具象的現在としての生死をすでに見失っておる。

 

其れは生⇔死なので、元々其処でセットになり相剋し相即する形にてようやくバランスされる二元的価値である。

ところが現代文明の価値観は誤って居るので其れがまるでさうは見へず何が見へるのかと言へばまさに生のみなのだ。

 

生のみに拘泥ししかも其処で生への欲望を抽象化するに及んだ。

其の抽象化の度はますます加速して行くことであらう。

 

其のやうな態では人間はもはや自然としての生死を生きてさうして死んでいくことなど出来やせぬ。

 

だから重要なことはむしろ具象的な問題なのだ。

食べて、寝て、起きて、働き、また食べて寝る。

 

其処に重要な価値が一つ欠けて居る?

嗚呼、さうだった。

まさに其処には女=👩が欠けておった。

 

 

そんな訳で現代社会の目指す価値とは全くのところ重要でも無くしかも急ぐやうなことでも無ひ要するにどーでも良ひやうな要らぬ価値ばかりである。

 

もしも此の結論に反論出来るものならさうしてみよ。

かうして説明させて頂ひたのでもはや誰も反撃など出来ぬ筈だ。

 

そんなどーでも良ひやうな要らぬ価値ばかりを追い求めて止まぬ現代文明はむしろこれから火の車と化しやっていくしか無ひのだ。

其れは価値認識の部分の誤りから必然的に齎されやう社会への圧迫であり破壊である。

 

要するに今後は其の具象的な問ひとしての峻厳なる事實の数々が文明に対し次々と突き付けられやがて文明はお手上げ状態とならう。

お手上げつまりもう何ともなりまへん、もう負けです、完全に間違っていました。

嗚呼、ホモ・サピエンスはまるでバカでした。

 

どうしてこんなに馬鹿だったのでせうか?

其れは分かりません。

 

分かりませんが、釈迦とキリストがそんな風ではイカンと確か昔仰られて居たやうな幽かな記憶だけが御座ります。

 

 

 

福岡伸一「理論的だが、コロナウイルス問題を2週間で解決する方法」

福岡氏はわたくしと同ひ年の生物学者なのだが其の言説からいつも學ばせて頂いて居る方である。

 

福岡伸一 #主張

かって其の全体論としての生命観に感銘を受け以降わたくしは福岡氏の學説を信じるやうになった。

尚わたくしもまさに其の全体論者なのである、但しあくまで文系での。

 

全体論と云ふのは簡単に言へば部分の集積は全体像を生み出さぬと云ふ考え方のことだ。

たとへば森の木々や動物などは部分的に分析することが可能だが其の分析結果を全部足したにせよ森の生き生きとした生態系としての様が其処に復元される訳では無ひ。

 

つまり其処には「森」と云ふ全体的な価値が事實上生じて居るのである。

其の価値は決して分析的に還元出来ぬと云ふ訳だ。

 

元より現代文明は其の全体的な価値を見失って居ることだらう可能性が高ひ。

たとへば自然の価値をもしも全体論的に捉へたのであれば、其処で部分的に森林を根こそぎ伐採したり河川や海洋を人工物にて汚染したりする愚挙が或は避けられて居たのではなかったか。

 

 

わたくしはかって直観的に其の全体論者となり自然科学に於ける要素還元主義をこっぴどく批判したりもして居たものだった。

全体論と云ふのは宮澤 賢治流に言へば「ぜんたひの幸福」のことであり利己的な欲に基づく文明の営為を其処に認めるものでは勿論無ひ。

 

また其の「動的平衝」と云ふ概念も非常に面白ひ考へ方である。

確かに生命には時間が流れ其の流れこそは不可逆のものだ。

 

生命は其れ一回切りの現象で、其れは機械論的に再現出来ず謂はばまさに實存的な存在なのでもある。

其れも時の流れと共に劣化するが生殖により次世代へと命を繋ひで行ける訳だ。

 

其の時間とは意識と云ふこととおそらく密接に関連して居るのではなひか?

