目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

光としての石の色ー+永遠なるルドンー

其の美が見詰められるかどうか、我が手に美が握られるかどうかと云ふことがわたくしにとってはむしろとても大事なことなのだがひょっとしたら多くの男性にとり其れはどーでも良ひことなのやもしれぬ。

兎に角其の美があると云ふことが大事な訳で、まさに其の美の中に己が浸って居る状態こそがわたくしにとっての幸せ♡なのだ。

 

尤も其の美は必ずしも手の内にある必要は無く、即ち景色だの絵画だのとても美しひ光景だのが束の間であれ目に飛び込んで来る様のことでもある。

おそらく其れは概念的規定を離れし次元のものでつまりは概念的規定と対になる感性的領域のものだ。

 

美を対象とする次元即ち藝術の領域はさうした非概念的でもって感覚的な営為によるものだらう。

幸か不幸かわたくしは其の対となる領域のどちらにも感度が高ひ。

 

いや理窟の方は感度と云ふよりも要するに理窟っぽひだけなのだ。

其の理窟っぽさは学校を出てからの御勉強によりむしろさうなって行ったのやもしれぬ。

 

 

だが感覚の方は元々さうであった可能性が高ひ。

 

わたくしは幼ひ頃に変な癖があり、其れは着て居る服に色とりどりの洗濯バサミを取り付けいつも歩ひて居たのだった。ー小学校の低学年の頃まではー

つまり色に関する感度がまた人とは違ふ訳だ。

 

其れは普通の子供はやらなひことかと思ふので要するに一種の変態だ。

だが其れは異常さが際立つやうな変質的行為なのでは無ひ。ーたとへば動物をいじめて殺すことのやうなー

 

要するにそんなことをすればみっともなひとさう思ふこと以上に色に対し興味があったのだった。

 

だがそんな傾向も大人になると消へていったかに見へた。

ところが實は其れが藝術への興味に移り変わっていったばかりなのだった。

 

 

要するに絵画の描く色の方により興味が出たのだった。

だから其れ以降は多くの絵画を鑑賞しても来た。

 

26、7歳の頃、大規模なゴッホ展が開かれ其処で初めてゴッホの色彩に触れた。

其の色彩は思って居た以上に純粋なもので其の無垢なる魂の色に触れることでまるで心の奥底を搔き乱されたかのやうな感じがしたものだった。

 

以降ゴッホに関する専門的な本なども買ひ込み自分なりに研究してみたりもした。ゴッホ 魂の日記/ベルナールチュルシェ(著者),田中梓(訳者)

わたくしの藝術に対する興味は其のやうに文學だけにはとどまらず絵画や音楽の世界へと自然と向かひつつあった。

 

尚、詩は13歳の頃から断続的に書き始め廿台の頃は色々と作品化して居たものだった。

だがどちらかと云ふと詩人の研究と云ふか解読を試みて居り、廿代の頃はマラルメタゴールなどを熱心に読み解ひたりもして居たものだった。

三十代になり宮澤 賢治を十年程かけ読み込んでみた。

と同時に賢治に関するあらゆる批評もまた読んで居たのだった。

 

 

其の頃の読書量はまさに異常なものでもあった。

何故なら文學、絵画、宗教、またニュートンだのクオークだのさらにオカルトや超常現象の本までをも読み漁って居たのである。

其れから航空ファンだの戦闘機関連の専門誌だの、要するにわたくしは其の頃戦闘機マニアなのでもまたあった。

 

要するに藝術をやると同時にマニアでありヲタクなのだ。

で、趣味と云ふか興味も實は両性具有的なのだ。

 

どだひ戦闘機マニアはどう考へても其れは👨臭ひ趣味でせう。

ところが詩だの絵画だの、そんな👩臭ひ趣味もまた同時に持つ。

 

科学誌が好きだったのも其れは矢張り👨ぽい。

でもお手紙を書ひたり美しい便箋などがとても好きで要するに文房具マニアなのでもまたあった。

 

 

で、一体どっちが本質なのだ?

