目覚めよ!

文明批判と心の探求と

「レンズで見つめた生と死の時」

かくして限りなく負債を積み重ねて行く世ながら時は相変はらず経過し其処に美と美では無ひものとの鮮やかな対比を生み出して行く。

我は其の対比にこそ寄り沿ひ其の美の醸し出すなまめかしひ光景にみとれつつ日々を送って居る。

 

そんな今庭には紅梅が咲き大輪の椿の花が満開の様子である。

されどこともなげに其れは地に落ち其処に死としての彩の道をつくる。

 

さうかうするうちTVにて「心の時代」の「レンズで見つめた生と死の時」を視て居たら写真家の江成  常夫と云ふ方が出られて居て此の方が何と一時期落ちた椿の花の写真を好んで撮って居たと云ふことであった。

 

わたくしはかうした共時性のやうなものを最も大切にして居る。シンクロニシティ

何故なら其の共時性を感じられることこそが生きて居ることの証のやうなものでもまたあるからなのだ。

 

 

其の江成氏は還暦を過ぎてから癌を患ひ其処から鬱をも病んだのださうだ。

 

「鬱になると彼岸と此岸の区別が分からなくなる」と云ふやうなことを番組中で述べられて居て其処は何やら妙に納得出来る部分である。

 

とは言へわたくしの場合は鬱なのでは無く神経過敏症なのである。

要するに感度が高過ぎ世間とは価値観が異なるが故に其の齟齬にこそ苦しむ者なのだ。

 

どだひ鬱のテストをこれまで毎年続けて受けて来ているが鬱だとされたことなどは一度も無ひ。

 

鬱とは寸毫も嘘が付けぬやうになることなので其の点では充分に嘘コキであり要するに適当に誤魔化し生きる術を身に付けて居る訳だ。

なのだけれども鬱領域と神経過敏領域は極めて近しひ関係にあるが故にまさにちょっとしたことで其処に踏み込んで行かぬものとも限らぬ訳だからあくまで其処は注意して置かねばなるまひ。

 

しかしながら此の「心を病む程に感度が高ひ」と云ふことこそがこと対象を美と云ふ領域に限ればむしろ全的に有利なこととなるであらうことを忘れてはならなひ。

逆に言へば鈍感であればある程に其の美としての対象の輪郭がクッキリとは見へて来ぬ筈だ。

 

と云ふことはちょっと頭のオカシヒ昔の文士やら画家やら音樂家などはまさによりクッキリと其の美としての現實を捉へて居たであらう筈だ。

 

いやでも藝術家は時代だとか國籍だとかには関係無くまさに普遍的に其の美と美からの拒否と云ふ闘争を突き付けられても居る訳だ。

なので昔の藝術家であれまた現代の表現者であれ其の表現するところでの着地点にさう違ひがある訳では無ひ。

 

まさに其れは信仰其のものに垣根がある訳では無ひことと同じくして藝術の上での表現其れ自体にどんな垣根がある訳でも無ひのだらう。

 

 

ー83歳になった今、朽ち果ててゆく野菜や果物を撮り続けているー【こころの時代】写真家・江成常夫「レンズで見つめた生と死の時」の再放送・見どころは?より

 

ー江成:  もう咲いてますけど、椿なんですね。それが自然に落ちて、そこに絨毯のようになる。色あせて消滅していく。その時だけで終わるじゃなくて、それに自分を重ねて撮っていましたね。ーレンズで見つめた生と死の時より
 

 

では何故表現者は咲ひて居る椿を撮らずにあへて地に落ちゆく椿の花を撮り続けて居たのか?

また何故表現者は朽ち果てて行く野菜や果物を撮り続けて行くのだらうか?

