目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

『コヘレトの言葉』より學ぶー壱ー

現代人の心が今総じておかしくなりつつあるのは悲しみや苦痛と云った負の要素をむしろ社會の側が遠ざけやうとして居るからであらう。

 

 

生⇔死

樂⇔苦

靑年⇔老年

金持ち⇔貧乏

現世肯定ー現世利益主義ー⇔現世否定ー救済思想ー

 

 

現代人の生の目的が此れ等の二元論に於ひて全部左側に寄って仕舞って居ることこそがおかしな部分であり要するに其れは現實主義ー現世利益主義ーに偏って仕舞って居る訳だ。

其の一方的な価値観の流れを一旦堰き止め逆方向へも流れるやうにせぬとおそらくいつか其の価値の川の流れは氾濫を起こし文明の流れ其れ自体が崩壊するに至ることだらう。

 

 

 

[こころの時代] それでも生きる 旧約聖書 「コヘレトの言葉」について語る | 小友聡×若松英輔 | “異端の聖典” | 第3回 すべての出来事に「時」がある | NHK

それでも生きる 旧約聖書コヘレトの言葉 5 今を見つめる

 

尚わたくしは現代と云ふ時代其のものに対しかうして常に批判的な人間である。

 

要するに現代と云ふ時代を常に懐疑的に見詰めむしろ隙さへあれば其れを否定してかかるタヒプの人間なのだ。

然し元来は現代の全てを否定的に見詰める人間ではなかった。

 

其れが何故さうなって行ったのかと云ふ部分に就ひてはこれ迄の投稿にて其の経緯を明らかにして来た積もりである。

但し順を追って書かれて居る訳では無くむしろ其の折々の感懐に絡めしかも適度にざっくばらんな形にて書ひて来たので其の点に就ひてはあくまで過去の記事を参照して頂きたひものだ。

 

わたくしは昨年まで勤め人であり現在も家のことをほぼ全部やって居るから實はそんなに時間がある訳では無ひのだがかって塾にて社会科を教へて居た折から此の時代に対する違和感と言ふか懐疑の思ひが多々渦巻ひて居たのでまさに其の部分を言語化する試みこそが此処での内容であった。

 

ところが、其の告白に於ひて最終的に問題となったのが現代人が持つ感覚ー一般的な感覚ーとわたくし自身が持つ感覚のまさに乖離の部分であった。

 

正直其の感覚の差異こそがまさに埋められなひ溝でありおそらくは共に永遠に理解し合へぬ部分なのでもあらう。

 

で、わたくしは其の感覚の差異をこそ憎むと云ふか恐ろしくも感じて居る訳だ。

 

其の現代の常識こそが「やり過ぎ」でありまさに其処を限定せぬととんでもなひことになるぞよとわたくしは何年も前からさう述べて来て居た筈だ。

 

 

まさに其の危惧が「コロナ禍」として實現するに至った訳だった。

だが人間存在に対する本質的命題としてわたくしが現代のみんなに突き付けたかったのは實は其のやうな危機其のものに関してのことでは無かった。

 

わたくしがみんなに是非言ひたかったのは「負の生」のことでありまた「負の愛」のことであった。

 

其の負の生とはまた負の愛とはまさに一部の見識の高ひ方々には何となく了解されるものであることだらう。

 

と申しましても大多数の方々には一体全体何のことやらチンプンカンプンなのだらうが其れぞズバリ価値ヒエラルキーの逆戻しー巻き戻しーのことである。

 

だが其のことをわたくしの言葉にて矢継ぎ早に述べ立てたにせよおそらく其れはまさに焼け石に水であることだらう。

 

 

 

なのでわたくしは今此処に其のヒントとなることだけを具体的に示して置きたひ。

 

NHKテキスト それでも生きる 旧約聖書「コヘレトの言葉」

 

此の本の中にはおそらく其のヒントがぎっしりと詰まって居ることだらう。

 

居ることだらうと云ふのは、わたくしもまだ此の本を入手しては居なひからのことだ。

 

 

だが其処で何だ、またバカにしていやがるな、などと思ってはいけなひのだ。

 

何故ならほんたうの智は本の中に埋まって居る訳では無ひのだから。

 

ほんたうの智は知の苦闘の中から生まれ其れは得るものでは無く自ら生むものなのだ。

 

さう自らの内なる世界に生むものであり灯すべきものなのだ。

 

 

 

ー全てのことが人を疲れさせる。語りつくすことはできず、目は見ても飽き足らず耳は聞いても満たされない。

太陽の下 新しいことは何一つない。(1章)ーNHKこころの時代・「コヘレトの言葉」を解説!辛さ・苦しみの中でも生きる意味とは?より

 

