目覚めよ!

文明批判と心の探求と

永遠なるルドン -Ⅴ ルドンの靑-


ルドンの絵画では靑色の使ひ方が他とは異なる。
ルドンの絵画は本質的に靑と通じて居る。


が、其の靑はたとへばシャガール作品解説「枝」
「青い花瓶」が描くやうな、また松本 竣介《街》1938年が描くやうな青とは異なる。
かうしたべたっとした靑では無く何かとても精神的な色だと思われる。


或は其れがルドンの内面の沈静度を指し示す色合ひなのやもしれぬ。
分離により高度な感性の振幅があるので深ーひ処へと心が常にうち沈んで居りさう云ふ性分はたとへば脳天気な人々には分からぬもので要するに奴等はガサツだ!

こんな内面の緊張度、まるで神の世界の領域の如き二元の極としての色の対比、其れも若き頃より延々と描きし黒、其の黒の無機的精神性に対する有機的精神性としての靑。

其の靑をガサツな世人がさうカンタンに理解し得やう筈も無ひ!


即ちルドンの内面の黒と靑は相剋し且つ相即する関係にこそあらう。

但し表現としての次元が異なるだけで根の方は共に同じくして其は内向であり沈潜の色だ。

かように靑こそは美しひ。

ルドンの精神としての基調色である靑こそが美しひ。


靑、其れは全く不思議な色合ひの色だ。

其は謂わば日常を超越した神秘性の体現でもあらう。

事実自然界には靑ひものは少なひ。
が、空は青ひし川も海もまた靑く、さらに宇宙もまた黒ひつまりは靑ひ。


だが靑ひ石は存外に多くわたくしも靑きオパールの標本を沢山持って居る。

なのだが人間には靑ひ人は居らずもし居るとしたらシヴァ神だの宇宙人だので其れは人間では無ひ。

靑ひ花も例の露草だの何だので無ひことは無ひが兎に角数は少なひ。

つまりは地球上での炭素型生命体には青ひものが少ないか又はごく少なひ。




うわあ、何て美しひのだらう。
此の靑ひケシの見頃の「ベストは一番花が咲く6月中旬頃の午前中!」とのことですので兎に角可成に根性を入れてコレだけを見に行かねばこんな美に遭遇することなどかなわぬものだ。


どうも花は青ひ奴が一番キレイなのだな。

兎に角靑は本質として人間の色では無ひ。

むしろあの世の色、さうしてあの世と通じる為の精神の色でもあるかのやうに。


其のやうに常にあの世までイって仕舞って居るルドンの精神構造を理解することはなかなか難しひ。

だがわたくしは今回其処への道筋を示して来た。
つひイって仕舞ふ藝術家の内面の道程を示すことで皆様方にも分かり易く夏休みにルドンが研究出来るやう指導させても頂ひた積もりだ。

左様にイって仕舞ふ人間同士にはまさに不可思議な連帯感があり其れはもう言葉など交わさずとも其の場其の雰囲気其の顔色でもって全部が瞬時に分かる=直観出来ると云った具合ひのものなのだ。

でもルドンの場合はもうとっくに亡くなっておりますが。

死んで居らうがどうしやうがそんなこと位は確実に分からう。




嗚呼、其の沈静の極致としてのルドンの靑よ。

事実其の靑は何処までも済み空や川や海の靑と、さらに宇宙の靑とも通じて居やう。

其のやうに靑き死人としてのルドン、其れがまた何で女の元へと走りしや?

が、其れは結局愛である。

愛とは永遠の倒錯のことだ。

倒錯することで彼ルドンは幻想を消し去らうとした。

色無き世界の無機性を離れ、ようやく其処で彼の性格の基調としての靑と向き合ふこととなる。


尚、靑はまた赤との対比をも生み出す。

赤とは何か?

赤とは血潮のことぞ。

或はメラメラと燃える炎のことぞ。

まさに其の焔こそが生命の本義である。


さう紅蓮の焔に包まれ我我生命は今此の時を生きておる。

メラメラと燃ゆる八月の陽の下に我が身を燃やし全てを、全てを焼き尽くしつつ人間共はたった今を生きていやうぞ。

が、其れでは如何にも暑ひ。

余りに暑過ぎやう。

そんな時には靑ひ花でも眺め是非鎮静化してみやう。

ルドンの如くに静かなる靑き諧調の底へと打ち沈んでみるのだ。



かように色の本質には二種がある。

まずは色有りと色無しの次元での二元対立があり、

いざ色有りとなりし場合には其処に靑と赤との根本対立としての諧調が出て来やう。

其の靑は精神と連なり赤は肉体と連なる。


又は靑は神仏と連なり赤は欲望と連なる。

なんですが、ルドンの描く赤は本質としてとても静かだ。

何故なら彼の赤は余分な欲望を含んでは居なひのだから。


だからこそ何処までも静かなる赤だ。

静かなる赤?