 

おそらくは其処に美を感じて居るからなのだらうと我はさう推測して居る。

 

何故なら番組中で視た其の朽ち果てゆく野菜や果物はとても美しひとわたくし自身がさう感じたからなのだった。

 

何度も述べて来て居りますがさうして表現ー藝術ーとはより幅広ひ分離である。

 

正と負、+と-の領域をより幅広く見詰められる目を持つと云ふことなのだ。

 

但し一般的にはまさに其処こそが分からぬ点であらうかと思ふ。

 

 

普通は咲く椿の美しひ花の色に人間の目は魅せられるやうになって居るのだから。

 

また美女の振り撒く色香に、また漲る生命の鼓動のやうな自然の営みに快を感じ同時に其れが美だと思ひ込むやうになって居る。

 

確かに其れも美の一極なのだ。

 

だが他の極を感じ取ることこそが藝術表現にとってはむしろ大事である。

 

何故なら心地良くあるものは其の侭に美であるより他は無ひ。

 

然し美にはいまひとつの極があるのだ。

 

まさに其れが負としての美の極である。

 

 

わたくしは以前から其れを毒だとさう表現して来て居る。

さう其れは其の毒としての美の極のことなのだ。

 

其の根を掘り尽くし表現者は余すところなく美をより大きく映し出す。

 

其れは丁度宗教家が愛や信仰と云った精神的な次元をより拡大する形で我我に示して下さることと同じことだ。

 

されど凡庸な精神は残念ながら其の幅には欠けて居る。

 

だからより深く此の世の美を感じ取ることが出来ぬ。

またより深く此の世界の意味ー意義ーを汲み取ることが出来ぬ。

 

 

結局、其のより深く抉られた美の世界を世に指し示すのが藝術であり、より深く認識された世界観を指し示すことが宗教や哲學としてのあり方なのだ。

 

尤もより深く美の世界を抉ったりまたより深く認識された世界観を指し示すことは必ずしも人間にとり心地良ひ認識とはならなひことだらう。

其れはむしろ気分を害するやうなものであるのやもしれぬ。

 

なので藝術表現には、また宗教的な認識には一般性を離れて行くかのやうな部分さへもがまた含まれて居る。

 

 

まさに、何だ、コレは?

 

とむしろ否定したくなるやうな眞實としての姿が其処には含まれて居る。

 

 

常にわたくしが精神的な探究から感銘を受けるのはまさに此の点である。

 

だからと言って我我の日常生活はそんな深みのある認識から成り立つ訳では無くむしろ浅ひところ、其れも謂はば波打ち際にて波にさらはれて仕舞ふやうなところでこそ成立して居るのだ。

 

 

だから其れがまるで無意味だとさう述べて居るのでは無くむしろ其の現實としての功利性、現世利益の部分にこそ藝術や宗教をさう成らしめて居るところでの根拠が存して居るのである。

 

左様に今わたくしの観念は「否定無き」場へと必然的に向かひつつある。

 

其れも世の諸事象を否定しまくり貶しまくった挙句にようやく芽生へる全肯定への道程なのだらう。

 

 

即ち美を最大限に見詰める為にはまずは正としての価値観を全否定し其の負としての価値観を己の中に芽生へさせねばならぬ。

其の価値こそが自分でもってして生むもの、謂はば創造したところでの幅広ひ視野としての価値である。

 

だが其れは表現としての価値であり信仰による絶対的な価値なのでは無ひ。

 

表現としての価値はさうして負の美を見詰めかつ其れに寄り添ふ。

まさに美と寄り添ふことで表現者の生は終はって仕舞ふ。

 

其処でもって解脱する訳でも無ければ神佛により救われる訳でも無ひ。

だが其処には少なくとも表現があり、其の表現は常に美と結び付けられて居る。

 

左様に藝術表現とは其の美との絆を齎すものなのだ。

 

 

其のやうに永遠に美を希求して止まぬ表現者はまるで美に縛られて仕舞ふこととなる。

全ての価値がさうして美へと通ずる道となり其処でのみ彼は生き甲斐を、且つ悦びを其の生の實感を得ることが出来る。

 

 

美⇔醜

 

でも美とはまた分離だらう?

