目覚めよ!

文明批判と美の探求と

「持続可能な開発」とは、其のみんなの頭の中の洗脳を解くことのことだ

 

サステイナビリティに関して論ずるにあたり、まずは其処でもってわたくしが取る立場が特殊なものであることをまずはお伝へしてして置く必要があらう。

 

先に述べたやうにわたくしは其の社會的危機に関してもう長く學び且つ其れに関して思考を進めて来た者である。

勿論其れは人文、社会科学の領域からの追求だったのではあれ其れを長くやって来た訳だ。

 

だから其の持続可能性への様々な論点に就き様々な方法にてすでに検討済みなのである。

 

其のやうな観点から、わたくしはまず自然科学者による結論とはまるで違ふことを述べることだらう。

 

だが貴方方には其のわたくしの結論を否定する根拠などは何処にも無ひ。

 

何故ならわたくしはもう長く此の問題と向き合ひ其れに対する自らの意見を表明して来て居るからなのだ。

 

1.環境問題の解決が難しひことの最大因とは大多数の人間による其れへの無関心にこそある

2.其の無関心とは文明による洗脳によりさう引き起こされて居る

3.環境問題の犯人とはまさに科学技術によるものなのだが眞犯人の方はまた別に居る

4.結局無知や常識ーによる洗脳ーが其れを加速させて居るのだと言へやう

 

無論のことわたくしはいつも環境問題と向き合って来た訳では無ひ。-第一わたくしは環境學者でも無く自然科学者でも無く、只の自称文人だ。-

だが長年に亘り其れと向き合ふことでひとつの結論を得るに至った。

 

また其れがひとつの悲観論であることは論を俟たぬことであらう。

だが其処に全てが悲観的に結實されるものでもまた無ひのである。

 

最終的にわたくしは其れを心の問題であるとさう捉へるに至った。

 

さう人類の心の問題なのだが最終的には其れは個としての心のあり方に収斂して行くであらうものだ。

 

心のあり方なのだからほとんど其れは宗教の課題に重なって行く。

 

ところが宗教の課題では無く科学の課題だと一般の方々はさう考へがちなのだ。

 

なのでわたくしがかう述べると何だか胡散臭く思はれ信じて貰へぬ筈だ。

 

 

だが其処をあへて言はせて頂かう。

 

ズバリ其れは我我自身の心の持ち方の問題なのだと。

 

尚わたくしがかうして本音でもって環境問題を論ずるのはおそらくは此れが最後となることだらう。

 

其れと云ふのもわたくしは此れ迄ずっと人間の内なる獣と闘って来たが其の獣と闘ひ続けることの無意味さを今悟ったのだ。ー獣=邪なる欲望としての者ー

 

わたくしはかの宮澤 賢治と同じやうに闘ひ続けて行く積もりだったのだがすでに刀は折れ矢は尽き満身創痍である。

 

其の獣と闘ふのは是非宗教に御任せしたひ。

いや元々宗教が其れを担ふべきものであり修羅だなどと申しつつ其れをやること自体が不遜なことだったのだ。

 

 

君等はまたわたくしが逃げたとさう嗤ふことであらう。

 

だが君等はまさにわたくしのやうに修羅と化するまで此の問題と正しく向き合ふことが果たして此れまでに一度でもあったことだらうか?

即ちわたくしは長きに亘りさうして決して逃げなかったのだ。

 

さうしてボロボロの身になりいやヘロヘロの身と心になり其の問題其れ自体から離れやうとして居るのだ。

 

 

持続可能な開発目標 SDGs

SDGs 独創研究ユニット

 

○持続可能な開発(Sustainable Development)に就ひて


人類の進歩と調和ー大阪万博のメインテーマー


かの「爆発」する藝術家としての岡本 太郎氏は人類の進歩は調和など生み出さぬとかってさう述べた。

つまるところ、まさに其処にこそものが「分かって居る」人間と「分かって居なひ」人間との相違が存して居る訳だ。


無論のこと「分かって居なひ」人間の側こそが其の「進歩と調和」と云ふお気楽でもって且つバカバカしひテーマを掲げ其処でむしろ進歩は偉ひ、偉ひのだ!とでも言ひたげなのであった。


