此処で室井 佑月氏が仰って居ることはまさに正論でもって正しひ訳ですが人間参拾年、四十年も生きれば此の世が正邪、また善悪の基準にて動ひて居なひことをむしろイヤと云ふ程に思ひ知らされる訳だ。
で、其処でもってじぶんや👪が大事だから其の利害関係ー損得勘定ー=功利性にしがみつき正邪、また善悪の基準の方は反故にしやうと云ふのが所謂「大人」になる為の通過儀礼のやうなもので普通世間の人々はまさにさうして自らの心乃至は価値観をあへて汚しながら現實にしがみつひて行くのです。
ところが其れとは反対のことを言ふ人々が世の中には居て其れが作家さんだのまた色んな分野の藝術家さんだの或は宗教家さんだの學者であったりする訳だ。
なので塾の小中高生のみんなやまた大學にて學んで居るやうな学生さん達は頑なにそんな馬鹿大人にはならぬ方が良ひ。
馬鹿大人はそも事の本質、即ち人間にとっての本質などまるで問うては居なひので要するに其の利害関係にて動く社会的関係に洗脳されて仕舞って居ます。
かと言って過激なことを言ふそんな作家さんだの詩人さんだの絵描きの方々だの宗教の人々さらに哲學者の面々の言ふことばかりを聞ひて居りますとまるで世間離れして仕舞ふことにもなりかねぬ。
ですが、あくまで其れは「正論」ですので其処で根本のところを問うて居る訳です。
人間の苦しみと云ふものは左様に洗脳されて馬鹿になるかならぬかと云ふところにこそ突き付けられて居やう。
ですので、其の馬鹿を切り捨てるか又は其の馬鹿の度合ひを減らして行く生き方を選んでも良ひ訳なのですがまさに其れは精神の上での荊の道を自ら選び取る生き方ともまたなることでせう。
最終的には其の馬鹿との闘ひは死ぬか生きるかと云ふところまで壱個人の精神を追ひ込んで行くことでせう。
なのですが、生きられる状態に何とか踏みとどまって居られる限りはなるべく潔癖に生きるべきだと云ふのが最終的にわたくしが判断する個としての価値の持ち方です。
要するにさうして社會に洗脳されて馬鹿として死ぬるまで生きる位なら壱潔癖者として討ち死にする方がまだしもまともだとさう考へて居る。
何故ならさうして社會に負けて自己が心理的に殺されるのは如何にも悔しひので其れとはむしろ闘ひつつ生を終へて行くべきなのではなひか。
どだひ太宰も安吾もまた三島先生も皆さうして社會と闘ひつつ自らの生を全うされて行った訳だ。
ボオドレエルもラムボオもまたゴッホもゴーギャンも社會と闘ひつつ自らの生を全うして行った訳だ。
さてこんな騒々しくも生臭ひ社會を無視することに決めたわたくしは此のところ美を探求することにだけ精を出して来て居ります。
より正確には其の社會の馬鹿を遮断することで美を見詰める為の時間乃至は心の余裕を得て来て居る訳だ。
「ヒスイカズラ」 (ストロンギロドン・マクロボトリス) -Strongylodon macrobotrys-
逆に申せば社會の馬鹿にまともに向き合ひ心を掻き乱されれば乱される程に其の美を見詰める心の余裕さへをも失って行くこととなります。
よって馬鹿は相手しなひと云ふのが冷たひやうですが此の世界をまともに生きて行く為の大事な要件です。
さて昔から花が好きなわたくしではあるが此のヒスイガズラと云ふ🌸は此れ迄まるで知りませんでした。
其れも靑ひ花が好きな筈なのが兎に角今回初めて知った次第です。
人間は何年生きたにせよかうして知らぬこと、分からなかったことがあるが故其の自らの無知を素直に認め常に學んでいく態度で行くことこそが最も大事なことです。
わたくしにはさうした意味での自己反省力即ち理性が常にありますが、中にはと申しますかほとんどの大人は六拾年、七拾年と生きますと頭が硬直しいや其れ以前に人間社會からの洗脳の度が酷くなり其の素直に學ぶ姿勢を決まって失って行く訳だ。
わたくしは其れを単に馬鹿化の過程だとさう捉へて居るので其の年寄りが寄りかかるであらう年の功としての権威、また肩書の充実による権力だの實績だのそんなものにはハナから捉はれてなど居りません。
ですが、こと社會秩序の維持と云ふ点では年の功、其れも長年に亘り生きた知恵の集積のやうなものが大事だとむしろさう認識する。
でも社會を離れた部分ー個としての生のあり方ーでの価値観としてそんなものはむしろ認めて居なひと云ふ話です。
なのでむしろ場に応じて価値観を変へると申しますか臨機応変に其れを変化させております。
ですので威張らなひと言ひつつ威張ったりもするのはさうした価値の両極を見据へた上でのわたくしなりの其の時々での意思決定であるに過ぎぬ。
其れでもって一番重要なのはヒスイガズラと云ふ珍しくしかも美しひ靑ひ🌸を知らぬ間に人生が終はって仕舞ふことでせう。
個人的には其れは何としても避けたひ訳です。
即ち社會のゴタゴタはもはやどうでも宜しひことなのでわたくしは其のヒスイガズラだけをしかと見詰めて参る所存である。
まさに其れがわたくしの望む理想的な形での生の終はり方であり社会との関はり方だと云ふことです。
社會にはもう随分長ひこと兎に角苦しめられて参りましたのでもうおまへのことは無視すると云ふ只其れだけのことなのです。
其れでもかって小中学生に社會科を教へた人間なのか?
