目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

ドキュメンタリー パンデミックのとある日ータブーとしてのひとつの女性批判ー

現代文明の価値観其のものがそも誤って居るので結局かうしたこととなると云ふことをずっとわたくしは述べ続けて来て居る。

其れは何がイケナヒのかと言へば其の価値のあり方が能足りんだと云ふことを述べて居るのだ。

要するに其処には死への観点が欠落して居る。

 

だが文學を始めとする文化の領域には其の死への観点がしかとあらう。

即ち其れこそが詩の世界なのだ。

 

賢治もリルケも金子 みすゞもまど みちおもまたランボーもポオも加島 祥造も谷川 俊太郎も皆其の死を見詰めかくて多くの作品を世に示して来た筈だ。

だが君等は其の一行をも顧みることなく只グオーギャオーとマスクを求めまた食料を求め買い漁ったり👩をツケ回して居るばかりだ。

 

君等の其の頭の中の構造がわたくしにはどう考へても分からぬのだ。

さうとんと分からぬのだ。

 

 

🚇の中では今もまるで馬鹿其のもののやうな若者達が互ひにデカひ声で会話をしおまけにグエーホッホーと時折マスク無しで咳き込んで御座る。

君等は一体どーゆう教育を此れ迄に受けて来て居るのだ?

また何故君等にはかような静けさに満ちし詩人の世界観が理解出来ぬのか?

 

 

さうか、其れは現代人には死を見詰める観点が欠落して居るからなのだ。

 

 

さあ、では本日も静かに思考を進めて行かう。

幸ひなことには我が家にはウルサヒガキ共が居なひ。

 

庭には常に美しひ花々が咲き乱れ其れも世間では見たことの無ひやうな高級な花花ばかりだ。

即ち蠟梅、利休梅、南天、おがたまなどの高級な茶花の数々だ。

 

其のやうな趣味人の世界に生きてこそ、嗚呼、其の千 利休以来の数寄とわびさびの世界に生きてこそおおまさに日本の詩情が、日本の文化がさうして伝統が其処にしかと折り畳まれて行かうぞ。

藝術、其れは其のやうにして何処にでもあると云ふものには非ず。

 

 

嗚呼、あんなにも美しく芍薬の花が今まさに庭に咲ひて御座る。

しかも大輪でもってピンクの芍薬が。

 

だが此の家は何だか静かだな。

要するに世間離れして居るので静かなのだ。

 

嗚呼、さうかわたくしが世間離れして居るからなのだな。

かうして何故かいつも高踏的で居る他無ひ我こそが。

 

 

さうして世間を見下す高みに常に居る我。

 

尚、家は部屋数が多ひ古ひ家なので大蜘蛛やら🐍やら蝦蟇やらそんなものが昔は良く出たものだった。

其れも家の中に🐍も出たのである。

 

昔父と一番奥の部屋を掃除して居たところ、納戸の奥に弐メートル程のデカひ🐍がとぐろを巻ひて休んで居たものだった。

其の🐍はどこかへ逃げて行ったのだったが今思ふと實に可哀想なことをしたものだ。

 

また、庭には蝦蟇も良く出た。

其の蝦蟇は15センチ程はありとてもデカかった。

 

其れが庭の中を我が物顔にうろつひて御座る訳だ。

 

 

だが、今思へばまさに其れが稀有な体験であった。

かうして全てが合理化されし世界に於ひて其のことが体験出来たことだけでもほんに幸せなことだった。

 

嗚呼、さう言へば中学生の頃まではまだ薪で焚ひた風呂に入っておったな。

 

其の風呂の窓からは門の格子戸の横の松の景色が見へる。

其れぞまさにさながら銭湯のやうなものよ。

 

其のやうに自然と趣味人となりしわたくしは美學上洗練されて行かざるを得なかった。

さうして我が家は茶華道を嗜む家なのであり、確かに今はボロボロではあるが古き良き家であり日本の自然としての美が其処かしこに息付く家なのだ。

 

 

わたくしはさうしたところよりまさに文明のあり方を睥睨しかうして批判しておる。

さて、今まさに文明には「生死に関はる」問題が突き付けられて居やう。

 

其の「生死に関はる」問題につき文明の対応力が余りにも低ひ、即ち貧弱又は脆弱なところが今妙に気になる。

其れはどう云ふことか?

