目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

永遠なるルドン -Ⅲ-



こんな風にルドンは屡孤高の其れも幻想の画家だとされて居ることがほとんどです。
其れも確かにさうなのでせうが、逆にわたくしは結構ルドンは下品でもって俗物だったのではないかとさう考へて来て居ました。しかも意外と現金でまさに現実的な人。

何故なら其の心の内部が心理的屈折により二元分離して居るだらうことからです。


ルドンは里子に出されて即ち母親に捨てられて、其のことにより心に癒し難ひ傷を負ひ兎に角もういつも心がボロボロです。


ですので、左様に過酷な現実から逃れる為には彼の内面に幻想としての真実を打ち立てるより他はなかった。


なので、「あれは、幻想ではなく、子どもの頃の自分が本当に眼で見たものだ。」とのことなのです。


二元分離で常に心がボロボロなのですが、ところが二元分離に至らなければならぬ人に限り普通人間は感度が増していきませう。


二元分離する位でないと実際表現の段階までいかずむしろ絵を観る側に回って居るより他は無し。


二元分離する位でないと実際表現の段階までいかずむしろ詩や小説を読む側に回って居るより他は無し。



なんですが表現者は常に戦闘状態ですので兎に角其の生き様乃至は心自体がキツイのです。


ですので、わたくしはむしろ表現などしなくて済む段階へと其の分裂を押し下げたひー押し上げたひ?-訳ですが其れがなかなか上手くはいかぬもので決まって何処かで藝術至上主義の方へと舞い戻って仕舞ふ為もはや其れは腐れ縁其のもののやうなもの。


どうにもならぬ定めのやうなものなので観念して其の性質に従ふ他はなし。
   

ほんたうのほんたうは「早く藝術家になりたひ」ではなく「早く俗物になりたひ」と云ふのがむしろ真の藝術家としての本音ではないかと思ふ。


ですので、其の価値観をも含めた生きる場自体が藝術家の場合には大衆的な価値観とはそぐわぬことが多ひ。


さうして其れは其のやうにならざるを得なかったと云ふことでもまたある。


故にわたくしはルドンの上品と下品はおそらくは同時進行して居たものとして見て居ります。



かようにルドンは反面での現金さ、俗物であるところを臆面も無く曝け出し結婚を機に薔薇色の生活を送るやうになる。
結婚して其の本質としての孤独が癒されたのかどうかは分かりませぬが兎に角其れ故に色を生んで仕舞った訳です。


色無し→色有りへと劇的に転換して行ったやうに傍目には見えませうが尤も其れは全然不思議なことでも何でも無くむしろ彼にとっては当たり前の出来事です。


たとへばわたくしが急に散文を捨て訳の分からぬ詩ばかりを書くやうにならぬとも限りませぬ。


其の訳の分からぬのが両極への振幅を持った表現者の心其のものなのだ。



ところで今岐阜県美術館は改修工事中で昨年の11月より一年間も休館して居るとのこと。
わたくしはむしろ今行きたひのですがさう云ふ時に限りやってません、と言われればつひ癇癪が起きさうにもなる。


ー尚、黒はむしろ無限の色を内包する色であるとの捉へ方もあるがあくまでわたくしは黒を色としては捉へたくは無ひ。ところがわたくしには黒が4と云ふ数字として直観されて居て其れが単なる連想からのものー4=四=死ーなのだとは言ひ切れぬ。何故ならエイプリル=4でもまたあるからなのだ。ちなみにわたくしは黒が可成に好きである。服は黒が好きだし、調度品なども実は黒が好きだ。但し其の黒はむしろ色をより目立たせる為の黒であり所謂黒子としての黒のことなのだ。ー



此処での近年の研究では云々、と云った部分こそがむしろ重要です。
実際にはルドンはあの手この手で自分の絵を多方面にわたり売り込んで居たらしひ。


元より色無しと色有り、即ち聖なるものと俗なるもの、静けさと騒がしさ、優しさー穏やかさーと不気味さーまがまがしさー、孤独と社交、また創造と破壊、さうした二面性が無くばとてもルドンの如き表現に到達することなど出来ぬ。