そんなことを申されましても、わたくしだけにこんな社会にした責任がある訳ではありません。
其れはみんなが悪ひのであって戦争をやったり原発事故を引き起こしたりする責任が誰にも無ひのに實は大ありだと云ふことに等しひことだらう。
さうして眞の意味で美を理解するのはまさにさうした放棄の境地に於ひてのみなのやもしれませぬ。
本質的な意味での美の理解はさうして一筋縄では行かぬものでまさに離れ技のやうなものでもあることだらう。
若ひ頃と今とでは、其の美への感度に変化はありましたか?
むしろ今全てが美しく感じられつつあります。
昔は美しひとは思へなかった些細なものまでもが須らく輝きを持って感ぜられるそんな感覚でせうか。
其れは美としての此の世界の理想化のことなのですか?
まあ理想化でもまたあることでせう。
でもあくまで観念的な理想化のことではありません。
きっと感覚ー感度ーは年を取っても死なずより研ぎ澄まされて行くものであるのやもしれません。
いやでも普通は鈍感になるのでせうに、其れもそれこそ其の社会的な洗脳により感覚も且つ思考も鈍化しドロドロになって行く筈でせうに。
まさに其処を逆巻きし価値ヒエラルキーを逆転させて居る為より純化されて行くのやもしれません。
すると其処でもって何が見へるのですか?
もしや宇宙の神秘とかが感ぜられるのですか?
いへ此処はあくまで地球ですので地球上の自然が感ぜられれるだけのことでせう。
只其の感じ方がより直接的でピュアーだと云ふことでせう。
地球の自然だけでは無く地球の文明もまたある筈ですが…。
文明もまた美を生じませうが文明が生む美には加工が含まれて居る分本質的に美しひ訳では無ひ。
藝術に於ける美、また宗教に於ける心の美しさにさへ其の加工性が潜んで居て妙に其れが気に障ったり鬱陶しく思へたりもする。
もう其処まで行っちゃってますか。
ほとんど脱俗せし仙人ですね。
いやそんな御大層なものでは御座らぬ。
むしろ子供の頃の感性を大人の頭として取り戻して居ると云った感じです。
さうして齢が戻りましたか?
何故か戻りました。
多分わたくしは根が暗ひ人間なので戻ったのでせう。
ところで相変はらず石に魅入られて居るのだらう?
まあ石も藝術も其の根の部分は同じことでせう。
即ち其れぞ美の発露でせう。
さても美とは本質的に人間には欠けたものです。
何故なら庭を舞飛ぶ蝶もまた💎の数々もさらに植物園で観る南國の花花も其れ自体が美を認識して居る訳では決して無ひからだ。
するとさうして美を希求することは謂はば人間の本能のやうなものなのですか?
さう、其れも人間と云ふ相対認識の本能なのだらう。
他の認識は結局美を切り離してさう認識して居る訳では無ひ。
また他の認識は死を切り離してさう認識して居る訳では無ひ。
結局のところ人間とは何ですか?或はミュータントのやうな認識のことなのだらうか?
死が生まれたのは結局エントロピーの消去の為のことなのだらう。
有性生殖にて初めて個体の死は生まれたが逆に種ー社會ーとしての存続=社會的な秩序化には成功した訳だ。
其の社會的な秩序を観念化したのが人間の生なので必然としてむしろ死をさうして美を切り離して認識して御座る。
さうした意味では矢張り人間は特殊な生物なのですか?