 

おそらく文明は生の方向ばかりを向ひて進んで来て居ることだらう。

おそらくは文明の営為の全部が其の「生きんが為の」合理化にこそあったことだらう。

 

然し前々から述べて来て居るやうに自然又は具象物とは生と死の複合体なのだ。

さう生とは常に死と相剋し相即する関係にこそあらう。

 

 

即ちまさに其れが現象の裏表であり対義的にこそ形成されるものだ。

此の世での現象とは常にさうした二元的対立構造を孕む。

 

であるからこそ、であるが故に死の側面を同時に見続けていかねばなるまひ。

 

ところが現代文明は死を隠匿するに至った。

そも死は無ひことにしたひ訳だ。

何故かと云へば死が概念的には捉へられぬことだからなのだ。

 

確かに現代文明に於ける功利的且つ唯物的な論理では其れは捉へ切れぬことだらう。

だがかうして詩人は常に死を見詰め続けても来た。

 

では何故現代文明は死を隠匿するに至ったのか?

 

 

わたくしはかって其れを子宮思考との関連性の中から解ひてみた。

♀的な原理はまず基本的ー本能的ーに死を遠ざけやうとする。

 

其の♀的な原理即ち女性原理が活性化されることでむしろ観念的に死を何処かへ追ひやった。

即ち其処に本能としての具象性である死への拒絶、死の否定の部分が抽象化されるに及んだのだ。

 

然し、此れぞまさに怖ろしきことなのだ。

其れ即ち所謂パンドーラーの厘が開ひたと云ふことなのではなひか。

 

其の女性原理を否定することは即世界を否定することでもあり無論のことどんな社会に於ひても其れはタブーなのだ。

だが、わたくしはどうも其の辺りでのことが臭ひとさう睨んだ訳だ。

 

さうズバリ女臭ひ。

 

 

でもこれやっちまひますと、即全女性を敵に回して仕舞ひます。

すると生きられなくなるのです、ほぼ高ひ確率にてどんな男でも死んじゃひませう。

 

だからわたくしは其れを否定して居るのでは無ひ。

否定して居るのでは無くあるべきあり方が違ふとさう述べて居るだけのこと。

 

 

でも、わたくしは常に優しひ詩人さんなので、いつもかうして😸のメスにも蜘蛛の♀にも常に優しひのです。

昨夜もどうも例の野良🐈の母ちゃんが家の縁側の軒下に潜り込み寒くてくしゃみをして居るやうなので従妹が買って来て呉れた弁当から鮭の切り身を抜き取り全部あげて仕舞ひました。

 

すると十分後に確かめたところ鮭の切り身は全部無くなって居りました。

尚、😸に鮭の切り身を与へる時は非常に注意深く其の塩分を洗ひ流してから与へることが基本です。

😸に人間の食べ物でのやうに色んな味付けがなされたものを決して与へてはならぬ。

 

 

さてどう女のあり方が違ふかと言へば、まさに其れが前前回述べたところでのやうに女共は常に生命の母であるべきでブランド物を希求する♀であったり権威権力に擦り寄ったりまた便利さばかりを追ひ求めることで楽をし且つ己の虚栄心を充たすことばかりに汲汲として居てはならぬ。

即ち貞淑かつ賢ひおおまさにかのグドール博士のやうな、或はかのハンナ・アーレント博士のやうな知性に溢れしかも隙の無ひ、嗚呼何処から攻めてもまさに隙が寸分も無ひことだらうさうした實に見事な身持ちの固さと内面の美しさとを併せ持つ女性達。

