かように社会は個としての人間に悩みや理不尽なことを常に突き付け続けて居る。
其れも何千年経っても其れが変はることは無ひ。
若かりし頃にわたくしは歴史や文學を學ぶことで其のことにしかと気付ひた。
だからもう其の頃からある意味では世捨て人なのだ。
だが、心のあり方が其処まで行くことでこそ一つの領域が生ずる。
やがて其の領域が宗教と美の世界とに分かれる。
だから其れ以降わたくしは其の双方を探求して来た。
歴史も文學も其れはある意味で人間の救ひやうの無さを示して来て居る。
故に文學とは単に其の救ひやうが無ひ人間をあへて美化して世に示すものであるに過ぎぬ。
かうしてわたくしは純粋な美、美と云ふ創造的領域での救ひとしてのひとつの可能性に賭けた。
宗教と云ふ精神の上での可能性に賭けることと同じやうに現象としてのありのままの美の世界を求め続けて来たのだ。
ー其れは神の被造物としての自然界の美を心の内に辿る行ひでもあったー
さて美とは何か?
さうして何故美が決まって女臭くもなるのか?
TVに出て来るやうなオカマの方々は大抵審美眼が鋭ひ。
左様に♀的なものは美を理解し易ひ。
が、其れも所詮は錯覚で本質として♀は美を理解せず只其処で虚栄心を充たしたり美に於ひて群れることで安心して居るのだなどともかってショーペンハウアーは述べて居る。
わたくしは其れが当たって居ることかと思ふ。
何故なら美を表現する藝術家には圧倒的に男性の方が多ひ。
其処からも或は女の美の理解の仕方は所詮子宮力によるものなのやもしれぬ。
つまりは生への賛美、生きることへの礼賛か又は執着のやうなものだ。
だが其れは美しひのか?
本質的には其れでは美しくは無ひとさう思ふ。
美しひと云ふことの中にはおそらく死を見詰める視点こそが是非必要なのだ。
けだし死其のものの中にはもはやどんな美も無ひ。
生と連なったものでなくては其れはどうしたって美しくはならなひ。
たとへば其の死を見詰める目は男性の心の中に常にある。
其のやうに決して男性は自ら生命を生み出すことが出来ぬ。
即ち本質的に生より疎外されし存在なのだ。
我我はメスの腹の中に子を仕込むのだが其の子は我我自身の分身では無く半分はメスの子なのでもまたある。
其の本質的疎外こそが死への視点であり純粋なる美への視点なのだ。
凸の躰の侭で凹の美を見詰めること即ち死への美と生への美の混交こそが眞の美へ至る美學上の特質だ。
また其れがつまりは両性具有的なものでもあるのだ。
さうしてわたくしにはどうも♀のやうに命の輝きとしての美の世界を捉へられる向きがある。
だが同時に多分に♂的に常に死を見詰め悲観的なのでもある。
其の両極が何故か同時に鬩ぎ合って居る。
また多くの藝術家がそんな両極の激しひ美學上の闘争と云ふか領域の幅広さを生きて居ざるを得ぬのではなひか。
たとへばわたくしは其れをわたくしの大好きなルドンに、さうして尊敬する三島 由紀夫先生の心の中にーそんな両極での心の闘争の様をーはっきりと感じて仕舞ふ。
完全と云ふことは、かくして両義的なことだ。
其れも美の完全と云ふことは、♀的な美と♂的な美の統合のこと、か又は其の両極に於ける闘争の狭間に花開くもののことだ。
かねてよりわたくしは其のやうに美を見詰めて来て居る。
つまりは生の美と死の美に対する感度ばかりが常に妙に高くある。
尚、わたくしは下らぬ世の中のことを考へ続けるよりはかうして美を見詰め其れにつき語ることの方をより好む。
皆様とわたくしとの差はおそらく其の世の中に対する絶望度が高ひか其れとも低ひかの差なのであらう。
いや、此れは美しひ。
でも其れ以上に此処に描かれたガレの生涯は如何にも起伏に富んで居る。
彼は当時の仏蘭西の藝術家同様ジャポニズムに大きく影響を受け高島 得三なる留学生にも感化されて居た訳だ。
またーリセー(高等中学校)でのエミールは哲学、語学、文学に優れた才能を発揮し「詩」には特に深く通じていた。ーとされる点には驚ひた。
何より彼は詩人だったのやもしれぬ。
其処からしてもまさに詩をガラス化して様々に色を付けたものが彼の詩作品としてのガラス工藝なのだらう。
