目覚めよ!

文明批判と美の探求と

罪を憎んで美としての此の世を憎まず

本質的に文明ー社會ーは抽象的利益の為の奴隷であり最終的に其れは自己矛盾をなし崩壊して行くものだ。

其れをなるべく被害が少なくする即ちソフトランディングして行く為には地産地消での限定的経済活動をして行く他は無ひことだらう。

 


其のやうにまさにみんなー一般大衆ーの勘違ひとは、社會が正しひとさう心得違ひをして居るだらう大多数の人々の其の意識の保ち方にこそあらう。

対して藝術とは意識を高く保った上での反抗であり分離なので元々美術系、音楽系、作家系の人々の中には社會に対する反骨心がまた存する訳だ。

 


なのですが藝術にはひとつ弱点があり其れ即ち藝術をやる人間が生きて行く為には實は金が要り其の金でもって食料を調達し肉体を維持せねばならぬと云ふことだった。

 


では金持ちの家に生まれし藝術家は皆幸せだったかと云ふとむしろ其の逆で特に昔の文士などは大抵は家が金持ちだと社會主義へと走りむしろロクな死に方をして居らぬ訳だ。

 


其の社會主義は如何にも理性的で正しひのであるが正しひものが此の獣じみた世界に通るとは限らず、と云ふか其の社會主義自体が結局大矛盾を抱へ込んで居るが故社會主義の末路こそがかのプーチンの如くに王様化しまるで過去へと逆戻りして行くのでもある。

或は中國の共産体制化の方も何やら古臭ひ中華思想と結託して居り、よってまたいつか其処に殷の紂王のやうな恐ろしひ暴君が出て来る可能性も否めなひことだらう。

 


つまるところ社會はいつまで経っても馬鹿其のものであり、まさにこんな溜息ばかりが出るやうなバカげたお話のオンパレードであり全くお話にも何にもならぬものだ。

 


と云ふ訳でこんな社會に嫌気がさしたわたくしはもう社會を見捨てる覚悟を固めたところである。

 


金持ち、此のバカバカしひ価値ヒエラルキーのあり方、さうして権威、また権勢、さらに権力、此れ等の虚的な妄念ー抽象的価値ーに振り回されし社會のあり方は今後まず間違ひ無く崩壊の途を辿ることであらう。

 

 

 

其処でまずは自衛の方策をば個の範囲で探って行かねばなるまひ。

 


1.金持ち馬鹿になるよりは清貧の壱藝術家として生きる

2.社會は其の根っこが馬鹿だから其れに従ふとみんなが崩壊する

3.藝術の本質とは負の愛=有の無である

4.馬鹿はたとへ死んでも治らなひ

 

 

其の意識を高く保つと云ふことは「負の愛」を心中に導くことでもある。

「負の愛」とは滅び去るものに対する藝術的な意味での愛の加工のことだ。

 


でも社會に洗脳されし者共はむしろ其の社會にこそ全幅の信頼を置ひて御座る。

 


なのですが航空産業などは戦後ずっと花形産業だったものが今や「飛び恥」などともされて居る位だ。

つまりは飛行機は二酸化炭素の排出量が多ひのでおそらく今後は滅亡する業種であらう。

 


まさに其れが自然による具象的限定を受け淘汰されると云ふことなのだ。

 


また観光産業なども淘汰されて行く可能性がある。

但し地元を中心に地産地消にて回して行けば観光地として生き残ることも或は可能であらう。

 


なのだが大都市に対し屈服するかのやうな経済構造を採って居る地方こそが疲弊と崩壊の度が甚だしくもなることだらう。

 


つまるところ東京もまた大阪も且つ名古屋も少し金がある位のことで實はまるで偉くなどは無ひのだ。

 


第一かの岳見の大豪邸が何故売りに出て居たのか?

其処からも金は本質的な意味での価値とはなり得ぬ訳だ。

 


但し金が無ひと食ひ物が得られず其れでもって餓死して仕舞ふ。

まあ其の時には炊き出しにでも並ぶ他は無ひことであらうが。

 

 

 

大都市圏で少しだけ威張れるのが所謂文化の力があることだ。

なのだがたとへば金沢や盛岡などの地方都市でも「文化力」があるとされて居る都市はある。

 


或は東京や大阪や名古屋よりもさうした文化都市の方が本物の力を宿して居るのやもしれぬ。

 


現代文明の一番おかしなところが此の抽象的な力に対する盲目的な信仰である。

どだひ今株価が高ひ訳だがこんなものは國と云ふか日銀の頭が悪ひー心が悪ひー為に引き起こされて居る虚としてのマネーゲームの世界であるに過ぎぬ。

 


其の現代文明が狂ってる、と云ふ部分こそがわたくしの基礎認識なのであり無論のこと其の意見を撤廃する積もりなど今後に於ひてもサラサラ無ひのである。

 

 

 

なのだけれど、もはや世が余りにもバカバカしくやってられぬと云ふのが實情でありよって其のバカバカしひ世の流れを糾弾することへの無駄を省き無視して仕舞ふ積もりである。ー個としての社會への合理化の断行ー

 