 

其のやうなまさに良妻賢母としての、嗚呼まるでヴィーナスの如き完璧な美しさを備へ、おおまるでマリヤ様のやうに輝かしき処女性の発露たる女性達よ。

だからもう物凄く理想が高ひぞ。

女性に対する理想が高過ぎもはや地球の成層圏を遥かに突き抜けて居るぞ。

 

 

さうして特に近代以降は其の女性原理と科学技術の世界とが何故か結託する。

要するに、近代科学とは其の元来具象的ー本能的ーなる女性原理を抽象化し履行して行くものであるに過ぎぬ。

であるが故にまた歯止めも効かぬ訳だ。

 

なのでズバリ其処に必要なのはむしろ男性原理の方だ。

男性原理即ち星 一徹によるちゃぶ台返しの力だ。

 

 

または三島 由紀夫先生の特攻力のことだ。

 

尚、三島先生は元々博識ー其れも洋の東西に対する文化的素養をお持ちであったーでしかも女性的とも言へる程に美學的にも洗練され其れでもってか體も弱く徴兵検査には合格しなかったのだった。

であるが故に其の後正反対の領域へと進んで行かれることと相成った。

 

つまり三島先生は女ー文ーから男ー武ーへと変身され其の侭に武人として特攻されて仕舞はれたのだ。

世間の者は其の様を嗤ふのだが藝術家とは元よりさうした二元的分裂世界を内面にて生きるものなのだ。

 

其れに三島先生の場合はさうした二元対立を外面化したと云ふことであるに過ぎぬ。

他方で二元対立を内面にとどめしかも其れを深くとどめ過ぎると芥川やヴァン・ゴッホのやうな結末ともならう。

 

 

其の男性原理は近代迄はしかと女性原理を抑へ込んで居たのだと言へやう。

ところが近代以降は近代主義の名の下に人類には等しく人権が与へられることとなる。

すると突如として其の女性原理が暴れ出すのだ。

 

だから今我我の周りには貞淑な👩がほとんど居なひことだらう。

逆に不倫が蔓延しもうとんでもなひことになっているぞ。

 

 

だからそんなでは無く、まさに清く、正しく、美しくだ。

 

おおマリヤ様か其れとも観音菩薩様か?

世の男性諸氏にさう思はせるやうな👩でなくてどうする?

 

そんなドロドロの低級な👩などええひ、煩はしひもう近くに寄るな。

目と體の穢れになるは、穢れに。

 

だがマリヤ様か其れとも観音菩薩様のやうな女性ならばもうアナタ様の為にたとへ死んでも良ひ。

つまりは君の為なら死ねる、かの「愛と誠」でのやうに。

 

 

だからわたくしは左翼でもって👩の権利ばかりを主張する女共が大嫌ひだ。

なのだけれども、無論のこと左翼思想を全否定する訳では無ひ。

 

さて動物の♀は美しひか其れとも美しくは無ひか?

少なくとも人間の♀よりは美しひのではなひか。

 

だからわたくしはむしろ動物のメスに対しては常に優しひ。

だが人間のメスに対しては兎に角常に厳しひ。

 

 

かくしてパンドーラーの厘がパカッと開ひて其処からあらゆる災厄が飛び出して来やう。

 

プロメーテウスが天界から火を盗んで人類に与えた事に怒ったゼウスは、人類に災いをもたらすために「女性」というものを作るようにヘーパイストスに命令したという[1]

ヘーシオドス仕事と日』(47-105)によればヘーパイストスは泥から彼女の形をつくり、神々は彼女にあらゆる贈り物(=パンドーラー)を与えた。アテーナーからは機織や女のすべき仕事の能力を、アプロディーテーからは男を苦悩させる魅力を、ヘルメースからは犬のように恥知らずで狡猾な心を与えられた。そして、神々は最後に彼女に決して開けてはいけないと言い含めてピトス(「甕」の意だが後代に「箱」といわれるようになる。詳細は後述)を持たせ、プロメーテウスの弟であるエピメーテウスの元へ送り込んだ。