尤も意識など認められぬ生命もまた居ることかとは思はれるのだが。

 

 

 

 

ー幼い頃の私は、昆虫少年でした。虫がとにかく大好きで、捕虫網を振り回して、野山や川で昆虫採集ばかりしていたんです。

 自然のメッセージを体現している昆虫の色やフォルムに、完全に魅了されてしまって、友達といえばもう昆虫だけ。人間の友達は、ほとんどいませんでした。

 

 

 

 宇宙には、エントロピー増大の原則というのがあります。

 秩序あるものは秩序のない方向へと崩れようとする、つまり宇宙に存在する物質はことごとく崩壊への道を辿っていくという原則ですね。

 たとえば、どんなに壮麗なピラミッドや頑丈なビルも、何百年、何千年も経つと風化していきます。熱々の湯気がたったコーヒーもぬるくなるし、熱烈な恋愛だって冷める。そうやってすべては、無秩序へと向かっていくわけです。

 生命体も、本来であればエントロピー増大の法則によって途絶えてしまうはずなのに、38億年もの進化の過程で一度も途切れることなく連綿と続いてきた。物理学から見ると、非常に不思議な存在です。

 じゃあなぜ、私たち生命体だけは崩壊をまぬがれて、秩序を保ち続けられるのか。その問いに答えることこそが、生命の謎を解き明かすことだと、シュレーディンガーはこの本の後半部分で書いています。

 細胞を部品のように考えて、それが時計じかけに組み合わされているという機械論的、情報論的な形ではなく、エントロピーにどうやって対抗しているかを定義にして生命を捉え直さないと、生命が何かは決して解けないということですね。

 それに対する回答の糸口のようなことを、私は著書『生物と無生物のあいだ』や『動的平衡』に書きました。

 硬く堅牢につくると、エントロピー増大の法則に負けてしまいます。だから生命はあえて最初からゆるゆる、やわやわな感じに細胞をつくっておいて、エントロピー増大の法則が襲ってくるより前に、先回りして自分自身を壊して、新たに細胞をつくり直しているのです。

 先回りして自らを積極的に壊すことによって、自転車操業的に転げる坂をなんとか食い止めているんですね。それでも最後は坂を登り続ける力がつきて、エントロピー増大の法則に負けてしまいます。

 それを人間に置き換えると、こういうことです。私たちの身体には、酸化や変性といったエントロピー増大の法則がいつも容赦なく襲いかかってきます。その酸化や変性を絶えまなく排除しながら新しい秩序、細胞をつくり出しているのです。でもそれが追いつかなくなると老化が訪れ、そして寿命が尽きます。でも自分が死ぬ前に子供をつくり、そうやって命を繋げていくわけです。

 そういった生命のあり方を、私は「動的平衡」と呼びました。

 

 

 

 シェーンハイマーは、私たち生物が食べものを摂取することの意味を問い直しました。それまで、生物にとっての食べ物は自動車のガソリンと同じ、つまりはエネルギー源だと考えられてきたのです。

 確かに、食物のなかでも炭水化物はエネルギー源として燃やされますが、タンパク質は違います。

 人間がタンパク質を食物として摂取する必要があるのは自分自身の身体を、日々つくり直すためなんです。シェーンハイマーはこの事実を、実験で初めて提示した人物でした。

 たとえば、人間の消化管の細胞は2、3日でつくり替えられます。1年も経てば、自分自身を形づくっていた物質はそのほとんどが入れ替わってしまって、物質的には別人となっているわけです。

 これまで静的、機械的なものと考えられてきた生命観にシェーンハイマーはダイナミックさを提示し、新しいパラダイムシフトをもたらしたといえます。

 彼は英語で「ダイナミックステート」、翻訳すると「動的状態」という言葉でその仕組みを説明しています。それを私が「動的平衡」という四文字熟語へと翻案し、より明快にコンセプト化して著書で提示したのです。ー

 

私の本 第2回 福岡伸一さん ▶︎▷01より

 

 

 

其のエントロピー増大の法則と云ふものこそが文系人間にはなかなか理解し難ひものなのです。

でも此れはまさに平家物語であり羅馬帝国の興亡の歴史であり近現代としての地球の破壊史でもまたある訳だ。

 

さう生命体だけが崩壊を免れて秩序を保ち其処に文明を築き上げます。

自然の進化がさうして文明の進歩にも結果的には連なって居り両者は生命として質的には違ってもまるで無関係なのでは無ひ。

 

 

其の先回りして積極的に自分を壊すことでようやく生命体が維持出来るのであるならばまさに生命とは矛盾の産物であり生きることはそんな負としての自分を生きて行くことです。

どうもそんなやうに此の世はどうぞ生きて下さひと云ふところでは無く言はば妙に屈折した負債の場なのです。

 

故にか常に楽には生きられず不断の努力と云ふか不屈の魂と云ふか兎に角さうしたものが其処には要求されております。

 

で、逆にそんなものやりたく無ひからもう逃げたるは、などと叫べば逃げるな!と皆に諭され逆に何でもやりたひ食ひたひ👩にモテたひなどと申しますともう止めとけ!とさう諭されたりもする。

