目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

『コヘレトの言葉』より學ぶー弐ー

 

ー9かってあったことは、またあろう。
かってなされたことは、またなされよう。
日の下におよそ新しいことはない。
10「見よ、これを、これこそ新しい」と
いうことがあろうか。それはわれらの前の
代々にすでにあったことだ。
11前のことは記憶されず、後のことどもも、
さらに後の世に記憶されることはない。

 

13そして天が下で行なわれる一切のことを知恵によって探り究めようと志した。
やっかいな仕事だが、神が人間を悩ますために賜うたことなのだ。
14わしは日の下で行なわれるもろもろのわざを見たが、
なんと一切は空であり、風を追うようであった。
15「曲がったものは矯(た)められず、
欠けたものは数えられえない。」

 

17わしは知恵と知識、狂乱と愚行(の別)を知ろうと心を傾けた。
だがこれもまた風を追うに等しいと知った。
18げに知恵が多ければ憂いも多く、
知識が増せば苦しみも増す。ー『コヘレトの言葉』より

 

 

其の知恵とはさうして知識とは所謂智慧の實を食って得た相対分別のことだらう。

神がまた佛が其処にましますと云ふのに小賢しひ悪知恵をひけらかしつつ我等人畜の群れが嗚呼まさに此の世を滅ぼして行かうとして御座る。

 

 

さうして曲がったものを矯め欠けたものを数え我等人畜は未来と云ふ虚の価値を追って行くのだ。

 

わたくしもまた知恵と知識、狂乱と愚行(の別)を知ろうと心を傾けた。

だがこれもまた風を追うに等しいと知った。

げに知恵が多ければ憂いも多く、

即ち知識が増せば苦しみも増す。

 

 

 

ー何もかも、もの憂い。
語り尽くすこともできず
目は見飽きることなく
耳は聞いても満たされない。

 

わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、17熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。
18知恵が深まれば悩みも深まり、
知識が増せば痛みも増す。

 

11賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。
ただひとりの牧者に由来し、収集家が編集した。
12それらよりもなお、わが子よ、心せよ。
書物はいくら記してもきりがない。
学びすぎれば体が疲れる。
13すべてに耳を傾けて得た結論。
「神を畏れ、その戒めを守れ。」
これこそ、人間のすべて。
14神は、善をも悪をも
一切の業を、隠れたこともすべて
裁きの座に引き出されるであろう。ー 『コヘレトの言葉』より

 

 

個人的に此れはルバイヤートにも程近ひやうな所謂厭世文學なのだと思ふ。ウィリアム・モリスの装飾文字とエドワード・バーン=ジョーンズのイラストレーションによるルバイヤートのページ(1870年頃)

 

だが人間には救済が必要だと云ふ意味で此の種の厭世史観、虚無主義はむしろ健全なのだとさうわたくしは理解する。

 

謂はば其処に救済が無ひからこそ是が非でも救済が必要となるのだ。

 

然し現代社會に対し果たして救済は必要なのだらうか?

 

即ち救済など要らぬとさう思って御座る其の人間の意識の方にこそ異常性が存するのではなひか。

 

 

かように過去の認識は異常では無く現代の認識こそが異常である。

と云ふ部分こそがまずはわたくしの基礎認識である。

 

異常なものを異常と認めまさに其処への反省を胸に抱き静かに且つ穏やかに暮らす。

 

まさに其れが理想の暮らしであらう。

 

かと言って日々頑張ろうなどとは金輪際思はぬやうに。

 

むしろ頑張らぬことこそが静かに且つ穏やかに暮らすことの要諦である。

 

 

其の裁きに関しては、佛は裁かぬ訳だ。

 

確かに無神論である佛が人間を裁くことなどは無ひ。

 

だが結果的に人間は自然に裁かれることであらう。

さうした意味で自然其れ自体がまさしく神のやうなものなのだからこそ。

 

 

 

「人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、 僕(しもべ)があなたを呪っても聞き流していられる。 あなた自身も何度となく他人を呪ったことをあなたの心はよく知っているはずだ。」  『コヘレトの言葉』7章21-22節 (旧約聖書1042ページ)

 

 

何故なら人の言ふ事は見当違ひなことであることがほとんどであるからだ。-他人に己のほんたうの姿はまず見通せはしなひ-

 

 

 

「悩みは笑いにまさる。顔が曇るにつれて心は安らぐ。」 『コヘレトの言葉』7章3節 (旧約聖書1041ページ)

 

 

何故なら悩み苦しむことでこそ人は眞に安心し得るからだ。

逆に笑ひにまた笑顔に満ちた生程偽善的でウソ臭ひものは無ひ。

まさに其れでは心が安らぐことが無ひことだらう。

 

 

 

「言葉が多ければ空しさも増すものだ。人間にとってそれが何になろう。」 『コヘレトの言葉』6章11節 (旧約聖書1041ページ)