美しいパンドーラーを見たエピメーテウスは、プロメーテウスの「ゼウスからの贈り物は受け取るな」という忠告にもかかわらず、彼女と結婚した[1]。そして、ある日パンドーラーは好奇心に負けて甕を開いてしまう[1]。すると、そこから様々な災い(エリスニュクスの子供たち、疫病悲嘆、欠乏、犯罪などなど)が飛び出した。しかし、「ἐλπίς」(エルピス、意味は後述)のみは縁の下に残って出て行かず、パンドーラーはその甕を閉めてしまった。こうして世界には災厄が満ち人々は苦しむことになった。ヘーシオドスは、「かくてゼウスの御心からは逃れがたし」という難解な言葉をもってこの話を締めくくる。最初の女性であるパンドーラーが人類に災厄をもたらしたという神話が作られたのは、ヘーシオドスが徹底した女嫌いだったためとされる[2]。ヘーシオドスは『神統記』(570–615)においてもパンドーラーについて触れ、神々からつかわされた「女」というものがいかに男たちの災いとなっているか熱弁している。ーパンドーラーより

 

尚、神話とは人間のあり方に対する象徴的意義を含んだものであり、よって其れ自体に一面での眞理が常に含まれたものであると見做して置く方が良ひものだ。

まさに一面での人間にとっての本質的意義が語られて居る場でもまたある訳だ。

 

但しギリシャ神話や旧約聖書による女への洞察と東洋圏での女への洞察の部分には常に大きく開きがある。

上記の如くに西洋に於ける女性の肉体性又は現世利益性に対する厳しひ戒めは東洋に於ける生命の母、豊穣の女神として祀られる性質などとは正反対のものだと捉え得る。

 

其処で一体どちらが本当なのだ?と言ふことともならうが、あくまで此れ迄の實体験に基づくわたくしの解釈はむしろ西洋的なものである。

西洋では肉体により著しく規定される女性をかうして悪魔か又はそもそもの世の不幸の元凶として捉へる向きがどうしてもあらう。

 

 

かのイエス・キリストが女体への情欲に対して特に潔癖に其れを否定して居られるのはさうした経緯ともまた関連することなのだらう。

キリスト教ではあくまで霊的な救ひの世界を求めるのであるから、現實的につまりは現世利益的に肉体のみを増殖させたとしても其処には何の意味もなさぬことともならう。

 

さうでは無く神の御心と連なることこそがキリスト教に於ける要諦なのであらうから、其処で女の尻を何処までも追っていくことはかへって神から遠ざかることともなるのだらう。

尚佛陀もまた女体に対する情欲には極めて厳しかった訳で、但し佛陀の場合には妻子を持った上で結局其れが修行の妨げになると判断されたが故にきっぱりと其れをお捨てになられたのだった。

 

 

じゃあ女は結局要らなひんですか?

 

女が居ないとそも生其れ自体が成立せぬ。

なんですが、個人的にはかうした経緯からも余り女性を持ち上げるべきでは無ひとさう考へて居ります。

 

其処をイザ持ち上げれば女にはヤバひところが多分にあるのじゃなひでせうか。

さう云ふ視点も半分程は持って置くべきだらう。

 

女は確かに生命の母であり豊穣の女神なのではあるが、どうも其の抽象性との兼ね合ひの部分に於ひて可成に危なひ存在なのやもしれませぬ。

 

 

つまるところ動物の母ちゃんは皆其の侭に具象物としての謂はば本能の権化としての母ちゃんです。

ところが人間の場合には其の欲望が抽象化されて仕舞ふ訳だ。

 

其れも社会化すればする程に其の抽象度の度合いが増しても来る訳だ。

其れでもってもしもわたくしの理窟のやうに具象的な本能が抽象的なものへと転化され始めるともはや歯止めが効かなくもならう。

 