だが其処でもってほんたうに頭の良ひ人か又は感度が良く意識が高くある人々はまず考へる。


さうだ、其の「進歩と調和」こそがあり得ぬ話である訳だ。

文明の進歩とは元より自然の攪乱であり加工である。


元より自然はさうして攪乱され加工されることで大きく損傷を受ける。


だが全体論を理解する知性ならば其のことはむしろ最初から分かって居る。

或は宗教的に表現すれば、大自然の法則ー自然の摂理ーに反したことを其処でやる訳だから其れが壊れて来るのはむしろ当たり前のことだらう。



問題は、其の「進歩と調和」と云ふ其のお気楽でもって且つバカバカしひテーマが何故掲げられるに至ったかと云ふことである。


わたくしは其れを「洗脳」として今捉へる。


其の「洗脳」とは「全体主義」と云ふことに近ひ概念だ。


たとへば戦時中に「戦争反対!」とは誰も言へぬ訳だがー尤も弐、参人のアナーキストなどはむしろ其れを声高に叫び投獄され或は獄死したのやもしれぬー其れと全く同じことだ。



かうして心でもって感じると戦争は至極悪ひことだー個の論理ー=戦争は悪⇔御國の為に歯を食ひ縛って特攻して来ひ!ー御國の論理ー=戦争は善


さてでは戦争ー大量殺戮ーとは善悪で云ふ一体どちらでせうか?


其の答へ

個にとっては悪、でも所詮全体主義なので善としてやって来ます。-個としての立場-=悪魔化する個

御國にとっては善、だから個が「戦争反対!」を叫ぶのは悪の行ひだ。-社會全体としての立場-=悪魔化する社會


なのでいずれにせよ其れはさうして悪魔化して行くので✖の行ひです。


で、其処に「戦争」の代はりに「進歩」を入れてみて下され。


さうして實は共に全体主義なのだ。


言ってみれば其の近代化其のものが全体主義なのだ。



でも「進歩」は其処で大量殺戮を行ふ訳では無く人類の幸福の達成の為にむしろ行ふものだ。

でも進歩は最終的には自然を殺して仕舞ふ。


其れは自然と連なった神々を殺すのだと考へても良ひことだらう。


で、個にとっては悪である戦争でも社會が其れを欲するのだから其れは悪であっても善だ。

だからまずは従はねばならぬ。


其の全体主義に洗脳されることこそが個としての悪魔化なのである。



其れをわたくしは獣とさう名付けた。

即ち現代人のほとんどが其の獣なのだった。


以前わたくしは其れを「悪なる善者」と名付け「善なる悪者」と区別して居たものである。


即ち「悪なる善者」であるよりは「善なる悪者」である方がむしろ善=神佛の徳に近ひ訳だ。


たとへば修羅や堕天使は其の善をも知った👿でもある訳だ。



要するに其の「悪なる善者」の群れが全体主義を成り立たせるひとつひとつの細胞のやうなもので其の正体とは洗脳を受けた大衆の脳細胞のことである。


此処で勘違ひして頂きたくなひのは、わたくしは大衆を自分の考への無ひ馬鹿の群れで其の群れは悪魔であるとさう決め付けて居るのでは無ひのである。


わたくしもまた其の大衆の一人であると云ふ自覚があるのだしまた多くの考へられる力を持つ方々もさう従って行かざるを得なひ。



結果として我我大衆がさう支持するが故に其の全体主義の構造ー社會のあり方としてのひとつの構造ーが成立する。

さうして其処には大量殺戮や自然破壊が實際に引き起こされて行く訳だ。



我我はさうして逆に事の本質に無関心である侭に其の大量殺戮や自然破壊に大きく加担して行くのだ。


しかも自分のことをむしろ社會の為になる善人であり其れも可成に役立つ人だとさう思って居る始末である。


で、其のおバカさの集積こそが結局其の全体主義を成立させて行くのだ。

其れは



つまるところ、人間は社會的な欲望を推進力とする限り「悪なる善者」=結果的な👿であるより他は無くもしも自分が善人だとさう思ひ込んで居るのであればそんなものはむしろ洗脳であらう。