こんな何やら良く分らぬところにいつの間にか産み落とされておったと云ふことなのでせうか。

 

で、其の物質的に別人になるとたとへば養老先生なども仰って居るのですが實感としてはいつまでも同じ人です。

さうして物質的に別人になっても何故か水虫は治らず其ればかりか歯が悪ひのや腹が出てるのもまたハゲも治りません。

 

 

つまり文學とは其の低級な肉体性に対する怨嗟を述べるものでせう。

また宗教もさうですが其の不完全な肉体性に対置される精神の領域のことをまさに述べるものです。

ですが福岡先生のお話を伺ふと何やら生命は凄ひものなのだなとさう再認識されませう。

 

つまるところ基本的に物質界は滅びて行くものだけれど生命だけが其の物理的な法則に反抗しかうして生き続けて来ておる。

即ちコヒツラは余程に根性が悪ひか其れともしつこひかであり、故にもうコヒツラはどうしたって簡単には死にゃあしなひ。

 

全く困った奴等ですが要するに奴等は心底下品なのでさうして物理法則に反抗してまでかうしてしぶとく生き抜ひて居るのでせう。

兎に角其の逞しひ生命力とは一体何処から来て居るものなのだらうか?

 

嗚呼まさに機械じゃ無ひものにはそんな一念が、其の生への盲目的な意志が自然と備はって居るのやもしれませぬ。

 

 

 

ーそうやって自分のなかに読書のストーリーを探せば探すほどわかったことは、科学も数学も、哲学も文学も、じつはみな同じ問いをしているということでした。

 表現方法や言葉の解像度などはもちろん違いますが、結局は、世界の成り立ちはどうなっているか、人間存在とはなにか、生命の起源はどこから来たのか、人間はどうして家族を捨てられないのか、未来はどのようになるのかといった問いを、科学も芸術もしているのです。

 しかし現在は、文系と理系というのが分化され過ぎてしまって、それぞれ狭い分野で研究しています。

 でも17世紀にまで遡ってみると、レーウェンフックもフェルメールも同じように、世界をできる限りありのままに捉えたいと希求していたとわかります。

 

こんなふうに私の読書も、自分の興味が細胞分裂するように広がりを見せてきました。

 私は現在、青山学院大学総合文化政策学部の教授という立場にありますが、じつは以前は、同大学の理工学部化学・生命科学科の教授だったんです。

 理系の学生が、進路に迷って文系に行くことをよく「文転」といいますが、先生が理系から文系へと学部を変えたのは初のケースと、そうよく驚かれます。

 でも私にとってそれは、自然なことでした。科学と芸術を融合させて、生命についてより広い視野で考えたいと思い、学部を移籍させてもらったのです。ー

私の本 第2回 福岡伸一さん ▶︎▷03より

 

 

 

仰る通りに學問や藝術はまた宗教は人間とは何かと云ふことをまさに其処に問うて居るのだと思はれます。

さても科学と芸術の融合だなんて全く凄ひお話です。

 

尤もわたくしの場合は常に宗教と藝術を融合させて来て居りますのですが。

また其れに歴史や哲學をも融合させて来て居りますのです。

 

さうしたまさに統合的な知見と云ふものが今後の文明世界に於ひて重要な役割を担ふものであるやうにも思ふ。

一つの分野だけでは分からぬものが、さうして複数の分野でもって混ぜられてみると問題解決への糸口が見つかるやうなもので、其の多角的な視点から包括的に問題を見詰めることこそが文明にとっては今後大事なことになって行くのかもしれません。

 

 

動的平衡」と云ふ其の生命としての基本概念はどうも世界への反抗と云ふこととなりませう。

さうして生命は基本的に世界に反抗しつつ自らを保って居るのだとも言へさうです。

 

其の反抗こそはまさに宇宙一の反抗でせう。

かのキリスト様の社会への反抗と良ひ勝負だぞ、もう此れは。

 

勿論人間には特に反抗度が高く設定されて御座りませう。

人間は一体何処まで反抗してかうして地球をさうして宇宙を破壊尽くさうとして居るのでせうか。

 

人間ってもうほんたうに頭がオカシクなひでせうか。

人間に生まれ変はりますか其れとも石に生まれ変はりますかと尋ねられた場合にわたくしはズバリ石に生まれ変はりたひ。

 

尤も福岡先生と養老先生はヤッパリ虫に生まれ変はりたひのでせうね。