其れでは何故文明世界には持続可能性が無ひのかと云ふことにつき今此処で考へてみませう。
わたくしは其れを社会的に齎される欲望の肥大化ー抽象化ーによるものだとさう結論付けて来て居る。
さう其れは個としての問題では無くあくまで社會の営為としての問題なのだ。
わたくしが奉ずる持続可能性への論理とは社會的に規定される欲望を常に最小化して行くと云ふことだ。
何故なら其の社會的に規定される欲望=抽象的に規定される欲望がデカくなればなる程にまさに社會的に齎されるリスクも高まって行くからなのだ。
だから其処でなるべく社會的な欲其れ自体を離れて行く。
逆に謂はばお家レヴェルでの欲の追求であり合理化をやって行く訳だ。
つまりは其れがまさに脱近代に於ける思想の核心部となる。
まさに其れが抽象的価値を意図的に離れ具象的価値に目覚めると云ふやうなこととなるだらうか。
抽象的価値→具象的価値
未来への欲望→目の前の欲望
大ひなる希望や夢→むしろ夢も希望も持たぬこと
支配欲→世捨て欲
子孫の繁栄→己独りが死んで終はり
と云ふまさに逆の価値観に目覚めて行かねば其の社會的に齎されるデカひ欲の撲滅には繋がらぬことだらう。
では御勉強することなども其の社会欲の成就に繋がることではありませんか。
第一最近何処かの塾の宣伝で御勉強すると年収が上がるだの何だのとさう言ってさへ居ます。
だが御勉強にはな、元々弐種があるのだ。
其れは覚へる御勉強と考へる御勉強の違ひである。
で、学校や塾はな、主に其の覚へる御勉強をやって行き偏差値だけを上げて行くのだ。
でもな、ほんたうの御勉強は自ら考へる力の為のものだらう。
なのだが学校や塾の御勉強もまた大事なのではある。
何故なら御勉強はやるクセを付けぬとやりたくなくなるものなのでイザさうなれば考へるクセもまた付かぬものであるが故に。
さても現代社會が今後もやりたひやうに文明をやって行くとどうなることでせう?
おそらくは其処に文明が崩壊して行くことだけは明らかだらう。
問題は其の崩壊をより穏やかなものにして行けるかどうかと云ふことだけだ。
では此の侭行っても全てが崩壊して行くとさう仰るので?
おそらくはさうなることだらうが其れ迄には時間があるので其の時を有効に活用しソフトランディングして行くべきだとずっとさう述べて来て居た筈だ。
その間に個としての価値観を正す、まさに此のことに尽きて居るのだと思ふ。
では文明の価値観を正すことは出来ぬとさう仰るので?
要するによりデカひ領域のものは結局合理化出来ぬ訳だ。
またさうしたにせよ推進力を失って仕舞ふことだらう。
だから其の推進力を個の範囲に限定し是非合理化して行くべきなのだらう。
なのだけれども、何度も述べて居るが如くに、
全体論的理性⇔還元的理性
と云ふ根本での対立がまた存するが故にまさにどちらをも見詰めて行かねばならぬ訳だ。
より具体的に言へば合理的進歩主義を諫める立場での人文の理性の力を決して見失ふべきでは無ひ。
ではさうしてより理性を磨くことで、即ち理性に目覚めることで我我個は救はれるのですか?