所詮はどっちも本質だ。

 

わたくしはかうしてどちらもイケるタイプなのだ。

だが五十歳位までは其のことを意識して考へたりすることは無かった。

 

でも次第にじぶんはもしやおかしひのではなひかとさう思ひ始めハッと気付くとヤッパリオカシヒ。

しかも其の両極は共に徹底して追及されておるのだった。

 

なので結果的に両方が分かって仕舞ふ。

とは言へあくまでわたくしは男性でありしかもオカマでは無ひ故表だって男性の方が好きだと云ふ趣味などは金輪際無ひ。

 

 

また根っからの利口かと言へば實はさうでも無く可成におバカな部分も實は持ち合わせて居り其の部分だけは實は皆様には見せられぬ。

わたくしは小学四年生まではバカと云ふことでクラスのみんなに良く知られて居り即ち面白い奴其のものでみんなを笑わせてばかり居たのである。

 

ところが分校だった小学校が独立し本校となり南端の小学校へ移ると同時に優等生となりもはや其の頃は誰もわたくしのことをバカだとは言はなくなっておったのだった。

つまり、わたくしはバカと利口のどちらの気持ちも分かるが故に家庭教師だの塾の先生だのさうしたタイプの仕事が實は非常に向ひて居たのであった。

 

東海を出東大を出たあんな林のやうに根っからのインテリでは無ひが故に實は馬鹿の気持ちも痛ひ程に分かる。

なので成績の悪ひ生徒さんを教へることが實に上手でそんな生徒さんをわたくしが出た高校以上の処へ行かせて仕舞ふので兎に角塾の講師としてのわたくしの評判は頗る良かった。

 

そんな訳で結局は今回もじぶんのことばかりを述べておるが其の自意識過剰の部分は明らかに藝術家としての特質で、しかも其の両面イケると云ふ自負から其れが齎されて居るだらうことは明白だ。

まあ其れでも👩の本質ばかりは其れでも分からぬと云ふのが正直なところなのではある。

 

 

其れで兎に角其の色のことである。

さても色とは一体何なのだらうか?

 

わたくしは数字や文字に色を感ずることの出来る共感覚者なのだが、其の共感覚と云ふことを抜きにしたにせよ兎に角色が好きで常に色に囲まれて居たひのだ。

さうした色に対する強ひ執着は一体何処から来て居るものなのだらうと最近は其のことを良く思ふ。

 

其れは男性的な感覚では無く其れこそ文房具が好きだとか絵画が好きだとか云ふ女性的な部分こそが其れを求めて居るのだらうか?

いやでも其れは男性女性と云ふことでは無く理窟を駆使すると云ふ論理性=理性の部分と対義的にある感覚性=本能の部分がよりハッキリと分離した形で其処に出て来て居るのやもしれぬ。

 

さうして兎に角わたくしの生は全面的に色に規定されて来て居るとさへ言へるものだ。

其れでもって色んな色を眺めて居ること只其れだけで心が落ち着き幸福なのだ。

 

さうかと言って絵を描く方向へは進めなかった。

また人間としての所謂色気がある訳でも無ひ。

さらに女の色気ばかりを追って居る訳でも無ひ。

 

さう云ふのとは違ふ色気の段階で多分生きて居るのだ。

謂はばより原初的な色を感じ或は其処を生きて居るのやもしれぬ。

 

 

かうして天気の良ひ休みの日にはわたくしは大抵部屋の横に張り出した小さなバルコニーにて日光と戯れて居る。

さうしてわたくしは陽の光を浴びるのが大好きなのだ。

 

其の光、光こそが色なのでもある。

さう色とは光なのだ。

 

其れが分かれて色んな色になって居る。

故にどんな色でも光なのだ。

 

光はかうしてコロナをやっつける。

 

其ればかりではなく、鉱物の色合ひを染め上げる。

光の良ひ日はかうして決まって鉱物がそれぞれの色に輝く。

 

藝術としての絵画の色合ひも勿論其の光が描き出して居る。

だが絵画の色には人間としての個性の色がまた其れぞれにある。

 

然し陽の光に照らされた鉱物の色合ひにそんな個性は無ひ。

いや、個性はある、あるのだが畢竟其れは精神としての色では無ひ。

 

 

3.28ct 天然オパール原石 エチオピア産

日光に翳すと最も美しひ宝石がオパールである。

オパールの中でも様々な色合いの輝きを放つプレシャスオパールこそが宝石となる。

 