なので人間に対し性善説は成立せず成立し得るのはむしろ性悪説のみである。


尤も優秀な個は其の悪の匂ひ=偽善なる様を見抜きそれぞれに独自の精神の道を御歩きになって居ることだらう。


わたくしは其の優秀なる個に対しては全体主義を離れた者であると見做し且つ彼等を常に尊敬して居る。


但し其処では常に「最大多数の最大幸福」の原理が社會的に働き其の個の努力は其のパワーに粉砕されて行き易ひ。


つまりはまた其処でもさうして社會が邪魔をして全体主義を強ひて来る訳だ。


今月の初めに社會的なリーダーシップのことに就き少し述べたが、また其処にも其のやうな全体主義性が生じ其処に個が圧殺されて行くと言った面が否めぬ訳だ。



だとするとおまへは社會ー現体制ーに従はぬアナキストでしかも👿のやうな奴だなと皆様はさう仰りますが其れはさうでは無ひ。

わたくしは只全体主義をやり自然の破壊者になりたくは無ひばかりなのだ。


みんながさうして戦争にさうして進歩に従ふのとは違ひかうして価値観がシフトして居るので大自然の摂理の方をより重視すると云ふまさに其の事ばかりでのことなのだ。



で、「持続可能な開発」とは一体何のことでせうか?


「持続可能な開発」とは、ズバリ其のみんなの頭の中の洗脳を解くことだ。



もしや宗教もまた其の洗脳のことなのではありませぬか?


確かに宗教もまた其の洗脳を生じる可能性が常にある。


だから教祖様を崇めるやうな宗教よりもさうでは無ひ宗教の方がより望ましくある訳だ。


教祖様よりも何よりもまずは大宇宙の摂理こそが大事、たとへば釈迦の佛法で云へば法こそが大事でまさに其のことが法灯明なのだ。


其れは釈迦と云ふリーダーが必ずしも大事なのでは無ひと云ふことを指し示して居る。


だがどちらかと言へば他力救済の宗教に於ひては教祖様が崇拝されることが事實として多ひことだらう。


但し其の場合にも過ちの多ひ人間を崇拝するよりはまさに神の子であるとか、また佛ー佛は人間には非ずーであるとか神佛の方へと擦り寄って行くことの方が過ちを繰り返すことが無くなることだらう。



個人的な捉へ方としては個人崇拝をする宗教や政治体制は邪教であり全体主義であるとさう見て居る。

其の点では自力救済を目指す釈迦の佛法や禅宗に於ける脱観念性=非個人崇拝性は徹底されたものだらうとさうも見て居る。


無論のこと「持続可能な開発」とは政策上のことであり環境技術によるものであることが現實の上でのことであらう。

もしも今後科学技術が其れを成し遂げることが可能なのであれば文明の崩壊をソフト・ランディング化して行くことさへもが可能であらう。


但し其の「持続可能な開発」とは畢竟矛盾的概念なのである。


正しくは「開発の中止」でこそ其の持続可能性は達成されることであらう。


文明はまた科学技術は何かを「やる」ことで常に利益を最大化しやうとして躍起である。


だがほんたうはもっともっと単純に「やらぬ」ことでこそむしろみんなが幸せになれるのだとしたらどうする?


其の「やらぬ」ことの価値、又は役立たずの価値と云ふことを文學より學びし我はまさに其の事を文明に伝へたかった。

 

「やらぬ」ことは怠けることとは違ひ「やる」部分の位置を変へ或は価値観を変へて生きることである。

 

其の積極的な「やらぬ」ことの価値、又は役立たずの価値こそが世界を変へる契機となることを今は心より願ふばかりである。

 



其の個人崇拝をする宗教は結局身分的なヒエラルキーを生み出し全体主義ー軍國主義ーを生み出して行くのだ。

しかしながら多くの新興宗教が其の轍を踏んで仕舞って居る。


でもそんなのではあくまで邪教となるに止まることだらう。

其の逆に聖教となり得るのがまさに個人崇拝を捨て去った宗教のことなのだ。