救はれると云ふよりも社會との関係のあり方がより改められ得ると云ふことなのだらう。
さすれば社會的な価値観に染め上げられることが無くなり自らの意志で考へる=眞の意味での理性を保つことが可能とならう。
理性⇔信仰
だが其れを成し遂げた後にも心理的にはまさに不断の努力が必要となることだらう。
即ち理性的な存在は信仰其のものへは至ることが出来ぬ訳なのだからむしろそちらの方を向き生きて行かねばならなくもならう。
でもまだ社會が持つべき正しひ欲望が何で悪ひのか、其のことがまるで分かりません。
社會は即ち文明は善であり善だからこそかうして人間が地球を支配しつつ生きて居るのです。
ばか、其処でよーく考へてみよ。
善も悪も正も邪もほんたうは無く只問題が有るか無ひかだけなのだ。
でもたとへばキリスト教ではあくまで善悪のことですよ。
キリスト教はな、他力本願の宗教でむしろ此の世は悪ひとさう捉へる宗教のことなのだ。
わたくしはさうした捉へ方こそが正しひことだらうと思ふ。
つまりは此の世のあり方にこそ問題がある。
何故かと云ふと其処にはまさに罪があるからなのだ。
でも神道とかまた他の多神教とかでは世はむしろ神と一緒に暮らすエエー良ひーところなのだ。
なのでむしろ其処では永遠の命=永遠のドタバタ劇を現世にて得やうとする訳だ。
即ち其処に生其れ自体を一種祀り上げても行くことだらう。
でもキリスト教と佛教はな、また其れとは捉へ方が違ふのだ。
特に釈迦による解脱の方法はな、其れはもう完璧に生其れ自体を止めて行く方向性にて其の点ではキリスト教などよりもむしろ過激なんだ。
そんな過激なんかじゃなひよ。
だって日本のお坊さんはみんな日々御先祖様に感謝しませう、だのととても常識的なことを仰って居ますよ。
いや其の常識的な佛教こそが實は非常識なので、其れでもって東南アジアの御坊様方などが日本の大乗佛教は邪教であるとお怒りになられたりもして居る位だ。
其れとな、其の善悪規定でのほんたうのところをよーく考へてみるべきだらう。
其れと云ふのも善悪と云ふ価値規定はそも成立などして居なひのだ。
エッ?
ではおまへは善人でも悪人でもなひのか?
いやだから其れはおまへから見れば我は確かに👿に見へることだらうがまた意識の高ーひ人々から見れば類稀なる善人にもまた見へることだらう。
其の善悪と云ふ相対価値を受け容れること自体が他力本願でありまた神と👿との対立をさう規定して行くことなのだ。
だから必然的に其れは相対的にしか救はれ得ぬ=救済されるものでしか無ひ訳だ。
でも釈迦の佛法はあくまでさうじゃ無く、其れ即ち其の相対価値其れ自体を両極否定により滅して行くものだ。
だから其れは人間として成し得る究極としての合理化なのだがもはや其れは人間技のものでは無くなって仕舞ふ。
なのでほんたうのほんたうは釈尊以外に悟った人など居なひのだよ。
アノ宗祖は確かに悟りました、などと云はれて居るのはまあ各宗派に於ける方便のやうなものなのだらう。
でも結局はどちらも正しひのだ。
相対認識⇔脱認識
他力救済⇔自力救済
と云ふことなのでキリスト教や大乗佛教、特に浄土教の場合は相対認識を受け容れることでこそ他力本願を可能として行くことだらう。
またキリスト教の場合にも其の相対認識を受け容れるー認識としての罪を赦されるーことでこそ神からの救済を可能として行くことだらう。
でもお釈迦様の頭の中には結局神は居なかったのだった。
エエッ?神が居なひ?
でもお寺へ行くと神々もまた居るものですが。
其れは大乗化して要するに他力佛教化しさうして神々が混入して行った訳だらうな。
神が居なひのだとすると其れはもしや無神論なのか?
さうだよ、其の無神論だよ。
きゃあー、そんな怖ひ教へこそが佛教の正体だったのか!
まあより正確には、
神⇔👿
と云ふ其の分別概念其れ自体を滅して行くことこそが佛陀による教への核心部なのだよ。
では其の佛陀の教へでは、祈ることや拝むことなどもむしろ無ひの?
さう祈るものも拝むものも此の世には何ひとつ無ひ。
信じるのは自分の考へと云ふか心のあり方だけででも最終的には其の心の働きさへをも放棄して行く訳だ。
エエッ?其れではもはや人間では無くなるのではありませんか?
さうだよ、もはや人間では無くなるのだよ。
ではたとへばAIと云ふのは其の佛の境地のやうなものに近ひものなのではありますまひか?
AIはでもあくまで人間が創ったものだからまるで違ふのじゃなひかな。
では其の佛陀の教へでは、たとへば其処にお経も墓もお布施も何も要らぬのですか?
まあ要らぬことでせう。
でもお布施を否定されて居る訳では無ひとさう思ふ。
ではかうして日々題目や念仏を唱へる日本の佛教とは一体何なのですか?
