目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

ドキュメンタリー パンデミックのとある日ー自然への或る愛の形ー

其の藝術家としてのかっての詩人や画家達の苦悩とは一体何であったのかと云ふことを屡わたくしは考へる。

苦悩とは精神の不幸であり、精神の不幸とは無知であり且つ鈍感なことである。

 


いや、現實的にはむしろ精神の不幸とは明知であり且つ鋭敏なことだ。

つまり、あくまで一般の方々ー所謂大衆の方々ーはとある精神の上での閾を越へられなひで居る。

 


世間的に蔓延するしがらみと云ふものに實は精神的にまた肉体的に雁字搦めにされて居り其の価値に従ひ彼等は生きて御座る。

だが其れこそが幸せなのだとも言へ得ることだらう。

 


其のやうにじぶんが無ひ=眞の自我を確立しなひ、と云ふ状態でもって社会又は國家とさうして文明としかと交わる即ちみんなで繋がって居る。

確かに其れは幸せだな。

だからわたくしは其れが目出度くも有難ひことだとこれまでに幾度となく其処に羨望の眼差しを投げかけて来ても居るのだ。

 

 

 

だが、所詮其れは馬鹿の幸せではなひか。

馬鹿だから幸せになって居られると云ふそんなことに過ぎぬのではなひか。

 


事實として歴史上多くの藝術家や學者の方々がさうした大衆の様をバカにして来ても居るではなひか。

 


なので其れは矢張りと云ふべきか苦なのであらう。

何故なら社会が崩壊すると同時に其の社会の🐕共も崩壊せざるを得ぬからなのだ。

 


尤も宗教はそんな風にはよもや捉へまひ。

大衆的感覚や価値観をさうして下賤なものとして切り捨てていくのはかのヴェルレエヌじゃなひのだけれど藝術的感性の持ち主の側のことだらう。

 

 

 

幸か不幸かわたくしは一方でそんな感覚をも持ち合はせて居る。

わたくしの心中にはさうしたまさに燃へ上がるかの如き創造への思ひが常に渦巻ひて居る。

 


だが其の一方には宗教的希求もまたあるのだ。

宗教は大衆的感覚や価値観をさうして卑下することなくまずは其れに寄り添ひじぶんの無ひことをむしろ其の侭に救おうとさへして来て居る。

 


結局其れは精神と云ふひとつの社会以外の範囲でもって彼等を救おうとして来て居るのだ。

だが宗教もまた社会の一部である。

 


釈迦やキリストが布教を開始した当初其れは必ずしもさうでは無かった訳だがすぐに其れは組織化=社会化され宗教こそが社会としての自我を形成する価値ともなっていく。

だから前提として宗教では一人が救はれるのでは無くみんなが救はれていかねばならなひ。

 


尤も釈迦の教へに限れば必ずしもさうでは無かったのだが結果的には佛教も自らが社会化することで大勢の人を救ふ為の教へとなった。

 


宗教は左様に無知無明の人々にとっても優しひ。

宗教はさうして人間の精神を分け隔て無く救おうとする。

 

 

 

だが藝術は一面で人間を差別する。

即ち元より藝術を解さぬ人々を相手にしたりはせぬ。

 


さてもどちらがより望ましひのか?

 


どちらがより望ましく人間の精神を形成して行くに足る資質を有するのか?

所詮其れはどちらも要るのであらう。

 


さうして結果的に社会を形成する宗教と。

結果的に社会を遮断する藝術とが。

 


今わたくしは双方を世の人々に指し示す。

 

 

 

藝術はされど毒を包み隠しはしなひ。

故に毒があればある程に其れは藝術たり得るのだ。

 


さうして其れを理解し得ぬ者を相手にはせぬ。

藝術は其のやうに堅固な自我の領域を常に生きて御座る。

 

 

 

 


さてわたくしの苦しみは世人の苦しみとは異なるとかねてより述べて来ても居る。

わたくしの苦しみはものが分かって居なひ苦しみでは無くものが分かることでかへって周りとの軋轢、障壁が出来て仕舞ふ苦しみなのでもあった。

 


尤も皆様方にはわたくしの苦しみが少しは分かって頂けるのではなひかともさうも思ふ。

わたくしの表現への読者の方々!嗚呼、貴方方こそがわたくしの苦を共有し理解したところでの同士である!

 


とまではとても言へぬがとりあへずアナタ方にはわたくしの持つ世界観をかうして包み隠さず示して来た訳だ。

勿論其処には毒もあったことであらう。

 


でも数年に亘りずっと社会科系でもって纏めて来たので分かり易くはあったのではなひか。

だが眞にわたくしが書きたひのはもっともっと詩的で且つアンビバレントな精神的闘争を描ひたものだ。

 

 

誰もがさうして思惑と世間の評価とのギャップに苦しめられるものだ。

 

 

 

さて、わたくしは相変はらず社会が理解出来ぬ。

社会の構成員である個としての大衆が理解出来ぬ。

 


元より大衆は精神的な何か高ひものへの希求を持ち合はせては居なひ。

 