すると其処へ二人の👩神が降り立ちそんな「負の愛」としての言葉を我に語りかけて来た。

嗚呼、其れは「啓示」とも異なるひとつの藝術上の示唆である即ち天恵なのでもあった。

 

 

 

要するに社會的経済活動にはむしろ決定的な価値の倒錯が潜んで居る。

其れに抗ふことは個としての生命を危険に晒すことになるのだからむしろ其処からは避難すべきなのだ。

 


さうして意識を高く保つ個はむしろ自らを限定し生き抜くことが可能なのだらう。

個が持ち得る思想としての其の鍵は「限定」であり且つ「負の愛」の履行である。

 


概ね世間が陥り易ひ誤りとは多様性を認めるが故に限定を解除し愛を認めんが為に正の愛を抱擁して仕舞ふことなのだ。

其れも其の正の愛を抱擁して仕舞ふことこそが所謂子宮思考と結託することとも知らずにだ。

 

 

 

だがたとへ♀ではあれ藝術を解する👩が現世利益へと全的に傾く訳では無ひのである。

また盲信的にかの教祖様を信じ其処へと全的に傾く訳でも無ひのである。

 


つまるところは世に「負としての愛」を保つ意識の高ーひ👩共もまた居るのである。

 


わたくしには其れがようやく分かりひとまずは心の安定を取り戻したところだと申すべきなのだらう。

 

 

 

文明の未来は、つまりは産業は、また政治は概して大丈夫だとみんなはさう信じ込んで御座る。

 


だがほんたうに其れは大丈夫なのだらうか?

わたくしにはむしろ其れ等こそが最も不安定なものに感ぜられて来ても居た。

 


何故みんなは其のやうなものに自らの、また👪の未来を託したりして居るのだらうか?

 


でも其れを言ふなら藝術程胡散臭く且つ不確實なものもまた無ひではなひか。

 

 

 

でも藝術はまさに教科書にも載って居るではなひか。

何故藝術が教科書に載り、大金の儲け方や👩遊びの仕方などが教科書に載らぬのか其れが分かるのか?

 


其れはさうした俗的なヒエラルキーのあり方が人間の持つ本質的問題を解決するやうなものでは決して無ひからなのだ。

 


また盲信的な信仰のあり方でさへもが其の人間の持つ本質的問題を解決するやうなものでは無ひ。

 


但し信仰其れ自体が人間の救済に役立たぬと云ふことでは無論のこと無くむしろ信仰によらずば人間が本質的に救はれることは無ひのだが。

 


要するに信仰のあり方さへもが理性的に処されたものでなければならぬことだらう。

 

 

 

では藝術とは一体何を人間に対し齎すものなのだ?

元より藝術とは救済では無くましてやより良く生きる為の方策なのでも無ひ。

 


先に述べた如くに藝術とはまさに其の「負の愛」であり言はば愛の形としての負を自らの心の中に受け容れることなのだ。

 


然し其れではまるで救はれぬ訳でせう?

 


たとへ救はれずとも良ひ。

藝術とはそんな一種の諦念なのでもまたあらう。

 

 

 

だが其れはたとへ社會的には救はれずともあくまで自らとしては納得出来る生き方とならう筈だ。

藝術を志すとはまさにさうしたことなのであり、故にモリスもまたルドンもさうして賢治も其の自らの小宇宙を生き抜き其の侭に生を終へて行ったのだった。

 


すると藝術家とは決して金持ちにならうとはせずまた社會には無関心で且つ着る物や食ひ物には無頓着でもって作品の構築のことばかりに日々勤しむ変はり者の集団のことなのですか?

 


まあさうであらう。

だが社會を変へやうとした藝術家もまた居るのだしーモリスも賢治もまた一面ではさうであったー着る物や食ひ物に拘る藝術家ーバルザックなどーもまた居たのだった。

 


そんな藝術至上主義ですと、やがては飯が食へずに皆死ぬるのではありませぬか?

其れとも太宰や芥川のやうに🚺問題で行き詰まり折角の天才を反故にし自決する羽目に陥るのではありませぬか?

 


いやわたくしは自決其れ自体に問題があるとは考へては居らず、むしろ藝術家として作品が無ひことに最大の汚点と云ふか情けなさと云ふかみっともなさと云ふかそんなものを常に感じて仕舞ふ訳だ。

 


いやでも確かに太宰や芥川の作品は今小中高等学校の国語の教科書にしかと載って居るな。

 


きっと其のうちに加島 祥造先生の詩なども載ることだらう。

でも流石に天才詩人谷川 俊太郎の「うんこ」と云ふ詩だけは何処にも載らぬことであらう。

 


アンタはかうして社會批判ばかりして社會其れ自体を貶して来た訳だから其の批判の毒にやられてもう何も書けやしなひのだ。

どうだ、ザマアミタカ。

 

 

 

残念でした。

むしろわたくしはこれからです。

 


むしろこれからが其の芸大出の知性との対決だ。

また横山先生の恩師との対決だ。

 

 

 

何でまたさういつも対決ばかりになるのだ?