其の晩年に重ひ分裂病を患ったことも此処にて初めて知った。
其はひとつの藝術家としての宿命のやうなものなのやもしれぬ。
■エミール・ガレ 自然の蒐集:ちょっとマニアックな見どころポイント
此処もまた話が随分と詳しくて面白ひところですね。
ガラス工芸名作選 エミール・ガレとアール・ヌーヴォーの作家たち
もはや今は美術館など何処もやっていませんのでね、かうしてネット上での美術館巡りが何より楽しひ訳だ。
尚かってわたくしが大一美術館にて晩年のガレの作品に接した折には其処には可成に悲観的なことがガレ自身の語りの部分として述べられて居た。
或は重ひ分裂病が彼をしてさう言はしめたのであらうか。
美と云ふものにはおそらくは毒があり其の毒と美しさ其のものとの混合体のやうなものが其の全体像なのだらうとわたくしは今ではさう思って居る。
其の点では矢張りと言ふべきか美は👩のものでもある。
一般に女は二面に著しく分離して居り生の息吹を感じ取ることにかけては敏感だが其の癖死の足音に気付かずで即ち死への領域への感度には欠ける部分がある。
其の死への予感や共感に欠ける部分こそが女の持つ毒の部分なのだらう。
最終的に詩人や画家などの藝術家は其の毒の部分にまで歩み寄ることなど出来ずやがては全身を毒にやられ人間として崩壊するに至る。
ガレ然り、ヴァン・ゴッホもまた然り。
さう男性は最終的には皆其のやうにして全的に崩壊する。
其れでもって女だけが其処に生き残る。
全ての👩は兎に角しぶとく其処に生き残りさうして子宮にて生命を礼賛するやうな詩を書くことだらう。
其の肩書や金やら名誉やら欲を離れし女をかって描ひたのがアルフォンス・ミュシャだった。『みんなのミュシャ ミュシャからマンガへーー線の魔術』展が開催 天野喜孝ら、日本のグラフィック・アートやマンガ作品も展示
勿論ミュシャのこともわたくしは大好きでもって此れ迄に幾度も展覧会を訪れても居りしかも自分の部屋に其のミュシャのポスターなどがべたべたと貼り付けてもある程だ。
だがミュシャの装飾画はより正確には藝術では無くあくまで装飾画なのだ。
ちなみにミュシャの装飾画では決して生々しく描かれし欲など無ひのだが一言で言ふと女臭ひ。
其の👩臭ひのが元々は余り気にならぬわたくしには趣味が合って居たと申すべきで、確かあれは三十代後半から四十代初めの頃だったらうか、当時は兎に角ミュシャに浸り切って居り決まってミュシャばかりを何処かへ観に行った訳だった。
するとまた余計に👩臭ひ。
何故ならミュシャは世の女共に大変人気がありミュシャを展示した展示室へ入るとああ、やっぱり女だらけだ。
だが其れを気にして居るやうではミュシャの鑑賞などはまるで出来ぬことともならう。
故に其処では集中してミュシャの描く女だけを見詰める。
と言ふかミュシャ級の👩などは實は何処にも居なひのだった。
本物の女共は皆ナマモノばかりでミュシャの描くやうなある種理想化されし女など實は何処にも居なひのだった。
尚今回ミュシャに関する素晴らしひところを発見した。
ちなみにわたくしの場合はすでにミュシャとの付き合ひが長ひ訳だが次第に彼の装飾藝術の中でもよりシンプルな作品、より女臭さが抑へられし作品を好むやうになって行ったものだった。
ミュシャ流に女を象徴的に表現するとかうなるのである。
写実化され描かれし女性達が生き生きと表現されて居る点が素晴らしひ。
女臭ひと言へば女臭ひのだがミュシャの描く👩は常に象徴的に且つ理想化されて描かれ生身の女の持つ毒々しさには欠けて居やう。
おそらくは其の点がミュシャの描く女達の魅力である。
即ち女性であると同時に其れは生々しひ女では無ひ。
まさに自然界の美としての営為とも近しひ存在なのだらう。
此の中ではわたくしの場合特に「詩」と云ふ作品を好む。
尚此れは其のモチーフが大層上品に描かれた作品だと思ふ。
星を象徴する女達が此処に描かれて居る。
其れは👩であってすでに女ではなく星の化身である。
生身の女は欲望が深くあり過ぎ要するに罪深ひ。
かように生身の女の體程罪深ひものは無ひ。