だから近代科学とは子宮による本能ー具象的な現世利益主義ーが理論化され抽象化されて行く過程ー本能の合理化過程ーのことなのだ。

 

其の様を神話的に解釈すれば近代以降に突如としてパンドーラ―の厘がパカッと開ひたと云ふことだ。

或は史上初の👩が悪魔に唆され智恵の實を食ったと云ふことだ。ー旧約聖書によればー

 

 

いや、怖ろしひ。

でもわたくしは何せ感覚的には人とは違ふのでもしかすると当たって居るのかもしれませんよ。

 

但しもしや当たって居たにせよ金輪際女性を否定して居る訳では無ひ。

何度も言ふやうに是非心のあり方を悔ひ改めるべきである、とさう申して居るばかりでのことです。

 

 

ところでじぶんの罪深さはさておきさうして周りばかり批判して其れもタブーの領域までをも批判し其れでもって楽しひのか?

 

今回は別に批判などして無ひですよ。

此の際もう心のあり方を正しくされた方が宜しひのじゃなひでせうか?

とさう選択肢を提示させて頂ひて居るばかりでのことだ。

 

其の正しひ、と云ふ価値観は一体何だ?

おまへが全部正しひとでもさう思って居るのか。

 

さうでは無く神佛だけが正しひとさう申して居るのです。

実際に嗚呼、わたくしは一刻も早う神佛への祈りの旅に出向きたひ。

 

 

 

ところで何時から休みなのだ?

明後日からです。

 

でも何故か相変はらず忙しくなかなか遊んで居る暇などありません。

だがかうして何かを書く暇はあるのだな。

まあ其れが仕事ですから、つまるところはほんたうの仕事だ。

 

 

かうして現代文明は死を隠匿する割に我我に常に死を突き付けていくのです。

要するに死は科学の力にてなくせるよとさう言ひつつも事實上かうして個としての死を常に突き付けて来るのです。

 

だからそんな文明のあり方こそが誤り其のものなのだ。

どうのこうのでは無く現代文明は酷く矛盾して居り其処からしてもまさに病気である。

其れは死に至る病とでも言ふべきなのか、まことに厄介な宿痾なのだ。

 

 

神様、佛様、マリヤ様、観音菩薩様。

どうかどうか此の馬鹿文明を御救ひ下され。

 

さても其のマリヤ様とは👩ではなかったのか?

いや、違ひます。

 

マリヤ様とは神の眷属でもって生身の女などでは御座らぬ。

故にマリヤ様とかのパンドーラ―とは別物なのだ。

 

 

パンドーラ―は化け物ですか?

ズバリ女とは化け物ですか?

 

ズバリ化け物であり同時にマリヤ様であり観音菩薩様です。

其のやうに選択が常に可能だと云ふことである。

即ち顔は菩薩でも心は夜叉だ。外面似菩薩内心如夜叉

 

また其の逆に顔は夜叉でも心は菩薩なのでもまたあらう。

二元分離での選択により其のやうにもなれると云ふことなのだ。

 

 

なる程、矢張り女は佛道修行の妨げになるのですね。

だが実際どんな👩であってもマリヤ様であり観音菩薩様となることさへもが可能でせう。

 

ちなみにショーペンハウアーの著述や初期の経典には屡こっぴどく👩の穢れたタマシヒ乃至は心根の部分を批判した部分が出て来やう。

 

だが個人的には其処に余り拘泥すべきことでは無ひとさうも思ふ。

世の潔癖な男性は女性を全否定するのでは無く二面分離の激しひ何らかの別のものとして彼女等を受け容れまさに許すことこそが必要なのだとさうも思ふ。

無論のことわたくしもなるべくさうするやうに努力してみるつもりなのではある。

 

只実際にはいつしかドッカーンと怒りが爆発し屡女性とは喧嘩をして居ることが何故か多ひ。