少しは👩に対し優しくなれよ。

 


其の藝術とは優しさのことではなかったか。

 


左様、確かにモリスの作品は優しひ。

故に優しひものこそが眞に理性的なものなのでもある。

 


対してグローバル資本主義だの技術革新だのと云ふのは眞に理性的なものでは無くまるでもって獣としての闘争の世界のことである。

 


わたくしは其れ等を遮断しモリスやルドンの、さうして賢治や太宰や芥川の優しさへと立ち還る積もりだ。

 


さうだ、其れぞまさに藝術による現在と未来の遮断のことなのだ。

さうして時を止めて仕舞ふのだ。

 


いや過去へと戻るのだ。

 


あの過去としての負の愛の抱擁へと己を巻き戻すのだ。

 

 

 

藝術とはそんな死に対する抱擁なのでもある。

死に対する抱擁こそが其の負の愛を成就させることとならう。

 


現代人の価値観はまさに洗脳され感ずるべき其の死と分断されて仕舞って居る。

だが死があるからこそ生が育まれ其処に美化としての藝術の花々が咲き競ふことだらう。

 


尤も其の花花は美しひだけでは無く常に毒を持つ。

 


其の毒を浴びたとへ此の身が焼け爛れてもさうして美を形作らねばなるまひ。

 


随分と激しひ人だな。

まあ大人しくは見えるのですがほんたうは意外と過激なんです。

 

 

 

モリスとは言ってみれば植物的装飾ーーデザイン作家ーであり藝術では無ひのではありませぬか?

でもモリスは詩人でもあるのだぜ。

尤も其の詩を読んだことなど無ひのだけれども。

 

 

またモリスにせよミュシャにせよまさに其の装飾的藝術表現はむしろ用の美を体現するものなのでもあらう。

 


其の用の美とは?

藝術の持つ一面である優しさを実用レヴェルとして纏めたもののことだ。

 


何故激しひ筈の其の藝術がかように優しくもなれるのか?

燃焼⇔優しさー二元的闘争に於ける燃へ尽きの形としてのー

 

 

のやうな二元構造がどうも藝術作品には潜んで居る。

 


さうして激しく燃焼ー葛藤=対決ーしつつ他方ではとても穏やかで優しひ。

 

 

 

特にルドンの絵画作品などが其の典型例なのであらう。

また宮澤 賢治にせよ其の文語詩にはまさに激しひと云ふかグロテスクなイメージを内包するものが多々あるものだ。

 


佛教徒であり基本的には穏やかな賢治であるにせよ常にさうして彼は異常なものをも抱へて居たのだ。

 

 

 

特にモリスの場合には自然への共感の感度が高くあり其れこそ自然と共生し生きる社会主義者や一部の見識の高ひ女性などには好まれて居るのであらう。

 


あれ、やっぱりモリスは🚺向きなのか?

 


いや女性に限らず感度の高ひ方々にはモリスは極めて相性が良ひ筈だ。

 


なのだがどちらかと云ふとハイクラスと申しますかハイセンスな人々に人気で家の近辺でもってモリスが大好きだと云ふ人は残念ながら居なひのだ。

 


ではたとへば八事の金持ち連中などは皆モリスが好きなのか?

 


いや金持ちに限らず思想がね、其の思想がある奴=意識が高ひ系の人々に兎に角好まれて居るのだらうよ。

 

 

 

ではおまへも其の意識が高ひのか?

 


すみませんが其の意識が高ひことだけは紛ふ事無き事實だらう。

 


其れにつけても流石は八事の表山だったと云ふことだな。

 

 

 

其れでもってモリス関連の商品のひとつでも買って来たのか?

 


いやひとつも買ってません。

實はひとつ興味があった物があったが其れはペンでは無くお香入れでした。

 

 

但し仏蘭西人が作ったと云ふフルーツケーキを二つばかり買って参りました。

 

 

 

其れはスーパーで買って来るフルーツケーキの味とは可成に違って居た。

どんな風に違ふのか?


何かかう如何にも西洋っぽひものだ。

 


其れでもって以前は世界オークションでもって西洋からアンティークのペンを取り寄せて居たことをつひ思ひ出して仕舞った。

さうしてアンティークのペンは良ひ。

 


まるでモリスのやうに?

さうまるでモリスのやうに用の美を備へて居る。

 


わたくしが今求めて居るのは或は表現したく思って居るのはまさにそんな用の美のことなのだ。

其れも観念としての美のことでは無く過去に存して居たであらう實用としての美の世界のことだ。

 

 

 

故に六月以降は此処をそんな文化と美を描く世界へと変へて行くつもりである。

 


宗教や政治には其の根本のところで失望したが故に是非さうさせて頂く積もりである。

但し宗教に対し失望したのでは無く新興の宗教を奉ずる大衆に対しまさに失望したのである。

 


此の世界は其の用の美を備へる美しき世界である。

此の世がどうしやうも無ひ矛盾に苛まれて居るのは其れは人間の観念のあり方が悪ひのであり故に意識の保ち方により其れが有にもなれば美を育むことさへもが可能な世界なのだ。

 


つまるところは謂はば罪を憎んで美としての此の世を憎まず、と言ったところである。ー其れも佛法の考へ方とは少しく違ふものですがー