だが星の象徴ともなれば其の欲深さも一挙に理想化されやう。
写実的な作品なので生身の女の體の罪深さが一挙に増して来やうが其れでもイヤらしくはならなひ。
かうして宝石を主題として居るところにミュシャの現實的な部分が垣間見へても来る。
即ちミュシャが比較的分かり易ひのはあくまで現實としての現象を理想化乃至は象徴化して居るからなのだ。
さてミュシャが何故此処まで女に拘ったのかと云ふ事だが結局其れは彼の心の中に♀的なものへの永遠の恋慕があったことだったらう。
かうして男性は常に女性を理想化した状態で保存して置かうとするものだ。
此れなどは昔から好きな作品で女臭ひと云ふよりも逆に精神性が感じられる稀なものだ。
其のやうに此の「つた」は永遠の命や不滅の愛を表し、「月桂樹」は永遠の清浄と純潔を表すとのことだ。
此処にはさらにミュシャの場合も日本美術から影響を受けた部分を自分なりのスタイルに昇華させ表現して居るとの記述もある。
ー「新しい芸術」を意味する。花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などが特徴。分野としては建築、工芸品、グラフィックデザインなど多岐にわたった。ー アール・ヌーヴォーより
元々アール・ヌーヴォーとは生命の持つ美の世界を有機的に見詰めた世紀末藝術としての流れのことだ。
かっては其れが新しひ藝術の流れだったのだが無論のこと今では其れは古き良き藝術の分野のこととなった。
ミュシャにせよ👩臭ひと云ふよりは其の有機的な装飾性のモチーフとして其れが描かれて居るとほんたうは見るべきなのだらう。
つまり其処に女が有機化されて居る。
花や植物の如くに有機化され其処に女達が一輪一輪花開いて居ると言ふべきだらうか。
だからほんたうは少しもイヤらしくは無ひ。
かへって生々しひ👩の情念が抑へられ其の全てが理想化されて居る。
まるで蔓や月や星々や花々其のものであるかのやうに。
だがミュシャは晩年画家に転向した。大作『スラヴ叙事詩』を制作するミュシャ(1920)
パトロンを得故郷チェコに帰国した彼は民族的、政治的なモチーフを屡用ひ絵画を描くやうになる。
然しすでに其処にはかって有機体として描かれし女体の美しさはすでに失はれて居た。
絵画として「男性としての主張」が其処に為されて居るのではあっても理想化されし有機体としての女体は其処からすでに消え去って居たのだ。
アール・ヌーヴォーは自然と文明が融合した稀なる世界観を示すものでもあり、一面では其処に自然と共に歩む日本の文明、文化のあり方さへもが其処に投影されて居るのだと考へられやう。
自然を主要な着想源とし構築されしアール・ヌーヴォーによる有機的世界観こそが廿世紀に文明により行われた数々の自然破壊への反省を強ひるものでもまたあらう。
文明はかうしていつしか自然の有難さを悉く忘れた。
其れは蔓が描くなだらかな曲線の美であり女体が描く柔らかな線の美其のもののことだ。
自然としての生命が描く感触のふくよかさと優しさを人類は決して見失ふべきでは無ひ。
生きて居る限り草花や鳥獣が描くことだらう有機的な美を文明は経済の名の下に全て切り捨てて来た。
其れは文明人の眼が曇って仕舞って居るからだ。
抽象的に得られる肩書や金やら名誉やらに目が眩み人々は其の大切なものの価値を見失ふ。
さうして女共をして其の肩書や金やら名誉やらの奴隷に仕立て上げていく。
だが👩とは常に生命の母であり同時にミューズであり藝術の母であるべきものなのだ。
生命の母が描く其の命の曲線こそが眞の美を生み出す。
其のなだらかで永遠に続く曲線こそがまた草花や鳥獣が描く自然の美其のものなのだ。
かくして女ー人間の命の揺り籠としての子宮ーと自然と文化、文明が融合してこそ人類の幸福の達成は成ることだらう。
人間はさうして抽象的に得られる価値を空しく追ひ求めるのでは無く、そんな具象的且つ有機的に構成される現在を是非築ひて行くべきなのだ。
矢張りと云ふべきか此処も休館でしたがあくまでネット上では以上でのやうにアール・ヌーヴォー藝術を色々と愉しむこともまた可能なのだった。