 

だが其の空しさを知る人間こそが人間にとっての普遍的な痛みをまた良く知ることだらう。

また其れは宗教や宗派の違ひとは関係無く其れこそ人間としての普遍的な心のあり方の問題なのでもあらう。

 

 

 

「太陽の下に、次のような不幸があって人間を大きく支配しているのをわたしは見た。ある人に神は富、財宝、名誉を与え、この人の望むところは何ひとつ欠けていなかった。しかし神は、彼がそれを自ら享受することを許されなかったので、他人がそれを得ることになった。これまた空しく、大いに不幸なことだ。」 『コヘレトの言葉』6章1-2節 (旧約聖書1040ページ)

 

 

神と同じやうに佛もまた此の世では何ひとつ得られず、もしも得られるものがあるのだとすれば其れは空しさであり不幸であることをしかとお説きになった。

されど其の空しさの中でこそ得られる境地がまたあることかと存ずる。

まさに其れが空しさと不幸とを捨て去ることの愉しみなのだ。

 

 

「銀を愛する者は銀に飽くことなく、富を愛する者は収益に満足しない。 これまた空しいことだ。」 『コヘレトの言葉』5章9節 (旧約聖書1039ページ)

 

 

かうして次元の低ひ愛は結局利己性に終始する。

キリストが普遍の愛を説き釈迦が愛の放棄を説ひたことには歴とした理由がある。

 

即ち+の愛と-の愛とが対として其処に説かれたのである。

即ち其れはどちらがより上だと云ふまた眞理なのだと云ふ問題には非ず。

 

まさに其れが説かれるべくして説かれねばなかった其の愛への信仰と放棄とであった。

 

 

「焦って口を開き、心せいて、神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、 あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ。」 『コヘレトの言葉』5章1節 (旧約聖書1039ページ)

 

神は多くを語らず、また佛も無駄事を決して語らず。

 

 

 

「さらに、二人で寝れば暖かいが、ひとりでどうして暖まれようか。」 『コヘレトの言葉』4章11節 (旧約聖書1038ページ)

 

でも弐人で寝ると寝つきにくひと云ふことがあらうかと思ふ。

一人で寝ると兎に角寒ひが寝つきだけは良くならう。

 

 

 

「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、 虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手に ある力を。彼らを慰める者はない。既に死んだ人を、幸いだと言おう。 更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。」 『コヘレトの言葉』4章1節 (旧約聖書1038ページ)

 

おお、コロナ禍にて今あらゆる虐げが行はれつつある。

でもって政府の関係者だけが悪ひことをやり其れでも給料だけは貰おうとして居る最中なのだ。

 

ああ、まさに既に死んだ人こそは幸ひだ。

 

すでに死んだ漱石も芥川も太宰も安吾も三島も皆幸福だ。

かうしてまだ生きて居る我我だけが何処までも罪人でしかも何処までも不幸なのだ。

 

 

 

「人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだと わたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。死後どうなるかを、 誰が見せてくれよう。」 『コヘレトの言葉』3章22節 (旧約聖書1038ページ)

 

 

其の自分の業によりかうして日々石と戯れる我は人間としては不幸だけれど個人的には幸福だ。

其れも出来得れば死後は石になりたひ程に。

 

かうしてコヘレトはあへて決定論的ー因果応報的ーに死後のあり方を規定していく。

だが其れは正統としての旧約聖書のあり方とは異なる解釈だったことだらう。

 

おそらくコヘレトは其処にあへて逆を述べることにより聖書に於ける信仰としての物語を完結させたのであったことだらう。

 

 

生前⇔死後

 

尚個人的には此の弐要素が密接に関はって居る筈だとさう見て居る。

其処では生と死が別箇に規定されるのでは無くまさに相剋し且つ相即する関係に於ひて関はり合って居るのである。

 

故に文明にとっての望み得る死とは生でもあり死でもあり得る生であり死のことなのだ。

其処を端的に言葉でもって示せば半分死につつ生きて居ることだ。

 

即ち半死半生でもって生きると云ふこととなる。

 

つまるところ其れは負としての生のことだ。

また同時に正としての死のことでもあらう。

 

負としての生を生きる為には負としての愛を見詰めねばならぬ。

正としての死を生きる為には負としての愛を見詰めねばならぬ。

 

 

「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」 『コヘレトの言葉』3章11a節 (旧約聖書1037ページ)

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。 生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時……」 『コヘレトの言葉』3章1節- (旧約聖書1036ページ)

 

 

確かに何事にも其れに適ふ時があらう。

但し永遠は此の世では得られなひ。

 

時は全てを限定し己の心もまた其れに限定される。

 

永遠とは彼岸でのことである。

神もまた佛も彼岸でのことである。

 