そんなものが果たして存在するのか。

赤い太陽はまた紅蓮の焔はメラメラと燃ゆるばかり、まさに全てを焼き尽くしてつひでのに此の地球をも焼き尽くさんとして居るのではなかったか。


いや、違ふぞよ、其れは違ふ。

何故なら靑があるから赤がある。

同時に靑が無ひなら赤も無ひ。

色無くば此の世には闇がおお其のま黒き闇が拡がるばかりぞ。

左様に彼ルドンの二元凝視こそはまさに徹底されしものであった。








かようにルドンの描きし靑と赤の色の対比は鮮やかでしかも決まって静かだ。

其の対比が精神性を基調とする色の次元で行われて居る故色と色が対決せずむしろ調和して居るのだ。

其の色の対比の静けさこそがルドンの描く絵画の真骨頂だ。

また其れはあらゆる色の諧調にて行われて居る調和なのだ。


故にルドンの描きし色こそが別物なのだ。

むしろ其れは自然の色の諧調に最も近ひ。

即ち其こそが観念としての色の相剋を克服し調和へと至る色ぞ。

まさに相即することだらう色としての色ぞ。


尚ルドンの描きし靑が鉱物由来のたとへばウルトラマリンであったのかまたは岩群青であったのか其れは分からぬ。

然し昔の鉱物起源の顔料こそがまさに最高に美しき靑であり其れこそ永遠なる靑だと其処で言ひ得るのではないだらうか。

元より靑は別世界の色で陽の下に照らし出される命の燃焼としての色では無ひ。

其は水の色であり月の光の色でありまた観念としての色なのだ。



其の観念が自然界には無ひ。

か又は弱ひ。

対する人間は観念的生物なのだ。


人間はむしろ観念に規定された部分をのみ生きる。

故に歴史過程とは其の観念的な過程のことを云ふ。

其の観念の色こそが靑なのだ。


観念とはそんな靑き情念の疼きである。

かようにルドンが描きし靑には二種がある。

ひとつは自然の諧調としての調和的な靑で、いまひとつはルドン自身が体験せし精神の振幅としての靑だ。


其の自然の色の諧調としての調和的な靑と、画家の精神の振幅としての靑とでは微妙に異なる。

其の意味合ひが異なるのだ。

たとへば上記1.と2.の例に於ける靑は精神性の方での靑のことだ。

3.と4.の例に於ける靑は自然の色の諧調としての調和的な靑のことだ。

が、4.の場合には花瓶の靑に精神性の方が混入しても居らう。

ただしいずれにせよルドンの靑は常に静けさに包まれ色として洗練されて居る。


靑と赤の二元的対比は生の基本構造を指し示すものでもある。
靑が精神で赤が物質性だとすると、たとへば靑が月で赤は太陽であり、また靑が水ならば赤は炎であり、さらに靑が男ならば女は赤だ。

然し其れはあくまで観念的対比である。

が、いずれにせよ靑は生の一方の極を象徴的に暗示するものだ。

ちなみにわたくしは靑と赤とが共に好きだ。

勿論基調は靑の方なのだが案外鮮烈な赤なども好きなのだ。


ただしごく最近は自然界に於ける靑の微妙な色の変化こそを追ひ求めて来て居る。

特に空の靑、其れにはまさに無限とも言へる靑の諧調の拡がりがあり真に美しひ靑とは其の空の示す靑のことだと思ふやうにもなった。

ただし其れはわたくしが海にはほとんど行かなひことと関連付けられて居ることなのやもしれぬ。

勿論海自体は美しく好きなのだが、元来神経の細かひわたくしは磯臭ひのが苦手でまた物理的にも遠ひのでなかなか行けぬのだ。



精神的に沈潜した靑なんてのは存外に人間が好む主題のもので、さう云ふのはむしろ偉ひ色のことで自然界に於ける単なる靑とは違ふ。

などとも屡思はれて居やうが最近のわたくしはむしろさうした分別的な色の捉へ方を離れつつあり、要するに単に靑、其れも庭に咲いておる小さき花、其の露草の靑にこそ憧れて居り、また日々移り変わる夏の空の靑、其の思想無き靑、まさに無垢なる自然の諧調としての単なる靑にこそ擦り寄っていくのだ。

其の靑には死人は入って居らず靑き月の光も射しては居らぬが兎に角美しひ。

また六月の初旬には山で青き不思議な石を幾つか拾って来た。ーオパールには非ず、するとカルセドニーか?ー



「靑は藍より出でて藍より靑し」

尚此れはかの荀子の言葉である。

普通此の諺は弟子が師よりも優れて居ることの喩だとされて居やう。

しかしながら、其の靑とはもしや精神のことではないか。

対する藍とは現象界での靑のことだ。

しからば精神的な色である靑は現実的な靑である藍よりもより靑ひ筈。

即ち靑としてはより優れて居らう筈。

と云ったまさに荀子なりの観念論の根拠を其処に提示するものではなひのか。


ちなみに露草からは青ひ染料が採れるとのこと。

まさにこんな感じの靑がわたくしにとっての露草の靑。ツユクサ

けれどもルドンにとっての永遠なる靑は半分観念が入って居てつまりは其れが精神性の象徴でもまたあるのだ。

さて上でのルドンの靑の例では露草的な藍色に近い靑が何故か集まって仕舞ひましたがルドンの描く靑でむしろ幻想的で一番美しひのは淡ひ靑です。



《眼をとじて》(1900年以降) 岐阜県美術館蔵《グラン・ブーケ》1901年 三菱一号館美術館ARTより

まさに此の《眼をとじて》での神話的な靑のことです。

ベアトリーチェ (Beatrice) 1895年頃 34.5×30cm | パステル・紙 | 個人所蔵
こちらでの神話的な靑なのでもまたある。


《神秘的な対話》(1896頃)、《蝶》(1910年頃) ARTより
     
さうして此れ等の絵にも靑が使われて居ります。


いずれにせよルドンの靑は絵画史の中でも一種特別な位置付けのものではなからうか。
さうだ、わたくしには其の靑が単なる靑には見へぬのです。

強ひて言へば其れが多分にルドンの精神性を象徴する色なのだ。

或は自然としての色の調和を示す色なのだ。

または其の両者が相剋し相即することだらう靑其のものなのだ。

畢竟其れは他の画家が描く靑とはまるで別物のやうにわたくしには見へる。