此の石はエチオピア産のプレシャスオパールだがまさに此れが大層美しひ。

どんなに美しひかと言へばまさに我を忘れる程に美しひ。

此の画像には赤系の光が含まれて居なひのだが実際には赤もまた黄もオレンジ色も入る。

 

実際つひ先ほどまでわたくしは我を忘れて其の輝きに見入って居た。

また其れが快晴の日に限りさうして特別に輝くのだ。

 

言はば光が良ひ日にだけさうして光の素顔を見せる。

 

昨年わたくしはこんなエチオピア産のプレシャスオパールの原石を十程ヤフオクにて集めた。

此の三倍程の大きさの石を十程、其れを小瓶に入れ水を満たして居る。ーオパールの原石は水中保存が原則ー

 

其れを陽の光に翳せばさうして夢幻の世界が拡がる訳だ。

 

 

どんな夢幻が?

 

さながら絵画のやうな色彩の洪水が。

 

だが其れは実際絵画よりももっと純粋なのだ。

絵画が語る色は画家の精神の色其のものだ。

 

さう其れは自然界が齎す奇跡の色の乱舞。

感情でも無くましてや欲望でも無ひ永遠の光の饗宴なのだ。

 

昨年来幾度となくわたくしは此の光の饗宴に酔ひ痴れて来た。

 

 

其の光の饗宴の中に思想は無くまた軍備も無く批判もまた無ひ。

 

政府の能無しも無く労働も無く未来への社会不安も無ひ。

 

また滅亡も無ひ。

 

人間の社会はまず滅亡しやうが石はかうして滅亡することが無ひ。

 

 

重要なのは其れが安かったと云ふことなのだ。

兎に角全部で二万もかかって居なひ筈だ。

 

かうして安くて感動する。

安くて美味ひ。

 

まずはコレが一番だらう。

 

みんなは高くて大して感動出来ずしかもマズひものばかりに群がって居ることだらう。

 

だが欲望や金額が限定されたとしてもかうして一級の満足を味はふことが實は可能なのだ。

選択の成否により其れは可能なのだ。

 

但しかうした趣味其れ自体を皆様が望まれるかどうか其れは分からぬ。

 

 

アンタの趣味などまるで理解出来ん。

オレはかうして魚やら女やらを釣るのが好きだ。

 

まあ何て野蛮なご趣味で。

わたくしなどはいつもかうしてプレシャスオパールの輝きだけで至って満足なのに。

 

いや、今でも戦闘機は嫌ひでは無ひのだが、でも戦闘機は所詮野蛮だらう。

 

尚、諸感覚に対する欲望も所詮は欲望であり成佛を目指す限りは最終的には捨て去るべきものなのだ。

ですが美に対する欲望はまことに絶ち難ひ。

 

 

何故なら釈迦は其の晩年に屡「世界は美しひ」とさう仰られて居たからなのだ。

かの芥川 龍之介なども「末期の目に自然は美しひ」とさう述べて居たものだった。

 

其処からしても美とは最後に残る人間にとっての欲望なのやもしれぬ。

世界には善悪の区別がまた付くものかとも思はれるが、其れ以前での美の世界がわたくしには常に突き付けられて居ると云った話である。

 

 

尚、此の度は以下の作品を是非紹介させて頂きたひ。

永遠なるルドン -Ⅰ-

永遠なるルドン -Ⅱ-

永遠なるルドン -Ⅲ-

永遠なるルドン -Ⅳ ルドンを観る-

永遠なるルドン -Ⅴ ルドンの靑-

 

言ふまでも無くコレはわたくしが昨年の夏に暑ひ中を懸命になり書ひたものだ。

もう此れは間違ひ無く傑作だ。

 

勿論わたくしの好きな象徴主義の画家ルドンにつき述べたものだ。

此処でもってルドンの描ひた色のことなども書ひて居る。

 

でも先程読み飛ばしてみたところ何だか時折妙にふざけつつ結構難しひことを言って御座る。

要するに今とやり方は同じだ。

其れになんかまるで訳の分からぬことも言うて居ります。

ルドンの靑は二つあるとか何とか。

 

だがもはや誰もこんなものは書けやせぬ。

まさに此れが永遠の藝術作品だ、嗚呼まさにほんたうに永遠の。

 

其の永遠の石の色と永遠のルドンと。

無論のこと此の二つがあればもはやわたくしは他に何も要らぬ。