いや分離だからこそ美しひものがより美しく見へるのだ。

 

そんな椿の花の骸にさへ永遠の美の価値を添へることさへもが可能なのだ。

 

忌むべき其の醜に対する創造的過程が其処に美を育む。

 

美は美のみにて成立するものには非ず。

其れは同時に醜であり死でさへもある。

 

だが認識がしょぼければ此のどちらをも規定することは出来ぬ。

そも全否定をして居なひのだから全肯定もまた無ひのだ。

 

適度な否定に適度な肯定。

だが其処に映し出される美は眞の美では無ひ。

 

故に我我にとり決して心地良くは無ひ醜怪さや死を見詰めることなくして美の輪郭を得ることなどは出来ぬ相談だ。

 

 

でも昨今世間を騒がして居る行政と政治権力との癒着の問題は結局のところ自民党による矛盾政治に於ける精神性の欠如の問題ー馬鹿さ加減の問題ーなのだとさう結論付けることが出来る。

 

で、馬鹿を馬鹿として眺めて居るだけで實はコチラにも其の馬鹿がうつる。

と云ふことはもはや無視して置ひた方が其処に合理的な選択となると云ふことなのだ。

 

馬鹿がうつるといつの間にか自分も馬鹿になりもはやどうしやうも無ひところへと精神が追ひ込まれて行くことだらう。

なのでなるべく早う其の馬鹿を切り捨てむしろじぶんの城にでも籠っておく方が宜しひ。

 

左様に世の中の馬鹿が嫌ひだと云ふことは、其れは精神が潔癖である証拠で決して悪ひことでは無くむしろ眞正直に生きて居ることの証左であらう。

そんな馬鹿にじぶんの観念を破壊されるよりは此の春の陽射しの中で生命の息吹を感じ自分なりに前向きに生きて行くことの方が余程に大事である。

 

 

其れも学生さん方などは此の時期に是非哲學や文學、其れに宗教などの方面での読書を是非御勧めして置きたひ。

東京であれば神田、名古屋であれば鶴舞などのまた大阪は何処にあるのかは知らぬが兎に角古書店街へと出向き読書三昧に邁進せよ。

 

何故ならあくまで学校の御勉強は価値ヒエラルキー構築の為の御勉強なのでほんたうの意味での教養にはならぬものと相場が決まって居るからだ。

 

さうして偏差値が高くある奴にも関はらず言ってること、やってることに教養が欠けて居るのはズバリ本を読んで居なひからだ。

 

さても君は今どんな本を読もうとして居るのだ?

ああまさに春の本です。

 

春にはかうして庭でもって赤ひ梅の花木蓮の白い花が咲き乱れて居ります。

實は大輪の椿ばかりでは無く次第に花だらけになっても参ります。

 

 

でもそんな庭での有様とは異なり正の価値ヒエラルキー構築を信奉する世間の奴等は其の価値に胡坐をかき全てを幕藩体制化して居るからまさに其れは近代的価値では無ひ訳だ。

たとへば自民党と官僚、また利益を受ける為に其の役人を接待する企業の側の論理が須らく其の幕藩体制なのだ。

 

だが幕藩体制は民主主義國家には基本的に合って居なひぞ。

 

だから幕藩体制をやるならむしろ鎖国しなければならぬこと位は当たり前のことだ。

 

其の近代的価値とは何ですか?

 

不要で余分な価値のことだらう。

本質的にはまるで不要な価値の追求を文明が行ふと云ふことだらう。

 

 

但し、価値は相対的にしか規定し得ぬものだ。

絶対の価値と云ふものは此の世に無ひ。

 

よって全てに対し一流の価値を追求したにせよ得られるものはほとんど無ひと言ひ切れることだらう。

要するに其れでは価値が常に自分とは離れて居るので其れが身に付きはせぬものなのだ。

 

だから其の価値に拘る限りは心が充たされず其処に眞の意味での希望や幸福を得ることなどは難しひ。

 

其の価値は世間から教へられるものなのでは無く自ら生むものなのでなくてはならなひ。

むしろそちらの方での負の価値ヒエラルキー構築に勤しむことこそが眞の意味での學びであり自己の精神の成長を促すものなのだ。

 

 

また其れは金持ちの連中が貧乏人の苦労を理解出来ぬことと全く同じことだ。

健常者が障碍の引け目を理解出来ず恵まれた者が虐げられし者の苦悩を理解出来ぬこととまるで同じことだ。

 

だからと言って金持ちや健常者が全部悪く貧乏人や障碍者が全部偉ひとして仕舞ふとまた世の中はおかしくなって仕舞ふではなひか。

だから左翼思想の陥り易ひ誤った認識こそがまさに其の社会的救済思想にあるのだよ。

 

じゃあ宗教が貧乏人や障碍者を救ふ其の考へも何処かおかしくなるのではありませぬか?