勿論其れは宗教としてのことでもあるのだけれど、宗教はまた別のこととして藝術的な見地から其れを考へてみても勿論さうだ。

また學問は藝術とは異なるのだけれど、學問に生きる領域の人々もまた大衆とは異なる精神の次元を生きて居ることだけは確かだらう。

 

 

 

わたくしは今其の大衆的な鈍感さ乃至は気付きの悪さを可成に憎んで居たりもする。

またむしろ其れは昔からさうであったのだった。

 


わたくしには元々さうした所謂世間離れした視点さへもがあった。

無論のこと其れに素直に従へばわたくしは社会を否定して行かざるを得なくもならう。

 


所謂引き籠もりと云ふことだが少し違ふのは其れがわたくしの場合は創造の領域とも深く関わって居ることなのだった。

 

 

 

事実藝術家は皆引き籠もり其処で自らの藝術を完成させて行くのだ。

日銭稼ぎの為に長く社会生活を続けて来たわたくしにはまさに其のことが憤懣と云ふか鬱屈と云ふかそんな思ひと化し常に心中に渦巻ひて居た。

 


其れは社会其のものへの不満では無く自らと社会との関係性に於ける不満であり鬱屈なのだ。

尤も宗教は其れさへをも善の価値へと変換せしめて行く。

 


だが藝術は我儘なのでそんな善人ぶってなど居られやしなひ。

いや其処で宗教を否定して居るのでは無ひ。

 


なのだが、美を見詰めることと善を求めることとは矢張りと言ふべきか違ふものだ。

 

 

 

美は、多分、より自己本位にしか捉へられぬものだ。

其れはアナタにとっての美では無くあくまでわたくしにとっての只一つの美なのだ。

 


第一わたくしは相生山で拾って来た石英の塊を世界で一番美しひ石だと思って居りだからと言って其れはヤフオクでもってたとへ売るにせよ最高でも弐百円位にしかならなひものだ。

だのに世間的に高く売れることだらう糸魚川産の翡翠の原石と同等に其の石はわたくしにとって限りなく美しくしかも大事に感ぜられる。

 


其の部分での心のカラクリとは多分恋愛などともまるで同じことなのではなひか。

人は恋愛をすると其の愛の対象の全てが美しくさうして価値あるものに見へても来やう。

 

 

 

恋愛はさうして人をして藝術家となして仕舞ふ。

つまり君等は恋をして居る時だけが詩人であり画家なのだ。

 


だけれどもわたくしのやうな天然詩人は何時でも詩人で何時でも其の愛の対象には飢へて居なひ。

 

 

其れはどう云ふことか?


別に女に限らず色んなものを愛することが其れもより深く愛することが出来るからなのだ。

 

 

 

其処でもって一体何を愛して居るのだ?

世界を愛して居る。

 


美しひ色と形とに充ちた此の神の造作、神による恵みの全てを愛することが可能なのだ。

 

 

 

さうして石と戯れて居る。

さうして山の中に遊ぶ。

 


すると天上から光が射した。

其の光が蜘蛛の巣を照らし出す。

 


其れは思はず息を飲むまるで氷の王宮のやうな美しさだった。

 

 

 

わたくしは昔蜘蛛が大嫌ひでおそらくは前生が蝶か何かで彼等に食はれたことがあったのだらう。

兎に角わたくしはさうしてスパイダーが嫌ひだ。

 


だがまさに其の嫌らしひ蜘蛛が美を形成することを或日山の中で知った。

其の日以来わたくしは蜘蛛と云ふ生き物を美の眷属として認めたのだ。

 

 

 

尚、佛教徒のわたくしは無論のこと殺生などはせぬ。

其れよりも何よりも気になることが山の中や庭を歩く際に蟻やカタツムリや各種の雑草などを如何にして踏み潰さぬやうにするかと云ふことなのだ。

尚此のことは佛教に限らずジャイナ教に於ひてもより厳密に行はれて居ることなので其の点につきご留意されたし。

 

 

 

ちなみに世間の男共は釣りなどを趣味として居る人が多くさうした人々に無用な殺生はするなとさう説ひても場が壊れるだけなのであへて其れはせぬのだが其処からしてもまことに世間とは野蛮なものである。

また世間の男共は正直申して👩遊びをして居るものだが勿論わたくしの場合にはかのキリストの如くに女性には潔癖だから其の場合には場から逃げることにして来てもおるのだ。

 


だが釣りは昔はして居て塾の先生の頃も皆を引き連れ猫が洞だの西の湖だのしかもゴムボートまで持って行き皆で釣りをやって居た訳なのだった。

またわたくしはかって登校拒否児の家庭教師を二人ばかりして居り、其の折には投げ釣りの出来る三重県との県境まで行き其れをやった覚えがあるが其れも釣った試しなどはまるで無かった。

 

 

尚釣りの上手ひ人は👩を釣るのも上手で、また同時に麻雀の引きが何故か強ひ。

釣りの出来ぬ人は👩を釣るのも下手でしかも麻雀での引きも弱ひ。

 

 

 

其のやうに👩とは野蛮さに釣り上げられるものなのだ。

だからわたくしは一面では👩がイヤなんだ。

 

 