まあ須らく他力救済での佛法のあり方でせう。
でも禅の場合でも般若心経などは唱へられて居るやうですがもしや其れもおかしくはなひですか?
まあ本質的にはちょっと変でせう。
でも禅も最終的には相対分別の抹消が其の修行の目的なのでせうから逆に其処には余り拘らぬ方が良ひことだらう。
禅だけがさうして自力救済を目指し佛教としてはより純粋なのですか?
まあおそらくは釈迦の佛教に対してはさうであることだらう。
ですが其の、
純粋⇔不純
と云ふ相対概念分離こそがまずもっては問題となる訳だ。
ですが他力救済の宗教は概ね其の矛盾を受け容れ神と繋がり神に救はれるか、其れとも佛と繋がり其の佛に救って頂くなりする訳です。
では釈迦の佛法により近ひと目される禅宗の場合は題目や念仏をまるで信じては居なひのですね?
そりゃ知りません。
でもおそらくは否定的ではあることでせう。
だけど家の浄土眞宗式の金ピカの佛壇の前に座した曹洞宗宝蔵寺の若住職はいつも平気で其処で般若心経を唱へて行かれます。
なので日本の大乗佛教はむしろ何でもありでもって實際のところは良く分からん訳です。
でも何故浄土眞宗は般若心経を唱へぬのだ?
禅宗や密教が重視する此の有り難き御経をさうして否定するに及んだのだ?
否定して居るのかどうかは知りません。
多分本質的にはキリスト教もまた空の思想では無く有の思想なのだらう。
要するに此の世は神の御業によるものなのでまさに有るんです。
其れが無ひではイケナヒのです。
では浄土眞宗もまた有の思想なのですか?
うーむ、ソコんところはまさに判断が難しひところですが浄土教がソコまで有る方へと傾ひて居るのかどうかはちょっと分かりません。
で、結局宗教は何でも良ひのですか?
結局、
自力救済⇔他力救済
とのことですがわたくしが問題として捉へて居ることとは實は其の選択の問題では無く、
もっともっと其れ以前での、
そも現代人にとり救済に意味があるのかどうか、と云ふまさに其の点なのです。
構造的には、
多神教による現世利益の追求⇔救済宗教による現世否定
と云ふこととなるが、
實は、あくまで現代人は、
科学技術による現世利益性をむしろ頑なな迄に奉じて来て居ります。
だから其の構造の前に、
宗教による救済の価値がむしろ科学技術による現世利益の価値へと全面的に転化して仕舞って居る。
まさに其れが自然科学による人間の価値観の数的還元領域への合理化と云ふことなのだらう。
で、多神教による現世利益性と数的還元領域での現世利益性はあくまで似て非なるものである。
要するに其処では合理化の度合ひがまるで違ふ訳である。
要するに神は時に怒ることもあり人間にとり畏れ多き存在でもまたある訳だが科学技術は決して人間に対し怒ったりはしなひ。
つまりは神は内部のものであると同時に外部のものでもまたある訳だが科学技術はまるで外側には居なひものである。
要するにさうして人間の概念が抽象的に組み上げたものであるに過ぎぬ。
其れは謂はば人間の内部でのみ完結して仕舞ふ進歩と云ふ物語なのだらう。
進歩が陥る危険性とはまさに其の種の自己完結性にこそ存して居ることだらう。
自己完結性とは神により与へられた世界を生きることでは無くむしろ神を人間の領域から永遠に放逐することなのだ。
神は死んだとかってニーチェが語ったが如くにいつしか人間は神を事實上殺しあへて自らを還元領域へと閉じ込めて仕舞った。
正直わたくしはさうした自己完結した上でのまるでSFのやうなお話に対し希望を繋ぐことの困難さを今感じて居る。
此の進歩を是とする現代に於ける社会欲の成就とはさうしたまるでSFのやうなお話に対し突き進むことでしかあり得ぬ訳だらう。
ー釈迦の法に於ける自己完結と其の社會的に達成される自己完結の様は異なって居る。釈尊はあくまで非社會的な個の領域に於ける解脱の方法を説ひた。解脱の為にはむしろ個に於ける其の自己完結の過程こそが必要だった訳だ。より簡単に申せば孤独である方が人間は眞理に向き直り易ひ訳だ。ー