其の二面乃至は二極の様こそがルドンの見詰めし真実なのであり、また其れはルドンに限らず多くの藝術家の心が抱へる心理の傾向なのだ。


其の二元の相剋と相即の関係に於ひて彼ルドンの場合はよりハッキリして居るのだと言へやう。


ハッキリして居るので、むしろ暈すのだ。ーパステル画が多いー


暈すことで其の内面の葛藤を表面的には隠蔽するのだ。



ルドンの絵から醸し出されし静けさや穏やかさ、其れに加へ精神性の高さはむしろさうした幅広ひ両極としての矛盾や苦悩から齎されしものであったことだらう。


藝術としての戦闘が其のやうにハッキリし過ぎて居る。


だからこそ穏やかになり同時に静かにもなり得る。


謂わば根が俗物でもって何だか下品だ、だからこそ他面で上品であり且つ精神性が高ひ。


問題はゴッホの如くにキチガ●になったかならなかったかと云ふ部分にあらうが結局ルドンの場合にはならずむしろ家族ー従軍せし息子ーのことを心配し奔走した揚句に病を得て死んで居る。



かようにルドンはむしろ俗物であるがもはや誰も彼の俗物性を嗤ふことなど出来ぬ。


思ふに其の俗物性は最も徹底されたところでの藝術家魂の発露ではなかったか。


左様に藝術家にとっての最終目標こそが其の俗物性にこそあらう。



元より藝術とは紙屑のやうなもの。

まさに其は意味なきもの価値なきもの地に足の付かぬもの。


なのだけれども、常に其れは美しひ。


美しさとはさうした部類での何かとても哀しひもの。


其の哀しみの中に美と云ふ仇花を咲かせて独り去っていくのが表現者としての宿命だ。



かくしてルドンにとっての幻想とはむしろ真実だった。

其の対極には女が居て子が居たであらう筈。


ところが己が身に其れが現実化するに至る。



尚画家ルドンは、「自然の本質を見抜く能力」を重視して居たとされて居る。


沈黙の中でただ自然を観察することだけに限りなひ喜びを覚へて居たらしひ。

また其れは幻想なのではなく彼にとっての実存其のものだった。



そんな人間が何故家族を持ち俗物たり得るのだらう。

確かにわたくしも沈黙の中でじっとモノを観て居ることが嫌ひでは無ひ。


特に自然は好きなので死ぬまで其処に居たにせよおそらくは飽きなひ。

だがつひぞ自然は己に語りかけては呉れぬことであらう。


彼ルドンにとっては矢張りケッコンしたことが大きかったのかもしれなひ。

其れから子が出来たことが。


然し長男は幼くして死に、後に次男は戦場で行方不明となり其の消息を辿るうちに老ひたルドンは風邪をこじらせ世を去ったとされて居る。


かようなルドンの最期こそが「正しひ」藝術家としての此の世の去り方なのだと思ふ。



尤もゴッホのやうな最期が「正しくは無ひ」などとは思って居なひ。



ただ、其れが両極端であるやうに思われてならぬ。

けれどもルドンにとって家族はさうして一極としての救ひ以外のなにものでもなかった。


おそらくは其れにより極度の内面分離を抱へて居たのではあったが。


其の極度の内面分離の幅広さこそが色有るルドンの絵画を限りなく静かで穏やかなものとなして居る。


と云ふのも、其の極度の孤独=内向性の対極としての部分に人間としての血のぬくもり、心の動きが入り込んだからなのだ。



たとへ結果的に悲劇的な最期であったにせよルドンの作品に静けさー落ち着きーと穏やかな面とが見られるのはおそらくはそんな理由によるところでのものであらう。


重要なことはルドンの場合には内面分離が進みつつも妻や子を愛し其れを本来の彼の心ー内向した心ーと共に歩み続けて居たことだ。

其の両極を共に大事にし、相克し且つ相即することだらう疎外されし色を其の幅広き分離の様よりむしろ自然の色の諧調へと結びつけたのだ。





屡人は藝術とは何だ?と問ふ。

藝術とは爆発だ!とかの岡本 太郎氏氏は述べて居るが、わたくしの場合藝術とは下品ー感度無しーと上品ー高ひ感度ーの間に横たわる其の感性としての幅の広さだと考へて来て居る。