一般に女はアノ麻生氏のやうにエバリ腐ってしかも金持ちで知性に欠けるやうなおおまさに鼻持ちならぬ御仁にばかり擦り寄り釈迦やキリストには實は寄り付かぬものなのだ。

が、女には確かに愛の子宮思考がしかとあるのだ。

 


だから一種女は盲目的に生を愛して御座る。

其の愛を我我男性は軽んじて居てはならぬ。

 


何故なら👩の一念は宗教をも動かす。

宗教は女ではなかなか生み出せぬものだが其の宗教団体の信者になって居るのはほとんどが女ばかりである。

 


左様に👩は信心の力によりつまりは生への信仰力により地球上の社会原理の全てを駆動させておるのだ。

かように👩こそはまさに社会化する動物だ。

 

 

 

ところが女の見詰める美と藝術家の見詰める美とは其れが異なる。

先にも述べたやうに藝術とは生其れ自体とは恋愛出来ぬ男性があへて♀化し生を恋慕する精神的な作業其のもののことなのだ。

 


だが👩による美の信仰とは其れ宗教である。

または子宮思考=本能であらう。

 

 

 

愛する、とは其のやうに奥深ひか又は複雑な道理により組み上げられしものだ。

しかもまさに其の上にアガペーとしての普遍的な意味での愛の世界があらう。

 


なかなか其処へは至れぬ我我にとっての愛のお話を今まさにして居ると云ふことなのだ。

 

 

 

尚わたくしは其の社会的に生まれる絆か又は信心のようなものに概して疎ひ。

逆に藝術的な意味での萬象への普遍的な愛のやうなものを持ち合はせて居る訳だ。

 


さうして此の二種の愛の間に断裂が生じ易ひものであることも先に述べた。

そも其れは寄って立つ価値基盤が異なるが故に交はることが無ひのだ。

 


どだひ一般の人々には藝術的な感性を理解したりすることは出来ぬ。

また👩の信心、生への信仰の部分に於ひても其れが藝術的な感性を理解したものだとはとても言へぬ訳だ。


だが、あへて其処をよーく見詰めてみたところ、つひに共通点を発見するに至ったのだ。

 

 

 

其の共通点とは何か?

畢竟其れは「恋愛」である。

 


「恋愛」とは何か?

「恋愛」とは痘痕も靨、である。

 


つまり「恋愛」すると世界は全部良くなる。

 


するとコロナとも恋愛が出来るのですか?

まさかコロナウヒルスとは恋愛出来ぬことでせう。

 


コロナウヒルスと恋愛すれば其れは即死ぬと云ふことだ。

其れとも君はコロナウヒルスと心中したひとでも言ふのかね?

 

 

 

何せ痘痕も靨なので、其処では次第にイヤらしひものさへもが良くなって参ります。

ハゲでデブで知性に欠ける君の旦那も其処ではもうすっかり白馬に跨る王子様です。

 


不細工でデブで知性に欠ける君の彼女も其処ではもうすっかりシンデレラ姫です。

 


なる程、すると藝術とはズバリ恋愛なのですか?

ズバリ恋愛なのです。

 


神の被造物としての現象の一つ一つに対する恋愛なのだ。

其の蜘蛛の巣が、かってのわたくしにとり確かに嫌らしひもの、穢れたものにしか見へなかった訳だ。

 


ところがまさに其れに光が射すことで美が創造されたのだ。

其の美しさに気付きし目はさうして心はもはや其れを汚らはしひものとしては見なひ。

 


さういまや其の蜘蛛でさへもが美の具現者なのだ。

 

 

 

きゃあーーーーーー、デカひ蜘蛛が出た!!!!!!

などとわたくしは蜘蛛からは逃げ回って来た。

 


だが、此の二年ばかりはむしろ其の蜘蛛を美しく思ふやうにさへなった。

 


お、出たぞよ、其れも大きくて綺麗で立派な蜘蛛だ。

どうかゴキブリを沢山食べて大きくなるんだよ。

 

 

 

さうかうするうちに、台所にメスの大蜘蛛が出、良く見ると沢山の孵化したばかりの子グモを抱へ込んで居る。

さうして壁にへばりつひて居るので母がどけやうとしたがわたくしは其れを制した。

 


其の侭にして置ひてあげやう。

蜘蛛こそは神様の作品なのだから。

 


其の子達の中で一匹だけが生き残り風呂場の中に暫く住んで居たのだ。

ところが湯船の中に落下し其れが死んで仕舞った。

わたくしは生涯で初めて蜘蛛の死に対し心の中で涙を流した。

 


人間の価値観は様々で、生と死に対する感度もまた様々だ。

世間の人々は部屋の中に蜘蛛やゴキブリやらが出るとすぐに其れを捻り潰したりもする。

だが君等の其の価値観は誤りだ。

 


さうして麻生大臣、アナタの価値観もまた誤って居る。

人間にはイヤなものに対する理解こそが必要なのだ。

其の嫌なものへの赦しこそが愛である。

 


だが無制限に愛を拡散することなどは出来ぬ。

生への恋慕もさうして美への希求も常にさうした限定的な愛の形なのだから。