其のイチイチ考へることこそが人間が背負ふ業な訳でまさに其れが矛盾的な価値を構築して行くことの原動力ともなって居ることだらう。
だがあへて其の思考を放棄し只感じ取ることが人間にとり癒しの時間となる可能性がまた高くあることだらう。
其れもさうして目的も無く且つどんな成果も期待せずに靑ひ花花を眺めるだけで人間の心が癒されると云ふことがあらうかと思ふ。
無論のこと其の意味で社會との概念的な闘争だけでは無く人間にとっての趣味の領域=拘る領域は必要なのだ。
但し其の拘りはなるべく小さな範囲に収めて置くべきなのだ。
逆に社會性のある欲望はまさに此の点で肥大化し易ひものと相場が決まって居る。
社會とは競争の場でもあることなので其処に虚栄や利己的排他的欲望が生じ易くまさに其のことにより其れが果てしなひ奪ひ合ひの場=餓鬼道の場と化して行き易ひ。
其の果てしなひ奪ひ合ひの場をして居る限りたとへどんなにスマートな言葉で其れを美化しやうとも其の闘争の本質は獣の仕業其のものと化す。
さても其のヒスイガズラの🌸の色は美しい靑色だったのですか?
さう左程に其れは美しひ。
まるで💎の如き色合ひであった。
個人的にはまさにターコヒズのやうな色合ひだとさう思った。
ターコヒズ、さう、鉱物には靑のものがまた多ひ訳だが植物には其れが少なひ。
ちなみにこちらでは緑の🌸として分類されて居た。
緑の🌸は数が少なく兎に角珍しひ。
鉱物のターコヒズにも、ターコヒズの靑もあれば實は緑の方もあるのだ。
其れはターコイズグリーン
と呼ばれる色合ひとなる。
印度の神々には蒼ひ体躯をした者が多くたとへば不動明王などもまたさうである。
靑は精神性を司る色だが其れは冷たひ色のやうで居て生命現象には欠くべからざる重要な色調をまた有して居る。
即ち其れは生命現象に於ける他方の極を指し示して居ることだらう。
生命には赤き血潮だけでは無く蒼黑ひ何かがさうして蔵されて居る。
輝くばかりの其の赤子の肌の下にはそんな不可思議な靑の性質が静かに拡がって居るのだ。
ー青の負のイメージ
英語で青はBLUE。「今はブルーな気分だ」などと使うように英語のBLUEには憂鬱という意味もあります。 ブルーデー、ブルーマンデーといった言葉にも結びつきます。
ブルースの歌詞の内容はあまり幸福なものではありません。
青は寂しさや孤独さも表す色です。
体調の悪い人の表情を指して顔色が青い、ショックを受けた状態を顔色が青くなると状態が良くないときの表現に使われます。
打撲の跡の内出血の色を青あざと呼んだりケガの表現にも使われます。ー青色・ブルーのイメージ色の性格・心理効果・色彩効果より
おそらく其の沈んだ靑の性質こそが生の一側面なのだ。
其の憂鬱も不安や不幸も皆生の一側面なのだ。
其の憂鬱も不安や不運が無ければ快活や希望や幸運でなどあり得る筈が無ひ。
今わたくしにとり靑とはそんな生の全体像を構成する為の重要な要素である。
憂鬱や不満をも含めまさに其れは生としての重要な負の要素なのだ。
では社會の馬鹿さ加減もまた其の重要な負の要素なのでせうか?
いや社會はブルーでは無く黑だよ、其れも真っ暗暗の真っ黑だ。
おおまさに破壊者の黑だよ、其れも真っ黑な心根の人間共にまさに似つかはしひ色なのだらう。
植物会館弐階にて名古屋大學で結晶展が開かれることを知り驚愕して仕舞った。
丁度結晶への熱が高まって来たところにこんな展示なのだからコレは行かずばなるまひ。
左様に様々なことが思ひがけず起こることこそが實存としての生の波濤に接して居ると云ふことなのだ。
其の社會としての破壊の凄まじさに辟易しつつもかうして近く靑黑ひ石を見に行くこと程楽しみなことは無ひ。
どうもわたくしの場合はかうしたものを観に行くのが兎に角楽しひのである。
さうして孫の顔を見るだとかみんなで食事に行くだとかそんな風なことでは無く學び且つ美を探求することだけが其の愉しみの全てなのだ。