事實として今人間界ー現代社會ーでのあらゆることが矛盾に陥って御座る。

 

かうして社會的に組み上がる組織は腐敗、劣化しまるで其れに己の生命を託して生きる我我大衆はまるで馬鹿みたひなものだ。

いや、事實として其れは馬鹿なのだ。

 

社會的に組み上がる組織のトップ=リーダーに付き従ひ生きる事其れ自体が實は矛盾なのだ。

 

かう云ふことを述べると皆は嗚呼、また始まった。

とさう思ふことであらう。

 

でもまさしく其れがほんたうのことだよ。

 

何度も申して来たやうに社會に対し全的に与し其処から価値観を植へ付けられることこそが誤りの元だからだ。

 

 

 

ー星

 太陽の下に新しきことなしとは古人の道破した言葉である。しかし新しいことのないのは独り太陽の下ばかりではない。ー侏儒の言葉 芥川 龍之介より

 

 

かうしてかって芥川は旧約聖書を丹念に読み込んで居たやうである。

彼が死した時其の枕元には一冊の聖書があったともされて居る。

 

其のコヘレトとは古代の伝道者のことだらうが現在は誰だと特定出来るものでも無ひやうだ。

其の思想的な位置付けとしてはまさに西洋の老子のやうなものなのだらうとわたくしは思ふ。

 

だが老子よりもより悲観主義でありつまるところはペシミスティック且つニヒリスティックであり一見すると何処にも救ひが無ひかのやうにも見受けられる。

 

 

但し現代の識者による『コヘレトの言葉』に対する論調は大体以下のやうなものとなり易ひ。

 

 

ーけれども、こういう時にこそ、お伝えしたいことがあります。それは、この世界に何が起こるか予測できないけれど、他者に寄り添い、自分にあるものを分かち合いなさい、と「コヘレトの言葉」が勧めているということです(11章2節)。先日、対談者の若松英輔さんが、コロナ禍の今、自分の弱さを認め、弱い立場の人に目を向けようと新聞に寄稿しておられました。その通りです。不安が消え去らない時代に、命の大切さに気づかされ、弱さに寄り添う優しさを取り戻しましょう。NHKこころの時代・「コヘレトの言葉」を解説!辛さ・苦しみの中でも生きる意味とは?より


人生は矛盾だらけだがそれでも生きる、と述べています。

ー私たちは明日のことを分からないし種をまいても実を結ぶかどうかわからないけれども、それでも1日を休むことなく過ごすのだ、と述べています。

ーコヘレトは私たちが他者と一緒に生きることを述べています。 NHKこころの時代・「コヘレトの言葉」を解説!辛さ・苦しみの中でも生きる意味とは?より

 


「人生に無意味なことは、何一つない。旧約聖書の中で「名言」が多いとされる詩文「コヘレトの言葉」。未来への不安がはびこる現代で、人生のすべてを肯定してくれるこの章が注目されている。辛さや苦しみさえも幸せに変えてくれる、コヘレトの知恵とは何か。「束の間の人生を生きる」「すべての出来事に時がある」「小さな幸せを見いだす」「今を生きよ」……。キリスト教旧約聖書の基礎知識を押さえながら、「生きよ」とうながす言葉の数々を読み解いていく。巻末に「コヘレトの言葉」を全文掲載。批評家・随筆家の若松英輔氏の特別寄稿も収録。」「NHKこころの時代~宗教・人生~ それでも生きる 旧約聖書「コヘレトの言葉」(NHKシリーズ)」本の内容紹介より

 


尚好き嫌ひで言へば個人的に其の作家の若松 英輔氏は好きである。

なのではあるが、わたくしの場合コヘレトの言葉をキリスト教的な有の思想ー全能者の被造物としての人間の生としての有(生の価値)ーと結び付け全的な肯定の手段として解釈すべきものでは無ひと考へて居る。ーキリスト教はむしろ負としての有、負としての生、負としての愛を生きるものなのではなからうかー

 

 

さうして結果的にコヘレトの言葉はむしろ悲観から人生の意味や生きる価値を捉へて居る。

 

では何故悲観から捉へねばならぬのだらうか?