いや宗教はまた別だらう。

少なくとも信徒の皆が死んで生きる宗教であれば其れは正教であり断じて邪教などでは無ひ。

 

では無差別殺人を目論む宗教などは矢張りと云ふべきか邪教なのでせうか?

宗教其れ自体は裁くものでは無くまた他の信心を否定するやうなものであってはならなひ筈だ。

 

 

世の中がオカシヒから逃げて行くと云ふアナタのやうな思想のあり方はまさに邪な思想なのではありませぬか?

いやだが自分を守り逃げて行ける立場にある場合にはなるべく逃げておくべきだ。

 

たとへば明治維新はあったよりも無かった方が良かったと云ふのがわたくしの到達した考へであり逃げ方なのだ。

 

まさに其れが逆巻きでの価値ヒエラルキーの構築のことなのですか?

さうだよ、あくまでじぶんの中での価値ヒエラルキーの逆行だと云ふことだね。

 

 

実際に此の世の価値は正と負が相剋し相即する関係に於ひてこそ成り立って居やう。

 

但しわたくしも昔は其のことがまるで分からなかった。

 

たとへば志望した大學には落ちても何とか入れた大學で自分の為の御勉強を進めることは可能だ。

また大學など出て居らずともまさに其の自分の為の御勉強を成し遂げて居る人を此れ迄に幾人か我は見て来て居る。

 

要するに此の世界での現實とは「人間万事塞翁が馬」と云ふことにもほど近ひことだらう。

 

またたとへば悪ひことがあるとする。

 

ところが其の悪ひ出来事を知った人が精神的にまた物質的に援助して下さり其処に新たな視野や価値が拡がることさへもが實際にあるものだ。

 

 

かうして悪や不運を遠ざけたひのは山々のことなれど、人間存在のあり方其れ自体が實は矛盾的でしかも正の価値ヒエラルキーには素直に従はぬものなのだ。

さうした意味での矛盾的認識しか人間には出来ず其の認識にて社会を構築するものだから事實上人生の上での正解など構築出来ずまた価値観の正しさも証明されぬ訳だ。

 

だから其の「正しひ」と思ひ込んだ価値を全的に履行する為には信仰の道へ入る他は無くなる訳だ。

 

其の信仰へは進めぬ程に懐疑的な人はさうした精神の相対性を受け容れまさに「人間万事塞翁が馬」でもって生きて行くより他は無ひ。

 

つまりは其れもまたひとつの負の価値としての選択法だとわたくしは見て居る訳だ。

 

 

1.得られるものはむしろ何も無ひ、此の世でもってもしも得られるのだとすれば其れは自ら建設した精神である。

2.得られぬことでむしろ多くを得る、よって何かを得ることを考へることよりも何を捨て去るべきかと云ふことにつき學び且つ考へて行くべき。

3.美の領域は正負にわたり限りなく拡がって居る。

 

最近のわたくしはこんな感じでもって生きて来て居る。

 

一番大事なことは自らの身にふりかかる負の要素を排斥しなひことである。

ですが負の要素には決まって腹が立つのでつひ其処で呪ひの言葉を投げかけたりもするのですが其れもまた表面上のことで本質的には正の価値ヒエラルキー化に対する耐性かまたは免疫を獲得しつつあるやうな気がするのですが或は其れは気のせひなのだらうか?

 

さうしていざ正の価値ヒエラルキー化に対する耐性かまたは免疫を獲得すればたとへ病気なのだとしても穏やかに生きて行けそうなそんな気さへもがするのだ。

 

4.藝術的な生き方は宗教的な生き方とは異なり其の負の要素を排斥することが無ひ。

5.藝術と宗教は異なるものだが、むしろ其処に於ひてさへ相剋し相即する関係性がまた認められる。

 

かくしてわたくしの観念は次第に負から生ずる正へとまた有としての無へと結び付けられて行くのであった。