感性の振幅の大きさや方向性により藝術家としての個性が決まる。


ルドンの場合には極端な内向より発して、最終的にはもう少しで幸せを掴む寸前まで登り詰めた。


左様に孤独による分離→人間並みに統合、と云ふ過程を彼の精神は辿りし訳だが其れはあくまでも俗世間での価値観で、あくまで藝術の上では孤高の画家→家族を大事にする俗な画家、と云ふ逆の過程を辿ることともならう。

然しあくまで実存としてのルドンにとり其の俗化過程こそがかけがへなきものであった。
   

即ち真の孤独を知る者は俗なるものをこそ求めていかう。





かように藝術とはむしろそんなに高尚振ってやることでも何でも無ひ。


藝術とは単なる独り言だ。

其の独り言が売れるか売れないかと云ふだけのことでありそんなものは観たひ人が観れば良いのであり実は評価だの社会に対する影響力だの云ふ基準では其の価値を推し量れぬものだ。


左様に藝術とは実存としての告白だ。

だが其の告白も生まれつき其れに向いた人が居てなして居るばかりでのことだ。


だからほんたうは誰もが藝術のモチーフたり得る実存を生きて居る。

たとへばアナタの生が其の藝術の主題たり得るものだ。

それぞれの人間の生の主題の重みに軽重などは無ひ、即ち優劣など無ひ。



左様に表現者は心の振幅の激しさから表現せざるを得ぬ立場にあるだけのこと。

故に表現者などむしろ少しも偉くは無ひ。


なので高名な作家や画家が決まって大金を儲けるのは間違って居らうぞ。


さうして誰しもの生が重く、さうして同時に軽ひのである。

我我のイノチには本質としての優劣は無くしかも貴賤の区別も無ひ。


ただし役割分担はあらう。


故に作家は何かを書くのが仕事で、画家や詩人は美を目詰めるのが仕事で、表現しなひ人はセッセと会社へ通ひ家族を養ふことこそが仕事だ。


また女は常に掃除洗濯に勤しみ日頃より貞操観念をしかと構築しのみならず日に三度の飯をば確りと炊く。

其の飯こそが大事ぞ。


飯こそは藝術の母胎ぞ、其こそが家族ー人間ーの糧ぞ。



とのことで、仕事には貴賤が無く且つ又人生にも貴賤などは無ひ。


なので藝術は威張るな!

表現者は金輪際威張ってなどして居てはならぬ。

表現者はむしろ謙虚に生き即ち読者様は神様です、貴方の為なら一冊の詩集を必ずや書いてみせます。

お礼は二千円でいいです。

この二千円で何とか今日を食ひ繋いでいくことが出来やうぞ。



実は最近此の社会での現実上の出来事の方がずっと詩的と云ふか悪魔的と云ふか兎に角物凄ひことになって居るなと正直思ふので御座ります。


まるでウソのやうな現実がどうも社会=人間にはのしかかって来て居るやうだ。


ですので、今はむしろ形として外部に現れる部分がどうもおかしひ訳です。


其れはむしろ内面的な問題では無ひのかもしれません。



或は其れは合理化の極としての内面の破壊の問題なのやもしれぬ。


とあれ人間は其の生身でもってして詩を書く他御座らぬ。


生きて行くと云ふことは其の生身でもってして書く一篇の詩である。

たとへ其れがどんなに破壊的なものであるにせよ。

或は幸せに満ちたものであるにせよ。



分けても象徴派としてのルドンの絵画による詩は兎に角飛び切りに美しひものであった。

そんなものはもう誰も真似などしやうが無ひから永遠なるものだとさう述べて居るのだ。