彼岸ーあの世ー⇔此岸ーこの世ー

されど彼岸はまた此岸と相剋し且つ相即する関係性を保つ。

 

故に生と死は無関係では無く密接に関はり合ふ。ーさうして矛盾的に関はるー

其れを佛法的に述べれば生即死であり死即生である。

 

問題は其の認識へと洗脳された精神が到達することが無ひと云ふまさに其の点なのだが…。

 

 

「一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、 実に空しいことだ。」 『コヘレトの言葉』2章23節 (旧約聖書1036ページ)

 

 

其の空しさこそが限定ー限度ーである。

限度ある者は空しひが其れ故にむしろ現象して居る。

 

現象は神では無ひのでむしろ其処に神が要り、佛では無ひのでむしろ其処に佛が要る。

 

 

空しさ⇔充實

空しさの反対には空しさでは無ひものがある。

だが双方を見詰めねば其れも共に見へては来ぬ。ー眞の意味で双方が理解されぬー

 

 

尤も現世で利益を成就させることは空しさであり充實では無ひ。

現世でもって得られるのは其の虚としての空しさと其の虚としての充實ばかりだ。

 

 

だから其処でもって負としての愛を貫け。

負としての愛とは一度死んだ愛のことだ。

 

佛法的に申せばまさに其れが慈悲、慈愛と云ふことなのでもあらう。

 

尤も大衆は其の慈悲の次元にまで心が及ぶことは無ひ。

故に死んだ愛、負としての愛には結局気付けぬ侭に其の生を終へる。

 

 

其の空しひことだけが生きることだ。

なので元々空しくは無ひ神佛は生きては居なひ。

 

 

 

「わたしはこうつぶやいた。『愚者に起こることは、わたしにも起こる。より賢くなろうと するのは無駄だ。』 これまた空しい、とわたしは思った。」 『コヘレトの言葉』2章15節 (旧約聖書1036ページ)

 

 

賢くならうとすること自体は無駄では無ひ。

だがより賢くならうとすることは確かに無駄である。

 

人間は観念が飽和すればもう其れ以上の學びなど要らなひ。

後は其の観念と心中するだけなのだ。

 

 

人間が成長することなどは無ひが観念だけは成長させることが出来る。

観念は年を取らずいずれは誰でもが賢者の如くに考へることが出来る。

 

其れも其の學びを継続させた者だけが。

最終的に其の知識と知恵は解脱することにはまるで役立たぬ。

 

だが人間の生の目的は解脱することにあるのでは無ひ。

 

生の空しさを其の侭に空しひと悟り他からおかしな洗脳を受けぬ為にこそ學びー理性ーとしての意義があらう。

さうして眞に學んだ者だけが自らの頭で考へることが可能なのだ。

 

まさに其れは組織上のリーダーに従ふこととはむしろ正反対のことだ。

其の反対をこそ大事にしやう、でなひと我我はかうして皆洗脳されて仕舞ふのだからこそ。

 

 

「わたしはこうつぶやいた。『快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。』」  見よ、それすらも空しかった。 『コヘレトの言葉』2章1節 (旧約聖書1035ページ)

 

 

愉悦もまた本質的には空虚だが負の愛に殉ずると云ふ意味に於ひて必ずしも否定すべきものでは無ひ。

特に自然を愛すると云ふ価値は其れこそ負の愛に殉ずると云ふ意味に於ひて健全なのであらう。

 

尚神佛への信仰もまた其の負の愛に殉ずること其のものだらう。

但し其れが教祖様への信仰ともなればまさに其れは正の愛の履行となり故に信仰としては如何にも不純であり且つ邪教へと殉ずることともならう。

 

キリスト教にもまた其の不純が無ひでは無ひのだらうが、何せキリスト教は二元分離して居り其の分複雑なので其処は學びを進めてみぬと何とも言へぬ部分である。

 

旧約聖書に於ける『コヘレトの言葉』の存在がまさに其の救済思想に於ける二元分離の様を示して居るのだと云へやうー

 

 

「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す。」 『コヘレトの言葉』1章18節 (旧約聖書1035ページ)

 

 

『コヘレトの言葉』に於ける人間の知識や知恵に対する解釈は左様に的確である。

つまりは理性を磨き続けて行くことー学校の御勉強とはまた少し其れは違ふのだがー程苦しひことは無ひ。

 

だがまさに其れを志すことでひとつの心の目を得ることが出来ることだらう。

其の眼は自分でもって拵へたものだが同時に神佛へも確實に通じて居ることだらう眼差しなのだ。

 

然し世間にあり時代にまた社會に洗脳された侭ではおそらくは其の境地を得ることなどは不可能であることだらう。

 

さうした意味で自らの価値観を確立させることとは社會に対し媚びを売ることでは決して無く己の内なる神佛と出遭ふことなのだらう。