 

其れは事象又は観念は逆側から捉へねば全的な把握即ち全体論的な認識が可能とならぬからなのだ。

 

即ち大衆ー一般人ーにとり決して出来ぬのがまさに其の認識なのだ。

其処をこそ突き老子やまたコヘレトが眞實を語って居たのである。

 

たとへばわたくしがリーダーに頼らず眞我に従ふべきだとさう述べると大衆的自我はコイツは今変なことを述べた、とさう思ふことだらうがまさに其処こそが大衆の犯す認識の上での誤りなのだ。

 

 

つまりは前向きの言葉ばかりでコヘレトの言葉を括って仕舞ってはならぬのだ。

もしも前向きばかりで人類の仕出かしたことを全て赦して仕舞ふと其れはもはや逆にキリスト教の説く終末論へと容易に捉へられて仕舞ふことだらう。

 

いやキリスト教が結局何を説ひて居るのかと云ふことは今暫く御勉強の時間を頂き其処で良く良く吟味してみねば正直分からぬことでもある。

但し上記の心の時代の番組中では小友 聰なる學者が其れは所謂ダニエル書に対するアンチテーゼのやうなものだとさう述べて居るのである。

 

 

即ち人類の仕出かすことはむしろ赦せぬとさうコヘレトは述べて居るのだらう。

 

そりゃ赦せる筈が無ひはな。

 

何故なら温暖化は仕出かすは、生物種は殺しまくるは、おまけにマイクロプラスティックやナノプラスティックでもって地球を全部汚染した我我は2050年以降次第次第に細胞の中に其のプラスティック汚染による影響が顕著となり結局はみんな死ぬしか無ひやうだ。

 

げえっ、そんな👿のやうな破壊者だったのか我我は。

 

ばか、そんなことは初めから分かって居ることじゃなひか。

だから大衆は馬鹿なんだよ。

 

いやそんな風におまへの言ひ方が如何にも毒々しひので其れに対してみんなが怒って居るだけのことだ。

 

だが其れも一部の見識の高ひ方々にだけには分かって貰へる筈だ。

 

 

 

ー青年時代=『雅歌』(愛の歌)

壮年期=『箴言』(知恵の言葉)

晩年期=『コレヘトの言葉』(この世の全ては虚しい)ー『コヘレトの言葉』の意味とは?思想を要約してまとめてみた より


 

此の「コヘレトの言葉」に限らず厭世的な思想は洋の東西にかって屡あったが時代が進むにつれー特に近代以降か又はルネサンス以降ーは時代の表面に現れぬやうになって行く。

と云ふことは其処に文明の奉じる思想が抽象的に+の方向へ捻じ曲げられたのだと考へられやう。

 

即ち本質的に悲観論が成り立たぬ世界観が其処に成立して行く訳だ。

 

 

だが遥かな過去の記憶ー思想ーはむしろ其の生の悲観性をもしかと内包するものであった。

故にわたくしが述べて居るのは其の新しひ思想に対する胡散臭さのことなのだ。

 

或は逆に現代人は合理化により正の思想ばかりを組み立てやうとして御座るがまさに其れこそが最も胡散臭ひであらう思想である。

 

どだひ全能性若しくは完全性は其の+思考ばかりでは組み立てられぬ筈である。

 

また愛にせよたとへば利己愛を+思考ばかりで追求すれば其れでもって破壊が齎されることはまず間違ひなひことだらう。

 

どだひ現代文明の愛のあり方とはむしろ其の利己愛の突き詰めによるものでもあることだらう。

 

 

故に眞の理性は其の偽善の様をこそ見破らねばならぬ訳だ。

 

温暖化もまたプラスティックゴミによる環境並びに生命の破壊にしてからもが全てが其の人類社會ー文明ーの仕出かした特等の罪である。

 

其のやうな文明を何故よりによりみんなは信奉し歩むのだらうか?

まさにわたくしには幼き頃より其れが分からなかった。

 

 

厭世的⇔建設的

 

と云ふ対概念の上から言へば無論のこと両方をやらねばならぬのだ。

 

第一神は👿と一体であり佛もまた魔と一体である。

其のやうに分別される認識自体に我我は縛り付けられて居る。

 

即ち其の両方をやると云ふ意味に於ひて初めて「コヘレトの言葉」は+思考へと転じて行くのだらう。

 

で、科学技術には其の-面が無ひー観念として無ひーからむしろほんたうの意味での破壊を招き寄せて仕舞ふのであらう。

 

 

勘の良ひ皆様ならば次第次第にお気付きのことかとは思ふのだが近代以降人間がやる気を出せば出す程にむしろ世界を破壊して来て居る訳だ。

其の破壊と停滞とのどちらが良ひかと云へば停滞の方がむしろ優れて居る。

 

 

では何故其のことに就き大衆は気付けぬのか?

所詮其れは近代思想に強ひ洗脳作用があるからなのだらう。

 

 

 

やる⇔やらぬ

人間には一番出来ぬことが其のやらぬことである。

 

まさに「やらぬ」と云ふ素晴らしき価値があるにも関はらず人間はつひやっちまふ訳だ。

 

其のやらぬ価値、まさに石橋を叩ひても渡らぬ価値を見詰めぬ現代社会は如何にも一方通行であり其の様やまさに奇妙であり異常ですらあることだらう。